世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
朝の村には、昨日までと変わらない音が満ちていた。
水桶の縁に当たる柄杓、パンを焼く窯の扉、荷車を引く馬の蹄。
治療所の窓を開けると、湿った土と焼きたての麦の匂いが混ざり、ラウネの焼け跡で鼻に染みついた煤の気配を、ようやく少しだけ遠ざけてくれた。
右肩の傷はまだ引きつれ、腕を高く上げることもできない。
それでも熱は下がり、老人からは村の中を短く歩く許可が出ていた。
代わりに、包帯を濡らさないこと、荷物を持たないこと、夕刻までに戻ることを、子どもに言い聞かせるように繰り返された。
「それから、走るなよ」
「分かっています」
「分かっておる者は、そんな顔をせん」
老人は苦い薬を小瓶に詰めて渡してきた。
その表情を見ていると、ここへ運ばれた日のことを覚えていてくれる人がいるという、当たり前ではない安心が胸に生まれる。
けれど、治療所の門を出て数時間もすれば、同じ顔で迎えてもらえる保証はなかった。
通りへ出ると、ガルドが干し草を積んだ荷車の横で縄を結んでいた。
「おう、怪我人。もう歩いていいのか」
「少しだけなら」
「そうか。今日は風が強くなりそうだな」
見上げた空には薄い雲が流れ、屋根の上の旗がゆっくり揺れている。
風が強まるという予想に、不思議なところはなかった。
「畑は大丈夫ですか」
「ああ。昨日のうちに片づけた。お前も無理するなよ」
礼を言って歩き出す。
ガルドは荷車の縄へ向き直り、ほどなく鼻歌を口ずさみ始めた。
その何でもない姿に、昨夜の日記へ書いた疑問が少し大げさだったように思えてくる。
*
広場へ向かう途中、雑貨屋の前で足を止めた。
扉の脇には薪と麻紐が積まれ、窓辺に吊るされた小さな魔石灯は、昼の光を受けて鈍く光っている。
店主の老人が戸口から顔を出した。
「薬でも探しているのかね」
「いえ、少し歩いているだけです」
「そうか。今日は風が強くなりそうだな」
足元の石畳を見た。
ガルドが口にしたのと、まったく同じ言葉だった。
「……そうですね」
この季節なら、珍しい挨拶ではない。
二人が空模様を見て同じことを考えたとしても、何の不思議もなかった。
店を離れ、広場の井戸へ向かう。
水を汲んでいた女性が桶を持ち上げようとしていたので、反射的に手を貸しかけ、肩の痛みに動きを止めた。
「大丈夫ですか」
「ええ、ありがとう。怪我をしているなら無理しちゃ駄目よ」
女性は自分で桶を引き上げ、こちらの包帯を見て心配そうに眉を寄せた。
その親切が嬉しく、短く礼を言う。
「それにしても、今日は風が強くなりそうだな」
声は穏やかだった。
ただ、女性が言い終える直前、なぜか井戸ではなく、広場の北側へ目を向けたことが気にかかった。
「……今、何か見えましたか」
「え?」
「北の方を見たので」
「そうだったかしら」
女性は首を傾げ、桶の取っ手を握り直した。
「別に何も。洗濯物を取り込まないといけないなって思っただけよ」
その説明には筋が通っている。
しかし、ガルドと雑貨屋の店主も、同じ言葉を口にしたとき、どちらへ顔を向けていただろう。
思い返そうとして、答えが出ないことに気づく。
見ていなかったのだ。
自分にとって何でもない一瞬を、あとから都合よく意味のある出来事へ変えてしまう危うさを、ラウネで何度も思い知ったばかりだった。
*
広場の端にある石段へ腰を下ろし、持ってきた日記を開いた。
右手で筆を握るだけなら肩への負担は少ないが、長く書くと脇腹が鈍く痛む。
それでも、今のうちに事実だけを並べておきたかった。
『ガルド、雑貨屋の店主、井戸の女性が、同じ言葉を使った』
『「今日は風が強くなりそうだな」』
『女性は発言の直前、北を見たように思える。ほかの二人については未確認』
そこまで書いて、筆先を止める。
三人とも風の話をしただけで、怪しいことは何もない。
それなのに、最後の一行を書いた途端、背中を誰かに覗かれているような気配が生まれた。
振り返ると、子どもが二人、木の輪を転がして遊んでいた。
その向こうではパン屋の女主人が客と笑い合い、荷車が広場をゆっくり横切っている。
何も変わらない。
変わらないはずだった。
「レイさん?」
顔を上げると、リシアが籠を抱えて立っていた。
銀色の髪が日差しに透け、紫の瞳が包帯のあたりを心配そうに見つめている。
「歩いていて大丈夫なんですか」
「先生から許可はもらったよ」
「それならいいんですけど……顔色が少し悪い気がします」
彼女は籠を石段へ置き、ためらいがちに隣へ腰掛けた。
昨日、治療所で話したことを覚えているのかは分からない。
けれど今は、こちらの名を自然に呼んでくれる。
その小さな事実だけで、胸の奥が緩んだ。
「リシア。今日は風が強くなりそうだと思う?」
「え?」
彼女は空を見上げ、しばらく雲の流れを追った。
「そうですね。夕方には少し強くなるかもしれません」
「……そうか」
「どうしてですか?」
「村で、同じことを言う人が何人かいたんだ」
リシアは首を傾げた。
「同じことって、風のことですか?」
「言い方まで同じだった」
「偶然じゃないでしょうか。この時期は、みんな空を気にしますし」
まったくそのとおりだった。
自分でも頷きかけたところで、リシアがふいに口を閉ざした。
「……どうした?」
「いえ。あそこにいた人が」
彼女の視線を追うと、広場の北側で野菜を並べていた男が、作業の手を止めていた。
男は誰かを探すように首を動かし、それから何事もなかったように籠へ手を伸ばす。
「何か見つけたのかなと思って」
リシアの声には、特別な意味を見出そうとする響きはなかった。
少なくとも、彼女もその男の動きには気づいたのだ。
「見ていたのは、北の方?」
「たぶん。でも、そんなに気になりますか?」
答える前に、石段の足元で乾いた葉が一枚転がった。
風に押されて石の継ぎ目を越え、もう一枚の葉とぶつかる。
空気は少し冷たくなっていた。
「……気にしすぎかもしれない」
そう答えると、リシアは無理に追及せず、籠の中の薬草を整え始めた。
その横顔を見ながら、今朝から胸に溜まっていた緊張が、少しずつ薄れていくのを感じた。
*
異常が起きたのは、それから間もなくのことだった。
広場の中央を、赤い布を巻いた少年が走っていた。
その後ろを白い犬が追い、パン屋の女主人が店先から何か声をかけている。
井戸のそばでは桶が石に当たり、乾いた音を立てた。
そのすべてが、一瞬だけ遠のいた。
耳が塞がれたわけではない。
人々の話し声も、荷車の車輪が軋む音も聞こえている。
ただ、その音の間にあるはずの風の気配が、不意に抜け落ちた。
足元の落ち葉が、石段から指二本ほどの高さで止まっていた。
風に舞い上がった、その途中の姿のまま。
縁の欠けた茶色い葉が、地面にも空にも属さない場所へ置かれたように浮いている。
目を凝らした。
広場の向こうでは、飛び立とうとした鳥が翼を広げていた。
羽根の先はわずかに反り、尾は空へ向いているのに、身体は屋根の上から少しも離れない。
鳥の下を、籠を抱えた女性が普段どおりに歩いていった。
人だけが動いている。
いや、そう決めつけるのは早い。
荷車は進み、犬は少年を追い、井戸からこぼれた水は石を濡らしている。
止まっているものと、動いているものが、同じ広場に混ざっていた。
「……リシア」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
「はい?」
彼女は薬草から顔を上げた。
その瞳は、まっすぐこちらを見ている。
「鳥を……」
言い終える前に、何かが耳の奥で鳴った。
さらり。
乾いた紙を一枚、指でめくるような音。
森で聞いたものと同じだった。
白い亀裂が空を走った、あの瞬間と。
視界の端で、止まっていた葉が落ちた。
鳥は何事もなかったように翼を打ち、屋根から飛び立つ。
広場には再び風が通り抜け、少年の首に巻かれた赤い布がはためいた。
時間にすれば、ほんのわずかだったのだろう。
けれど、呼吸を忘れていたことに気づくまで、ずいぶん長く感じられた。
「レイさん?」
リシアが顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか。急に真っ青になって」
「……今、何か変なものを見なかった?」
「変なもの?」
「鳥とか、葉っぱとか。動きが止まっていたように見えたんだ」
リシアは広場を見渡した。
飛んでいく鳥の影を追い、足元の落ち葉へ視線を落とす。
「私は、気づきませんでした」
その返答には、嘘をつくときのためらいも、相手を安心させようとする軽さもなかった。
ただ、見ていなかったことをそのまま伝えている。
「……そうか」
「でも、何かあったんですよね」
彼女はそう言って、こちらの手元にある日記を見た。
「さっきから、ずっと何かを確かめているみたいだったから」
胸の奥がかすかに痛んだ。
リシアが異常を目撃したかどうかは分からない。
けれど、目の前の人間が怯えていることには気づいてくれた。
「少し、休めば平気だと思う」
「一緒に治療所まで戻りましょう」
差し出された手に触れる。
その温かさは確かで、石段も、足元の砂も、いつもどおりの重さを持っていた。
広場を行き交う人々は、誰も立ち止まっていない。
あの鳥を見上げた者がいたのか、空中の葉に気づいた者がいたのか、それさえ分からなかった。
少なくとも、異常を訴える声は聞こえなかった。
だからといって、ほかの誰にも見えなかったと決めることはできない。
分かるのは、目の前で確かに何かが起きたこと。
そして、あの紙をめくる音が、再び聞こえたことだけだった。
*
治療所へ戻ると、老人に叱られた。
顔色の悪さを見咎められ、脈を測られ、熱を確かめられ、最後には寝台へ戻される。
「歩けると言っただけで、走り回れとは言っとらん」
「走ってはいません」
「なら、何を見てそんな顔になった」
答えに迷った。
空中で葉が止まったと話せば、熱による幻覚を疑われるだろう。
実際、それを否定できる証拠は持っていない。
「……少し、目眩がしたんです」
老人はしばらく顔を見つめ、それ以上は問い詰めなかった。
「今日はもう寝ていろ。何かあれば呼べ」
リシアは水を替え、薬を手の届くところへ置いてくれた。
「夕方、また様子を見に来ます」
「ありがとう」
「無理しないでくださいね」
彼女が去ったあと、部屋は静かになった。
窓から見える木の枝は風に揺れ、その向こうを小鳥が飛んでいく。
どれだけ見つめても、もう何も止まらなかった。
*
夕刻まで眠れず、日記を開いた。
今朝の三人の言葉を読み返し、広場で起きたことを書き足す。
『落ち葉が空中で静止した』
『屋根の上の鳥が、羽ばたく途中の姿勢で止まった』
『人々、荷車、犬、水は動いていた』
『紙をめくるような音が聞こえた』
『リシアは異常に気づかなかったと話した。ほかの人々については不明』
一行ずつ確かめるように書き終え、筆を置いた。
自分の記憶が正しい保証はない。
それでも、森での出来事と同じ音を聞いたという事実だけは、曖昧にしたくなかった。
紙面の端には、昨日の記述が残っている。
『失われたものを、調査の材料としてだけ扱わないこと』
ラウネの火災で失われた家々。
リシアが森で流した血。
助けを呼ぶために走った彼女の足と、治療所で何度も取り替えられた包帯。
それらは謎を解くための仕掛けではなく、誰かが生きた結果としてそこにあるものだった。
たとえ世界に説明できない仕組みがあったとしても、そのことだけは見失いたくない。
「……世界が、こちらを見ている?」
声に出すと、馬鹿げた考えのように聞こえた。
広場で起きたことが誰かの意思によるものなのか、壊れた魔法の影響なのか、そもそも外の世界で起きた現象なのかも分からない。
ただ、調べれば調べるほど、異常が遠ざかるのではなく近づいてくる。
そんな感覚が、拭いきれなかった。
日記を閉じかけ、ふと手を止めた。
最後のページが、わずかに厚くなっている気がした。
そこはまだ使っていない紙だった。
昨日まで何も書かれていなかったはずの場所に、細い文字が一行だけ残っている。
『これ以上、物語に触れるな』
息を呑んだ。
筆跡は、自分のものではない。
墨の色は日記に使っているものとよく似ていたが、文字の端が妙に整いすぎている。
紙に滲みもなく、誰かが書き込んだ時間を示す手がかりもなかった。
慌てて前後のページをめくる。
ほかの記述は残っており、森のことも、セナの白紙になった予言も、ラウネで聞いた証言も消えていない。
警告だけが、そこにあった。
誰が書いた。
いつ書いた。
どうやって、手元から離していない日記に。
答えは一つも浮かばなかった。
窓の外では、夕暮れの鐘が鳴り始めていた。
一つ、二つ、三つ。
数えながら耳を澄ませても、鐘の響きはいつもどおりで、途中で止まることも、別の音に変わることもない。
日記を閉じ、両手で押さえた。
包帯の下で傷が痛み、現実の身体がそこにあることを思い出させる。
もし、これが誰かからの警告なら、少なくとも一つだけ分かることがある。
こちらが何を調べているのか、知っている者がいる。
その事実を認めた途端、静かな部屋の空気が、朝とはまったく違うものに感じられた。