世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
目を覚ましたとき、日記は枕元にあった。
昨夜は眠る前に革紐を巻き、寝台の下へ押し込んだはずなのに、今は表紙を上にして水差しの隣へ置かれている。
夢うつつに取り出したのかもしれないと思いながら手を伸ばしたが、紐は昨夜結んだとおりの形を保っていた。
窓の外では、朝の鐘が鳴っている。
治療所の廊下から薬草を煮る匂いが流れ込み、誰かが桶を運ぶ足音も聞こえた。
何ひとつ変わらない朝の気配に囲まれながら、日記の最後のページを開く。
そこには、何も書かれていなかった。
『これ以上、物語に触れるな』
昨夜、確かに読んだ言葉だった。
細く整いすぎた筆跡も、紙の上に不自然なほど均一に並んでいた文字の形も覚えているのに、今は白い繊維が朝日を受けているだけだった。
指の腹でなぞっても、凹凸ひとつ感じられない。
「……消えた」
声に出した途端、胸の内側が冷たくなった。
誰かが夜中に部屋へ入り、文字だけを消したのだろうか。
けれど、薬液や刃物で紙を削れば痕跡が残るはずで、少なくとも目の前のページには、そのどちらも見当たらなかった。
日記の前半へ戻り、宿の帳簿について書いた箇所を探す。
自分の名前が消えたことも、セナの占いの紙が白くなっていたことも、ラウネで聞いた鐘と時計の証言も、書いたときのまま残っていた。
自分の手で残した記録は消えない。
そう考えてきた根拠が、目の前の空白によって揺らいでいた。
ただし、昨夜の一行は自分で書いたものではない。
その違いが意味を持つのかどうか、今は分からなかった。
*
治療所の老人が朝の薬を持ってきたとき、レイはまだ日記を開いていた。
「眠れなかったのか」
「少しだけ。先生、昨夜この部屋に誰か来ましたか」
「私以外には知らんな。夜中に一度、熱を確かめに来たが、お前さんは寝ていたぞ」
「そのとき、日記には触りました?」
「日記? いいや」
老人は怪訝そうに眉を寄せ、額に手を当てた。
「熱はないな。だが、考えすぎるのも傷にはよくない」
「分かっています」
「その返事は、もう聞き飽きた」
差し出された薬は相変わらず苦かった。
舌に残る渋みを水で流し込みながら、昨夜のことを誰かに話すべきか考える。
空中で止まった葉や鳥の話だけでも信じてもらえるか分からないのに、今度は日記に現れた文字が消えたという。
もし熱に浮かされた幻覚だと片づけられれば、それまでだった。
「先生。紙に書いた文字が、あとから消えるような術はありますか」
「あるにはある。商人が使う封印術や、時間が経つと薄くなる伝言の術式だな」
「普通の紙にも?」
「術をかければな。ただ、魔力の痕や薬の匂いが残ることも多い。何を消したいんだ」
「……いえ。消えたものがあって」
老人は日記へ目を落としたが、無理に見ようとはしなかった。
「それなら、まずは紙を見せてみろ。術だと決めつけるのは、そのあとだ」
差し出しかけた手を止める。
何も書かれていないページを見せたところで、何を確かめてもらえるだろう。
結局、曖昧に笑って日記を閉じた。
*
昼前、リシアが洗いたての布を届けに来た。
昨日、広場から治療所まで付き添ってくれたことを覚えているか尋ねようとして、やめた。
彼女の顔には、こちらの傷を心配する自然な表情がある一方、昨日の出来事を共有している者同士の気安さはなかった。
「先生に、包帯の替えを持っていくよう頼まれたんです」
「ありがとう。いつも助かるよ」
「いつも……ですか?」
彼女は少し首を傾げ、それから申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい。前にもお会いしている気がするのに、どうしても曖昧で」
「気にしなくていい。助けてもらったのは本当だから」
「そう言ってもらえると、少し安心します」
リシアは布を棚へ置き、窓際の鉢に水をやった。
小さな葉の表面に水滴が残り、日差しを受けてきらめく。
昨日、広場で見た落ち葉は、あの水滴と同じように光の中で止まっていた。
「リシア。昨日、広場で何か変なことはなかった?」
「広場、ですか?」
「鳥が飛んでいたとか、風が急に止まったとか」
「……すみません。昨日、私も広場へ行ったんでしょうか」
責めるつもりなどないのに、問いかけるたび彼女に謝らせてしまう。
その事実が、消えた文字よりもずっと身近な痛みになった。
「いや、変な聞き方をした。昨日は具合が悪くて、見間違えたかもしれないんだ」
「そうだったんですね。まだ無理をしないでください」
彼女は窓を閉めようとして、手を止めた。
「でも、昨日の夕方は風が強かったそうですよ。薬草を干していた人が、籠をひっくり返されたって」
「……そうなんだ」
「今朝は静かですけどね」
窓の外の枝は、わずかに揺れていた。
三人が同じ言葉を口にしたあと、実際に風が強まったことに意味があるのかは分からない。
予報が当たっただけとも言えるし、風が強まること自体は珍しくない。
それでも、昨夜の警告を思い出すと、ありふれた出来事まで別の輪郭を持ち始める。
「何か、困っていることがあるんですか」
リシアの声に顔を上げた。
「どうして?」
「ずっと、何かを考えているみたいだから。私にできることなら、手伝いたいです」
その言葉が嬉しかった。
同時に、何を頼めばよいのか分からなくなる。
日記の文字を覚えていてほしいと言えば、彼女は頷いてくれるかもしれない。
だが、明日になればその約束をした相手さえ忘れてしまう可能性がある。
「……今日は、少し話してくれるだけで十分だよ」
「それなら、喜んで」
彼女は椅子を引き寄せ、村の畑で採れる薬草の話を始めた。
雨のあとだけ香りが強くなる葉や、見た目はよく似ていても煎じると毒になる根のことを、ひとつずつ丁寧に教えてくれる。
その穏やかな時間のあいだだけは、世界がこちらを見ているという考えを忘れていられた。
*
午後、日記を机に置き、昨夜の警告を別のページへ書き写した。
空白になった最後のページではなく、森の出来事を記した箇所のすぐあとに、新しい項目を設ける。
『昨夜、未使用のページに自分の筆跡ではない文字が現れた』
『内容は「これ以上、物語に触れるな」』
『翌朝、元の文字は痕跡を残さず消失した』
書き終えてしばらく待ったが、文字は薄くならなかった。
墨が乾くにつれ、紙の繊維に色が沈んでいくのが見える。
念のため、同じ内容を小さな紙片にも写し、日記の間へ挟んだ。
次に、消えたページを窓へかざす。
透かして見ても、裏面の文字以外に不自然な影はない。
指で押さえ、斜めから眺め、爪を立てない程度に表面をなぞってみても、紙は何も語らなかった。
ここでひとつ、思い違いに気づいた。
宿の帳簿から消えたのは、自分の名前だった。
セナの紙から失われたのは、内容を思い出せない予言だった。
そして今回、日記から消えたのは、誰が書いたか分からない警告だ。
どれも文字が消えたという点では似ている。
しかし、同じ仕組みで起きたと決めるには、まだ材料が足りなかった。
『三つの消失を同一現象と断定しない』
そう書き足すと、肩の力が少し抜けた。
説明のつかない出来事に遭遇するたび、すべてをひとつの答えへ結びつけたくなる。
けれど、急いで意味を与えたところで、失われた人の命が戻るわけでも、リシアの記憶が回復するわけでもない。
そのとき、廊下から木箱の落ちる音がした。
続いて、老人の怒鳴り声が響く。
「こら、走るなと言っただろう!」
「ごめんなさい!」
小さな子どもの声が返り、足音が遠ざかっていった。
思わず笑いかけて、手元の紙に視線を戻す。
そこに書いたばかりの警告は、まだ残っていた。
*
夕暮れ前、ガルドが治療所へ野菜を届けに来た。
土のついた人参と、まだ葉の青い蕪が籠に詰められている。
「先生に頼まれてな。お前も食って、さっさと治せよ」
「ありがとうございます。畑はもう落ち着いたんですか」
「まあな。昨日の風で柵が一本倒れたが、それくらいだ」
昨日の風。
やはり、実際に吹いたらしい。
「ガルドさん、昨日の朝、風の話をしましたよね」
「俺が?」
「今日は風が強くなりそうだ、って」
「言ったかもしれんな。空を見りゃ分かることだろう」
ガルドは笑い、籠を床へ下ろした。
その顔に嘘はなく、かといって昨日の会話を鮮明に覚えている様子でもない。
こちらの名を呼ばないことにも、もう驚かなくなっていた。
「昨日、広場で何か変わったものを見ませんでしたか」
「変わったもの?」
「鳥の動きとか、風で飛んだ葉っぱとか」
「そこまで見ちゃいないな。どうした、鳥でも落ちたのか」
「いえ。ちょっと気になって」
ガルドは首を振った。
「悪いな、力になれんで。そういやラウネの方から、また人が来るらしいぞ」
「避難してきた人ですか」
「ああ。焼けた家の片づけが終わらんそうだ。明日は宿も忙しくなる」
火災のあとも、人々の暮らしは続いている。
広場で何が止まったのかを考えているあいだにも、寝る場所を探す人がいて、畑を直す人がいて、傷の手当てを待つ人がいる。
「……手伝えることがあれば、教えてください」
「まずは傷を治せ。それが一番の手伝いだ」
ガルドはそう言って、豪快に笑った。
その笑い声が廊下の向こうへ消えるまで、しばらく耳を澄ませていた。
*
夜になり、再び最後のページを開いた。
白紙のままだった。
昼に書き写した文章も、小さな紙片の文字も、変わらず残っている。
安心したわけではない。
文字が残ったからといって、警告の送り主が存在する証拠になるわけでも、明日まで残る保証があるわけでもなかった。
それでも、昨夜見たものを自分の言葉で記録できたことには意味がある。
机の上に、白紙になったページと書き写したページを並べる。
同じ日記の中に、一方には何もなく、もう一方には警告が残っていた。
もし警告を書いた者がいるのなら、なぜ最初から自分の前に姿を現さないのだろう。
恐れさせたいのか、止めたいのか、それとも別の理由があるのか。
「物語」という言葉が何を指すのかさえ、分からない。
窓の外で風が鳴り、枝が壁を軽く叩いた。
その音に顔を上げた瞬間、森の奥で見た白い亀裂が脳裏を横切る。
あのとき、リシアは確かに生き延びた。
けれど、ラウネでは火が上がり、広場では世界の一部が止まり、今度は誰かの言葉が現れて消えた。
それらの間に本当に関係があるのかは、まだ分からない。
ただ、分からないからといって、見なかったことにはできなかった。
日記を閉じようとして、ふと紙片を取り出した。
昼に写した三行の下へ、新たに一文を加える。
『警告が正しいかどうかも、まだ分からない』
筆を置き、乾くまで待つ。
文字は消えなかった。
外では夜の鐘が鳴り始めていた。
数えるうちに、遠くから別の音が重なった気がして耳を澄ませたが、今度は紙をめくる音ではなく、風に擦れる木の葉の音だった。
安堵していいのか、失望すべきなのか、自分でも分からない。
白紙のページを閉じ、日記を胸元へ引き寄せる。
明日になれば、誰かがまた自分を忘れるだろう。
それでも、今日確かめたことまで、なかったことにはしたくなかった。