世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第19話 救われた世界の裏側

夜明け前、南の畑に張られた見張りの鐘が二度鳴った。

村の鐘楼にあった大きな鐘とは違い、鍋の底を叩くような頼りない音だったが、眠りの浅かった人々は一斉に顔を上げた。

焚き火のそばで膝を抱えていたレイも、反射的に立ち上がろうとして脇腹を押さえた。

傷は昨夜の逃走で開きかけており、包帯の下には乾いた血が張りついている。

それでも、鐘の意味を確かめずにはいられなかった。

 

「川向こうに、まだいるのか」

「いや、北の畑だ。見張りが影を見たらしい」

 

ガルドが槍を手に駆けてきた。

昨夜、こちらの名前を尋ねたばかりの彼は、今朝も顔を見るなり親しげに頷いたが、その眼差しには何かを思い出そうとする気配がない。

 

「お前、怪我人だろ。倉庫へ戻ってろ」

「影は何頭ですか」

「二つ、いや三つかもしれん。霧でよく見えなかったそうだ」

「村からこちらへ渡ってきたんですか」

「それが分からん。西の橋は見張ってるが、通った奴はいない」

 

川は南の橋を失っても流れ続けていた。

魔物が泳げるのか、浅瀬を知っているのか、それすら確かめられていない。

村から逃れた人々が、今度は逃げ込んだ先で追い詰められる。

その可能性を考えると、夜の冷気よりも深い寒さが背筋を走った。

 

「トルムさんは?」

「水車の上だ。川を見てる」

「見張りの人に、影がどちらへ進んだか聞いてください。数よりも、向かった先が知りたい」

 

ガルドは一瞬こちらを見つめ、それから短く頷いた。

 

「分かった。お前は本当に動くなよ」

 

その言葉を聞きながら、レイは倉庫の方へ目を向けた。

開いた扉の奥では、リシアが眠る子どもに毛布を掛けていた。

彼女の姿を確かめたことで安心するはずが、灰色の男の声がかえって鮮明になった。

 

『お前が救った命は、まだ救われていない』

 

*

 

夜が明けると、避難所の被害が少しずつ見えてきた。

村から持ち出せた食料は限られ、南の畑に残された水桶も、人数に比べれば心もとない。

怪我人のうち二人は熱を出し、子どもたちは空腹を訴えている。

何より、家へ帰れる見通しが立たないことが、人々の表情を暗くしていた。

 

治療所の老人は倉庫の奥を臨時の診察場所にし、リシアと二人で休む間もなく働いていた。

レイが入口から覗くと、老人は顔をしかめた。

 

「包帯を替える。そこへ座れ」

「先に、熱のある人を」

「順番を決めるのはわしだ。お前が倒れたら、手間が一人分増える」

 

言い返す余地はなかった。

椅子に腰掛けると、リシアが湯で濡らした布を持ってきた。

 

「昨夜は、眠れましたか」

「少しだけ」

「それなら、まだ足りませんね」

 

彼女は微笑んだが、目の下には薄い影があった。

レイは包帯を外される痛みに耐えながら、何気ない調子を装って尋ねた。

 

「リシアは、昨日からずっとここに?」

「ええ。井戸の水を汲みに出たくらいです」

「誰か、知らない人に声をかけられたりは」

「知らない人?」

「灰色の外套を着た男とか」

 

リシアは布を絞る手を止めた。

 

「……いいえ。どうしてですか」

「村で何度か見かけたんだ。少し気になって」

「何かされたんですか」

「話をしただけだよ」

 

嘘ではない。

けれど、その会話の内容を告げれば、彼女を不必要に怯えさせるかもしれなかった。

レイが言葉を探していると、老人が傷口へ薬を塗り、鋭い痛みが走った。

 

「余計な話をする元気があるなら、今日は寝ていろ」

「……分かりました」

 

リシアは少し心配そうにこちらを見たあと、別の怪我人に呼ばれて立ち上がった。

その後ろ姿が倉庫の奥へ消えるまで、レイは視線を外せなかった。

 

*

 

昼近く、見張りに出ていた若い男が戻ってきた。

泥に汚れた靴を脱ぐ間も惜しみ、ガルドと村長を呼んでいる。

レイは倉庫の壁にもたれたまま、男の報告に耳を澄ませた。

 

「北の畑にいたのは二頭です。森の縁を歩いて、こっちへ近づいてきました」

「川は渡ったのか」

「いいえ。浅瀬まで来たところで引き返しました」

「なら、まだ時間はあるな」

「ただ……」

 

若い男は言い淀み、倉庫を振り返った。

 

「二頭とも、同じ場所で止まったんです。水車の方じゃありません。あの倉庫の正面を、ずっと見ていました」

 

村長は眉をひそめた。

 

「人の匂いがするんだろう。あそこには大勢いる」

「そうかもしれません。でも、畑の向こうには馬もいたんです。あいつら、そっちには一度も顔を向けませんでした」

 

馬よりも人間を狙う魔物なら、不自然ではない。

そう自分に言い聞かせながら、レイは若い男へ近づいた。

 

「魔物が見ていた場所を、もう少し詳しく教えてもらえますか」

「……あんた、誰だ?」

「治療所で世話になっている旅人です。昨日、橋にいました」

「ああ、怪我してた人か」

 

男は曖昧に頷いた。

レイが昨日、避難の列を整理していたことまでは、思い出せないらしい。

 

「倉庫の入口あたりだと思います。けど、遠かったし、そこまで正確には」

「二頭は同じ方向を向いていたんですね」

「それは確かです」

 

礼を言って離れた。

二頭が倉庫を見た。

それだけなら、そこに多くの人が集まっていたからだと説明できる。

しかし、昨日、橋へ現れた魔物も、逃げる人々ではなく川向こうを見ていた。

その先にいたのはリシアだった。

 

考えすぎだ。

そう結論づけようとしても、胸の底に残る疑問は消えなかった。

 

*

 

午後、トルムが水車の上から降りてきた。

疲れた顔で川の水位を報告し、明日には仮の渡し舟を出せるかもしれないと話す。

村長は頷き、戻れる者から村の様子を確かめようと提案したが、ガルドは首を横に振った。

 

「まだ魔物がいる。村へ戻すのは早い」

「だが、食料が尽きるぞ」

「畑の倉から運べる分は運ぶ。西の橋にも見張りを増やそう」

 

言い争いになる前に、レイは日記に描いた簡単な地図を広げた。

南の橋、水車、北の畑、森の縁。

昨夜からの目撃場所を、聞いた順に印してある。

 

「魔物が現れた場所だけでも、整理してみませんか」

「地図か」

 

村長が身を乗り出した。

 

「昨日、北門に三頭。広場に一頭。橋の手前に一頭。今朝、北の畑に二頭です」

「全部で七頭か?」

「同じ個体を見ている可能性があります。数はまだ分かりません」

 

レイは地図の印を指でなぞった。

北門から広場へ、広場から橋へ。

別の二頭は森の縁を南へ回り、水車の倉庫が見える浅瀬まで来た。

その線をつなげると、避難してきた人々を追う形になる。

 

「人の集まる場所を狙ってるんじゃないか」

 

ガルドの言葉は自然だった。

魔物が人間を獲物としているなら、もっとも単純な説明でもある。

レイは頷きかけ、あることに気づいた。

 

「昨日、広場で最初に襲われたのは、どこですか」

「北のパン屋だ。屋根を壊された」

「そのとき、広場にはまだ人が?」

「いた。逃げ遅れた奴らが何人もな」

「なのに、魔物は橋へ向かった」

 

村長が地図へ顔を寄せた。

 

「追いかけていた人間がいたんだろう」

「そうかもしれません」

 

レイはその答えを否定しなかった。

ただ、魔物がどこで誰を見たか、目撃者ごとに分けておきたいと頼んだ。

村長は不思議そうな顔をしたが、最後には了承した。

 

「それなら、見張りの連中に聞いてみよう。誰が考えたかは知らんが、こうして並べると分かりやすいな」

 

誰が考えたかは知らない。

その言葉に、昨日と同じ痛みが胸を刺した。

けれど、地図を覗き込むガルドの顔は真剣で、村長も次の見張りをどこへ置くか考え始めている。

自分の名前が残らなくても、今はこの紙が役に立てばよかった。

 

*

 

夕方、リシアが薬草を採りに行きたいと言い出した。

熱を出している二人に使う薬が足りず、川沿いの湿地なら必要な葉が見つかるかもしれないという。

 

「危険です。森の近くには魔物がいます」

 

レイの声は、思ったより強く響いた。

リシアは驚いたように目を見開く。

 

「湿地は倉庫から見える場所です。遠くへは行きません」

「それでも、今は」

「薬が足りないんです。熱が下がらなければ、あの人たちが危ない」

 

彼女はまっすぐこちらを見た。

森で助けられたことを覚えていなくても、目の前の命を助けようとする意志は変わらない。

レイは言葉を飲み込んだ。

 

「……一人では行かないでほしい」

「もちろんです。見張りの方に相談します」

「俺も」

「あなたは駄目です」

 

間髪を入れずに返され、思わず黙った。

 

「昨日も無理をしたでしょう。ここで倒れられたら、先生が困ります」

「そうだな」

「心配してくれるのは嬉しいです。でも、私にもできることがありますから」

 

彼女はそう言って、薬籠を抱え直した。

レイはしばらく考え、見張りの男に湿地までの同行を頼むことにした。

少なくとも、ひとりで行かせるよりは安全だ。

 

リシアが見張りとともに倉庫を出たのは、陽が傾き始めたころだった。

湿地までは歩いて十分もかからない。

レイは入口から二人の姿を見送り、日記へ視線を戻した。

 

そのとき、北の畑から鳥が一斉に飛び立った。

 

見張りの一人が叫んだ。

 

「森の縁に、影がいる!」

 

レイは顔を上げた。

草の向こうに、黒い背が一つ見える。

続いて、もう一つ。

二頭の魔物が、低い姿勢で畑の端を進んでいた。

 

リシアたちはまだ湿地へ向かう途中だった。

見張りの男が彼女の腕を引き、倉庫へ戻ろうとする。

その動きに合わせたかのように、魔物の一頭が頭を上げた。

 

獣の目が何を捉えたのか、距離がありすぎて分からない。

ただ、魔物は近くにいた馬を無視し、二人のいる方向へ進み始めた。

 

「戻れ!」

 

レイは叫んだ。

声が届いたのか、見張りの男が振り返り、リシアを押すように走らせた。

魔物も速度を上げる。

草を踏み砕く音が、川の流れに重なった。

 

走り出そうとして、脇腹が激しく痛んだ。

膝が折れかけ、倉庫の柱に手をつく。

それでも、声だけは止めなかった。

 

「北側を閉めてください! あの二人を中へ!」

 

ガルドが槍を持って飛び出し、ほかの男たちが倉庫の入口へ集まる。

リシアと見張りが最後の数歩を駆け込むと、扉が閉まり、太い閂が下ろされた。

 

直後、外で何かが木を叩いた。

倉庫の壁が揺れ、棚の上の小瓶が音を立てる。

子どもが泣き、誰かが息を呑んだ。

 

「全員、奥へ!」

 

老人の声が響いた。

レイは入口のそばにいたリシアを振り返った。

彼女は息を切らしながらも、自分で立っている。

見張りの男も腕を擦りむいただけで、深い傷はなさそうだった。

 

「怪我は?」

「私は、大丈夫です」

 

リシアは震える声で答えた。

その手には、いつの間にか摘んだらしい薬草が数本握られていた。

 

「……ごめんなさい。危ない目に遭わせてしまって」

「謝らなくていい。戻ってこられてよかった」

 

彼女は何か言いかけ、結局、小さく頷いた。

 

外では魔物が再び壁を擦った。

しかし、ほどなく足音は遠ざかり、見張りが窓の隙間から外を確かめた。

 

「森の方へ戻っていく……二頭ともだ」

 

倉庫の中に安堵の息が広がった。

だが、レイは入口の閂から目を離せなかった。

 

なぜ、あの二頭は去ったのか。

壁を壊せなかったからか、槍を持った男たちを警戒したからか。

それとも、何かを確かめ終えたからなのか。

 

最後の考えには、根拠がなかった。

そう分かっていても、心から追い払うことはできなかった。

 

*

 

夜、村長は倉庫の中で見張りを増やすことを決めた。

明朝には西の橋を通じて近隣の集落へ助けを求める。

それまでは誰も単独で外へ出さず、食料と薬を分け合って持ちこたえる。

 

レイは壁際の寝床に座り、今日の出来事を日記へ書いた。

 

『魔物二頭が、北の畑から倉庫を見ていたという証言』

『午後、魔物二頭がリシアと見張りの方向へ進んだ』

『近くに馬がいたが、魔物はそちらへ向かわなかった』

『倉庫の壁を攻撃したのち、森へ戻った』

 

一行空けて、慎重に付け加える。

 

『リシアを狙っていた可能性はある。ただし、人間を追っただけとも考えられる』

 

筆を置くと、肩の力が抜けた。

灰色の男は、救った命がまだ救われていないと言った。

今日の出来事は、その言葉を裏づけているようにも見える。

だが、相手の言葉に合わせて目撃したものを並べ替えれば、いずれ何もかもが一つの答えに見えてしまう。

 

そうなってはいけない。

 

倉庫の奥では、リシアが採ってきた薬草を煎じていた。

湯気の向こうにいる彼女は、昼間より少し疲れた顔をしている。

それでも、薬を受け取った老人が礼を言うと、穏やかに笑った。

 

守りたいのは、誰かに指定された命ではない。

彼女が自分で選び、誰かを助けようとする、その明日だった。

 

ふいに、外の見張りが低い声で誰かを呼んだ。

レイが顔を上げると、扉の隙間から冷たい夜気が流れ込んでくる。

 

「何かあったのか」

 

ガルドが尋ねた。

見張りはしばらく返事をせず、やがて首を振った。

 

「いや。向こう岸に、誰か立っていた気がして」

「魔物か?」

「人間だと思う。灰色の……いや、暗くてよく分からなかった」

 

レイは日記を閉じた。

窓の外に目を凝らしても、川の向こうには夜の色しかない。

 

見られている。

そう感じたのは、これで何度目だろう。

けれど、今夜はその感覚よりも、もっと確かなものが胸を占めていた。

 

魔物が来たとき、リシアは薬を採りに行っていた。

彼女は自分の命を守るためだけでなく、熱に苦しむ人々を助けるために動いたのだ。

 

誰かがその行動を利用しているのだとしたら。

あるいは、彼女が生きていること自体が、何かの目印になっているのだとしたら。

 

そのどちらも、まだ証明できない。

ただ一つ、次に同じことが起きたとき、倉庫の扉が持ちこたえる保証はなかった。

 

レイは日記の最後に、短く書き加えた。

 

『明日は、逃げる場所だけでなく、逃げる理由を確かめる』

 

筆を置くと、遠くの森で魔物の声がした。

一頭ではない。

重なった低い唸りが、川の流れに紛れて長く続いた。

 

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