世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
死んだ瞬間のことを、俺は覚えていない。
正確に言えば、死んだと思われる瞬間の前後だけが、奇妙なほど曖昧だった。
雨の匂い。
濡れたアスファルト。
信号機の赤い光。
そして、視界を埋め尽くした白。
そこまでは覚えている。
だが、肝心なものが欠けていた。
俺を轢いたはずの車だ。
タイヤの音も、エンジンの唸りも、思い出せない。
それなのに俺は、自分が交通事故で死んだものだと、疑いもしなかった。
なぜだろう。
その疑問が浮かんだのは、異世界に来て四度目の朝だった。
薄い毛布を払いのけ、寝台から身体を起こす。
宿の窓から差し込む朝日が、床板に細長い光を落としていた。
机の上には、昨日までに書き溜めた日記がある。
俺はそれを手に取り、最初のページを開いた。
『久瀬玲司。二十四歳。日本から来た』
見慣れた名前だった。
だが、その文字を見つめていると、どうにも落ち着かない気分になる。
俺は久瀬玲司だ。
そのはずだ。
日本で生まれ、育ち、大学を卒業して会社に勤めていた。
朝は満員電車に揺られ、昼には職場の近くで安い定食を食べ、夜は疲れた身体を引きずって帰宅する。
そんな日常を送っていた。
それなのに、今ではその記憶が、ひどく遠いものに感じられる。
まるで、自分ではない誰かの人生を思い出しているようだった。
「……本当に、死んだのか」
声に出してみる。
答える者はいない。
窓の外では、村人たちがいつもと変わらない朝を迎えていた。
この世界に来てから、俺は何度も自分の状況を考えた。
異世界転生。
日本にいた頃なら、物語の中でしか使わなかった言葉だ。
死んだ人間が、別の世界で新しい人生を始める。
その設定自体は理解できる。
だが、実際に自分の身に起きてみると、理解できないことばかりだった。
俺はなぜ、この世界へ来たのか。
誰が、何のために。
そして何より、なぜこの世界の人間は俺を覚えていられないのか。
いくら考えても正解に辿りつけるはずもなく、ため息をつきながら日記を閉じた。
昨日の夜、村を出ようと決めた。
しかし、その前に確かめたいことがあった。
俺がこの世界へ来た、あの場所。
森の中にあった、文字のない石碑。
あそこに、もう一度行ってみようと思った。
*
宿の一階へ降りると、主人が朝食の準備をしていた。
「おや、お客さん。泊まりかい?」
昨日も聞いた言葉だった。
「……昨日から泊まってる」
「そうだったかね?」
主人は首を傾げた。
もう、驚きはしなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
「部屋は二階の奥だ。荷物も置いてある」
「ああ、そうかい。悪いねえ。最近、どうも物忘れがひどくて」
主人は困ったように笑った。
俺も曖昧に笑い返す。
彼は昨日の宿泊代を受け取ったことを覚えている。
部屋を貸したことも、帳簿を見れば分かる。
だが、俺の顔は覚えていない。
昨日、何を話したかも覚えていない。
まるで、出来事の中から俺だけが切り取られているようだった。
「……ひとつ、聞いてもいいか」
「何だい?」
「この村の北にある森について、何か知ってるか?」
主人は鍋をかき混ぜる手を止めた。
「北の森?」
「ああ。古い石碑がある場所なんだけど」
その瞬間、主人の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
だが、確かに笑顔が消えた。
「……石碑?」
「人の背丈くらいの高さで、何も書かれていない石碑だ」
主人はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと首を振る。
「知らないねえ」
「本当に?」
「少なくとも、そんなものがあるとは聞いたことがないよ」
そう言って、再び鍋に向き直った。
だが、その手つきは先ほどよりもぎこちなかった。
主人の横顔を見つめた。
何かを隠しているのだろうか。
それとも、ただの思い過ごしなのか。
今の俺には判断できなかった。
「森には近づかない方がいいよ」
主人が言った。
「最近、魔物が増えているらしいからね」
「……分かった」
それ以上は尋ねなかった。
朝食を済ませ、部屋に戻る。
日記を懐にしまい、少しばかりの食料と水を持った。
村を出る準備は、それだけだった。
この世界に来たとき、俺は何も持っていなかった。
今も、大して変わらない。
ただ一冊の日記だけが、俺の存在を証明してくれていた。
*
村を出ると、空気の匂いが変わった。
畑の土と家畜の匂いが薄れ、代わりに湿った草木の香りが強くなる。
遠くに広がる森は、朝日を受けてもなお薄暗かった。
木々が密集し、奥へ進むほど光が届かなくなっている。
歩きながら、転生した日のことを思い返していた。
あの日、目を覚ました時、俺は仰向けに倒れていた。
背中には湿った土の感触があり、頭上には見知らぬ木々が広がっていた。
身体に痛みはなかった。
骨折も、出血もない。
交通事故に遭った人間とは思えないほど、健康な状態だった。
それどころか、身体が妙に軽かった。
長年の肩こりも、仕事で疲れた腰の重さも消えていた。
まるで、誰かが身体を新しく作り直したようだった。
「……作り直した、か」
自分で口にして、嫌な気分になった。
そんなことが、本当に可能なのだろうか。
魔法が存在する世界なら、あり得るのかもしれない。
だが、仮にそうだとして。
誰が、俺を作り直したのだろう。
そして、何のために。
考えているうちに、森の入り口へ辿り着いた。
木々の間には、細い獣道が続いている。
三日前、俺が村へ向かうために歩いた道だった。
少なくとも、そのはずだった。
だが、今になって見てみると、奇妙なことに気づいた。
道の両脇にある木々の形が、まるで記憶と違っていたのだ。
最初に通ったときには、大きく曲がった木があった。
根元に青い花が咲いていたので、その木を目印にして歩いたことをはっきり覚えている。
しかし、今はどこにも見当たらない。
代わりに、まっすぐ伸びた細い木々が並んでいる。
「……道を間違えたか?」
周囲を見渡した。
森の入り口は一つではない。
三日前とは違う場所から入ろうとしている可能性もある。
そう考え、少し離れた場所まで歩いてみた。
だが、どこにも見覚えのある景色はなかった。
やがて、諦めて森へ足を踏み入れた。
あの石碑を見つけるまでは、帰るつもりはなかった。
*
森の中は、ひどく静かだった。
風が吹くたび、葉が擦れ合う音がする。
時折、遠くで鳥が鳴く。
それ以外には、ほとんど音がなかった。
慎重に歩いた。
魔物が出るという話を聞いていたからだ。
武器らしい武器は持っていない。
腰に下げているのは、村で買った小さな作業用の短刀だけだった。
もし本当に魔物と遭遇すれば、逃げるしかない。
そんなことを考えながら進んでいると、ふと足元に違和感を覚えた。
地面が、妙に平らだった。
森の中なのに、そこだけ石畳のように滑らかになっている。
苔に覆われてはいるが、明らかに自然の地面とは違う。
しゃがみ込み、表面を指でなぞった。
冷たい石の感触。
その下に、細い線が刻まれていた。
文字のようにも見える。
だが、読み取ることはできなかった。
「……遺跡か?」
顔を上げる。
周囲には、同じような石がいくつも埋まっていた。
三日前には気づかなかったものだ。
いや、気づかなかったのではない。
あの日は、ここを通っていないのかもしれない。
そう思った瞬間。
耳の奥で、微かな音がした。
紙をめくるような音だった。
音のする方へ振り返った。
誰もいない。
風も吹いていなかった。
それなのに、確かに聞こえた。
ぱらり。
もう一度聞こえた。
今度は、すぐ耳元で。
「……誰かいるのか?」
声をかける。
返事はなかった。
しばらく待ってみたが、何も起こらない。
短刀の柄に手を添えた。
心臓が早鐘を打っていた。
やがて、音は聞こえなくなった。
深く息を吐いた。
疲れているのかもしれない。
この世界へ来てから、まともに眠れた夜は少なかった。
幻聴の一つくらい、聞こえても不思議ではない。
そう自分に言い聞かせ、再び歩き始めた。
だが、どうしてもあの音が気になった。
どこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。
*
石碑を見つけたのは、それから一時間ほど歩いた頃だった。
いや、正確には石碑があったはずの場所を見つけた。
そこは、小さな円形の空き地だった。
周囲を木々に囲まれ、中央だけがぽっかりと開けている。
地面には草が生えていない。
土は黒く、まるで長い間何かに覆われていたようだった。
立ち止まった。
間違いないくこの場所だ。
三日前、俺が目を覚まし石碑を見つけた場所。
だが石碑はどこにも見当たらない。
「……嘘だろ」
思わず呟いた。
人の背丈ほどもある、大きな石碑だった。
簡単に動かせるようなものではない。
それなのに、影も形もなかった。
空き地の中央へ歩き確認をした。
石碑があったはずの場所には、何も残っていない。
掘り返された跡もない。
砕けた石の破片すら見当たらない。
ただ、黒い土が広がっているだけだった。
「……どういうことだ」
地面に手を触れた。
冷たかった。
だが、その奥に妙な温かさがあるような気がした。
地面の下で、何かが静かに動いている。
そんな錯覚を覚えた。
俺は手を引っ込めた。
その瞬、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
視界が揺れた。
膝をつき、額を押さえる。
痛みは一瞬だった。
だが、そのわずかな時間に、奇妙な光景が見えた。
白い部屋。
壁も、床も、天井もない。
ただ、果てしなく広がる白。
その中央に、一人の人間が立っていた。
後ろ姿だった。
顔は見えない。
だが、その人物は、確かにこちらを向こうとしていた。
そして、
「――まだ、駄目だ」
声が聞こえた。
夢の中で聞いた、あの声だった。
俺は息を呑んだ。
「……誰だ」
返事はなかった。
白い景色が揺らぐ。
人影が、ゆっくりと振り返る。
その顔を見ようとしたその瞬間に、視界が暗転した。
*
気づけば、地面に倒れていた。
頬に湿った土が触れている。
木々の隙間から、午後の光が差し込んでいた。
どれほど時間が経ったのか分からない。
ゆっくりと身体を起こした。
頭痛は消えていた。
だが、胸の奥に嫌な感覚が残っている。
あの白い場所。
あの人影。
そして、声。
『まだ、駄目だ』
俺はその言葉を知っている。
夢の中でも聞いた。
だが、それだけではない気がした。
もっと前に、ずっと昔に、同じ言葉を聞いたことがある。
そんな確信めいた感覚が、胸の奥に広がっていた。
「……何なんだよ」
声が震えた。
何を忘れているのだろう。
いや、本当に忘れているのだろうか。
もしかすると、最初から知らされていないのではないか。
俺がこの世界へ来た理由。
死んだはずの瞬間。
そして、あの石碑の正体。
そのすべてが、誰かによって隠されているのだとしたら。
俺は、何を信じればいいのだろう。
懐から日記を取り出した。
震える手でページを開く。
そして、今日見たものを書き記した。
石碑が消えていたこと。
地面に触れた瞬間、頭痛が起きたこと。
白い空間と、人影。
そして、あの声。
『まだ、駄目だ』
書き終えたところで、筆が止まった。
しばらく、その文字を見つめていた。
そして、ふと気づいた。
三日前、俺が初めて石碑を見つけた時も、同じような感覚があった。
触れようとした瞬間、忘れていた何かを思い出しそうになった。
だが、思い出せなかった。
今回も同じだ。
違うのは、石碑が消えていたことだけ。
いや、本当にそうだろうか。
日記の最初のページを開いた。
転生した日の記録。
そこには、こう書かれていた。
『森の中に古い石碑を発見。中央に細長い窪み。文字はない』
その文章を見つめた。
そして、あることに気づいた。
俺は、石碑の中央にあった窪みを覚えている。
だが、その形を、正確に思い出せない。
縦に細長かったのは確かだ。
しかし、ただの線だったのか。
何かの記号だったのか。
それとも、文字の一部だったのか。
どうしても、思い出せなかった。
まるで、記憶の一部分だけが削り取られているようだった。
「……俺まで、忘れてるのか」
思わず呟いた。
この世界の人間は、俺を忘れる。
だが、もしもだ、俺自身も、何かを忘れさせられているのだとしたら。
その可能性に思い至った瞬間、全身に寒気が走った。
*
村へ戻る頃には、空が赤く染まり始めていた。
森を抜けると、遠くに家々の屋根が見えた。
煙突からは夕食の煙が立ち上り、畑仕事を終えた人々が家路についている。
平和な光景だった。
俺が森で見たものなど、誰も知らない。
この世界は、何事もなかったように続いている。
そのことが、ひどく不気味だった。
村の入り口まで来たとき、見覚えのある少女が歩いてくるのが見えた。
リシアだった。
背中には薬草の籠を背負っている。
彼女は俺に気づくと、軽く会釈した。
「こんばんは」
「……こんばんは」
また忘れられている、と力なく返事をした。
リシアは少し首を傾げた。
「どこかへ行かれていたんですか?」
「ああ。森へ」
その瞬間、彼女の表情が変わった。
「森へ?」
「ちょっと調べたいことがあって」
「……危ないですよ」
リシアは真剣な顔をした。
「最近、森の奥で魔物が増えているんです。村の人たちも、なるべく近づかないようにしていて」
「そうらしいな」
「本当に、気をつけてくださいね」
その言葉に、少し驚いた。
彼女は俺を覚えていない。
少なくとも、今の反応からはそう見える。
それでも、見知らぬ旅人の身を案じてくれる。
嬉しくなり小さく笑った。
「ありがとう」
リシアも微笑んだ。
そして、ふと何かを思い出したように口を開いた。
「あの……」
「ん?」
「変なことを聞いてもいいですか?」
その問いに頷いた。
彼女は少し迷ってから、言った。
「私たち、前にどこかで会ったことがありますか?」
胸の奥が、静かに震えた。
昨日も、似たようなことを聞かれた。
だが、彼女はその会話を覚えていない。
それでも、また同じ疑問を抱いている。
「……どうしてそう思う?」
俺が尋ねると、リシアは困ったように笑った。
「分からないんです。ただ、何となく……」
そこで言葉を止める。
「あなたを見ていると、懐かしい気がして」
何も言えなかった。
記憶は消える。
だが、何かが残っている。
その事実が、今の俺には救いだった。
「……レイだ」
「俺の名前は、レイ」
リシアはその名前を、ゆっくりと繰り返した。
「レイさん……」
そして、柔らかく微笑んだ。
「素敵な名前ですね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。
だが同時に、ひどく切なくもなった。
明日になれば、彼女はまた俺を忘れる。
それでも、今日、この瞬間だけは。
――俺の名前を呼んでくれた。
それだけで、十分だと思いたかった。
*
宿へ戻った俺は、日記を開いた。
今日の出来事を整理する。
事故の記憶。
森の石碑。
白い空間。
謎の声。
そして、リシアの言葉。
書き終えたところで、俺はしばらく考え込んだ。
この世界に来てから、俺はずっと、自分が忘れられることばかり考えていた。
誰も俺を覚えていない。
誰も俺の名前を呼んでくれない。
俺が何をしても、翌日にはなかったことになる。
だが今日、森で見た光景が、別の可能性を示していた。
もしかすると、俺はこの世界に来る前から、何かを忘れているのかもしれない。
そして、その忘れた何かこそが。
俺がここにいる理由なのかもしれない。
日記の最後に、一文を書き加えた。
『俺は、本当に死んだのか?』
筆を置く。
その文字を見つめる。
答えはない。
だが少なくとも、俺は今生きている。
心臓は動いている。
息をしている。
腹も減るし、眠くもなる。
痛みも感じる。
誰かの言葉に、嬉しくなることもある。
それが、今の俺にとって唯一の現実だった。
窓の外を見た。
夜の闇が、村を包み込んでいる。
遠くの森は、黒い塊のように沈んでいた。
あの森のどこかに、答えがあるのだろうか。
それとも、答えそのものが、すでに消されているのだろうか。
俺には分からなかった。
ただ、一つだけ。
どうしても頭から離れない言葉があった。
『今度こそ』
夢の中で聞いた、あの言葉。
今度こそ。
それは、以前にも何かがあったことを意味している。
ならば俺は、初めてこの世界へ来たのではないのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間。
背筋に、冷たいものが走った。
俺は、死んだはずだった。
だがもし、死んだはずの人間が、もう一度現れたのだとしたら。
この世界は、それをどう扱うのだろう。
答える者はいなかった。
ただ、窓の外で風が吹いた。
まるで、見えない誰かが、静かにページをめくるような音を立てながら。
めくるような音を立てながら。