世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第一章完結です。


第20話 それでも、俺は

夜明けの鐘は鳴らなかった。

村の鐘楼は川向こうの霧に沈み、避難所の見張りが交代を告げる声だけが、冷えた畑を渡っていく。

昨夜、森から聞こえた魔物の唸りは、明るくなっても耳の奥に残っていた。

倉庫の壁には爪で削られた深い傷があり、板の継ぎ目から朝の光が細く差し込んでいる。

あの一撃が少し強ければ、ここにいた人々は無事では済まなかっただろう。

 

治療所の老人は、包帯を替えながら眉を寄せた。

 

「熱はないが、傷がまた開きかけておる。今日は動くな」

「分かっています」

「その返事はもう聞き飽きた」

 

老人は包帯を固く結び、少し声を落とした。

 

「お前が何を気にしているのかは知らん。だが、人を助けるために倒れてしまえば、助けられる側が一人増えるだけだ」

 

返す言葉がなかった。

昨日、倉庫の外へ飛び出そうとしたリシアを呼び戻したときも、身体が思うように動かなかった。

森で彼女を救った日から、傷は少しずつ癒えている。

それでも、次の危険に間に合うほど早くは治らない。

 

「先生。村長さんは、近隣の集落へ人を出しましたか」

「ああ。西の橋から二人向かった。昼までには知らせが届くだろう」

「なら、それまで持ちこたえれば……」

「それを決めるのは魔物のほうだ」

 

老人は淡々と言った。

厳しいが、正しい答えだった。

 

*

 

倉庫の外では、ガルドとトルムが畑の端に杭を打っていた。

魔物が近づいたとき、遠くからでも分かるよう、杭の間へ縄を張って鈴を吊るしている。

村人たちは昨夜のうちに避難所の周りを調べ、倉庫の裏に浅い溝を掘り始めていた。

できることは少ないが、何もしないよりはいい。

 

「おう、怪我人。顔色は昨日よりましだな」

「ガルドさん、見張りは足りていますか」

「足りるわけないだろ。だが、みんな寝ずに立たせるわけにもいかん」

 

ガルドは杭を地面へ押し込み、北の森を見た。

 

「今朝は妙に静かだ。鳥もあまり鳴かん」

 

言われて初めて気づいた。

川の音は聞こえるのに、森から返ってくるはずの細かな気配が乏しい。

第十二話の広場で見た、空中に留まった落ち葉と鳥が脳裏をよぎる。

だが、今は枝が風に揺れ、水面にも波紋が広がっている。

世界の一部が止まっているわけではない。

 

「リシアはどこに?」

「先生の手伝いだろ。薬が足りないって騒いでたぞ」

 

その名を口にした瞬間、ガルドがこちらを見た。

 

「お前、あの子の知り合いなのか」

「……何度か、話をしました」

「そうか。あの子も頑張ってるな」

 

それ以上、説明しなかった。

森で彼女を救ったことを話しても、ガルドはおそらく驚き、礼を言い、やがて忘れる。

今はその繰り返しを確かめている場合ではなかった。

 

*

 

異変は、昼を待たずに起きた。

北の畑に吊るした鈴が、一斉に鳴り始めたのだ。

一つ、二つではない。

風に揺れた程度では鳴らないよう結んだ鈴が、森に近い側から順番に激しく震えていく。

 

「来たぞ!」

 

見張りの叫びに、倉庫の戸が開いた。

子どもを抱く者、歩けない老人を支える者が、南の畑の奥へ動き始める。

村長が決めた退避場所は、水路を挟んだ小高い丘だった。

そこへ至る道は一本しかないが、畑の外周を回れば魔物の正面を避けられる。

 

「走らず、列を崩さないでください! 歩ける人は先へ!」

 

レイが声を張ると、近くの男が同じ指示を繰り返した。

昨日と同じだった。

声が誰のものかは重要ではない。

伝わりさえすれば、人は動ける。

 

森の縁から、黒い影が現れた。

一頭、二頭、そしてその後ろに、さらに二頭。

背に石のような突起を持つ魔物たちが、草を踏み倒しながら畑へ入ってくる。

 

「四頭だ!」

「西にもいるぞ!」

 

西の見張りが叫んだ。

振り向くと、川沿いの道からもう一頭が現れ、避難する人々の進路へ回り込もうとしていた。

ただ襲いかかっているのではない。

群れが別々の道を使い、丘へ続く細い通路を塞ごうとしているように見えた。

 

「西の道を閉じて! 水路沿いに回してください!」

 

叫びながら、レイは畑の地形を思い出した。

水車から延びる細い水路は、倉庫の南側で二股に分かれている。

一方は丘の麓へ続き、もう一方は古い排水溝へ落ちる。

魔物の大きな身体なら、溝を越えるのに時間がかかるかもしれない。

 

「トルムさん! 水路の板を外せますか!」

「水を流す板か!」

「そうです。北側の水を排水溝へ!」

 

トルムは即座に頷いた。

男たちを連れ、堰のほうへ走っていく。

水が溝を満たせば、魔物の足を止める障害になる。

ただし、村人の逃げ道も濡れて滑りやすくなる。

使うなら、全員が通り過ぎたあとでなければならない。

 

「最後の人が渡ったら、堰を開けてください!」

 

声が届いたかどうか確かめる暇もなく、倉庫の入口から老人の怒鳴り声がした。

 

「薬箱は置いていけ! 先に人を出せ!」

 

リシアが戸口に立っていた。

片腕で薬箱を抱え、もう一方の手で足を傷めた少年を支えている。

少年の顔は蒼白で、右足を地面につけられない。

 

「こちらへ!」

 

レイが駆け寄ろうとすると、脇腹に鋭い痛みが走った。

息を詰め、足を止める。

リシアはその様子を見て、すぐに首を振った。

 

「来ないでください! 私は大丈夫です!」

「少年を先に!」

「はい!」

 

近くにいた二人の男が少年を抱え、丘へ向かって走り出した。

リシアは薬箱を置き、倉庫の奥へ振り返る。

まだ中に人がいるのだろう。

 

そのとき、北から来た魔物の一頭が、進路を変えた。

 

ほかの魔物は逃げる村人の列へ向かっている。

だが、その一頭だけは、倉庫の入口に立つリシアへ顔を向けた。

少年を運ぶ二人の男がすぐ横を通り過ぎても、目で追おうとしない。

 

偶然だと考える余地はある。

けれど、あの灰色の男の声が、胸の奥で再び響いた。

 

『お前が救った命は、まだ救われていない』

 

「リシア! 倉庫から離れて!」

 

彼女が顔を上げた。

その一瞬、魔物が地面を蹴った。

 

*

 

魔物の前脚が土を抉り、黒い身体が倉庫へ向かって加速した。

距離はまだある。

だが、リシアが入口から離れるより早く、魔物はそこへ到達するだろう。

 

レイは足元の杭を引き抜こうとした。

肩が痛み、木はびくともしない。

代わりに、杭へ結ばれた縄を掴んだ。

鈴を吊るすための細い縄だ。

魔物を止められるはずがない。

 

それでも、使い道はあった。

 

「ガルドさん! あの荷車を!」

 

畑の端には、昨夜の避難で使った空の荷車が残っていた。

ガルドは叫びの意味を察し、荷車の持ち手へ飛びついた。

 

「こっちか!」

「倉庫の前へ! 入口を塞がない位置で!」

 

二人の村人が加わり、荷車を斜めに押し出した。

魔物がまっすぐ倉庫へ飛び込めないようにするための、ほんの小さな障害物だった。

 

魔物は荷車へ衝突した。

木が砕け、車輪が宙へ跳ねる。

衝撃で魔物の身体がわずかに逸れ、倉庫の壁を掠めた。

板が裂け、土埃が舞い上がる。

 

「今だ、逃げろ!」

 

ガルドが叫ぶ。

リシアはようやく倉庫から飛び出し、丘へ向かって走り始めた。

その後ろで魔物が身を起こす。

障害物はもうない。

次の一歩で追いつかれる。

 

レイは、地面に転がった車輪を見た。

外れた軸に縄が絡み、長く引きずられている。

片手で縄を掴み、残った杭の根元へ巻きつけた。

魔物が進む先に張られた縄は、膝ほどの高さにしかならない。

力任せに踏み切られれば、簡単に千切れるだろう。

 

それでも、一歩だけ。

一歩分の時間があればいい。

 

魔物が迫った。

 

「こっちだ!」

 

叫んだ瞬間、魔物の顔がこちらへ向いた。

濁った目の奥に、何かが揺れたように見えた。

恐怖でそう感じただけかもしれない。

だが、次の瞬間、魔物はリシアから進路を変え、レイへ向かって突っ込んできた。

 

足元の縄が張り詰める。

前脚が引っかかり、巨体が大きく傾いた。

縄はすぐに切れたが、勢いを失った魔物は地面へ肩を打ちつけ、土を巻き上げた。

 

レイも反動で転んだ。

右肩から地面へ落ち、傷口が裂ける感覚があった。

視界が白く弾け、呼吸が止まる。

立とうとしても腕に力が入らず、膝だけが泥を掻いた。

 

目の前で魔物が起き上がる。

折れた突起から黒い液が垂れ、前脚の爪が地面を引っ掻いた。

逃げられない。

 

「レイさん!」

 

遠くでリシアの声がした。

振り向くと、彼女は丘へ向かう道の途中で立ち止まっていた。

戻ってこようとしている。

 

「来るな!」

 

喉が裂けそうな声が出た。

 

「そのまま行って! みんなと一緒に!」

 

彼女は動かなかった。

恐怖のせいか、迷いのせいかは分からない。

ただ、ここで彼女が引き返せば、今までのすべてが無駄になる。

 

「お願いだ……生きてくれ!」

 

声が震えた。

 

魔物の影が覆いかぶさる。

もう避けられないと思った、そのときだった。

 

ぱらり。

 

紙をめくる音がした。

 

*

 

風に舞った土埃の一部が、空中で止まっていた。

落ちかけた木片が宙に留まり、魔物の肩から飛び散った黒い雫が、丸い形のまま動かない。

だが、魔物の前脚は動いている。

リシアも、丘へ逃げる村人たちも、止まっていない。

 

広場で見たのと同じだった。

時間が止まったのではない。

世界の一部分だけが、何かに留められている。

 

魔物の爪が目の前まで迫る。

レイは動かない右腕を庇い、残った力で身体を横へ転がした。

爪が地面へ突き刺さり、泥が跳ねる。

 

その瞬間、空中に留まっていた雫が一斉に落ちた。

木片が地面を打ち、土埃が風に流される。

何もなかったかのように、世界は再び同じ速さで動き始めた。

 

「レイ!」

 

ガルドが駆け寄り、襟元を掴んで引きずった。

すぐそばで槍を持った男たちが魔物を牽制し、別の方向からトルムの怒鳴り声が響く。

 

「堰を開けるぞ! 下がれ!」

 

水路の上流から、水が勢いよく流れ込んできた。

排水溝へ落ちるはずの水が、壊れた荷車の木片にぶつかり、泥を巻き上げながら畑の縁へ広がる。

魔物は濡れた地面で足を滑らせ、前脚を取られた。

槍を持った男たちはその隙に後退し、丘へ続く道を駆け上がる。

 

レイはガルドに支えられながら、最後に倉庫を振り返った。

魔物たちは水路の向こうに留まり、こちらを追ってこない。

そのうちの一頭が、しばらく丘の上を見つめていた。

何を見ているのかは、もう確かめようがなかった。

 

*

 

丘の上には、避難してきた人々が身を寄せ合っていた。

負傷者は数人いたが、見渡す限り、動ける者は全員そこにいた。

村長が人数を数え、足りない者の名を何度も呼んでいる。

 

「最後の荷車に乗っていた婆さんは?」

「こっちだ! 怪我はしてない!」

「治療所の先生は?」

「いるぞ。今、傷を診てる!」

 

そのやり取りを聞きながら、レイは地面に座り込んだ。

肩から流れた血が袖を濡らし、脇腹の痛みで視界が暗くなる。

それでも、リシアの姿を探さずにはいられなかった。

 

彼女は少し離れた場所で、子どもの手を握っていた。

薬箱は持っていない。

髪には泥がつき、膝のあたりも擦り切れている。

けれど、立っている。

息をしている。

 

それだけを確かめると、身体から力が抜けた。

 

「馬鹿者が!」

 

治療所の老人が駆け寄ってきた。

怒鳴る声の奥に、隠しきれない震えがあった。

 

「また傷を開きおって。どうして言うことを聞かん!」

「……すみません」

「謝る元気があるなら、黙って寝てろ」

 

老人は傷口を押さえ、手早く包帯を巻き直した。

ガルドが水を運び、トルムが清潔な布を持ってくる。

誰が何をしたか、まだ誰も整理できていない。

ただ、生き延びた者たちが、次に必要なことを考えて動いていた。

 

やがて、リシアが近づいてきた。

 

「大丈夫ですか」

「……なんとか」

「無茶をしたって聞きました」

 

その声には、怒りよりも深い疲れがあった。

レイは彼女の顔を見上げる。

 

「リシアは、怪我をしてない?」

「少し擦りむいただけです」

「よかった」

 

彼女は唇を結び、しばらく何も言わなかった。

やがて小さく息を吐く。

 

「あなたが助けてくれたんですね」

「みんなが助けてくれたんだよ」

「それでも……ありがとうございました」

 

その言葉を、どれほど長く覚えていてくれるだろう。

今ならまだ、自分が誰なのかを知っている。

しかし明日には、荷車を動かしたのも、魔物の足を止めたのも、別の誰かの功績になっているかもしれない。

 

不意に、寂しさが込み上げた。

何度経験しても、慣れることはない。

 

「……どうして、そんなに無理をするんですか」

 

リシアが尋ねた。

 

答えは簡単ではなかった。

この世界へ来た理由も、自分だけが忘れられる理由も、何一つ分かっていない。

誰かを救うことで別の誰かが傷つくのなら、手を伸ばすこと自体が間違いなのかもしれない。

けれど、目の前で命が失われようとしたとき、見捨てることを正しい選択だとは思えなかった。

 

「……助かってほしかったから」

 

ようやく、それだけを答えた。

 

リシアは目を伏せ、やがて静かに頷いた。

 

*

 

夕方、西の街道から救援が到着した。

近隣の集落の兵と荷車が丘の麓へ入り、負傷者と子どもから順に移送する準備が始まる。

魔物がまだ森にいるため、村へ戻れる見通しは立たなかったが、少なくとも今夜、倉庫の薄い壁に身を寄せて眠る必要はなくなった。

 

レイは担架の上で、その様子を見ていた。

ガルドが兵たちに避難の経緯を説明している。

 

「南の橋を外したのはトルムだ。荷車で道を塞いだのは……そうだな、鍛冶屋の息子だったか」

「指示を出した者は?」

「村長だろう。いや、ほかにも誰かいたような……」

 

ガルドは考え込み、結局、首を振った。

 

「とにかく、みんなでやったんだ」

 

兵は頷き、手帳へ何かを書きつけた。

レイの名は呼ばれなかった。

 

胸に小さな穴が開くような感覚があった。

命が助かったのなら、それでいい。

そう思いたい気持ちは本物だった。

けれど、誰にも覚えられないことが苦しくないわけではない。

その二つを無理に一つへまとめる必要はなかった。

 

日が傾くころ、リシアが担架のそばへ来た。

 

「これ、よかったら」

 

差し出されたのは、小さな白い花だった。

畑の端に咲いていたものらしく、茎にはまだ土が少しついている。

 

「どうして花を?」

「……分かりません。持ってきたら、誰かに渡したくなって」

 

彼女は少し困ったように笑った。

 

「あなた、どこかで会ったことがある気がするんです。でも、思い出せなくて」

 

レイは花を受け取った。

指先に触れた茎は細く、折れてしまいそうなほど柔らかかった。

 

「前にも、話したことがあるよ」

「そうなんですね。ごめんなさい、忘れてしまって」

「謝らなくていい」

 

彼女の目には、まだ何かを思い出そうとする色があった。

だが、それが記憶へつながることはなかった。

少なくとも今は、そうだった。

 

「あなたの名前を、聞いてもいいですか」

「……レイ」

「レイさん」

 

彼女はその名を、確かめるように口にした。

 

「今日は、本当にありがとうございました」

 

その言葉は、初めて会う相手への礼のように聞こえた。

けれど、受け取った花の重さは確かだった。

 

「……それでいい」

 

喉の奥が熱くなった。

 

「生きていてくれれば」

 

リシアは不思議そうに瞬きをしたあと、柔らかく微笑んだ。

救援の兵に呼ばれ、彼女は担架から離れていく。

その背中を見送りながら、レイは白い花を日記の間へ挟んだ。

 

名を残せなくても、守れたものはある。

そう信じたい。

だが、灰色の男が告げた言葉は、まだ答えを持たないままだった。

 

『お前が救った命は、まだ救われていない』

 

今日の出来事が終わりなのか、それとも始まりにすぎないのか。

今は分からない。

 

それでも、俺は。

 

誰かが目の前で助けを求めたなら、きっとまた手を伸ばすのだろう。

たとえ、その選択の先に何が待っているのか分からなくても。

 

*

 

王都の北端には、夜になっても灯りの消えない書庫があった。

高い窓は外から厚い石壁に隠され、扉には王家の紋章も、管理者の名も記されていない。

棚の間を歩く女の足音だけが、静かな室内へ小さく響いていた。

 

エレノアは机の上の古い書物を開いた。

紙は黄ばんでいるのに、そこに並ぶ文字はつい先ほど書かれたように黒い。

一つの頁に、村の名が浮かび上がっていた。

その下には、見覚えのない記号と、数字が続いている。

 

彼女は指先を止めた。

 

「……そんなはずは」

 

頁の隅にあった空白が、音もなく埋まっていく。

誰も筆を持っていない。

それでも、文字は一つずつ現れ、やがて短い一文を形作った。

 

『第零記述、活動を確認。世界修復率、九十九・七パーセント。』

 

エレノアはその文字を見つめたまま、長く息を吐いた。

恐れていた知らせを受け取った者のように、表情から血の気が引いている。

 

「また、始まってしまったのね」

 

窓の外では、王都の鐘が夜を告げていた。

書庫の奥に積まれた、誰にも開かれていない書物の一冊が、かすかに震えた。

 

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