世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
夜明けの鐘は鳴らなかった。
村の鐘楼は川向こうの霧に沈み、避難所の見張りが交代を告げる声だけが、冷えた畑を渡っていく。
昨夜、森から聞こえた魔物の唸りは、明るくなっても耳の奥に残っていた。
倉庫の壁には爪で削られた深い傷があり、板の継ぎ目から朝の光が細く差し込んでいる。
あの一撃が少し強ければ、ここにいた人々は無事では済まなかっただろう。
治療所の老人は、包帯を替えながら眉を寄せた。
「熱はないが、傷がまた開きかけておる。今日は動くな」
「分かっています」
「その返事はもう聞き飽きた」
老人は包帯を固く結び、少し声を落とした。
「お前が何を気にしているのかは知らん。だが、人を助けるために倒れてしまえば、助けられる側が一人増えるだけだ」
返す言葉がなかった。
昨日、倉庫の外へ飛び出そうとしたリシアを呼び戻したときも、身体が思うように動かなかった。
森で彼女を救った日から、傷は少しずつ癒えている。
それでも、次の危険に間に合うほど早くは治らない。
「先生。村長さんは、近隣の集落へ人を出しましたか」
「ああ。西の橋から二人向かった。昼までには知らせが届くだろう」
「なら、それまで持ちこたえれば……」
「それを決めるのは魔物のほうだ」
老人は淡々と言った。
厳しいが、正しい答えだった。
*
倉庫の外では、ガルドとトルムが畑の端に杭を打っていた。
魔物が近づいたとき、遠くからでも分かるよう、杭の間へ縄を張って鈴を吊るしている。
村人たちは昨夜のうちに避難所の周りを調べ、倉庫の裏に浅い溝を掘り始めていた。
できることは少ないが、何もしないよりはいい。
「おう、怪我人。顔色は昨日よりましだな」
「ガルドさん、見張りは足りていますか」
「足りるわけないだろ。だが、みんな寝ずに立たせるわけにもいかん」
ガルドは杭を地面へ押し込み、北の森を見た。
「今朝は妙に静かだ。鳥もあまり鳴かん」
言われて初めて気づいた。
川の音は聞こえるのに、森から返ってくるはずの細かな気配が乏しい。
第十二話の広場で見た、空中に留まった落ち葉と鳥が脳裏をよぎる。
だが、今は枝が風に揺れ、水面にも波紋が広がっている。
世界の一部が止まっているわけではない。
「リシアはどこに?」
「先生の手伝いだろ。薬が足りないって騒いでたぞ」
その名を口にした瞬間、ガルドがこちらを見た。
「お前、あの子の知り合いなのか」
「……何度か、話をしました」
「そうか。あの子も頑張ってるな」
それ以上、説明しなかった。
森で彼女を救ったことを話しても、ガルドはおそらく驚き、礼を言い、やがて忘れる。
今はその繰り返しを確かめている場合ではなかった。
*
異変は、昼を待たずに起きた。
北の畑に吊るした鈴が、一斉に鳴り始めたのだ。
一つ、二つではない。
風に揺れた程度では鳴らないよう結んだ鈴が、森に近い側から順番に激しく震えていく。
「来たぞ!」
見張りの叫びに、倉庫の戸が開いた。
子どもを抱く者、歩けない老人を支える者が、南の畑の奥へ動き始める。
村長が決めた退避場所は、水路を挟んだ小高い丘だった。
そこへ至る道は一本しかないが、畑の外周を回れば魔物の正面を避けられる。
「走らず、列を崩さないでください! 歩ける人は先へ!」
レイが声を張ると、近くの男が同じ指示を繰り返した。
昨日と同じだった。
声が誰のものかは重要ではない。
伝わりさえすれば、人は動ける。
森の縁から、黒い影が現れた。
一頭、二頭、そしてその後ろに、さらに二頭。
背に石のような突起を持つ魔物たちが、草を踏み倒しながら畑へ入ってくる。
「四頭だ!」
「西にもいるぞ!」
西の見張りが叫んだ。
振り向くと、川沿いの道からもう一頭が現れ、避難する人々の進路へ回り込もうとしていた。
ただ襲いかかっているのではない。
群れが別々の道を使い、丘へ続く細い通路を塞ごうとしているように見えた。
「西の道を閉じて! 水路沿いに回してください!」
叫びながら、レイは畑の地形を思い出した。
水車から延びる細い水路は、倉庫の南側で二股に分かれている。
一方は丘の麓へ続き、もう一方は古い排水溝へ落ちる。
魔物の大きな身体なら、溝を越えるのに時間がかかるかもしれない。
「トルムさん! 水路の板を外せますか!」
「水を流す板か!」
「そうです。北側の水を排水溝へ!」
トルムは即座に頷いた。
男たちを連れ、堰のほうへ走っていく。
水が溝を満たせば、魔物の足を止める障害になる。
ただし、村人の逃げ道も濡れて滑りやすくなる。
使うなら、全員が通り過ぎたあとでなければならない。
「最後の人が渡ったら、堰を開けてください!」
声が届いたかどうか確かめる暇もなく、倉庫の入口から老人の怒鳴り声がした。
「薬箱は置いていけ! 先に人を出せ!」
リシアが戸口に立っていた。
片腕で薬箱を抱え、もう一方の手で足を傷めた少年を支えている。
少年の顔は蒼白で、右足を地面につけられない。
「こちらへ!」
レイが駆け寄ろうとすると、脇腹に鋭い痛みが走った。
息を詰め、足を止める。
リシアはその様子を見て、すぐに首を振った。
「来ないでください! 私は大丈夫です!」
「少年を先に!」
「はい!」
近くにいた二人の男が少年を抱え、丘へ向かって走り出した。
リシアは薬箱を置き、倉庫の奥へ振り返る。
まだ中に人がいるのだろう。
そのとき、北から来た魔物の一頭が、進路を変えた。
ほかの魔物は逃げる村人の列へ向かっている。
だが、その一頭だけは、倉庫の入口に立つリシアへ顔を向けた。
少年を運ぶ二人の男がすぐ横を通り過ぎても、目で追おうとしない。
偶然だと考える余地はある。
けれど、あの灰色の男の声が、胸の奥で再び響いた。
『お前が救った命は、まだ救われていない』
「リシア! 倉庫から離れて!」
彼女が顔を上げた。
その一瞬、魔物が地面を蹴った。
*
魔物の前脚が土を抉り、黒い身体が倉庫へ向かって加速した。
距離はまだある。
だが、リシアが入口から離れるより早く、魔物はそこへ到達するだろう。
レイは足元の杭を引き抜こうとした。
肩が痛み、木はびくともしない。
代わりに、杭へ結ばれた縄を掴んだ。
鈴を吊るすための細い縄だ。
魔物を止められるはずがない。
それでも、使い道はあった。
「ガルドさん! あの荷車を!」
畑の端には、昨夜の避難で使った空の荷車が残っていた。
ガルドは叫びの意味を察し、荷車の持ち手へ飛びついた。
「こっちか!」
「倉庫の前へ! 入口を塞がない位置で!」
二人の村人が加わり、荷車を斜めに押し出した。
魔物がまっすぐ倉庫へ飛び込めないようにするための、ほんの小さな障害物だった。
魔物は荷車へ衝突した。
木が砕け、車輪が宙へ跳ねる。
衝撃で魔物の身体がわずかに逸れ、倉庫の壁を掠めた。
板が裂け、土埃が舞い上がる。
「今だ、逃げろ!」
ガルドが叫ぶ。
リシアはようやく倉庫から飛び出し、丘へ向かって走り始めた。
その後ろで魔物が身を起こす。
障害物はもうない。
次の一歩で追いつかれる。
レイは、地面に転がった車輪を見た。
外れた軸に縄が絡み、長く引きずられている。
片手で縄を掴み、残った杭の根元へ巻きつけた。
魔物が進む先に張られた縄は、膝ほどの高さにしかならない。
力任せに踏み切られれば、簡単に千切れるだろう。
それでも、一歩だけ。
一歩分の時間があればいい。
魔物が迫った。
「こっちだ!」
叫んだ瞬間、魔物の顔がこちらへ向いた。
濁った目の奥に、何かが揺れたように見えた。
恐怖でそう感じただけかもしれない。
だが、次の瞬間、魔物はリシアから進路を変え、レイへ向かって突っ込んできた。
足元の縄が張り詰める。
前脚が引っかかり、巨体が大きく傾いた。
縄はすぐに切れたが、勢いを失った魔物は地面へ肩を打ちつけ、土を巻き上げた。
レイも反動で転んだ。
右肩から地面へ落ち、傷口が裂ける感覚があった。
視界が白く弾け、呼吸が止まる。
立とうとしても腕に力が入らず、膝だけが泥を掻いた。
目の前で魔物が起き上がる。
折れた突起から黒い液が垂れ、前脚の爪が地面を引っ掻いた。
逃げられない。
「レイさん!」
遠くでリシアの声がした。
振り向くと、彼女は丘へ向かう道の途中で立ち止まっていた。
戻ってこようとしている。
「来るな!」
喉が裂けそうな声が出た。
「そのまま行って! みんなと一緒に!」
彼女は動かなかった。
恐怖のせいか、迷いのせいかは分からない。
ただ、ここで彼女が引き返せば、今までのすべてが無駄になる。
「お願いだ……生きてくれ!」
声が震えた。
魔物の影が覆いかぶさる。
もう避けられないと思った、そのときだった。
ぱらり。
紙をめくる音がした。
*
風に舞った土埃の一部が、空中で止まっていた。
落ちかけた木片が宙に留まり、魔物の肩から飛び散った黒い雫が、丸い形のまま動かない。
だが、魔物の前脚は動いている。
リシアも、丘へ逃げる村人たちも、止まっていない。
広場で見たのと同じだった。
時間が止まったのではない。
世界の一部分だけが、何かに留められている。
魔物の爪が目の前まで迫る。
レイは動かない右腕を庇い、残った力で身体を横へ転がした。
爪が地面へ突き刺さり、泥が跳ねる。
その瞬間、空中に留まっていた雫が一斉に落ちた。
木片が地面を打ち、土埃が風に流される。
何もなかったかのように、世界は再び同じ速さで動き始めた。
「レイ!」
ガルドが駆け寄り、襟元を掴んで引きずった。
すぐそばで槍を持った男たちが魔物を牽制し、別の方向からトルムの怒鳴り声が響く。
「堰を開けるぞ! 下がれ!」
水路の上流から、水が勢いよく流れ込んできた。
排水溝へ落ちるはずの水が、壊れた荷車の木片にぶつかり、泥を巻き上げながら畑の縁へ広がる。
魔物は濡れた地面で足を滑らせ、前脚を取られた。
槍を持った男たちはその隙に後退し、丘へ続く道を駆け上がる。
レイはガルドに支えられながら、最後に倉庫を振り返った。
魔物たちは水路の向こうに留まり、こちらを追ってこない。
そのうちの一頭が、しばらく丘の上を見つめていた。
何を見ているのかは、もう確かめようがなかった。
*
丘の上には、避難してきた人々が身を寄せ合っていた。
負傷者は数人いたが、見渡す限り、動ける者は全員そこにいた。
村長が人数を数え、足りない者の名を何度も呼んでいる。
「最後の荷車に乗っていた婆さんは?」
「こっちだ! 怪我はしてない!」
「治療所の先生は?」
「いるぞ。今、傷を診てる!」
そのやり取りを聞きながら、レイは地面に座り込んだ。
肩から流れた血が袖を濡らし、脇腹の痛みで視界が暗くなる。
それでも、リシアの姿を探さずにはいられなかった。
彼女は少し離れた場所で、子どもの手を握っていた。
薬箱は持っていない。
髪には泥がつき、膝のあたりも擦り切れている。
けれど、立っている。
息をしている。
それだけを確かめると、身体から力が抜けた。
「馬鹿者が!」
治療所の老人が駆け寄ってきた。
怒鳴る声の奥に、隠しきれない震えがあった。
「また傷を開きおって。どうして言うことを聞かん!」
「……すみません」
「謝る元気があるなら、黙って寝てろ」
老人は傷口を押さえ、手早く包帯を巻き直した。
ガルドが水を運び、トルムが清潔な布を持ってくる。
誰が何をしたか、まだ誰も整理できていない。
ただ、生き延びた者たちが、次に必要なことを考えて動いていた。
やがて、リシアが近づいてきた。
「大丈夫ですか」
「……なんとか」
「無茶をしたって聞きました」
その声には、怒りよりも深い疲れがあった。
レイは彼女の顔を見上げる。
「リシアは、怪我をしてない?」
「少し擦りむいただけです」
「よかった」
彼女は唇を結び、しばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「あなたが助けてくれたんですね」
「みんなが助けてくれたんだよ」
「それでも……ありがとうございました」
その言葉を、どれほど長く覚えていてくれるだろう。
今ならまだ、自分が誰なのかを知っている。
しかし明日には、荷車を動かしたのも、魔物の足を止めたのも、別の誰かの功績になっているかもしれない。
不意に、寂しさが込み上げた。
何度経験しても、慣れることはない。
「……どうして、そんなに無理をするんですか」
リシアが尋ねた。
答えは簡単ではなかった。
この世界へ来た理由も、自分だけが忘れられる理由も、何一つ分かっていない。
誰かを救うことで別の誰かが傷つくのなら、手を伸ばすこと自体が間違いなのかもしれない。
けれど、目の前で命が失われようとしたとき、見捨てることを正しい選択だとは思えなかった。
「……助かってほしかったから」
ようやく、それだけを答えた。
リシアは目を伏せ、やがて静かに頷いた。
*
夕方、西の街道から救援が到着した。
近隣の集落の兵と荷車が丘の麓へ入り、負傷者と子どもから順に移送する準備が始まる。
魔物がまだ森にいるため、村へ戻れる見通しは立たなかったが、少なくとも今夜、倉庫の薄い壁に身を寄せて眠る必要はなくなった。
レイは担架の上で、その様子を見ていた。
ガルドが兵たちに避難の経緯を説明している。
「南の橋を外したのはトルムだ。荷車で道を塞いだのは……そうだな、鍛冶屋の息子だったか」
「指示を出した者は?」
「村長だろう。いや、ほかにも誰かいたような……」
ガルドは考え込み、結局、首を振った。
「とにかく、みんなでやったんだ」
兵は頷き、手帳へ何かを書きつけた。
レイの名は呼ばれなかった。
胸に小さな穴が開くような感覚があった。
命が助かったのなら、それでいい。
そう思いたい気持ちは本物だった。
けれど、誰にも覚えられないことが苦しくないわけではない。
その二つを無理に一つへまとめる必要はなかった。
日が傾くころ、リシアが担架のそばへ来た。
「これ、よかったら」
差し出されたのは、小さな白い花だった。
畑の端に咲いていたものらしく、茎にはまだ土が少しついている。
「どうして花を?」
「……分かりません。持ってきたら、誰かに渡したくなって」
彼女は少し困ったように笑った。
「あなた、どこかで会ったことがある気がするんです。でも、思い出せなくて」
レイは花を受け取った。
指先に触れた茎は細く、折れてしまいそうなほど柔らかかった。
「前にも、話したことがあるよ」
「そうなんですね。ごめんなさい、忘れてしまって」
「謝らなくていい」
彼女の目には、まだ何かを思い出そうとする色があった。
だが、それが記憶へつながることはなかった。
少なくとも今は、そうだった。
「あなたの名前を、聞いてもいいですか」
「……レイ」
「レイさん」
彼女はその名を、確かめるように口にした。
「今日は、本当にありがとうございました」
その言葉は、初めて会う相手への礼のように聞こえた。
けれど、受け取った花の重さは確かだった。
「……それでいい」
喉の奥が熱くなった。
「生きていてくれれば」
リシアは不思議そうに瞬きをしたあと、柔らかく微笑んだ。
救援の兵に呼ばれ、彼女は担架から離れていく。
その背中を見送りながら、レイは白い花を日記の間へ挟んだ。
名を残せなくても、守れたものはある。
そう信じたい。
だが、灰色の男が告げた言葉は、まだ答えを持たないままだった。
『お前が救った命は、まだ救われていない』
今日の出来事が終わりなのか、それとも始まりにすぎないのか。
今は分からない。
それでも、俺は。
誰かが目の前で助けを求めたなら、きっとまた手を伸ばすのだろう。
たとえ、その選択の先に何が待っているのか分からなくても。
*
王都の北端には、夜になっても灯りの消えない書庫があった。
高い窓は外から厚い石壁に隠され、扉には王家の紋章も、管理者の名も記されていない。
棚の間を歩く女の足音だけが、静かな室内へ小さく響いていた。
エレノアは机の上の古い書物を開いた。
紙は黄ばんでいるのに、そこに並ぶ文字はつい先ほど書かれたように黒い。
一つの頁に、村の名が浮かび上がっていた。
その下には、見覚えのない記号と、数字が続いている。
彼女は指先を止めた。
「……そんなはずは」
頁の隅にあった空白が、音もなく埋まっていく。
誰も筆を持っていない。
それでも、文字は一つずつ現れ、やがて短い一文を形作った。
『第零記述、活動を確認。世界修復率、九十九・七パーセント。』
エレノアはその文字を見つめたまま、長く息を吐いた。
恐れていた知らせを受け取った者のように、表情から血の気が引いている。
「また、始まってしまったのね」
窓の外では、王都の鐘が夜を告げていた。
書庫の奥に積まれた、誰にも開かれていない書物の一冊が、かすかに震えた。