世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
翌朝、救援の兵が置いていった地図には、村を囲むように赤い印が増えていた。
北門、東の畑、鐘楼、南の水車。
昨夜のうちに集められた証言をもとに、魔物が目撃された場所を書き込んだものらしい。
一つ一つを眺めるだけなら、逃げ惑う獣の足取りにも見える。
だが、線で結ぶと、村の中心へ向かう道と、川沿いを南へ下る道とが、不自然に重なっていた。
「お前が、レイか」
背後から声をかけられ、地図から目を離した。
紺色の外套を着た兵が、倉庫の入口に立っている。
左の頬に古い傷のある、昨日話した男だった。
「はい。昨日、話を聞いてくださった方ですよね」
「……そうだったか」
男は眉を寄せた。
こちらの顔を見てから、手にした帳面へ視線を落とす。
「今朝、俺の手帳にお前の名前があった。森で魔物に遭った旅人、と書いてある。だが、書いた場面が思い出せない」
「昨日の夕方です。村の被害を調べていたところへ、こちらから声をかけました」
「そうか」
男は納得したというより、事実を一つ受け取ったように頷いた。
忘却について何も知らない相手なら、疲労のせいだと思うだろう。
実際、救援の兵たちは到着してからほとんど眠っていない。
その説明で片づけることもできた。
「名前が残っていたんですね」
「残っている。字も俺のものだ。問題は、書いた覚えがないことだな」
男は手帳を閉じた。
「俺はベルク。近隣の守備隊から来た。お前の話を聞かせてくれ」
*
聞き取りは水車小屋の一角で行われた。
トルムが貸した作業台に地図を広げ、ベルクが向かいに座る。
傷の具合を確かめるようにこちらを一度見たあと、彼は筆を取った。
「森で襲われたのは、いつだ」
レイは日付を答え、リシアが魔物に追われていたこと、逃げ道を探していたこと、自分も負傷したことを順に話した。
できる限り、見たものと考えたことを分けて伝える。
彼女が本来死ぬはずだった、という確証のない言葉は口にしなかった。
そのとき何が起きるはずだったのかを知っている者など、まだ誰もいないのだから。
「お前が彼女を連れて逃げたのか」
「そうです。ただ、途中から記憶が曖昧なところもあります」
「魔物を倒したわけではない?」
「倒していません。逃げ延びただけです」
ベルクは筆を止めた。
「昨日の村長の報告では、娘は森で誰かに救われたことを覚えている。だが、助けた者の名も顔も分からないそうだ」
「聞きました」
「今、お前はその本人だと言っている」
「はい」
「証明できるか」
当然の問いだった。
森で受けた傷は残っている。
しかし、魔物に襲われた者なら似た傷を負うこともある。
リシアは救助されたことを覚えていても、その相手を思い出せない。
「傷の場所と、逃げた道なら話せます。日記にも書いてあります」
「見せてもらえるか」
日記を開き、森での出来事を記した頁を示した。
ベルクは読み進め、何度か地図へ目を移す。
記述には日付があり、村で最初に伝えられた証言と一致する場所もあった。
それでも、本人が書いたというだけでは、十分な裏づけにならない。
「よく記録しているな」
「忘れたくないことが多いので」
思わず出た答えに、ベルクは顔を上げた。
「忘れたくない、か」
彼はその言葉を繰り返しただけで、深くは追及しなかった。
「この日、森でほかの人間を見たか」
「魔物に襲われていた女性以外には、はっきりとは」
「鐘の音は?」
「森で紙をめくるような音を聞きました。ただ、鐘とは違います」
「紙?」
ベルクの筆先が止まった。
「ぱらり、と。一枚だけめくるような音です」
「風で何かが動いたのかもしれん」
「その可能性はあります」
断定を避けると、彼は少しだけ表情を緩めた。
奇妙な証言をする人間が、何もかも超常のせいにするわけではないと分かったからだろう。
「もう一つ、聞きたい」
ベルクは地図の端を押さえた。
「襲われた娘は、魔物から逃げている間、どちらへ向かっていた」
「森の南側です。村へ戻ろうとしていたように見えました」
「魔物は?」
「彼女を追っていました。少なくとも、こちらが見た範囲では」
彼はその答えを書き留め、しばらく考え込んだ。
「今回の襲撃でも、南へ移動した個体がいる。偶然かもしれんが、同じ特徴を持つ魔物が、同じ辺りで繰り返し現れている」
「それで、以前の被害を調べているんですね」
「ああ。何を追っていたかが分かれば、次に現れる場所を予測できるかもしれない」
ベルクの関心は、村を守るためのものだった。
少なくとも今は、そう見えた。
それがかえって、話すべきことを慎重に選ばせた。
証拠のない疑いでリシアを危険な存在として扱わせたくはない。
*
昼近く、ガルドが作業小屋へ駆け込んできた。
「北の見張りが戻った。昨日見つかった獣の死骸のそばに、妙な足跡があるそうだ」
「魔物のものか」
ベルクが立ち上がる。
「たぶんな。ただ、そこから先が変なんだと」
「どう変なんですか」
「森へ続く足跡が途中で折れて、また村のほうへ戻ってる。見張りは同じ場所を何度も通った跡だと言ってる」
森の入口は、襲撃のあとも警戒が続いている場所だった。
同じ個体が行き来しただけかもしれない。
だが、ベルクはすぐに兵を二人呼び、現場へ向かう支度を始めた。
「お前は休んでいろ」
彼にそう言われ、レイは素直に頷いた。
今の身体では、森へ同行しても足手まといになる。
代わりに、昨日までに見聞きした足取りを日記へ写し直すことにした。
ガルドは戸口で振り返った。
「お前、あの兵と知り合いだったか」
「昨日から少し話しています」
「そうか。俺も今朝、話した気がするんだが……何の話だったかな」
彼は頭を掻き、気まずそうに笑った。
「忙しすぎて、頭が回らん」
「仕方ないですよ」
忘却は、いつも決定的な瞬間に起きるわけではない。
こうして疲労や混乱に紛れ、少しずつ日常へ溶け込んでいく。
それを知っているのは、今のところ自分だけだった。
*
午後、リシアが治療用の水を運んできた。
彼女は倉庫の隅に座るレイを見つけると、軽く会釈した。
「具合はいかがですか」
「昨日よりはましだよ」
「それならよかったです。先生が、今日は歩き回らせるなって」
「厳しいな」
「当然です」
返事はきっぱりしていたが、口元にはわずかな笑みがあった。
彼女は器を置き、傷の包帯を確かめる。
「兵士さんに、森のことを話したんですか」
「うん。覚えている範囲で」
「……怖くありませんでしたか」
「何が?」
「思い出すことが」
リシアは指先を止めた。
「私、森のことを聞かれるたび、少しずつ違う答えをしている気がするんです。怖かったことも、逃げた道も覚えているのに、肝心なところだけ、どうしても繋がらなくて」
彼女が不安に感じているのは、記憶の欠落そのものだった。
こちらの名を思い出せないことだけではない。
「無理に思い出さなくてもいいと思う」
「でも、助けてくれた人に申し訳なくて」
「その人は、君が生きていることを喜ぶんじゃないかな」
リシアは少し考え、静かに頷いた。
「そうだと、いいんですけど」
彼女は包帯を結び直し、器を持って立ち上がった。
「それと、お願いがあります」
「何?」
「兵士さんたちが、村の北に薬草を採りに行くのを止めているんです。でも、熱を下げる薬が足りません。村長に相談して、護衛をつけてもらおうと思っています」
危険だからやめろ、と言いかけた。
しかし、倉庫の奥には熱で苦しむ人々がいる。
彼女はその現実を見て、自分にできることを考えているのだ。
「北じゃないと採れないの?」
「川向こうの湿地にも、少しだけあります。ただ、昨日の騒ぎで道がぬかるんでいて」
「トルムさんなら、水車の裏から回る道を知ってる。まずそっちを確かめてもらったらどうかな」
リシアの表情が明るくなった。
「そうですね。危ない場所へ行く前に、ほかの道を探せます」
「僕は行けないけど、場所を聞くくらいなら手伝える」
「十分です。ありがとうございます」
彼女は足早に出ていった。
守るという言葉が、相手の行動を止めることと同じになってはいけない。
その背中を見送りながら、改めてそう思った。
*
ベルクが戻ったのは、日が西へ傾いてからだった。
靴は泥に汚れ、外套の裾には枯れ葉が絡んでいる。
彼は作業台へ地図を広げ、村長と数人の見張りを呼んだ。
「足跡は三つの方向へ分かれていた。だが、北の林で一度重なっている」
「群れで動いていたということか」
「可能性はある。ただ、同じ個体が何度も通っただけかもしれん」
ベルクは印をつけた場所を指でなぞった。
「気になるのは、こちらだ。死骸のあった場所から南へ向かった跡がある。川沿いを通って、ちょうど避難所の対岸まで続いていた」
ガルドが息を呑む。
「昨日の夜明け前に、見張りが影を見た場所だ」
「そうだ。だが、その先は石が多く、追えなかった」
レイは地図を見つめた。
川沿いを南下したというだけなら、飲み水を求めた可能性もある。
だが、あの夜、魔物が避難所を見つめていた光景が重なり、胸の奥に冷たい感覚が戻ってきた。
「もう一つある」
ベルクは帳面を開いた。
「見張りの一人が、北の林で人を見たと言っている。灰色の外套を着た男だそうだ」
思わず顔を上げた。
「その人は、何をしていたんですか」
「分からん。見張りが声をかけたときには、木の陰へ入っていた。追いかけたが見失ったそうだ」
灰色の男。
森で名を呼び、リシアへ近づくなと告げた人物が頭に浮かぶ。
しかし、同じ外套を着た人間など珍しくない。
見張りの話だけで、同一人物と決めるわけにはいかなかった。
「その見張りと話せますか」
「今は休ませている。明日なら」
ベルクは答えたあと、レイの顔をじっと見た。
「心当たりがあるのか」
「以前、森で灰色の外套の人を見たことがあります」
「知り合いか」
「いいえ。名前も分かりません」
嘘ではなかった。
ただ、話せていないことがある。
その男はレイの名を知っていた。
そして、日記に書き写した警告についても知っていた。
今ここでそれを口にすれば、ベルクは当然、日記の別の頁も調べようとするだろう。
何を隠すべきか判断できないまま、すべてを明かすのは危険に思えた。
「明日、見張りに確かめてみる」
ベルクはそれ以上追及せず、地図を畳んだ。
*
その夜、救援の兵たちは村へ戻る道を見張り、倉庫の外では小さな焚き火が燃えていた。
レイは寝床に腰を下ろし、日記を開いた。
ベルクとの聞き取り、魔物の足跡、灰色の外套の目撃。
順に書き留めていくうちに、一つの疑問が浮かんだ。
ベルクは、今朝こちらの名前を手帳で見つけたと言った。
記録は残っているのに、書いた記憶がない。
宿帳から名前が消えたときとは、違う現象だった。
自分の存在が忘れられることと、文字が消えることは、いつも同じ形で起きるわけではない。
『記録が残る場合と、消える場合がある』
そう書いてから、少し考えた。
日記に残した文字が消えなかったことも、宿帳の名が失われたことも、事実だ。
だが、その違いが紙の種類によるのか、書いた人間によるのか、あるいは別の理由なのかは分からない。
『条件は不明。次に確認できる機会があれば、同じ記録を複数人で比べる』
筆を置いたとき、倉庫の入口が開いた。
ベルクが顔を覗かせている。
「レイ。少しいいか」
「どうしました」
「今日の聞き取りをまとめていたんだが、妙なことがあってな」
彼は手帳を差し出した。
そこには、朝のうちに書いたらしい日付と、森での襲撃についての記述が並んでいた。
リシアを救ったという証言も、負傷した場所も、読める。
ただ、一行だけが奇妙だった。
『証言者――』
その先が空いている。
紙が破れているわけでも、墨が滲んでいるわけでもない。
初めから名前を書く場所だけが残されていたように見えた。
「俺はここに、お前の名を書いたはずなんだ」
ベルクは低い声で言った。
「今朝の手帳には、確かにレイとあった。だが、今日の聞き取りの頁だけ、名がない」
「……ほかの記録は?」
「内容は残っている。お前と話したことも、今は覚えている」
レイは頁を見つめた。
名前のない証言。
そこに残る言葉だけが、誰のものでもないように置かれている。
「消えたところを見たんですか」
「いや。気づいたら空白だった」
ベルクは首を振った。
「疲れのせいで書き忘れたのかもしれん。だが、今朝も似たことがあった。偶然だとしても、二度続けば気になる」
彼は手帳を引き戻すと、空白の上にもう一度『レイ』と書いた。
筆跡を確かめ、頁を閉じずにこちらへ見せる。
「明日も残っているか、確かめたい。お前も覚えていてくれ」
「分かりました」
ベルクは頷いたが、表情は晴れなかった。
彼が出ていったあとも、紙の上に残された名前の形が、目の奥から消えなかった。
日記を開き直し、最後に一行を加えた。
『ベルクは、消えた名前に気づいた』
今まで、自分の忘却に違和感を抱いた者はいた。
だが、記録を手がかりに異常を追いかけようとする人間と、こうして話したことはなかった。
その事実が希望なのか、新たな危険の始まりなのか、まだ分からない。
外で風が吹き、倉庫の壁が小さく軋んだ。
耳を澄ませたが、紙をめくる音はしなかった。
ただ、焚き火の爆ぜる音が、静かな夜に続いていた。