世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第22話 消えた証言者

翌朝、救援の兵が置いていった地図には、村を囲むように赤い印が増えていた。

北門、東の畑、鐘楼、南の水車。

昨夜のうちに集められた証言をもとに、魔物が目撃された場所を書き込んだものらしい。

一つ一つを眺めるだけなら、逃げ惑う獣の足取りにも見える。

だが、線で結ぶと、村の中心へ向かう道と、川沿いを南へ下る道とが、不自然に重なっていた。

 

「お前が、レイか」

 

背後から声をかけられ、地図から目を離した。

紺色の外套を着た兵が、倉庫の入口に立っている。

左の頬に古い傷のある、昨日話した男だった。

 

「はい。昨日、話を聞いてくださった方ですよね」

「……そうだったか」

 

男は眉を寄せた。

こちらの顔を見てから、手にした帳面へ視線を落とす。

 

「今朝、俺の手帳にお前の名前があった。森で魔物に遭った旅人、と書いてある。だが、書いた場面が思い出せない」

「昨日の夕方です。村の被害を調べていたところへ、こちらから声をかけました」

「そうか」

 

男は納得したというより、事実を一つ受け取ったように頷いた。

忘却について何も知らない相手なら、疲労のせいだと思うだろう。

実際、救援の兵たちは到着してからほとんど眠っていない。

その説明で片づけることもできた。

 

「名前が残っていたんですね」

「残っている。字も俺のものだ。問題は、書いた覚えがないことだな」

 

男は手帳を閉じた。

 

「俺はベルク。近隣の守備隊から来た。お前の話を聞かせてくれ」

 

*

 

聞き取りは水車小屋の一角で行われた。

トルムが貸した作業台に地図を広げ、ベルクが向かいに座る。

傷の具合を確かめるようにこちらを一度見たあと、彼は筆を取った。

 

「森で襲われたのは、いつだ」

 

レイは日付を答え、リシアが魔物に追われていたこと、逃げ道を探していたこと、自分も負傷したことを順に話した。

できる限り、見たものと考えたことを分けて伝える。

彼女が本来死ぬはずだった、という確証のない言葉は口にしなかった。

そのとき何が起きるはずだったのかを知っている者など、まだ誰もいないのだから。

 

「お前が彼女を連れて逃げたのか」

「そうです。ただ、途中から記憶が曖昧なところもあります」

「魔物を倒したわけではない?」

「倒していません。逃げ延びただけです」

 

ベルクは筆を止めた。

 

「昨日の村長の報告では、娘は森で誰かに救われたことを覚えている。だが、助けた者の名も顔も分からないそうだ」

「聞きました」

「今、お前はその本人だと言っている」

「はい」

「証明できるか」

 

当然の問いだった。

森で受けた傷は残っている。

しかし、魔物に襲われた者なら似た傷を負うこともある。

リシアは救助されたことを覚えていても、その相手を思い出せない。

 

「傷の場所と、逃げた道なら話せます。日記にも書いてあります」

「見せてもらえるか」

 

日記を開き、森での出来事を記した頁を示した。

ベルクは読み進め、何度か地図へ目を移す。

記述には日付があり、村で最初に伝えられた証言と一致する場所もあった。

それでも、本人が書いたというだけでは、十分な裏づけにならない。

 

「よく記録しているな」

「忘れたくないことが多いので」

 

思わず出た答えに、ベルクは顔を上げた。

 

「忘れたくない、か」

 

彼はその言葉を繰り返しただけで、深くは追及しなかった。

 

「この日、森でほかの人間を見たか」

「魔物に襲われていた女性以外には、はっきりとは」

「鐘の音は?」

「森で紙をめくるような音を聞きました。ただ、鐘とは違います」

「紙?」

 

ベルクの筆先が止まった。

 

「ぱらり、と。一枚だけめくるような音です」

「風で何かが動いたのかもしれん」

「その可能性はあります」

 

断定を避けると、彼は少しだけ表情を緩めた。

奇妙な証言をする人間が、何もかも超常のせいにするわけではないと分かったからだろう。

 

「もう一つ、聞きたい」

 

ベルクは地図の端を押さえた。

 

「襲われた娘は、魔物から逃げている間、どちらへ向かっていた」

「森の南側です。村へ戻ろうとしていたように見えました」

「魔物は?」

「彼女を追っていました。少なくとも、こちらが見た範囲では」

 

彼はその答えを書き留め、しばらく考え込んだ。

 

「今回の襲撃でも、南へ移動した個体がいる。偶然かもしれんが、同じ特徴を持つ魔物が、同じ辺りで繰り返し現れている」

「それで、以前の被害を調べているんですね」

「ああ。何を追っていたかが分かれば、次に現れる場所を予測できるかもしれない」

 

ベルクの関心は、村を守るためのものだった。

少なくとも今は、そう見えた。

それがかえって、話すべきことを慎重に選ばせた。

証拠のない疑いでリシアを危険な存在として扱わせたくはない。

 

*

 

昼近く、ガルドが作業小屋へ駆け込んできた。

 

「北の見張りが戻った。昨日見つかった獣の死骸のそばに、妙な足跡があるそうだ」

「魔物のものか」

 

ベルクが立ち上がる。

 

「たぶんな。ただ、そこから先が変なんだと」

「どう変なんですか」

「森へ続く足跡が途中で折れて、また村のほうへ戻ってる。見張りは同じ場所を何度も通った跡だと言ってる」

 

森の入口は、襲撃のあとも警戒が続いている場所だった。

同じ個体が行き来しただけかもしれない。

だが、ベルクはすぐに兵を二人呼び、現場へ向かう支度を始めた。

 

「お前は休んでいろ」

 

彼にそう言われ、レイは素直に頷いた。

今の身体では、森へ同行しても足手まといになる。

代わりに、昨日までに見聞きした足取りを日記へ写し直すことにした。

 

ガルドは戸口で振り返った。

 

「お前、あの兵と知り合いだったか」

「昨日から少し話しています」

「そうか。俺も今朝、話した気がするんだが……何の話だったかな」

 

彼は頭を掻き、気まずそうに笑った。

 

「忙しすぎて、頭が回らん」

「仕方ないですよ」

 

忘却は、いつも決定的な瞬間に起きるわけではない。

こうして疲労や混乱に紛れ、少しずつ日常へ溶け込んでいく。

それを知っているのは、今のところ自分だけだった。

 

*

 

午後、リシアが治療用の水を運んできた。

彼女は倉庫の隅に座るレイを見つけると、軽く会釈した。

 

「具合はいかがですか」

「昨日よりはましだよ」

「それならよかったです。先生が、今日は歩き回らせるなって」

「厳しいな」

「当然です」

 

返事はきっぱりしていたが、口元にはわずかな笑みがあった。

彼女は器を置き、傷の包帯を確かめる。

 

「兵士さんに、森のことを話したんですか」

「うん。覚えている範囲で」

「……怖くありませんでしたか」

「何が?」

「思い出すことが」

 

リシアは指先を止めた。

 

「私、森のことを聞かれるたび、少しずつ違う答えをしている気がするんです。怖かったことも、逃げた道も覚えているのに、肝心なところだけ、どうしても繋がらなくて」

 

彼女が不安に感じているのは、記憶の欠落そのものだった。

こちらの名を思い出せないことだけではない。

 

「無理に思い出さなくてもいいと思う」

「でも、助けてくれた人に申し訳なくて」

「その人は、君が生きていることを喜ぶんじゃないかな」

 

リシアは少し考え、静かに頷いた。

 

「そうだと、いいんですけど」

 

彼女は包帯を結び直し、器を持って立ち上がった。

 

「それと、お願いがあります」

「何?」

「兵士さんたちが、村の北に薬草を採りに行くのを止めているんです。でも、熱を下げる薬が足りません。村長に相談して、護衛をつけてもらおうと思っています」

 

危険だからやめろ、と言いかけた。

しかし、倉庫の奥には熱で苦しむ人々がいる。

彼女はその現実を見て、自分にできることを考えているのだ。

 

「北じゃないと採れないの?」

「川向こうの湿地にも、少しだけあります。ただ、昨日の騒ぎで道がぬかるんでいて」

「トルムさんなら、水車の裏から回る道を知ってる。まずそっちを確かめてもらったらどうかな」

 

リシアの表情が明るくなった。

 

「そうですね。危ない場所へ行く前に、ほかの道を探せます」

「僕は行けないけど、場所を聞くくらいなら手伝える」

「十分です。ありがとうございます」

 

彼女は足早に出ていった。

守るという言葉が、相手の行動を止めることと同じになってはいけない。

その背中を見送りながら、改めてそう思った。

 

*

 

ベルクが戻ったのは、日が西へ傾いてからだった。

靴は泥に汚れ、外套の裾には枯れ葉が絡んでいる。

彼は作業台へ地図を広げ、村長と数人の見張りを呼んだ。

 

「足跡は三つの方向へ分かれていた。だが、北の林で一度重なっている」

「群れで動いていたということか」

「可能性はある。ただ、同じ個体が何度も通っただけかもしれん」

 

ベルクは印をつけた場所を指でなぞった。

 

「気になるのは、こちらだ。死骸のあった場所から南へ向かった跡がある。川沿いを通って、ちょうど避難所の対岸まで続いていた」

 

ガルドが息を呑む。

 

「昨日の夜明け前に、見張りが影を見た場所だ」

「そうだ。だが、その先は石が多く、追えなかった」

 

レイは地図を見つめた。

川沿いを南下したというだけなら、飲み水を求めた可能性もある。

だが、あの夜、魔物が避難所を見つめていた光景が重なり、胸の奥に冷たい感覚が戻ってきた。

 

「もう一つある」

 

ベルクは帳面を開いた。

 

「見張りの一人が、北の林で人を見たと言っている。灰色の外套を着た男だそうだ」

 

思わず顔を上げた。

 

「その人は、何をしていたんですか」

「分からん。見張りが声をかけたときには、木の陰へ入っていた。追いかけたが見失ったそうだ」

 

灰色の男。

森で名を呼び、リシアへ近づくなと告げた人物が頭に浮かぶ。

しかし、同じ外套を着た人間など珍しくない。

見張りの話だけで、同一人物と決めるわけにはいかなかった。

 

「その見張りと話せますか」

「今は休ませている。明日なら」

 

ベルクは答えたあと、レイの顔をじっと見た。

 

「心当たりがあるのか」

「以前、森で灰色の外套の人を見たことがあります」

「知り合いか」

「いいえ。名前も分かりません」

 

嘘ではなかった。

ただ、話せていないことがある。

その男はレイの名を知っていた。

そして、日記に書き写した警告についても知っていた。

今ここでそれを口にすれば、ベルクは当然、日記の別の頁も調べようとするだろう。

何を隠すべきか判断できないまま、すべてを明かすのは危険に思えた。

 

「明日、見張りに確かめてみる」

 

ベルクはそれ以上追及せず、地図を畳んだ。

 

*

 

その夜、救援の兵たちは村へ戻る道を見張り、倉庫の外では小さな焚き火が燃えていた。

レイは寝床に腰を下ろし、日記を開いた。

ベルクとの聞き取り、魔物の足跡、灰色の外套の目撃。

順に書き留めていくうちに、一つの疑問が浮かんだ。

 

ベルクは、今朝こちらの名前を手帳で見つけたと言った。

記録は残っているのに、書いた記憶がない。

宿帳から名前が消えたときとは、違う現象だった。

自分の存在が忘れられることと、文字が消えることは、いつも同じ形で起きるわけではない。

 

『記録が残る場合と、消える場合がある』

 

そう書いてから、少し考えた。

日記に残した文字が消えなかったことも、宿帳の名が失われたことも、事実だ。

だが、その違いが紙の種類によるのか、書いた人間によるのか、あるいは別の理由なのかは分からない。

 

『条件は不明。次に確認できる機会があれば、同じ記録を複数人で比べる』

 

筆を置いたとき、倉庫の入口が開いた。

ベルクが顔を覗かせている。

 

「レイ。少しいいか」

「どうしました」

「今日の聞き取りをまとめていたんだが、妙なことがあってな」

 

彼は手帳を差し出した。

そこには、朝のうちに書いたらしい日付と、森での襲撃についての記述が並んでいた。

リシアを救ったという証言も、負傷した場所も、読める。

ただ、一行だけが奇妙だった。

 

『証言者――』

 

その先が空いている。

紙が破れているわけでも、墨が滲んでいるわけでもない。

初めから名前を書く場所だけが残されていたように見えた。

 

「俺はここに、お前の名を書いたはずなんだ」

 

ベルクは低い声で言った。

 

「今朝の手帳には、確かにレイとあった。だが、今日の聞き取りの頁だけ、名がない」

「……ほかの記録は?」

「内容は残っている。お前と話したことも、今は覚えている」

 

レイは頁を見つめた。

名前のない証言。

そこに残る言葉だけが、誰のものでもないように置かれている。

 

「消えたところを見たんですか」

「いや。気づいたら空白だった」

 

ベルクは首を振った。

 

「疲れのせいで書き忘れたのかもしれん。だが、今朝も似たことがあった。偶然だとしても、二度続けば気になる」

 

彼は手帳を引き戻すと、空白の上にもう一度『レイ』と書いた。

筆跡を確かめ、頁を閉じずにこちらへ見せる。

 

「明日も残っているか、確かめたい。お前も覚えていてくれ」

「分かりました」

 

ベルクは頷いたが、表情は晴れなかった。

彼が出ていったあとも、紙の上に残された名前の形が、目の奥から消えなかった。

 

日記を開き直し、最後に一行を加えた。

 

『ベルクは、消えた名前に気づいた』

 

今まで、自分の忘却に違和感を抱いた者はいた。

だが、記録を手がかりに異常を追いかけようとする人間と、こうして話したことはなかった。

その事実が希望なのか、新たな危険の始まりなのか、まだ分からない。

 

外で風が吹き、倉庫の壁が小さく軋んだ。

耳を澄ませたが、紙をめくる音はしなかった。

ただ、焚き火の爆ぜる音が、静かな夜に続いていた。

 

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