世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
朝の光が差し込むころ、水車小屋の前には兵士たちの靴音が響いていた。
夜のうちに川の水位が少し上がったらしく、外された南の橋は岸辺に引き寄せられ、濡れた板を重ねたまま置かれている。
対岸では村人たちが倒れた柵を直していたが、誰も橋を戻そうとはしていなかった。
魔物の姿が消えても、渡れる道を増やすことが安全につながるとは限らない。
村はまだ、襲撃の続きにいる。
レイは倉庫の戸口で立ち止まり、肩をゆっくり回した。
痛みは昨日より鈍くなっているものの、腕を高く上げると傷の奥が引きつる。
治療所の老人には、今日も余計なことをするなと釘を刺されていた。
その言いつけを破るつもりはない。
ただ、ベルクが昨夜の手帳をどう扱ったのか、それだけは確かめておきたかった。
「起きていたか」
作業台のそばから声がした。
ベルクは湯気の立つ器を片手に、開いた帳面を見下ろしている。
昨日と同じ紺色の外套だったが、目の下の隈は一段と濃くなっていた。
「名前は残っていましたか」
「まずそれを聞くか」
苦笑しながら、彼は帳面をこちらへ向けた。
『証言者――レイ』
昨夜、空白の上に書き直した文字が、そのまま残っている。
「残っていますね」
「ああ。少なくとも今朝はな」
安堵するには早かった。
宿帳から消えた名と、今も読める自分の日記。
その間に何があるのか、まだ何も分かっていない。
「昨日、名前が消えた頁を見た人はほかにいますか」
「お前と俺だけだ。書き直したあとなら、夜番の兵にも見せた」
「その人は、何を見たか覚えていますか」
「呼んでこよう」
ベルクは戸口の兵へ声をかけた。
ほどなく、若い兵士が一人入ってくる。
短く刈った髪に、眠気を隠しきれない顔。
彼はベルクの前で背筋を伸ばした。
「昨夜、俺が見せた頁を覚えているか」
「はい。森で魔物に襲われた旅人の証言でした」
「名前は?」
「……レイ、だったと思います」
「その旅人を見たことは?」
「いいえ。昨夜は帳面だけです」
若い兵はレイを一瞥し、少し困ったように眉を寄せた。
知らない相手の名を紙で覚えていたところで、本人と結びつくとは限らない。
それだけなら、何の不思議もない。
「分かった。もういい」
兵が去ると、ベルクは帳面を閉じかけ、途中で手を止めた。
「昨夜、お前と話したことは覚えている。今朝、名前を確かめようと思ったこともな」
「それなら、しばらくは残るかもしれません」
「しばらく?」
問い返す声が鋭くなった。
レイは言葉を選ぶ。
これまでの出来事をすべて説明しても、信じてもらえるとは限らない。
だが、目の前で起きた異常を調べようとしている相手に、何も伝えずにいるのも不誠実だった。
「人によって、僕を覚えている時間が違うんです。会ったことを忘れる人もいれば、話の内容だけ覚えている人もいます」
「昔からか」
「この村へ来てから、はっきり分かるようになりました」
「病か、呪いか」
「分かりません」
ベルクは器を置き、しばらく黙っていた。
「昨日の話を聞いたあと、お前を詐欺師だと疑った。傷を利用して手柄を横取りする人間は、どこにでもいるからな」
「そう考えるのが普通だと思います」
「だが、帳面の空白は俺も見た。少なくとも、説明のつかないことがある」
彼は指で机を二度叩いた。
「なら、説明できる範囲を少しでも広げよう。危険な真似はしない。俺は調査のために、お前は自分のために記録を残す。それでどうだ」
「……お願いします」
その言葉が思いのほか胸に響いた。
忘れられることを前提にした約束でも、今は誰かと一緒に確かめられる。
それだけで、長く一人で抱えてきた疑問に、初めて別の手が添えられた気がした。
*
ベルクが用意したのは、同じ大きさに切った三枚の紙だった。
一枚は彼の帳面から破り取ったもの。
一枚は村長が使っている物資の控え。
最後の一枚は、トルムが倉庫の帳簿に挟んでいた余り紙だった。
「紙が違えば結果も変わるかもしれん」
「書く人も変えたいです」
「分かった。まずは俺が書く」
ベルクは三枚すべてに同じ文を書いた。
『本日、旅人レイから証言を受けた。』
筆跡は揃っている。
レイはそれぞれの紙を読み、日記に時刻と書き手を記した。
続いてベルクが若い兵を呼び、一枚だけ同じ文を書かせる。
兵士は事情を聞かされず、単なる筆写だと思っているようだった。
「最後に、お前が書け」
「僕の字は残ることが多いですが、それが理由かどうかは分かりません」
「だから試すんだ」
レイは日記の余白へ、同じ文を写した。
ただし、自分が証言を受けたわけではないため、主語の違いが誤解を生まないよう、下に『ベルクの記録を筆写』と付け加えた。
四つの記録は、いずれも問題なく読めた。
ベルクは紙を別々の封筒に入れ、封の上から日付を記す。
「これで消えなければ、昨日のことは書き忘れだった可能性も残るな」
「はい」
「消えたら?」
「何が消えたか、いつ気づいたかを確かめます」
その先のことは言えなかった。
消える瞬間を見られるとは限らないし、見られたとしても原因まで分かるとは限らない。
ただ、分からないことを分からないまま残すのも、記録の役目なのだと思う。
*
昼過ぎ、北の林を調べていた見張りが戻った。
灰色の外套を着た男を見たという、昨日の証言者だった。
名はユルクといい、ガルドより少し若い、痩せた男だった。
「声をかけたとき、男は何をしていましたか」
ベルクが尋ねると、ユルクは帽子を握り直した。
「木の根元にしゃがんでいました。何か拾っていたようにも見えましたが、遠くて」
「顔は?」
「見てません。振り向く前に木の向こうへ行っちまったんです」
「追ったのか」
「少しだけ。でも、足跡が分かれていて」
ユルクは地図の北側を指さした。
そこは、森から村へ下る細い獣道が二本に分かれる場所だった。
雨が降れば泥になるが、昨日は枯れ葉が積もっていたという。
「灰色の男の足跡だと分かるものはありましたか」
「いや。人間の靴跡はあったが、見張りの誰かが先に通ったかもしれん」
「男が消えたわけではないんですね」
「そういうことです」
レイは頷いた。
灰色の外套という共通点は気になる。
けれど、以前出会った男と同じ人物だと決めつける材料は、まだなかった。
「その人がいた場所には、何か残っていましたか」
「木の根元に、古い布切れが引っかかってたくらいです」
「布?」
「灰色じゃないぞ。茶色い、荷袋の端みたいなやつだ」
ユルクは懐から小さな包みを取り出した。
中には、泥の乾いた麻布が入っていた。
端がほつれ、何かを包んでいたらしい折り目がついている。
ベルクは布を広げ、裏側に目を凝らした。
「印があるな」
「村の商人のものですか」
「分からん。数字にも見える」
布の隅には、黒い染料で細い線が三本引かれていた。
その下に、かすれた丸い印。
どこかで見たような気がして、レイは記憶を探った。
ラウネの焼け跡で聞いた、魔石の入った箱の話。
だが、あの箱にどんな印があったかまでは聞いていない。
「ラウネの荷運びについて調べた記録はありますか」
「隣町の火事か」
ベルクが顔を上げた。
「焼け跡の調査書なら守備隊にあるはずだ。なぜだ」
「火事の前に、魔石の箱を動かしていた人を見たという話を聞きました。これが関係するかは分かりませんが」
「似た印を見たのか」
「いいえ。印については、何も知りません」
ベルクは布を包み直した。
「なら、関連は保留だ。調査書を取り寄せるだけならできる」
話が早すぎないことに、かえって安心した。
手がかりを一つ見つけるたび、すべてが同じ謎につながっているように思えてしまう。
けれど、世界は一つの物語のためだけに動いているわけではない。
そう信じたい気持ちも、まだ残っていた。
*
夕方、川向こうの湿地からリシアが戻った。
トルムに教えられた道を通り、二人の村人と一緒に薬草を採ってきたらしい。
籠には湿った葉が重なり、足元には泥が跳ねていた。
「北へ行かずに済んだんですね」
「はい。思ったより見つかりました。これなら数日は足ります」
彼女は籠を下ろし、手についた泥を水で洗った。
「ただ、湿地の端で変なものを見たんです」
「変なもの?」
「動物の足跡です。大きなものじゃなくて、小さな獣のものなんですけど、途中から何度も同じ場所を回っていて」
胸の奥に、昨日の地図が浮かんだ。
「同じ場所を?」
「はい。何かを避けていたのかもしれません。トルムさんは、泥が深いところを回っただけだろうって」
「その可能性はあるね」
「ええ。でも、妙に気になって」
リシアは手を拭き、少し迷うように続けた。
「私、森で襲われたときも、似たようなことを見た気がするんです。逃げている途中、獣が急に方向を変えたような……」
「思い出したの?」
「いいえ。はっきりとは。さっき足跡を見て、そんな気がしただけです」
レイは問いを重ねなかった。
失われた記憶を無理に引き出そうとすれば、曖昧な印象を確かな出来事として植えつけてしまうかもしれない。
彼女自身が確かめたいと思ったときに、話を聞けばいい。
「その場所を、あとで教えてもらえるかな」
「もちろんです。でも、今は行かないでくださいね」
「先生にも同じことを言われてる」
「それなら安心です」
彼女は笑い、薬草の籠を抱え直した。
その横顔を見ながら、レイは灰色の男の警告を思い返した。
近づくな、と言われた。
だが、距離を置けば安全になるという保証は、あの男自身が否定していた。
守るために離れることも、守るために傍にいることも、正解だとはまだ言えない。
今できるのは、彼女が見たものを、彼女自身の言葉として受け止めることだけだった。
*
日が落ちる前、ベルクが再び水車小屋へ現れた。
手には、朝に封をした紙が三枚ある。
どれも封は破れていなかった。
「一度、確かめておこうと思ってな」
作業台へ並べ、ベルクは自分で封を切った。
最初の紙には、朝と同じ文があった。
二枚目にも、同じ文字が並んでいる。
三枚目を開いたとき、彼の指が止まった。
『本日、旅人――から証言を受けた。』
名前の部分だけが、空いていた。
レイは息を呑み、すぐに封の上の日付を確かめた。
ベルクが書いた字は残っている。
本文も残っている。
消えているのは、名を置いたはずの場所だけだった。
「これも、俺が書いた」
ベルクの声が低くなる。
「三枚とも同じ文を書いた。お前も見ていたな」
「はい」
「封をしたのも俺だ。ほかの二枚には名がある」
彼は紙を裏返し、光へ透かした。
削った跡も、墨が滲んだ形跡も見えない。
何も書かれていなかったかのように、紙の繊維だけが透けていた。
「封をしたあとは、誰が持っていましたか」
「俺の荷物に入れていた。見張りの交代の間は、鍵のある箱にしまった」
「箱を開けた人は?」
「俺だけだ。……もっとも、今の俺が忘れているだけかもしれんが」
その言葉には、初めて明確な恐れが混じっていた。
「ほかの二枚は、どちらの紙ですか」
「一枚は俺の帳面の紙。もう一枚は村長の控えだ。消えたのはトルムの余り紙だった」
紙の種類が原因なのだろうか。
そう考えかけて、昨夜の手帳の空白を思い出した。
同じ紙でも残るときと消えるときがある。
今回の結果だけで、条件を決めることはできない。
「若い兵が書いた紙は?」
「別に保管してある。今朝の時点では残っていた。お前の日記は?」
「まだ確かめていません」
レイは日記を開き、朝に写した文を探した。
『本日、旅人レイから証言を受けた。』
その下の注記も含め、文字はすべて残っている。
ベルクはしばらく日記を見つめていた。
「お前の書いたものは、残りやすいのか」
「今のところは。ただ、必ず残るとは言えません」
「……厄介だな」
彼は空白の紙を机に置いたまま、椅子へ深く腰を下ろした。
「もし名前が消えるなら、証言をした人間を追えなくなる。人が話したことだけ残っても、確かめ直す相手がいなければ、調査は途中で止まる」
「はい」
「それが何度も起きれば、いつか誰も、最初から証言者などいなかったと思うだろう」
レイは答えられなかった。
その恐れは、これまで自分が何度も感じてきたものだった。
違うのは、今それを口にしているのが、忘れられる側ではないということだ。
ベルクは空白の頁を指で押さえた。
「俺は、調べたことを上へ報告しなきゃならん。だが、名前の消える証言者がいると書いて、誰が信じる?」
「信じてもらえないかもしれません」
「それでも、事実は事実だ」
彼は紙を畳まず、しばらく見つめていた。
「ただし、何が起きたかと、何が原因かは別だ。そこを間違えるわけにはいかん」
その慎重さに、レイは静かに頷いた。
自分の存在を消している何かがあるとしても、それが魔物を動かしているとは限らない。
ラウネの火事も、森の警告も、まだ一本の線では結べない。
結べないものを、無理につなぐべきではなかった。
*
夜、見張りの交代が済むころ、ベルクは小さな封筒を差し出した。
中には、名前の消えた紙の写しが入っている。
「これは?」
「俺の手で写した。空白もそのままにしてある。お前の日記と照らし合わせてくれ」
「原本は?」
「守備隊へ持ち帰る。報告書には、筆写の不一致があったとだけ書くつもりだ」
彼は少し言いにくそうに続けた。
「お前のことを詳しく書けば、面倒な連中が調べに来るかもしれん。俺には、それが安全だと言い切れない」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。まだ、何も守れていない」
ベルクは封筒を渡したあと、声を落とした。
「明日、ラウネの調査書を取り寄せる手続きをする。それと、灰色の男を見た場所も、もう一度調べる。お前は身体を治せ」
「はい」
「次に会ったとき、俺がお前を覚えていなかったら、今日のことを説明してくれ」
冗談めかした言い方だったが、目は笑っていなかった。
「そのときは、帳面を見せてください」
「そうする」
二人は短く頷き合った。
約束をしたという事実さえ、明日には薄れるかもしれない。
それでも、約束を交わすこと自体が無意味になるわけではなかった。
倉庫へ戻り、レイは日記を開いた。
今日の出来事を順に書き、最後に空白の紙について記した。
『同じ文を書いた三枚のうち、一枚だけ名前が消えた』
『消えたのはトルムの余り紙。紙の種類が原因かどうかは不明』
『ベルクは異常を認識し、記録を残そうとしている』
『原因と現象を混同しない』
書き終え、封筒を日記の間に挟んだ。
紙が重なる、乾いた音がした。
反射的に耳を澄ませたが、それは自分の手元から生まれた、ごく普通の音だった。
窓の外には、まだ修復されていない村の灯りが見える。
あの灯りの下では、誰かが失った家の片づけをし、誰かが怪我人のために湯を沸かしている。
一つの名前が消えることと、村が受けた傷が癒えることは、別の問題だった。
どちらも見失わないようにしたいと思った。
日記を閉じかけたとき、挟んだ封筒の端が少し覗いた。
その白さに、森で見た石碑の空白が重なる。
何かが消されたあとに残る余地。
そこに書かれていたはずのものを、今の自分はまだ知らない。
だが、今日初めて、空白を見て立ち止まった人間がいた。
そしてその人は、目を逸らさず、もう一度書こうとした。
それだけは、忘れたくなかった。