世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第23話 名を失う記録

朝の光が差し込むころ、水車小屋の前には兵士たちの靴音が響いていた。

夜のうちに川の水位が少し上がったらしく、外された南の橋は岸辺に引き寄せられ、濡れた板を重ねたまま置かれている。

対岸では村人たちが倒れた柵を直していたが、誰も橋を戻そうとはしていなかった。

魔物の姿が消えても、渡れる道を増やすことが安全につながるとは限らない。

村はまだ、襲撃の続きにいる。

 

レイは倉庫の戸口で立ち止まり、肩をゆっくり回した。

痛みは昨日より鈍くなっているものの、腕を高く上げると傷の奥が引きつる。

治療所の老人には、今日も余計なことをするなと釘を刺されていた。

その言いつけを破るつもりはない。

ただ、ベルクが昨夜の手帳をどう扱ったのか、それだけは確かめておきたかった。

 

「起きていたか」

 

作業台のそばから声がした。

ベルクは湯気の立つ器を片手に、開いた帳面を見下ろしている。

昨日と同じ紺色の外套だったが、目の下の隈は一段と濃くなっていた。

 

「名前は残っていましたか」

「まずそれを聞くか」

 

苦笑しながら、彼は帳面をこちらへ向けた。

 

『証言者――レイ』

 

昨夜、空白の上に書き直した文字が、そのまま残っている。

 

「残っていますね」

「ああ。少なくとも今朝はな」

 

安堵するには早かった。

宿帳から消えた名と、今も読める自分の日記。

その間に何があるのか、まだ何も分かっていない。

 

「昨日、名前が消えた頁を見た人はほかにいますか」

「お前と俺だけだ。書き直したあとなら、夜番の兵にも見せた」

「その人は、何を見たか覚えていますか」

「呼んでこよう」

 

ベルクは戸口の兵へ声をかけた。

ほどなく、若い兵士が一人入ってくる。

短く刈った髪に、眠気を隠しきれない顔。

彼はベルクの前で背筋を伸ばした。

 

「昨夜、俺が見せた頁を覚えているか」

「はい。森で魔物に襲われた旅人の証言でした」

「名前は?」

「……レイ、だったと思います」

「その旅人を見たことは?」

「いいえ。昨夜は帳面だけです」

 

若い兵はレイを一瞥し、少し困ったように眉を寄せた。

知らない相手の名を紙で覚えていたところで、本人と結びつくとは限らない。

それだけなら、何の不思議もない。

 

「分かった。もういい」

 

兵が去ると、ベルクは帳面を閉じかけ、途中で手を止めた。

 

「昨夜、お前と話したことは覚えている。今朝、名前を確かめようと思ったこともな」

「それなら、しばらくは残るかもしれません」

「しばらく?」

 

問い返す声が鋭くなった。

レイは言葉を選ぶ。

これまでの出来事をすべて説明しても、信じてもらえるとは限らない。

だが、目の前で起きた異常を調べようとしている相手に、何も伝えずにいるのも不誠実だった。

 

「人によって、僕を覚えている時間が違うんです。会ったことを忘れる人もいれば、話の内容だけ覚えている人もいます」

「昔からか」

「この村へ来てから、はっきり分かるようになりました」

「病か、呪いか」

「分かりません」

 

ベルクは器を置き、しばらく黙っていた。

 

「昨日の話を聞いたあと、お前を詐欺師だと疑った。傷を利用して手柄を横取りする人間は、どこにでもいるからな」

「そう考えるのが普通だと思います」

「だが、帳面の空白は俺も見た。少なくとも、説明のつかないことがある」

 

彼は指で机を二度叩いた。

 

「なら、説明できる範囲を少しでも広げよう。危険な真似はしない。俺は調査のために、お前は自分のために記録を残す。それでどうだ」

「……お願いします」

 

その言葉が思いのほか胸に響いた。

忘れられることを前提にした約束でも、今は誰かと一緒に確かめられる。

それだけで、長く一人で抱えてきた疑問に、初めて別の手が添えられた気がした。

 

*

 

ベルクが用意したのは、同じ大きさに切った三枚の紙だった。

一枚は彼の帳面から破り取ったもの。

一枚は村長が使っている物資の控え。

最後の一枚は、トルムが倉庫の帳簿に挟んでいた余り紙だった。

 

「紙が違えば結果も変わるかもしれん」

「書く人も変えたいです」

「分かった。まずは俺が書く」

 

ベルクは三枚すべてに同じ文を書いた。

 

『本日、旅人レイから証言を受けた。』

 

筆跡は揃っている。

レイはそれぞれの紙を読み、日記に時刻と書き手を記した。

続いてベルクが若い兵を呼び、一枚だけ同じ文を書かせる。

兵士は事情を聞かされず、単なる筆写だと思っているようだった。

 

「最後に、お前が書け」

「僕の字は残ることが多いですが、それが理由かどうかは分かりません」

「だから試すんだ」

 

レイは日記の余白へ、同じ文を写した。

ただし、自分が証言を受けたわけではないため、主語の違いが誤解を生まないよう、下に『ベルクの記録を筆写』と付け加えた。

 

四つの記録は、いずれも問題なく読めた。

ベルクは紙を別々の封筒に入れ、封の上から日付を記す。

 

「これで消えなければ、昨日のことは書き忘れだった可能性も残るな」

「はい」

「消えたら?」

「何が消えたか、いつ気づいたかを確かめます」

 

その先のことは言えなかった。

消える瞬間を見られるとは限らないし、見られたとしても原因まで分かるとは限らない。

ただ、分からないことを分からないまま残すのも、記録の役目なのだと思う。

 

*

 

昼過ぎ、北の林を調べていた見張りが戻った。

灰色の外套を着た男を見たという、昨日の証言者だった。

名はユルクといい、ガルドより少し若い、痩せた男だった。

 

「声をかけたとき、男は何をしていましたか」

 

ベルクが尋ねると、ユルクは帽子を握り直した。

 

「木の根元にしゃがんでいました。何か拾っていたようにも見えましたが、遠くて」

「顔は?」

「見てません。振り向く前に木の向こうへ行っちまったんです」

「追ったのか」

「少しだけ。でも、足跡が分かれていて」

 

ユルクは地図の北側を指さした。

そこは、森から村へ下る細い獣道が二本に分かれる場所だった。

雨が降れば泥になるが、昨日は枯れ葉が積もっていたという。

 

「灰色の男の足跡だと分かるものはありましたか」

「いや。人間の靴跡はあったが、見張りの誰かが先に通ったかもしれん」

「男が消えたわけではないんですね」

「そういうことです」

 

レイは頷いた。

灰色の外套という共通点は気になる。

けれど、以前出会った男と同じ人物だと決めつける材料は、まだなかった。

 

「その人がいた場所には、何か残っていましたか」

「木の根元に、古い布切れが引っかかってたくらいです」

「布?」

「灰色じゃないぞ。茶色い、荷袋の端みたいなやつだ」

 

ユルクは懐から小さな包みを取り出した。

中には、泥の乾いた麻布が入っていた。

端がほつれ、何かを包んでいたらしい折り目がついている。

 

ベルクは布を広げ、裏側に目を凝らした。

 

「印があるな」

「村の商人のものですか」

「分からん。数字にも見える」

 

布の隅には、黒い染料で細い線が三本引かれていた。

その下に、かすれた丸い印。

どこかで見たような気がして、レイは記憶を探った。

ラウネの焼け跡で聞いた、魔石の入った箱の話。

だが、あの箱にどんな印があったかまでは聞いていない。

 

「ラウネの荷運びについて調べた記録はありますか」

「隣町の火事か」

 

ベルクが顔を上げた。

 

「焼け跡の調査書なら守備隊にあるはずだ。なぜだ」

「火事の前に、魔石の箱を動かしていた人を見たという話を聞きました。これが関係するかは分かりませんが」

「似た印を見たのか」

「いいえ。印については、何も知りません」

 

ベルクは布を包み直した。

 

「なら、関連は保留だ。調査書を取り寄せるだけならできる」

 

話が早すぎないことに、かえって安心した。

手がかりを一つ見つけるたび、すべてが同じ謎につながっているように思えてしまう。

けれど、世界は一つの物語のためだけに動いているわけではない。

そう信じたい気持ちも、まだ残っていた。

 

*

 

夕方、川向こうの湿地からリシアが戻った。

トルムに教えられた道を通り、二人の村人と一緒に薬草を採ってきたらしい。

籠には湿った葉が重なり、足元には泥が跳ねていた。

 

「北へ行かずに済んだんですね」

「はい。思ったより見つかりました。これなら数日は足ります」

 

彼女は籠を下ろし、手についた泥を水で洗った。

 

「ただ、湿地の端で変なものを見たんです」

「変なもの?」

「動物の足跡です。大きなものじゃなくて、小さな獣のものなんですけど、途中から何度も同じ場所を回っていて」

 

胸の奥に、昨日の地図が浮かんだ。

 

「同じ場所を?」

「はい。何かを避けていたのかもしれません。トルムさんは、泥が深いところを回っただけだろうって」

「その可能性はあるね」

「ええ。でも、妙に気になって」

 

リシアは手を拭き、少し迷うように続けた。

 

「私、森で襲われたときも、似たようなことを見た気がするんです。逃げている途中、獣が急に方向を変えたような……」

「思い出したの?」

「いいえ。はっきりとは。さっき足跡を見て、そんな気がしただけです」

 

レイは問いを重ねなかった。

失われた記憶を無理に引き出そうとすれば、曖昧な印象を確かな出来事として植えつけてしまうかもしれない。

彼女自身が確かめたいと思ったときに、話を聞けばいい。

 

「その場所を、あとで教えてもらえるかな」

「もちろんです。でも、今は行かないでくださいね」

「先生にも同じことを言われてる」

「それなら安心です」

 

彼女は笑い、薬草の籠を抱え直した。

その横顔を見ながら、レイは灰色の男の警告を思い返した。

近づくな、と言われた。

だが、距離を置けば安全になるという保証は、あの男自身が否定していた。

 

守るために離れることも、守るために傍にいることも、正解だとはまだ言えない。

今できるのは、彼女が見たものを、彼女自身の言葉として受け止めることだけだった。

 

*

 

日が落ちる前、ベルクが再び水車小屋へ現れた。

手には、朝に封をした紙が三枚ある。

どれも封は破れていなかった。

 

「一度、確かめておこうと思ってな」

 

作業台へ並べ、ベルクは自分で封を切った。

最初の紙には、朝と同じ文があった。

二枚目にも、同じ文字が並んでいる。

三枚目を開いたとき、彼の指が止まった。

 

『本日、旅人――から証言を受けた。』

 

名前の部分だけが、空いていた。

 

レイは息を呑み、すぐに封の上の日付を確かめた。

ベルクが書いた字は残っている。

本文も残っている。

消えているのは、名を置いたはずの場所だけだった。

 

「これも、俺が書いた」

 

ベルクの声が低くなる。

 

「三枚とも同じ文を書いた。お前も見ていたな」

「はい」

「封をしたのも俺だ。ほかの二枚には名がある」

 

彼は紙を裏返し、光へ透かした。

削った跡も、墨が滲んだ形跡も見えない。

何も書かれていなかったかのように、紙の繊維だけが透けていた。

 

「封をしたあとは、誰が持っていましたか」

「俺の荷物に入れていた。見張りの交代の間は、鍵のある箱にしまった」

「箱を開けた人は?」

「俺だけだ。……もっとも、今の俺が忘れているだけかもしれんが」

 

その言葉には、初めて明確な恐れが混じっていた。

 

「ほかの二枚は、どちらの紙ですか」

「一枚は俺の帳面の紙。もう一枚は村長の控えだ。消えたのはトルムの余り紙だった」

 

紙の種類が原因なのだろうか。

そう考えかけて、昨夜の手帳の空白を思い出した。

同じ紙でも残るときと消えるときがある。

今回の結果だけで、条件を決めることはできない。

 

「若い兵が書いた紙は?」

「別に保管してある。今朝の時点では残っていた。お前の日記は?」

「まだ確かめていません」

 

レイは日記を開き、朝に写した文を探した。

『本日、旅人レイから証言を受けた。』

その下の注記も含め、文字はすべて残っている。

 

ベルクはしばらく日記を見つめていた。

 

「お前の書いたものは、残りやすいのか」

「今のところは。ただ、必ず残るとは言えません」

「……厄介だな」

 

彼は空白の紙を机に置いたまま、椅子へ深く腰を下ろした。

 

「もし名前が消えるなら、証言をした人間を追えなくなる。人が話したことだけ残っても、確かめ直す相手がいなければ、調査は途中で止まる」

「はい」

「それが何度も起きれば、いつか誰も、最初から証言者などいなかったと思うだろう」

 

レイは答えられなかった。

その恐れは、これまで自分が何度も感じてきたものだった。

違うのは、今それを口にしているのが、忘れられる側ではないということだ。

 

ベルクは空白の頁を指で押さえた。

 

「俺は、調べたことを上へ報告しなきゃならん。だが、名前の消える証言者がいると書いて、誰が信じる?」

「信じてもらえないかもしれません」

「それでも、事実は事実だ」

 

彼は紙を畳まず、しばらく見つめていた。

 

「ただし、何が起きたかと、何が原因かは別だ。そこを間違えるわけにはいかん」

 

その慎重さに、レイは静かに頷いた。

自分の存在を消している何かがあるとしても、それが魔物を動かしているとは限らない。

ラウネの火事も、森の警告も、まだ一本の線では結べない。

結べないものを、無理につなぐべきではなかった。

 

*

 

夜、見張りの交代が済むころ、ベルクは小さな封筒を差し出した。

中には、名前の消えた紙の写しが入っている。

 

「これは?」

「俺の手で写した。空白もそのままにしてある。お前の日記と照らし合わせてくれ」

「原本は?」

「守備隊へ持ち帰る。報告書には、筆写の不一致があったとだけ書くつもりだ」

 

彼は少し言いにくそうに続けた。

 

「お前のことを詳しく書けば、面倒な連中が調べに来るかもしれん。俺には、それが安全だと言い切れない」

「……ありがとうございます」

「礼を言うな。まだ、何も守れていない」

 

ベルクは封筒を渡したあと、声を落とした。

 

「明日、ラウネの調査書を取り寄せる手続きをする。それと、灰色の男を見た場所も、もう一度調べる。お前は身体を治せ」

「はい」

「次に会ったとき、俺がお前を覚えていなかったら、今日のことを説明してくれ」

 

冗談めかした言い方だったが、目は笑っていなかった。

 

「そのときは、帳面を見せてください」

「そうする」

 

二人は短く頷き合った。

約束をしたという事実さえ、明日には薄れるかもしれない。

それでも、約束を交わすこと自体が無意味になるわけではなかった。

 

倉庫へ戻り、レイは日記を開いた。

今日の出来事を順に書き、最後に空白の紙について記した。

 

『同じ文を書いた三枚のうち、一枚だけ名前が消えた』

『消えたのはトルムの余り紙。紙の種類が原因かどうかは不明』

『ベルクは異常を認識し、記録を残そうとしている』

『原因と現象を混同しない』

 

書き終え、封筒を日記の間に挟んだ。

紙が重なる、乾いた音がした。

反射的に耳を澄ませたが、それは自分の手元から生まれた、ごく普通の音だった。

 

窓の外には、まだ修復されていない村の灯りが見える。

あの灯りの下では、誰かが失った家の片づけをし、誰かが怪我人のために湯を沸かしている。

一つの名前が消えることと、村が受けた傷が癒えることは、別の問題だった。

どちらも見失わないようにしたいと思った。

 

日記を閉じかけたとき、挟んだ封筒の端が少し覗いた。

その白さに、森で見た石碑の空白が重なる。

何かが消されたあとに残る余地。

そこに書かれていたはずのものを、今の自分はまだ知らない。

 

だが、今日初めて、空白を見て立ち止まった人間がいた。

そしてその人は、目を逸らさず、もう一度書こうとした。

 

それだけは、忘れたくなかった。

 

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