世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
第三倉という名を知ってから、村の西側が以前とは違って見えるようになった。
畑の向こうへ続く細い道も、使われなくなった荷車の轍も、そこに何かがあったことを示している。
ただ、道が残っていることと、そこへ行けることは別だった。
翌朝、ベルクが持ってきたのは、昨日の地図の写しではなかった。
薄い木板に挟まれた、二枚の古い書類だった。
「昨夜、守備隊の保管箱を探した。北方保管所の閉鎖に関する記録が、一つだけ残っていた」
「第三倉についてですか」
「そこが妙なんだ。保管所の閉鎖は記されているのに、倉の数が書いてない」
ベルクが二枚の書類を机に広げた。
一枚目には十年前の日付と、北方保管所の業務を停止するという命令がある。
理由の欄には『設備の老朽化』と記されていた。
もう一枚は、その後の荷物の移送先を示す控えだった。
「こちらは?」
「閉鎖時に残っていた荷の一覧だ。見てくれ」
布、油、修理用の金具。
品目はありふれたものばかりだった。
だが、途中に一行だけ、品名のない荷がある。
数量は三。
送り先には、細い横線が引かれていた。
「最初から空欄だった可能性もありますね」
「ああ。だから、空欄そのものより、数字が気になる」
「三つ、ですか」
「三つの荷が何だったのか、分からない。帳尻は合っているのに、品名がないんだ」
紙の端を押さえる指に、わずかに力がこもった。
昨日の負傷者が語ったことを思い出す。
地図も、帳面も、標識も消した。
あの男が手を加えた記録の一つが、ここにあるのだろうか。
しかし、目の前の空白が人の手によるものなのか、それ以外の理由なのか、まだ判断できなかった。
「昨日の人は、話せそうですか」
「命に別状はないそうだ。ただ、熱が出ている。先生は今日いっぱい休ませろと言ってる」
「それなら、無理に聞くべきじゃないですね」
「俺もそう思う。代わりに、番人のほうを調べる」
「番人?」
「十年前に保管所を管理していた人間だ。閉鎖の命令を受け取った者なら、何か知っているかもしれない」
差し出された書類の裏には、担当者の印が二つ押されていた。
一つは読める。
もう一つは、紙が破れていて判別できなかった。
「読めるほうは、オルデン。村の記録では、まだこの辺りに住んでいるらしい」
「会いに行くんですか」
「俺が行く。お前は……」
「村で待ちます」
先に答えると、向かいの目がわずかに細くなった。
「ようやく学んだな」
「先生に怒られるのは、もう十分です」
軽口を交わしながらも、胸の奥には落ち着かないものが残っていた。
第三倉へ近づこうとした人間が傷を負い、その名を消した人間が怯えている。
調べること自体が、誰かの望まない行為なのは確かだった。
*
昼前、治療所へ薬草を届けに行くと、リシアが廊下で布を畳んでいた。
いつもより顔色が悪い。
眠れていないのかと尋ねる前に、彼女のほうから口を開いた。
「昨日の荷運びの人、今朝は少し落ち着いたそうです」
「よかった」
「でも、うわ言を言っていたみたいで」
「何て?」
布を畳む手が止まった。
「『扉を開けるな』って。何度も」
第三倉の扉だろうか。
そう考えたが、彼女にはまだ何も言わなかった。
「怖い夢を見ていたのかもしれないね」
「そうかもしれません。でも……」
視線が廊下の奥へ向いた。
治療所の老人が、負傷者の様子を確かめている。
「人があんなに怯えるときって、痛みだけが理由じゃない気がするんです」
「そうだね」
「何かあったなら、ちゃんと聞いてあげたいです。今すぐじゃなくても」
頷いた。
負傷した男を、手がかりを持つ証言者としてしか見ていなかったことに気づく。
彼には彼の暮らしがあり、恐怖があり、助かってから先の時間がある。
その時間を奪ってまで、答えを急ぐ理由はない。
「その人が話したくなったときに、聞けるといいね」
「はい。まずは、熱を下げないと」
畳んだ布を抱え直す。
「それから、あなたも休んでください。昨日より歩き方が悪くなってます」
「そんなに分かる?」
「分かります」
少しだけ眉を寄せる表情に、思わず笑ってしまった。
彼女がこうして心配してくれることは、当たり前ではない。
明日も同じように覚えていてくれるか分からなくても、今日の言葉は確かにここにあった。
*
午後になって、ベルクは一人で戻ってきた。
外套の裾に泥がつき、表情は険しい。
「オルデンには会えましたか」
「会えなかった」
「留守だったんですか」
「家がなかった」
思わず聞き返した。
「家が、ですか」
「村の記録には西の丘の小屋に住むとある。だが、そこへ行ったら畑になっていた。近くの住人は、そんな小屋は知らないと言う」
水を一口飲んでから、話が続いた。
「ただ、古い井戸だけが残っていた。石組みは十年や二十年でできるものじゃない」
「家を取り壊した可能性は?」
「ある。移り住んだのかもしれん。だが、記録には転居の届けがない」
話を聞きながら、日記を開いた。
オルデンという名と、井戸が残る西の丘。
記録が間違っているのか、人々の記憶が薄れたのか、それとも別の事情があるのか。
今はどれも捨てられない。
「ほかに何か?」
「ああ。井戸のそばに、石の土台があった。家のものかもしれないが、少し変わっていた」
「どんな?」
「四隅に同じ形の溝がある。箱か、何か重いものを固定していたように見えた」
手帳から取り出されたのは、簡単な見取り図だった。
四角い土台の四隅に、細い切れ込み。
中央には丸いくぼみが描かれている。
「ノルドさんなら、用途が分かるかもしれません」
「俺もそう思った。夕方、工房へ行く」
そこまで言ったところで、言葉が途切れた。
戸口の外で、何かが落ちる音がしたからだ。
二人で顔を向ける。
廊下には誰もいない。
床に、乾いた小枝が一本転がっていた。
開いた窓から風が吹き込み、紙の端が揺れている。
「風か」
低い呟きだった。
しかし、その声はどこか硬かった。
「さっきから、誰かがこっちを見ている気がする」
「灰色の外套の男でしょうか」
「分からん。見ていないものを、いたとは言えない」
窓を閉めると、ベルクはしばらく外の気配を窺っていた。
その慎重さが、今は頼もしかった。
*
ノルドの工房へはベルクだけが行く予定だった。
夕方、再び訪ねてきたその手には、薄い金属片が握られていた。
昨日、魔石灯の中から見つかった、三つの小さな穴が並ぶ部品だった。
「ノルドが、これを見てほしいそうだ」
「僕に?」
「ああ。昨日はただの穴に見えたが、洗ってみたら、裏に刻みがあった」
金属片を受け取り、窓際の光へかざした。
表には三つの穴。
裏には、短い線が四本。
それぞれの線は、わずかに長さが違う。
「数字ですか」
「ノルドはそう考えてる。ただ、何を数えた数字なのかは分からない」
「どうして僕に見せようと?」
「昨日、地図の補修紙を見つけただろう。お前は文字のない場所をよく見ている。何か気づくかもしれんと」
言われて、金属片をもう一度見た。
穴は一列に並んでいない。
真ん中の穴だけが、少し下にずれている。
それが何を意味するのかは分からなかった。
ただ、見取り図の四隅に刻まれた溝と、形が似ている気がした。
「井戸のそばの土台に、これと同じような刻みはありましたか」
「刻み?」
「四隅の溝です。長さが違ったり、並び方に意味がありそうだったり」
見取り図へ目を落とし、しばらく黙り込んだ。
「……測ってはいない。だが、確かに四つとも同じ長さじゃなかった」
「それなら、もう一度確かめたいです」
「お前は行かんぞ」
「分かってます。ベルクさんにお願いしたいんです」
一瞬、意外そうな顔になり、それから笑みが浮かんだ。
「よし。明日、測ってくる」
金属片を返すと、手帳に短い書き込みが加えられた。
小さな発見だった。
それでも、今度はただ空白を眺めるのではなく、次に何を調べればよいかが見えている。
「ところで、昨日の男のことなんですが」
「何だ」
「第三倉へ行くなと言った理由を、急いで聞き出さないでほしいんです」
手帳を閉じる音がした。
「リシアに何か言われたか」
「彼女は、ちゃんと治してから話を聞きたいと言っていました。僕もそう思います」
「……分かった。俺も、傷ついた人間を無理に問い詰めるつもりはない」
立ち上がると、外套を肩に掛けた。
「ただ、待っている間にも誰かが動いているかもしれん。それだけは忘れるな」
「はい」
*
夜、村の西側で火が上がった。
最初は、見張りの松明だと思った。
だが、すぐに鐘が鳴り、人々の叫び声が続いた。
治療所の窓から見える空が、赤く染まっている。
「火事だ!」
「西の荷置き場だ! 水を運べ!」
廊下を走る足音が重なった。
立ち上がりかけた途端、脇腹の痛みに息が詰まった。
今できることを考える。
水を運ぶには遠すぎる。
けれど、火傷を負った人が運ばれてくるなら、ここで準備ができる。
「先生、布と水を用意します」
「頼む。リシア、火傷の薬を出しておくれ」
「はい!」
三人で動き始める。
治療所には、まだ昨日の負傷者がいる。
彼が騒ぎで目を覚まさないよう、老人が寝台のそばへ衝立を立てた。
リシアは薬箱を開き、必要な薬を手際よく選び分けていく。
外の騒ぎは、しばらく続いた。
やがて、ベルクが二人の兵士とともに戻ってきた。
三人とも煤で顔を汚していたが、足取りはしっかりしている。
「怪我人は?」
「一人、腕に軽い火傷だ。後から来る。ほかは無事だ」
「火は?」
「荷置き場の小屋が燃えた。隣の荷車へ移る前に消せた」
安堵しかけたところへ、低い声が続いた。
「だが、帳面がなくなった」
「昨日見た、ラウネからの荷を記した帳面ですか」
「ああ。番人は小屋の棚に置いたと言っている。燃えた棚から、表紙も紙片も見つからなかった」
火で焼けたのなら、灰が残るはずだ。
ただ、火事場で紙がどう燃えたかを確かめるのは難しい。
目の前の相手も、それは承知しているようだった。
「火をつけた人は?」
「見ていない。番人は、裏口が開いていたと言ってるが、鍵が壊された跡はない」
「誰かが入った可能性はあるんですね」
「ある。だが、火の始まり方もまだ調べていない」
濡れた手袋を外す指先が、わずかに震えていた。
「もう一つある」
声が一段低くなった。
「小屋の裏手に、誰かが立っていたそうだ。灰色の外套を着た男だと、見張りが言っている」
胸の奥が冷たくなった。
灰色の外套。
以前から何度も現れている、正体の分からない人物。
同じ男なのか、それとも別人なのか。
まだ確かなことはない。
「追いましたか」
「追った。だが、村の外れで見失った」
「足跡は?」
「雨で消えた。……ただ、妙なものが残っていた」
懐から小さな布包みが取り出された。
中にあったのは、黒く焦げた木片だった。
端に、三本の浅い線が刻まれている。
その横には、丸い印。
北の林で見つかった麻布、ノルドの工房へ運ばれた箱にあったものと、似た形だった。
「これが荷置き場の裏に?」
「ああ。誰かが落としたのか、前からあったのかは分からん」
木片を光へ近づける。
焦げた面の裏側に、薄い文字が残っていた。
一文字ずつ、慎重に読んだ。
『第三倉 搬入』
喉が乾いた。
名前を消したはずの場所が、また一つ、形を持って現れた。
だが、これはただの偶然では済まされないかもしれない。
昨日、その名を知ったばかりの自分たちの前で、関連する帳面が火事によって失われた。
「ベルクさん」
「分かってる。誰かが証拠を隠そうとしている可能性がある」
木片が再び布に包まれた。
「だが、今夜は火の始まり方を調べる。第三倉へは、まだ行かない」
「……はい」
その判断に、反対する理由はなかった。
火事が偶然でも、放火でも、まず確かめるべきことがある。
焦って道を進めば、また誰かが傷つくかもしれない。
*
夜更け、治療所が静かになってから日記を開いた。
窓の外では、消火に使った水の匂いが風に混じっている。
『北方保管所の閉鎖記録には、品名のない荷が三つある』
『旧管理者オルデンの住所には家がなく、古い井戸と石の土台が残っている』
『魔石灯の金属片には四本の刻みがある』
『西の荷置き場で火災。帳面が見つからない』
『灰色の外套の人物が目撃された。本人確認はできていない』
『焦げた木片に「第三倉 搬入」の文字』
書き終え、しばらく紙面を見つめた。
空白は、何かが消えた証拠になることもあれば、最初から何もなかっただけかもしれない。
だが、今日の火事には、失われた帳面と、残された木片がある。
その二つは、誰かの手が動いた可能性を示していた。
廊下の奥で、寝台が軋んだ。
昨日の負傷者が眠りの中で身じろぎしたのだろう。
そのとき、かすれた声が聞こえた。
「……番人に、渡すな」
筆が止まった。
「何を、ですか」
答えはなかった。
負傷者は目を閉じたまま、荒い呼吸を繰り返している。
無理に起こすわけにはいかない。
ただ、その言葉だけは記しておこうと思った。
『負傷者のうわ言――「番人に、渡すな」』
番人とは、荷置き場の男のことだろうか。
それとも、十年前に第三倉を管理していた誰かのことだろうか。
答えのない問いが増えた。
けれど、今夜は一つだけ確かなことがあった。
第三倉へ続く道を調べ始めた途端、誰かが記録を失い、誰かがその名を恐れた。
窓の外で、遠くの見張りが拍子木を打った。
二度、乾いた音が響く。
そのあとに続いた静けさの中で、日記の頁を閉じた。