世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
「第三倉から……出てきた人間の、名前だ」
負傷した男の言葉が、治療所の一室に落ちた。
机の上には、薄い鉄の箱がある。
三つの穴を持つ側面に、窓から差し込む夕陽が細く当たっていた。
誰もすぐには口を開かなかった。
最初に動いたのは、リシアだった。
奥の寝台へ歩み寄り、男の肩に掛かった布を直す。
「起き上がらないでください。傷が開きます」
「だが、あれを開けたら……」
「話は聞きます。でも、まず横になって」
静かな声に押されるように、男の背が寝台へ沈んだ。
医師が脈を確かめ、額に触れる。
まだ熱はあるらしい。
「今夜はこれ以上しゃべらせん。質問があるなら、明日の朝だ」
ベルクが短く頷く。
隣ではノルドが金属片を工具箱へ戻そうとしていた。
「待ってください」
思わず声をかけた。
「その部品、箱には差し込まないでください」
「言われなくても分かってる。穴が合うからって、試しに回すほど馬鹿じゃない」
少しだけ不機嫌そうに答え、金属片を布で包み直した。
その慎重さに安堵したものの、胸の内側では別の疑問が膨らんでいた。
「第三倉から出てきた人間、というのは……」
「おい」
横から腕を引かれ、言葉が途切れる。
振り向くと、ベルクの表情が険しかった。
「先生の言ったことを聞いただろう。ここで続ける話じゃない」
負傷者のほうを見ると、リシアが濡らした布を額へ当てていた。
男は目を閉じている。
これ以上問い詰めれば、答えを得る前に体力を奪ってしまう。
「……すみません」
机の上の箱には触れず、三人で廊下へ出た。
*
治療所の裏手には、薪を積むための小さな屋根がある。
夕方の風が冷たくなり始めたころ、そこで二人から話を聞いた。
「昔の通過記録器は、人が通るときにも使ったんですか」
「使うさ。鉱山の坑口や、危険な作業場の出入り口にな。中に何人残ってるか確かめるためだ」
ノルドの指が宙に四角い枠を描いた。
「ただ、俺が知ってるものは入った数と出た数を両方記録する。片方だけじゃ人数が合わん」
「第三倉の図面には、退出数だけと書かれていた」
「ああ。だから妙なんだ」
腕を組んだベルクが、倉庫のある方角へ視線を向けた。
「倉庫という名前で、人の出入りを数えていた。そう考えるべきか」
「そう考える理由はあります。でも、そこから先は分かりません」
口にしながら、別の可能性を探した。
倉の中で働く人間の数かもしれない。
閉鎖した施設から出る人を確認するための、一時的な記録だったのかもしれない。
しかし、負傷者は十年後の今も、あの場所を恐れている。
「ひとつ確認したい」
ベルクの視線がノルドへ移った。
「鉄の箱を開けずに、中に紙があるか調べられるか」
「重さと音くらいならな。だが、振るのは勧めん。錆びた金具が中に落ちてるかもしれない」
「魔石で中を透かすような道具は?」
「そんな便利なもんがあったら、俺は修理屋をやめて宝探しをしてる」
いつもの調子で返したあと、表情が引き締まった。
「鍵の部品も、俺が預かってていいのか」
「工房に戻すのは危険だ。火事を起こした奴が、次に何を探すか分からん」
その答えを聞き、考え込む。
箱と鍵を一か所に集めれば、誰かが奪うだけで開けられてしまう。
離しておけば、少なくとも一度に失う危険は減る。
「金属片は、守備隊で保管してください。箱の場所を知っている人間も、増やさないほうがいい」
「お前の言うとおりだな」
布包みがノルドの手からベルクへ渡った。
そのまま、こちらへ視線が向く。
「明日、もう一度西の丘へ行く。井戸のそばの土台を調べ直したい」
「俺も行きたい、と言ったら怒りますよね」
「怒る前に、先生に突き返される」
返す言葉がなかった。
脇腹に手を当てると、少し歩いただけで鈍い痛みが残っている。
「代わりに、古い通過記録器を使っていた場所を調べてもらえませんか」
「なぜだ」
「第三倉だけの仕組みなのか、同じものがほかにもあるのか知りたいんです」
その話に、ノルドも頷いた。
「古い図面なら、工房に何枚か残ってる。今夜見ておこう」
そこで話は終わった。
二人が離れていくのを見送り、治療所へ戻ろうとしたとき、薪の陰から声がした。
「人を数える道具って、本当にあるんですね」
リシアだった。
空になった水桶を片手に、屋根の端へ立っている。
「聞こえてた?」
「最後のほうだけです。すみません」
「謝らなくていいよ」
水桶を置くと、少し考えるように視線を落とした。
「先生は、薬を配るときに名前を呼ぶんです。数だけ合っていても、誰に渡したか分からなければ困るから」
「そうだね」
「でも、さっきの箱は、出てきた人の名前だけなんですよね」
頷きかけて、止まった。
負傷者の証言は、まだ中身を確かめたものではない。
「本人はそう言っていた。でも、実際に何が入っているかは分からない」
「だったら、どうして名前を残す必要があったんでしょう」
その問いには答えられなかった。
人数を知りたいだけなら、数を記せばいい。
名前まで残すのは、誰が出たかを後から確かめるためだ。
「戻ってこなかった人を探すため、かもしれない」
そう言うと、リシアの表情が曇った。
「それなら、入った人の名前も必要じゃないですか」
確かにそうだった。
彼女は空の桶を持ち直し、治療所へ向かう。
「誰かを待っていたのかもしれませんね。出てくるはずの人を」
何気ない言葉が、胸の奥に引っかかった。
*
翌朝、西の丘へ出発する前のベルクに頼み、古い閉鎖記録をもう一度見せてもらった。
十年前の北方保管所。
設備の老朽化による閉鎖。
品名のない荷が三つ。
送り先には横線だけが残っている。
「昨日の男が言った名前の記録と、この三つの荷は関係するんでしょうか」
「今のところは分からん。ただ、移送先の欄が空いているのは気になる」
書類が裏返され、裏面の印がこちらへ向けられた。
「実は、もう一つおかしいところがあった」
「どこですか」
「閉鎖の命令を受けた印が二つあるだろう。オルデンの印と、破れたもう一つだ」
破れた部分を指で示された。
その周囲には、薄い墨の線が残っている。
「紙が破れたせいで読めないと思っていたが、昨日、別の記録と比べた。印の位置が変なんだ」
「位置?」
「二つ目の印は、命令を受け取った者の欄じゃない。確認した者の欄に押されてる」
改めて見ると、確かに欄を分ける細い線がある。
最初は紙の折り目だと思っていた。
「つまり、オルデンさん以外にも、閉鎖を確認した人がいる」
「ああ。しかも、そいつは名前を読めない状態で残している」
破れた端は古く、紙の色も周囲と変わらない。
意図的に破ったのか、長い年月で傷んだのかは判断できなかった。
「西の丘では、家の跡を探すんですか」
「井戸と土台が中心だ。周りの畑を勝手に掘るわけにはいかんから、持ち主にも話を通す」
外套を手に立ち上がるのを見て、もう一つ頼んだ。
「井戸の内側も、見られる範囲で確かめてください」
「何かあると思うのか」
「分かりません。でも、家がなくなっても井戸だけ残っているなら、理由があるかもしれない」
少し考えてから頷き、書類をしまった。
「何か見つかったら、夕方に戻る」
その言葉を最後に、兵士二人を連れて出ていった。
*
昼過ぎ、治療所に見知らぬ女が訪ねてきた。
濃い茶色の外套を着た、四十歳ほどの人だった。
手には小さな籠を提げている。
「脚を折った荷運びの人がいると聞いたんですが」
受付にいたリシアが顔を上げた。
「お知り合いですか」
「ええ。うちの荷を運んでもらったことがあって。お見舞いにと思って」
籠の中には乾燥した果物が入っていた。
見舞いとしては不自然ではない。
けれど、女の目は話しながら廊下の奥を何度も確かめていた。
「お名前を伺ってもいいですか」
「ミラ、と言います」
「荷運びの方のお名前は?」
返事が遅れた。
「……みんな、荷運びの人って呼んでいたから」
笑顔は崩れなかった。
「先生に確認しますので、少しお待ちください」
奥へ向かおうとしたところで、女が一歩踏み出す。
「怪我は、どのくらいですか」
「それも、先生からお伝えします」
「じゃあ、せめて荷物だけでも――」
「お預かりします」
籠を受け取ろうとした手が、わずかに止まった。
女は笑っていたが、指先が持ち手を強く握っている。
「……いえ。本人に渡せないなら、また来ます」
籠を引き戻し、早足で戸口へ向かった。
「お待ちください」
声をかけたのは、廊下の端にいた医師だった。
「どちらから来た」
「西のほうです」
「荷置き場の火事のあとで、道が閉じているはずだが」
「遠回りしてきました」
それだけ答え、女は外へ出ていった。
扉が閉まると、リシアが小さく息を吐いた。
「おかしいですよね」
「何がだ」
「お見舞いに来たのに、あの人の名前を知らなかったんです」
しばらく沈黙があった。
「俺も知らん」
思わず二人を見た。
「先生も?」
「荷運びの男としか聞いておらん。意識が戻ったあとも、名前を聞く余裕がなかった」
胸の奥に嫌な感覚が広がる。
名前を聞いていないだけなら、何もおかしくない。
しかし、女が何を確かめに来たのか分からないまま、帰してしまった。
「ベルクさんに知らせたほうがいい」
そう言って、リシアが戸口へ目を向けた。
「先生、見張りの方を呼んできます」
「頼む。患者には知らせず、まず外の戸を見てもらえ」
外套を手に取ると、すぐに走り出した。
その背中を見送ってから、医師とともに負傷者の部屋へ向かった。
*
男は起きていた。
熱は少し下がったらしく、昨日より顔色がいい。
ただ、こちらの話を聞いた瞬間、目の色が変わった。
「茶色い外套の女?」
「ミラと名乗っていました。心当たりはありますか」
「……知らない」
答えは早かった。
「俺の仕事を知ってる奴はいる。でも、見舞いに来るような女はいない」
医師は椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「名前を聞いていなかったな。差し支えなければ教えてくれんか」
男はしばらく黙り、やがて唇を開いた。
「……ダレンだ」
その名を繰り返して覚えた。
ダレン。
レイのように、誰かの記憶から抜け落ちることがあるのだろうか。
今はそんな兆候は見えない。
「ダレンさん。昨夜の箱について、ひとつだけ聞いてもいいですか」
「……何だ」
「中に人の名前があると、どうして知っていたんですか。鍵がなかったんですよね」
目を伏せたまま、布団の端を握りしめる。
「俺は……見たんだ」
「何を?」
「倉の奥で、古い帳面を。鉄の箱と一緒に置いてあった」
声がかすれた。
「表紙には何も書いてなかった。だが、中を開いたら、名前が並んでた。出た日付と、名前だけだ」
「箱の中身を見たわけじゃないんですね」
「ああ。だから箱にも同じものが入ってると思った。あの倉では、出てきた人間の名を記録してたから」
前夜の断言が、推測を含むものだったと分かった。
それでも、帳面の存在は重要だった。
「何人分ありましたか」
「数えてない。古い頁が何枚もあった。最後のほうは、ほとんど白紙で……」
そこで言葉が止まる。
「どうしました」
「……一つだけ、覚えてる」
布団を握る手が震え始めた。
「最後に書かれた名前の横には、日付がなかった」
「名前は?」
問いかけると、ダレンはゆっくり顔を上げた。
「オルデン」
窓の外で、風が戸板を揺らした。
「旧管理者の?」
「俺は知らない。だが、ほかの名前とは違って、あれだけは赤い線で囲ってあった」
喉が乾いた。
オルデンは第三倉の閉鎖を受け取った人物だ。
それが、退出者の記録に載っていた。
閉鎖後に記されたものなのか、それ以前からあったのかは分からない。
「その帳面は、今も倉に?」
「分からない。俺が箱を持ち出したときには、もう見当たらなかった」
そこで医師が立ち上がり、話を切り上げた。
「今日はここまでだ。顔色が悪くなってる」
頷いて部屋を出た。
扉を閉める直前、ダレンがこちらへ声をかけた。
「なあ。あんたの名前は」
一瞬、返事に詰まった。
何度も聞かれてきた問いだった。
「レイです」
「レイ、か」
小さく繰り返す。
「俺のことを、覚えていてくれ」
返す言葉を探している間に、医師が扉を閉じた。
*
日が沈みかけたころ、西の丘からベルクが戻ってきた。
リシアが呼んだ見張りから女の話を聞き、先に治療所へ寄ったという。
「西へ出る道を調べさせている。茶色い外套の女は、まだ見つかっていない」
「ダレンさんが名前を教えてくれました」
「ダレン?」
「荷運びの人です。それから、オルデンの名前が第三倉の退出記録にあったそうです」
その表情が変わった。
「本人が見たのか」
「はい。ただし、鉄の箱の中身は見ていません。倉にあった帳面に名前が載っていたと」
経緯を伝えると、すぐに手帳へ書き留めた。
「こちらも見つけたものがある」
外套の内側から、小さな布包みを取り出す。
中には、泥で汚れた木の札があった。
表面に文字はない。
ただ、端に三本の浅い線と丸い印が刻まれている。
「井戸の内側に引っかかっていた。紐が切れて、石の継ぎ目に挟まっていたらしい」
「何の札ですか」
「分からん。だが、裏を見ろ」
ひっくり返すと、薄く削られた跡があった。
文字を消したようにも見える。
その端に、小さな穴が二つ並んでいた。
「これ、どこかに取り付けるものですか」
「ノルドもそう言ってた。今夜、詳しく見てもらう」
札を包み直しかけた手が止まる。
「それと、井戸のそばの土台だが、畑の持ち主から妙な話を聞いた」
「どんな?」
「昔、あそこには家じゃなく、小さな番小屋があったらしい。夜になると、誰かが井戸のそばで鐘を鳴らしていたそうだ」
思わず顔を上げた。
「鐘?」
「ああ。村の鐘とは違う、小さなものだ。畑の持ち主は子どものころに聞いたと言っている」
ラウネの不規則な鐘を思い出す。
だが、同じものだと決めるには、あまりに材料が少ない。
「何のために鳴らしていたんでしょう」
「それを確かめるつもりだ」
話を終えるように手帳を閉じた。
「明日は井戸の周りをもう一度調べる。土台の下も、持ち主の許しを取れた」
そこで言葉を切り、こちらを見た。
「お前は来るなよ」
「分かっています」
「本当か?」
「先生にもリシアにも、同じことを言われますから」
少しだけ口元が緩んだ。
*
夜、日記を開いた。
ダレンという名を記し、その下にオルデンと書く。
二人の名前を線で結ぼうとして、筆先を止めた。
まだ、関係は分からない。
同じ場所の記録に現れただけだ。
そのとき、廊下で足音がした。
リシアが薬の入った小瓶を持って立っている。
「先生からです。今日は痛みが強かったでしょう」
「ありがとう」
「それと、さっきのダレンさんのことなんですけど」
椅子を引くと、少し迷ってから腰を下ろした。
「何かあった?」
「眠る前に、何度も名前を確かめていたんです。自分の名前を」
筆を置いた。
「ダレンって?」
「はい。紙に書いてほしいって言われて、枕元へ置きました」
胸の奥が静かに冷えた。
「どうして?」
「分かりません。でも、こう言っていました。『明日になっても、俺が俺だと分かるように』って」
窓の外で、夜の風が木々を揺らした。
自分の名前を忘れられることなら、知っている。
けれど、自分自身が自分の名を確かめなければならない恐怖を、まだ知らなかった。
「その紙、今もありますか」
「はい。枕元に置いてあります」
「明日の朝、確かめてもらえますか。文字が残っているかどうか」
リシアは不思議そうな顔をした。
それでも、理由を問い詰めることはなかった。
「分かりました。先生にも伝えておきます」
部屋を出ていく背中を見送り、日記へ視線を戻した。
オルデン。
ダレン。
そして、レイ。
三つの名前が並んでいる。
そのうち、世界が消そうとしているのは本当に一つだけなのだろうか。