世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
宿の帳簿には、俺の泊まった部屋が記されていた。
三日前から、毎晩同じ部屋だ。
二階の廊下の突き当たり。窓の立て付けが悪く、夜になると隙間から風が入る。
宿の主人はそのことを知っている。部屋の鍵が一つ貸し出されていることも、代金が支払われたことも。
だが、誰に貸したのかだけを知らない。
「……変だねえ」
帳簿をめくる主人の指が止まった。
「三日とも、同じ部屋が埋まってる。銅貨も受け取ってる。だけど、客の顔が浮かばないんだよ」
「俺です」
「そう言われりゃ、そうなのかもしれないけどね」
主人は俺を見上げ、困ったように笑った。
その顔を見て、自分がどれほど無茶なことを求めているのか悟った。
覚えていない相手に、覚えていろと言っている。
しかも、忘れた本人に落ち度はない。
「すみません。責めたいわけじゃないんです」
「いや、こっちこそ悪いねえ。お前さん、何か困ってるのかい?」
すぐには答えられなかった。
困っている、という言葉では足りなかった。
自分の居場所が、毎朝なくなる。
昨日の親切が、今日には他人のものになる。
それをどう説明すればいいのか、俺にはまだ分からなかった。
*
森から戻った翌日、村を出るのを一日延ばした。
あの石碑は消えていた。
夢の中では、誰かが「まだ、駄目だ」と言った。
死んだはずの瞬間に見た白い光も、今では事故の光景とは思えなくなっている。
確かめたいことは増える一方だった。
だが、手掛かりを追って森をさまよう前に、まず足元の異常を理解しなければならない。
俺がこの村に滞在した証拠は、どこまで残るのか。
宿の主人に頼み、帳簿をもう一度見せてもらった。
そこには宿泊日と部屋番号、受け取った金額が並んでいる。
客の名前を書く欄もあった。
「ここ、空欄ですね」
「そうだね。書き忘れたんだろうさ」
「三日とも?」
主人は言葉を失った。
三日分の欄は、どれも空白だった。
ほかの客の欄には名前がある。読めないのは俺の欄だけ、というわけではない。最初から何も書かれていないように見える。
「俺が名前を言わなかった可能性は?」
「うちは泊めるとき、必ず名前を聞くよ」
「じゃあ、書いたはずなんですね」
「……そのはずなんだけどねえ」
主人は自分の筆跡を見つめた。
昨日の自分が何をしたか、分からない。
その不安が、初めて顔に表れていた。
胸の奥に、小さな罪悪感が芽生えた。
俺の異常を確かめるたび、何も知らない人間まで不安にさせてしまう。
それでも、引き返せなかった。
「今日、俺の名前を書いてもらえませんか」
「名前を?」
「レイです。明日の朝、同じ場所を確認したい」
主人はしばらく俺を見つめ、それから肩をすくめた。
「妙な頼みだねえ。まあ、構わないよ」
主人は筆を取り、今日の日付の横に『レイ』と記した。
その文字を目で追った。
確かに読める。主人にも読めている。
「ほら、これでいいかい」
「ありがとうございます」
明日まで残るかどうか。
それが、最初の実験だった。
*
昼前、宿の台所で小さな青い光が灯った。
主人が炉の脇に置かれた石を指で弾いたのだ。
石は親指ほどの大きさで、真ん中に細い銀色の筋が走っている。
青い光が一度強くなり、薪に火が移った。
「……今のは?」
「何だい?」
「その石です。火をつけたでしょう」
「ああ、火種石かい」
主人は当然のことのように答えた。
「魔力を流せば火がつく。台所じゃ珍しくもないよ」
差し出された石に目を凝らした。
この世界には魔法があると聞いていたが、目の前で使われるのを見るのは初めてだった。
「誰でも使えるんですか」
「大抵の人間は、これくらいならね。ただ、魔力の通りが悪い人もいるし、石が古けりゃうまくつかない」
主人は石を俺に差し出した。
「やってみるかい?」
石を受け取った。
石は少し温かい。表面は滑らかで、銀色の筋だけがざらついている。
「魔力を流すって、どうやるんです?」
「指先から熱を押し出すような感じさ。無理にやると疲れるから、軽くでいい」
言われたとおり、石を握ってみた。
指先に意識を集中する。
何も起こらなかった。
もう一度。
今度は息を止め、力を込める。
やはり、光らない。
「……難しいな」
「初めてならそんなものさ。魔力の少ない人間もいるしね」
主人は石を取り戻すと、あっさり青い火花を散らした。
青い光から目が離せなかった。
魔法は、この世界では特別な奇跡ではないらしい。
薪を割ることや水を汲むことと同じ、暮らしの中の技術なのだ。
それなら、俺を忘れる現象も魔法なのだろうか。
だが、主人が火種石を使うときには、石も指も確かに動いた。
俺の名前が失われるときには、何の気配もない。
誰も呪文を唱えない。
誰も手をかざさない。
ただ朝が来ると、俺がいなかったことになっている。
その違いが、ひどく不気味だった。
*
午後、雑貨屋で小さな紙束を買った。
日記とは別に、記録を残すためだった。
店の奥で紙を広げ、二枚に同じことを書いた。
『レイ。今日、この村の雑貨屋を訪れた』
一枚は日記に挟む。
もう一枚は自分の荷物にしまう。
そして、三枚目だけは店主に渡した。
「明日の朝まで、これを預かってもらえませんか」
白髪交じりの老人は、眼鏡の奥で目を細めた。
「何かの約束事かね」
「そんなところです。明日、必ず取りに来ます」
「忘れないようにしないとな」
店主は笑い、紙を引き出しに入れた。
礼を言って店を出た。
実験の意味を、まだ誰にも説明する気にはなれなかった。
説明したところで信じてもらえるとは思えない。
それに、仮に信じてもらえたとして、その人も明日には俺を忘れてしまう。
何度でも話せばいい。
最初は、そう思っていた。
だが、同じ説明を繰り返すたび、相手の目に浮かぶのは理解ではなく戸惑いだった。
俺だけが積み重ねた時間を、相手に押しつけているような気がした。
だから、まずは物に頼る。
記憶よりも確かなものに。
紙。
インク。
帳簿。
俺が存在したという痕跡が、どこまで残るのか。
その答えを知るのが怖かった。
だが、知らないままでいる方が、もっと怖かった。
*
その夜、宿の食堂には三人の客がいた。
旅装の男が二人と、村の職人らしい女が一人。
炉の火が壁を赤く照らし、皿の触れ合う音が静かに響いている。
食堂の隅で、薄いスープを飲んでいた。
隣の卓では、旅人たちが街道の話をしている。
隣町では魔石の値段が上がっていること。
森の北側の道で荷車が壊れたこと。
王都から来る巡回の騎士が、今年はまだ姿を見せていないこと。
聞き慣れない地名ばかりだった。
それでも、その会話には確かな生活の重みがあった。
人々は昨日の出来事を話し、明日の予定を立てる。
誰もが、自分の時間を誰かと共有している。
俺だけが、その輪の外にいた。
不意に、旅人の一人が俺を見た。
「兄ちゃん、どこから来たんだ?」
「……遠くから」
「遠くって、どの辺だ?」
答えに詰まった。
日本と言っても通じないだろう。
「自分でも、うまく説明できない場所だ」
男は笑った。
「訳ありか。まあ、旅をしてりゃいろいろあるよな」
それきりだった。
少しだけ、肩の力が抜けた。
今この瞬間は、確かに彼らと話せる。
彼らは俺の声を聞き、俺の顔を見ている。
忘れられることと、存在しないことは同じではない。
そう思いたかった。
だが、食堂を出るとき、背後から旅人の声が聞こえた。
「さっきの若いの、どこから来たって?」
「さあ。遠くからだとさ」
「名前は?」
「聞いてないな」
廊下で足が止まった。
名前を聞かれていないのだから、答えられなくて当然だ。
それだけのことだ。
なのに、妙に胸が苦しくなった。
明日の朝には、あの二人は俺と話したことさえ曖昧になるのだろう。
その確信が、もう俺の中に根を下ろしていた。
*
翌朝、日の出とともに一階へ降りた。
宿の主人は帳簿を開いていた。
「おはようございます」
「おや、いらっしゃい。泊まりかい?」
いつもの挨拶だった。
返事の代わりに、帳簿の昨日の日付を指した。
「昨日、ここに名前を書いてもらいました」
主人は怪訝そうに俺を見た。
「そうだったかい?」
「確かめてもらえませんか」
主人は帳簿をこちらへ向けた。
昨日、確かに『レイ』と書かれた場所。
そこには、黒い線が残っていた。
だが、文字ではなかった。
インクが滲んだようにも、誰かが上から塗り潰したようにも見えない。
細い線は一つ一つ鮮明なのに、視線を合わせると、どうしても文字の形を結ばない。
「……何だい、これは」
主人の声が震えた。
「昨日は、読めたんです」
「私が書いたのかい?」
「ええ。俺の名前を」
主人は指で線をなぞった。
「そんな馬鹿な。インクは乾いてるし、紙も傷んじゃいない。なのに……」
言葉が途切れた。
紙面を見つめた。
文字は、そこにある。
だが、意味がない。
消されたというより、読めないものへと変えられている。
「……すみません」
思わず謝った。
主人は驚いたように顔を上げた。
「どうしてお前さんが謝るんだい?」
俺にも分からなかった。
ただ、俺が関わると、当たり前のものが壊れていく。
そんな気がした。
*
雑貨屋へ行くと、老人は俺を覚えていなかった。
だが、預けた紙は残っていた。
「これを取りに来たんです」
引き出しを指すと、店主は眉をひそめた。
「どうしてそこにあると知ってる?」
「昨日、俺が預けたからです」
老人はしばらく迷い、やがて紙を取り出した。
文章は残っていた。
『今日、この村の雑貨屋を訪れた』
だが、その前に書いた名前は、宿の帳簿と同じように読めなくなっていた。
懐から日記を取り出した。
昨日、自分で挟んだ紙を開く。
『レイ。今日、この村の雑貨屋を訪れた』
こちらは、はっきりと読めた。
荷物にしまっておいたもう一枚も、変わっていない。
同じ日に、同じ筆で書いた名前。
俺の手元にあった二枚は無事で、他人に預けた一枚だけが変わっている。
ただし、これだけで理由が分かったわけではない。
持ち主の違いなのか。
保管場所の違いなのか。
それとも、他人が俺について記憶しようとしたことに関係があるのか。
今の段階では、どれも推測だった。
それでも、一つの事実だけは揺るがなかった。
俺の名前は、他人の記録の中で形を保てない。
「……あんた、大丈夫かい?」
店主が尋ねた。
気づけば、紙を握りしめていた。
指先に力が入り、端が小さく折れ曲がっている。
「大丈夫です」
そう答えた、そう答えないとどうにかなりそうだった。
*
宿の部屋に戻り、日記を開いた。
『宿の主人が書いた名前は、翌朝読めなくなった』
『雑貨屋に預けた紙も同様』
『自分で保管した紙と日記は変化なし』
書き終えてから、長い間その文字を眺めていた。
この世界の人間は、俺と会話できる。
俺に食事を出し、金を受け取り、助けを求めることもできる。
だが、時間が経つと俺の顔と名前を忘れる。
俺のしたことは残り、その行為をした人間だけが曖昧になる。
そして今、記録にまで同じことが起きた。
世界から、消えかけているのだろうか。
そう考えて、首を振った。
違う。
消えかけているのなら、まだどこかに残っているはずだ。
この世界は最初から、俺を数に入れていない。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
怖くなって、窓を開けた。
外には村の広場が見えた。
荷車を引く男がいる。
洗濯物を抱えた女がいる。
子供たちは追いかけっこをして、井戸のそばを走り抜けていく。
誰も、こちらを見ない。
当たり前だ。
二階の窓辺に立つ旅人を、いちいち気にする理由などない。
だが、俺にはその無関心さえ恐ろしかった。
もし今、ここから落ちたら。
誰かが助けてくれるだろう。
傷を手当てし、宿まで運んでくれるかもしれない。
そして翌朝には、誰を助けたのか分からなくなる。
俺の傷は残る。
血も、割れた窓枠も、落ちた場所の足跡も残る。
ただ、そこにいた俺だけが消える。
静かに窓を閉めた。
それから、日記の余白に一文を書いた。
『俺が何をしたかは残る。俺が誰かは残らない』
書き終えたとき、ようやく自分が何に怯えているのか分かった。
死ぬことではない。
死んでも、誰かが覚えていてくれるなら、その人の中に自分の時間が残る。
だが、俺にはそれがない。
誰かのために何かをしても、相手の中に俺は残らない。
善意も、約束も、謝罪も、感謝も。
俺という人間に結びつかないまま、世界に置き去りにされる。
それでも、生きていかなければならない。
*
夕方、宿の主人が部屋の扉を叩いた。
「お客さん。少しいいかい」
扉を開けると、主人は申し訳なさそうな顔をしていた。
「さっきの帳簿のことなんだけどね」
「はい」
「名前が読めないのは気味が悪いが、部屋代をもらってることは確かだ。だから、今夜も泊まって構わないよ」
思わず目を見開いた。
「……いいんですか」
「金を受け取っておいて追い出したら、商売にならないだろう」
主人は笑った。
「ただし、明日も私が忘れてたら、また教えておくれ」
その言葉に、胸が詰まった。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げた。
主人は軽く手を振り、階段を下りていった。
明日の朝には、今の会話も忘れられるだろう。
それでも、今夜の親切は本物だった。
机に戻り、日記を開いた。
『宿の主人は、名前を覚えていなくても、俺を泊めてくれた』
そう書き記した。
名前が残らなくても、行為は残る。
それは恐ろしいことだった。
だが、同時に、わずかな希望でもあるのかもしれない。
俺が何者なのか、この世界は覚えてくれない。
それでも、俺のしたことが誰かを助けるなら。
まだ、ここにいる意味はあるのだろうか。
答えは出なかった。
窓の外では、日が沈みかけていた。
遠くの森が、濃い藍色に変わっていく。
あの森には、消えた石碑がある。
そして、俺の知らない何かが眠っている。
だが今は、そこへ戻る勇気がなかった。
日記を閉じ、灯りを消した。
暗闇の中で、自分の名前を小さく呟く。
「レイ」
誰も答えない。
それでも、もう一度呼んだ。
「……久瀬玲司」
その名前だけは、せめて自分が覚えていようと思った。
明日、この世界がまた俺を忘れたとしても。