世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
ぱらり。
窓の外で鳴った音に、思わず顔を上げた。
夜風が枝を揺らしている。
それだけなら、何もおかしくない。
けれど、あの音は風に混じって聞こえたのではなかった。
耳のすぐそばで、誰かが紙を一枚めくったような近さだった。
「今、何か聞こえましたか」
「風だろう」
ベルクは窓へ目を向けたものの、すぐに机へ視線を戻した。
聞こえなかったのか、気に留めなかったのか。
どちらとも決められない。
「さっきのこと、もう一度聞いてもいいですか」
「俺がお前の名を呼んだことか」
「はい。名前を思い出せないのに、口から出たんですよね」
「ああ。妙な感覚だった」
額に指を当て、言葉を探すように黙った。
「お前の顔は分かる。今日、誰と何を話したかも覚えている。だが、名だけが、今しがた誰かに教えられたように思える」
「俺が教えたんじゃなくて?」
「それなら、教えられた場面を覚えているはずだろう」
確かに、そうだった。
これまでは、顔も名前も、出会った経緯も曖昧になることが多かった。
少なくとも、目の前の出来事だけが残り、名前を口にした理由だけが抜け落ちるという話は、はっきり聞いたことがない。
「今、もう一度呼べますか」
「レイ」
ためらいはなかった。
「その名前を聞いて、何か思い出しますか」
「お前の名前だとは分かる。だが、どこで覚えたのかは分からん」
日記に視線を落とした。
開いた頁には、つい先ほど書いた文字が残っている。
ベルクはそれを読んだのだろうか。
それとも、文字を読むより先に名が出たのだろうか。
「俺が日記に書いた名前を、見ましたか」
「……覚えていない」
その答えは、これまでで一番厄介だった。
何を忘れたのか、本人にも分からない。
「今夜のことを、記録してもいいですか」
「構わん。ただし、俺の言ったことと、お前の考えは分けろ」
いつもの言い方だった。
それだけで少し救われる。
日記の新しい頁に、時刻を書いた。
名前を呼ばれたこと。
呼んだ本人が、その名前を知った経緯を思い出せなかったこと。
それでも、今日一緒に調べた出来事は覚えていること。
最後に、窓の外で聞いた音については、自分だけが確認したものとして記した。
「その写しも、ここに残しておきましょう」
閉鎖前日の受領簿を指すと、ベルクは少し考えてから頷いた。
「原本は詰め所だ。これはお前が持っていていい。だが、今夜はもう寝ろ」
「はい」
「その返事、何度聞いたか分からんな」
立ち上がると、扉の前で足が止まった。
「レイ」
「はい」
「今、名前を呼んだのは俺だ。それだけは、忘れないうちに書いておけ」
振り返らずに言い、廊下へ出ていった。
*
翌朝、目を覚まして最初に確かめたのは、昨夜の記録だった。
文字は消えていない。
閉鎖前日の写しも、日記の間に挟まっている。
だが、眠る前には気づかなかったことがあった。
『最後に名を受け取った者を照合する』。
この一文には、いつ照合するかが書かれていない。
仮受領者が失われたときなのか。
誰かが名を告げたときなのか。
あるいは、別の条件があるのか。
赤い線が現れた紙を預かったのは自分だった。
だからといって、十年前の規則がこちらへ向けて働いているとは限らない。
それでも、ベルクの異変と重なった以上、無関係だと片づけることもできなかった。
廊下へ出ると、リシアが水桶を運んでいた。
一つ受け取ろうとすると、すぐに首を振られる。
「先生に叱られますよ」
「まだ何もしてないよ」
「持とうとしました」
桶を抱えたまま、少し笑った。
その顔を見て、昨夜の不安がわずかに遠のく。
「ダレンさんの様子は?」
「熱はありません。でも、今朝は名前を聞く前に、自分から言ってくれました」
「そうなんだ」
「『今日は俺から名乗る』って。ちょっと得意そうでした」
それは、いい変化だった。
自分の名前を確かめることが、恐怖だけではなくなっているのかもしれない。
「それから、あなたに会いたがっていました」
「俺に?」
「はい。昨夜、隊長さんが何か話していたんでしょう。気になるそうです」
名前は聞かれなかった。
昨日の自分を覚えているのかもしれない。
そう思いかけて、やめた。
今、話が通じている。
それで十分だった。
*
ダレンは寝台の上で、窓の外を見ていた。
折れた脚は木の添え板で固定され、包帯の端には新しい薬が塗られている。
「おう。来たか」
「おはようございます」
「昨日、隊長が遅くまで残ってただろう。何か見つかったのか」
医師が診察を終えたところだった。
長話は避けるようにと釘を刺され、椅子を寄せる。
「古い受領簿に、気になる記録がありました」
「俺の名前か」
「いいえ。仮に名前を受け取った人がいなくなった場合、最後に名前を受け取った人を確かめる、と」
目の奥が険しくなる。
「……ああ」
「知っていたんですか」
「言葉は知らねえ。だが、似た話は聞いた」
毛布の端を指で押さえた。
「第三倉へ荷を運んだとき、帳面を見たって話をしただろ」
「はい」
「その前に、倉の入口で男と話した。顔はよく見えなかったが、声だけは覚えてる」
少し待った。
ダレンが自分から続きを話すまで、急かさない。
「荷を置いたら、名を言えって。俺の名じゃない。荷を受け取る奴の名だ」
「相手の名前を?」
「ああ。知らねえと言ったら、『なら、誰に渡したことになる』って聞き返された」
仕事としては、もっともな問いにも思えた。
荷を渡した相手が分からなければ、責任の所在が曖昧になる。
だが、第三倉ではそれが別の意味を持っていたのかもしれない。
「結局、どうしたんですか」
「相手が胸元の札を見せた。数字の二だ。それを帳面に書いた」
「照合人二……」
「そういう呼び名だったかは知らねえ。ただ、書いた途端、男が言ったんだ」
そこで口が止まった。
喉が渇いたのか、水杯を指さす。
飲み終えてから、低い声で続けた。
「『名前を知らないなら、知らないままにしておけ』って」
意味を考える。
名を言えと求めておきながら、知らないままでいろと言う。
矛盾しているように聞こえた。
「それは、誰の名前のことですか」
「……分からねえ。荷を受け取る奴か、倉から出てきた奴か」
苦しそうに眉が寄る。
「悪い。そこは本当に思い出せねえ」
「謝らないでください」
椅子から立つと、呼び止められた。
「なあ、レイ」
「はい」
「俺が名乗ったこと、あんたは覚えてるか」
「覚えています」
「そうか」
しばらく天井を見つめ、それから小さく笑った。
「なら、今日はそれでいい」
*
昼過ぎ、ベルクが治療所へ戻った。
昨日より顔色はよかったが、手帳を開く指の動きはせわしない。
「昨夜の記録を持ってきた」
「覚えていましたか」
「お前と話したことはな。だが、名前を呼んだ瞬間の感覚は、もう曖昧だ」
二冊の記録を机に並べた。
自分の日記には、昨夜の会話が残っている。
守備隊の手帳にも、ほぼ同じ内容が書かれていた。
ただ、一か所だけ違っていた。
『対象の名を口にした直後、取得経路を想起できず』。
「取得経路……?」
「俺なりの書き方だ。どこでその名を知ったのか、思い出せないという意味だ」
手帳の下には、もう一行あった。
『本人を識別できる状態は継続』。
「これも、昨日書いたんですか」
「ああ。お前を見失ったわけじゃない。そこは分けておきたかった」
昨夜、ただ怖かったことが、少しだけ輪郭を持った。
誰かに名前を忘れられるのは、今に始まったことではない。
しかし今回は、名前を知るという行為そのものに、何かが挟まったように見えた。
「ダレンさんから、照合人二の札を見たという話を聞きました」
入口でのやり取りを伝えると、手帳が開かれた。
「それなら、あの商人の受領記録とも合う。二番の札を使う者がいたのは確かだろう」
「その人が、今の番人なんでしょうか」
「十年前の二番と、今ダレンを追っている奴が同じとは限らん」
そこで一度、筆が止まる。
「ただ、当時の書記から聞いた話がある」
「何ですか」
「閉鎖前日、仮受領の最後の欄を空けたのは、書き損じじゃなかったそうだ」
顔を上げた。
「誰かの名前を消したんですか」
「書記は、名前を書いた記憶がないと言っている。上から『ここは空けておけ』と命じられたらしい」
「誰に?」
「命じた相手の顔は覚えているそうだ。だが、名を聞いても思い出せなかった」
背中に冷たいものが走った。
名前を知らなかったのか、忘れたのか。
それだけでは分からない。
「何か特徴は?」
「右手に火傷の痕があった。指の付け根から手首まで、古い傷が伸びていたそうだ」
初めて出てきた、具体的な手掛かりだった。
「ミラさんに札を届けさせた人物にも、同じ傷が?」
「本人は顔を見ていない。そもそも依頼人に会っていないからな」
一致を急いではいけない。
それでも、名前のない相手を探すために、初めて使える特徴が見つかった。
「書記の方に、もう一度会えますか」
「今夜、詰め所へ来てもらう。体調を見ながらだがな」
話が終わりかけたところで、廊下から声がした。
「隊長さん、少しいいですか」
リシアだった。
手には、小さな紙片を挟んでいる。
「ミラさんから伝言です。今朝、家の戸にまた紙が入っていたそうです」
*
ミラは治療所へ来ていなかった。
守備隊が保護している家から、見張りを通して伝言を寄こしたのだという。
紙片には、短い文章があった。
『二番に渡すな。二番の名を聞け』
その下には、丸い印と三本線。
赤い線はない。
「今までと違いますね」
「何がだ」
「前は、荷運びの男に札を渡せという話でした。今度は二番の名前を聞けと」
ベルクが頷く。
「依頼人が変わったのかもしれん。同じ奴が指示を変えた可能性もある」
紙の端を確かめた。
新しい紙だった。
折り目も鋭く、泥の汚れはない。
古い記録の切れ端ではなく、誰かが最近書いたものだ。
「ミラさんは、これを誰かに見せましたか」
「見張りの方と、私だけです。隊長さんに渡すよう頼まれました」
リシアはそう答え、少し迷ってから付け加えた。
「私、二番という人が本当にいるのか気になります」
「どうして?」
「番号だけなら、誰でも名乗れるでしょう。札を持っている人が、同じ人とは限りません」
ベルクが静かに息を吐いた。
「そのとおりだ。だから、札を持つ人間と、昔その番号を使っていた人間は分けて考える」
リシアの言葉は、いつも難しい推理をするわけではない。
けれど、見落としていた当たり前のことを、こちらへ戻してくれる。
「ありがとうございます」
「え? 私は何も……」
「大事なことでした」
照れたように笑い、紙をベルクへ渡した。
*
夕方、治療所の裏口に一台の荷車が止まった。
積まれていたのは薬草と包帯用の布で、いつも取引のある商人が運んできたものだった。
医師が受領簿を持って出ていく。
「今月は早いな」
「北の道が通りにくくなる前に、届けようと思いまして」
商人は荷を降ろし、受領簿へ名前を書くよう求めた。
その光景を見て、足が止まった。
名前を書く。
相手が受け取ったと確認する。
ただ、それだけのことだ。
医師が筆を取る直前、商人が言った。
「そういえば、最近は受け取る方のお名前も、別の紙に書いてもらうんですよ」
「いつからだ」
「昨日からです。荷置き場の火事で帳面が焼けたでしょう。控えを二つ残せって、町の仲介人に言われまして」
胸がざわついた。
火事のあとに控えを増やすのは、不自然ではない。
だが、二枚に名前を記すという話が、あまりに近かった。
「その仲介人の名前は分かりますか」
口を挟むと、商人がこちらを見た。
「いやあ、名前までは。店の主人が話をつけたんで」
「どんな人か聞いていませんか」
「男だそうです。手を布で巻いてたとか」
ベルクの話が頭をよぎった。
右手の火傷。
しかし、布を巻いているだけでは同じ人物だと分からない。
「その控え、見せてもらえますか」
医師が先に尋ねた。
商人は荷車から二枚の紙を取り出した。
どちらも同じ受領票で、品名と数量が書かれている。
受け取る者の欄だけが空白だった。
「これに名前を?」
「ええ。二枚ともお願いします」
医師は筆を置いた。
「今日は一枚だけにしておこう。もう一枚が必要なら、仲介人から正式に説明してもらう」
「困りますよ、先生」
「荷は受け取る。数量も確かめる。だが、何のための控えか分からんものに、勝手に署名はせん」
商人は不満そうだったが、無理に書かせようとはしなかった。
一枚に受領印を押し、もう一枚は白紙のまま持ち帰ることになった。
荷車が去るまで、誰も口を開かなかった。
「先生、あれは……」
「普通の商売かもしれん。だが、今は慎重にする」
医師は受領簿を閉じた。
「患者の名を守るのも、わしの仕事だ。自分の名まで軽々しく渡す気はない」
その言葉に、初めて気づいた。
第三倉の謎は、古い倉の中だけに留まっていない。
誰かが今、村の普通のやり取りへ、同じ形を持ち込もうとしている。
*
夜、ベルクとノルドが治療所へ来た。
商人の話を伝えると、ノルドはしばらく黙っていた。
「二枚の控えか。嫌な偶然だな」
「偶然かどうか、まだ分かりません」
「そうだな。だから、物のほうを調べた」
工具袋から取り出したのは、西の井戸で見つかった木札の写しだった。
その横へ、ミラが運んできた札の写しを並べる。
「寸法はほぼ同じ。穴の位置も合う。だが、木目の向きが違う」
「別の札ということですか」
「ああ。同じ板を切り分けたものではない。少なくとも、井戸の札を削って作り直したわけじゃない」
紙の上に二つの輪郭が重ねられた。
「それから、ミラの札の裏には、新しい墨で『仮受領者に渡すこと』とあったな」
「はい」
「古い札のほうには、文字を削った痕がある。あの傷の幅を測ったら、二文字か三文字が入っていたらしい」
「名前ですか」
「短い名前ならな。番号や役職だった可能性もある」
答えを急がない説明だった。
それでも、削られた部分がただの飾りではなかったことは分かる。
「今夜、書記の方は?」
ベルクに尋ねると、手帳が開かれた。
「来てもらった。右手に火傷のある男を見たのは、閉鎖前日の夜だそうだ」
「その人が、仮受領者の欄を空けさせた?」
「そう言っている。ただし、本人は当時、命令に従っただけだ。相手の役職は知らなかった」
一度、言葉が切れた。
「それで、もう一つ思い出したらしい」
「何を?」
「男は、空欄にする前に一度だけ、別の紙へ名前を書いたそうだ」
息を呑む。
「その紙は?」
「書記が持っていた。命令が不審で、捨てられなかったらしい」
差し出されたのは、古びた封筒だった。
表には日付も宛名もない。
封蝋の代わりに、紙紐が一度だけ巻かれている。
「中を見たんですか」
「書記本人が開けた。俺も立ち会った」
封筒から、薄い紙が一枚取り出された。
そこには名前ではなく、短い文章があった。
『照合人二の名は、本人から聞くこと』
その下には、別の筆跡で一行。
『名を代わりに告げた者を、受領者と見なす』
喉が詰まった。
「……代わりに、名前を言うだけで?」
「この文面ではそう読める。だが、何を受領したことになるのかは書かれていない」
リシアの言葉が思い浮かんだ。
番号なら、誰でも名乗れる。
そして、他人の名前なら、誰かが代わりに言うこともできる。
「だから、二番の名を聞けと……」
言いかけて、止まった。
誰かがその名を知りたがっている。
だが、聞いた名前を別の誰かに伝えることまで、許されているわけではない。
「書記の方は、二番の本名を知っていましたか」
「知らないそうだ。だからこそ、この紙を残したと言っていた」
封筒を閉じる手元を見つめた。
十年前、誰かは名前を言わせようとしていた。
今も、別の誰かが同じことをしている。
その二つがつながっているかどうかは、まだ分からない。
*
深夜、日記を閉じる前に、今日の出来事を整理した。
照合人二の札。
右手の火傷。
二枚の受領票。
そして、他人の名を代わりに告げた者を受領者と見なすという古い注意書き。
一つだけ、確かなことがある。
名前を知ることと、その名前を口にすることは、同じではない。
誰かが名乗るのを待つのか。
代わりに答えてしまうのか。
その違いを、第三倉の記録は執拗に区別している。
扉の向こうで、小さな物音がした。
「起きてますか」
リシアだった。
手には薬の小瓶ではなく、薄い紙を持っている。
「ダレンさんが、どうしても今夜渡してほしいって」
「何を?」
「さっき、自分で書いたそうです」
紙を受け取る。
震えた文字で、短い文が記されていた。
『二番の名前を、知っている』
その下に、さらに一行。
『でも、俺の口からは言えない』
顔を上げると、リシアが静かに首を振った。
「理由を聞いても、答えてくれませんでした。ただ、あなたにだけ伝えてほしいって」
紙の端に、かすかな赤い汚れがあった。
線ではない。
乾きかけた墨が、指に付いたような小さな点だった。
「ダレンさんは、今も起きてる?」
「はい。でも、先生がもう休ませています」
明日の朝まで待つしかない。
そう思って紙を折りかけたとき、裏に文字があることに気づいた。
『名前を聞かれても、代わりに答えるな』
胸の奥が冷たくなる。
それは、誰に向けた警告なのだろう。
ダレンにか。
自分にか。
それとも、これから二番の名を聞かされる誰かに。
窓の外で、遠く鐘が一度だけ鳴った。
村の夜を知らせる鐘より、ずっと小さな音だった。