世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
『二番の名前を、知っている』
ダレンが書いたその一行を、夜が明けても読み返していた。
裏には『名前を聞かれても、代わりに答えるな』とある。
文字は震えていたが、途中で書き直した跡はない。
書くことはできて、口にすることはできない。
その違いを確かめたかった。
けれど、本人が眠る前にわざわざ伝えてきた警告を、こちらの好奇心で踏み越えるわけにはいかない。
廊下から足音が近づいた。
戸を開けたのはリシアだった。
薬草の匂いがする袖をまくり、朝の冷気に赤くなった指先をこすっている。
「起きていたんですね」
「少し早く目が覚めた」
「先生が、ダレンさんの診察が終わったら来ていいって。ただし、長く話さないこと」
「分かった」
紙を折り畳むと、彼女の視線がそこに落ちた。
「昨日の手紙ですか」
「うん。本人が何を伝えたかったのか、考えてた」
「名前を言えないって、怖いですね」
思いがけず、顔を上げた。
「知っているのに、ですか」
「はい。言葉にした途端、何かが変わるかもしれないと思ったら、普通の名前でも言えなくなりそうです」
その感覚は、妙に分かる気がした。
自分の名を告げるたび、相手の記憶から抜け落ちる日々を送っている。
それでも名乗ることをやめなかったのは、名乗らなければ最初からいなかったことになりそうだったからだ。
「無理に言わせるつもりはないよ」
「それなら、よかった」
安心したように笑う。
その笑顔に覚えられているかどうかを、今日は尋ねなかった。
*
ダレンの寝台には、新しい包帯が巻かれていた。
顔色は昨日よりよい。
水杯を置くと、こちらを見て口元を歪めた。
「紙、読んだか」
「読みました」
「なら、分かるだろ。名前は聞くな」
「聞きません。ただ、どうして書いてくれたのか知りたいんです」
しばらく返事がなかった。
窓の外で、庭を掃く箒の音が続いている。
「俺が知ってるってことを、誰かに残しておきたかった」
「忘れてしまうかもしれないから?」
「それもある。でも、違うんだ」
毛布の上で手が動く。
何かをつかもうとして、途中で止まった。
「倉で帳面を見た夜、二番の札をつけた男がいた。俺はそいつに、名を聞いたんだ」
「答えたんですか」
「……ああ」
医師が椅子を寄せ、脈を確かめた。
話すこと自体は止めなかった。
「聞いたときは、ただの名前だった。珍しくもない、短い名前だ。ところが帰り道で、妙なことに気づいた」
「何に?」
「誰から聞いた名前なのか、思い出せなかった」
ベルクの異変が頭をよぎる。
レイという名前を呼べても、知った経緯を思い出せなかった。
同じ現象だと決めるには早い。
けれど、似た部分はあった。
「顔は覚えていましたか」
「ぼんやりとな。手を見たのは覚えてる。右手に、ひどい火傷の痕があった」
息を止めた。
閉鎖前日の書記が見た男にも、同じ特徴があった。
「その傷は、指の付け根から手首まで?」
「……そうだ。なんで知ってる」
「昔の記録を扱った人が、似た特徴を話してくれました」
十年前の男と、ダレンが見た男。
本当に同じ人物なのか。
年月の差を考えれば、顔の特徴を確かめる必要がある。
「二番と名乗った人は、年配でしたか」
「声は若くなかった。でも顔は暗くてよく見えねえ。俺が見たのは、胸の札と手だけだ」
「その人は、自分から名前を言ったんですね」
「俺が聞いたからな。……でも、あとで思ったんだ。あいつ、本当に自分の名前を言ったのかって」
言葉の意味を問う前に、医師が手を上げた。
「今日はそこまでだ」
「まだ話せる」
「話せることと、話してよいことは違う。息が速くなっている」
ダレンは不満そうに口を閉じた。
立ち上がると、背後から呼び止められる。
「なあ、あんた」
「はい」
「俺があの名前を言いそうになったら、止めてくれ」
こちらを見つめる目には、怯えだけでなく、はっきりした意思があった。
「分かりました」
*
昼前、ベルクが古い書記を連れてきた。
白髪の男は杖をつき、治療所の食堂へ入るまでに二度立ち止まった。
本人の希望で名前は記録に残さないという。
話を聞く前に、その条件を確認した。
「昔のことを思い出してもらうのに、無理はさせません」
「無理をして来たのは、わしのほうだよ」
乾いた笑いが返る。
椅子に座ると、持参した布袋から小さな板を取り出した。
「隊長さんから、二番の札について聞かれた。これを見せるべきか、ずっと迷っていたんだ」
掌に収まるほどの木板だった。
表面には三本の線と丸い印。
その下に『照合人二』と彫られている。
「本物ですか」
「役所から持ち出したものじゃない。閉鎖のあと、捨てられた道具を集めていたときに拾った。帳面の文字を写すための見本板だ」
ノルドに見せれば材質や年代を確かめられるだろう。
だが、いま気になるのは別のことだった。
「この板には名前がありませんね」
「そう。二番は名ではなく役目だった。少なくとも、わしが帳面をつけていたころは」
ベルクが手帳を開いた。
「役目なら、交代することもあったのか」
「それは知らん。二番の札を持つ者が来れば、二番として扱えと言われていた」
「札を持つだけで?」
「書類の上ではな。だが、閉鎖の前日だけは違った」
杖の握りが軋んだ。
「右手に火傷のある男が、最後の欄を空けておけと言った。わしが理由を聞くと、こう答えたんだ。『札を持っている者と、名を持っている者が違う』」
誰もすぐには口を開かなかった。
「その言葉、当時はどう理解しました?」
「偽物がいるのかと思った。だが、男は偽物だとも本物だとも言わなかった。代わりに、紙を二枚出した」
書記は木板を伏せた。
「片方には二番の印があった。もう片方には、誰かの名前が書いてあった。わしは後者を受領簿へ写そうとしたが、止められた」
「その名前は覚えていますか」
「覚えていない」
即答だった。
しかし、次の言葉までには長い間があった。
「正確には、読んだ記憶がない。紙を見たのは覚えている。文字があったことも覚えている。なのに、どういう字だったのかだけが抜けている」
ベルクと目が合った。
昨夜の出来事を、二人とも思い出していた。
「その紙はどうなりました?」
「火傷の男が持ち帰った。印のあるほうは、わしが預かったはずだ」
「今もありますか」
「ない。閉鎖の日、書類をまとめたときに消えた」
『消えた』という言葉が気になった。
「紛失したという意味ですか。それとも、紙の文字が?」
「紙ごとだ。誰かが持ち去ったのかもしれん。わしはその場を見ていない」
区別をつけて答えてくれたことに、少し救われた。
何もかもを異常として扱えば、本当におかしな出来事を見失う。
「もう一つだけ」
ベルクが静かに尋ねる。
「その男は、オルデンと一緒に来たのか」
「最初は別々だった。だが帰るときには、オルデンが外で待っていた。二人で話していたのを覚えている」
「何を?」
「オルデンが、『あの人はもう戻っている』と言った。すると男は、『戻ったことと、返したことは違う』と」
十年前の言葉が、少しずつ形を変えながら重なっていく。
帰したことにするな。
戻っていないことにするな。
そして、戻ったことと返したことは違う。
どれも似ているが、同じではない。
書記は疲れた様子で目を閉じた。
医師が休憩を勧めると、素直に頷く。
それ以上は聞かなかった。
*
午後、ノルドが見本板を調べた。
古い木札と並べ、穴の位置を測っている。
「これ自体は機械に差す札じゃないな。厚みが違う。印の形を写すための板だろう」
「二番の役目を示す印ですね」
「ああ。ただし、気になるものがある」
裏側を灯りへ向けた。
木目に沿って細い傷が二本走っている。
片方は古く、もう片方は新しい。
「裏に紙を貼った跡がある。剥がすときについた傷だ」
「名前が書かれていた可能性は?」
「紙があったことしか分からん。文字の有無は調べようがない」
ノルドは板を布に包んだ。
「それより、ミラが持ってきた札を見直したい。あれは新しい墨で『仮受領者に渡すこと』と書かれていた。もし誰かが古い道具を使っているなら、印を写す板も必要になる」
「この見本板を使って?」
「いや。これは十年前から書記が持っていた。別の板があるかもしれん、という話だ」
物が一つ増えるたび、謎も一つ増える。
そう思っていると、廊下からベルクが戻ってきた。
「ミラの家を調べた兵士から報告が来た。脅しの紙が挟まっていた戸の外側に、赤い粉が付いていたそうだ」
「赤い線と同じものですか」
「まだ分からん。採ってある。紙の線と比べる」
机の上には、木板と古い写しが並んでいる。
そこへ新しい赤い粉が加わった。
「ミラさんは?」
「守備隊の保護下にいる。家には戻さない。本人も同意している」
その判断に頷いた。
名を告げることが危険かもしれないなら、危険を知っている人間だけで試せばいいというものではない。
誰かを巻き込んで確かめる方法は、選びたくなかった。
*
夕方、リシアと一緒に庭の端まで歩いた。
医師から許された距離は短い。
途中で脇腹が痛み、石の腰掛けに座る。
「無理しましたね」
「少しだけ」
「その『少し』が信用できないんです」
叱られて、返す言葉がなかった。
彼女は薬草の籠を足元へ置き、隣に腰を下ろした。
「今日、昔の書記さんとお話ししていましたよね」
「うん。十年前の記録を扱っていた人だよ」
「私、あの方が帰るときに聞かれたんです。『ここには、誰の名前が残るんだ』って」
顔を向けた。
「何て答えたの?」
「患者さんの名前は、必要な記録に残します。でも、それを誰にでも渡すわけじゃありません、って」
彼女らしい答えだった。
「そしたら、安心したみたいでした」
風が吹き、薬草の葉が小さく揺れた。
記録に残すことと、誰かに渡すこと。
その二つは同じではない。
第三倉の帳面が何をしていたのかは分からない。
それでも、今日聞いた話には、ひとつ共通するものがあった。
名前を確かめるふりをして、名前の扱いを他人に決めさせようとしている。
「ありがとう」
「またですか?」
「うん。大事なことを教えてもらったから」
少し照れたように笑う。
「それなら、早く部屋に戻ってください。先生に見つかったら、私まで叱られます」
立ち上がると、痛む脇腹をかばって歩いた。
隣を歩く彼女の足音が、ゆっくりこちらに合わせられていた。
*
夜、ベルクが一枚の紙を持ってきた。
昼に話を聞いた書記が、帰宅後に古い手箱を探し直したらしい。
その底板の下から、薄い紙が見つかったという。
「本人が覚えていたんじゃない。娘が手箱を直そうとして、偶然見つけたそうだ」
「何が書かれていたんですか」
「閉鎖の日の控えだ。原本かどうかは調べる必要があるが、内容を見てくれ」
紙は四つ折りになっていた。
外側に『二番 本人確認保留』とある。
開くと、短い文章が二つ並んでいた。
『札の所持者を照合人と認めないこと』
『本人が名乗るまで、代理の申告を受け付けないこと』
昼の証言と一致する部分がある。
札を持つ者と、名前を持つ者が違う。
その区別を守るための注意書きにも読めた。
「誰かが二番になりすましていたんでしょうか」
「その可能性はある。だが、本人の名が何を指すのかはまだ不明だ」
裏面へ目を移した。
そこには、別の筆跡で一行だけ追記されていた。
『照合人二が名乗った場合、最後の退出者を返却する』
喉が乾いた。
返却する。
人を物のように扱う言葉だった。
「最後の退出者って、誰ですか」
「名前の欄はない。だが、日付は閉鎖前日だ」
オルデンが先に詰め所を出た夜。
顔を隠した男が、二枚の木札を持っていた夜。
そこにいた誰かを、最後の退出者として数えたのだろうか。
「ダレンさんが知っている名前を、言わせるつもりですか」
「いや。本人が拒んでいる。俺たちが代わりに聞き出す理由はない」
返事を聞いて、肩の力が抜けた。
「ただ、向こうはそう考えていないかもしれん」
ベルクは窓の外へ視線を向けた。
「治療所の見張りから報告があった。夕方、北の道から来た男が、門の前で名前を尋ねて回っていたそうだ」
「誰の名前を?」
「二番だ。『照合人二の本当の名前を知っている者はいないか』と」
ダレンの手紙を思い出した。
『名前を聞かれても、代わりに答えるな』。
「その人は捕まったんですか」
「声をかけたら立ち去った。顔は布で隠していたが、右手だけは見えたそうだ」
嫌な予感がした。
「火傷の痕が?」
「いや。手袋をしていた。だから傷の有無は分からん」
ベルクはそこで言葉を切った。
「ただ、男は最後に、妙なことを言ったらしい」
「何と?」
「『名前を言わなくてもいい。本人を連れてこい』」
一瞬、何のことか分からなかった。
二番本人を連れてこいという意味だろうか。
それとも、二番の名前を知っているダレンを指しているのか。
「見張りは、どちらのことだと思ったんでしょう」
「聞き返す前に消えたそうだ。そこは分からん」
廊下の奥で、扉が閉まる音がした。
続いて、急いだ足音。
リシアが診察室の戸口に現れた。
「先生が呼んでいます。ダレンさんが、誰かに会いたいって」
「誰に?」
「……名前は言っていません」
手にしていた紙を握り直した。
「ただ、窓の外に人が立っていたそうです。先生が見に行ったときには、もういなくて」
息を整えてから、続ける。
「その人が去ったあと、ダレンさんが言ったんです。『二番が来た』って」
ベルクが立ち上がった。
「本人がそう言ったのか」
「はい。でも、次にこう言いました」
リシアの声がかすかに震えた。
「『あれは、俺に名前を教えた男じゃない』って」