世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第34話 名前のない証明

『二番の名前を、知っている』

 

ダレンが書いたその一行を、夜が明けても読み返していた。

裏には『名前を聞かれても、代わりに答えるな』とある。

文字は震えていたが、途中で書き直した跡はない。

書くことはできて、口にすることはできない。

その違いを確かめたかった。

けれど、本人が眠る前にわざわざ伝えてきた警告を、こちらの好奇心で踏み越えるわけにはいかない。

 

廊下から足音が近づいた。

戸を開けたのはリシアだった。

薬草の匂いがする袖をまくり、朝の冷気に赤くなった指先をこすっている。

 

「起きていたんですね」

「少し早く目が覚めた」

「先生が、ダレンさんの診察が終わったら来ていいって。ただし、長く話さないこと」

「分かった」

 

紙を折り畳むと、彼女の視線がそこに落ちた。

 

「昨日の手紙ですか」

「うん。本人が何を伝えたかったのか、考えてた」

「名前を言えないって、怖いですね」

 

思いがけず、顔を上げた。

 

「知っているのに、ですか」

「はい。言葉にした途端、何かが変わるかもしれないと思ったら、普通の名前でも言えなくなりそうです」

 

その感覚は、妙に分かる気がした。

自分の名を告げるたび、相手の記憶から抜け落ちる日々を送っている。

それでも名乗ることをやめなかったのは、名乗らなければ最初からいなかったことになりそうだったからだ。

 

「無理に言わせるつもりはないよ」

「それなら、よかった」

 

安心したように笑う。

その笑顔に覚えられているかどうかを、今日は尋ねなかった。

 

*

 

ダレンの寝台には、新しい包帯が巻かれていた。

顔色は昨日よりよい。

水杯を置くと、こちらを見て口元を歪めた。

 

「紙、読んだか」

「読みました」

「なら、分かるだろ。名前は聞くな」

「聞きません。ただ、どうして書いてくれたのか知りたいんです」

 

しばらく返事がなかった。

窓の外で、庭を掃く箒の音が続いている。

 

「俺が知ってるってことを、誰かに残しておきたかった」

「忘れてしまうかもしれないから?」

「それもある。でも、違うんだ」

 

毛布の上で手が動く。

何かをつかもうとして、途中で止まった。

 

「倉で帳面を見た夜、二番の札をつけた男がいた。俺はそいつに、名を聞いたんだ」

「答えたんですか」

「……ああ」

 

医師が椅子を寄せ、脈を確かめた。

話すこと自体は止めなかった。

 

「聞いたときは、ただの名前だった。珍しくもない、短い名前だ。ところが帰り道で、妙なことに気づいた」

「何に?」

「誰から聞いた名前なのか、思い出せなかった」

 

ベルクの異変が頭をよぎる。

レイという名前を呼べても、知った経緯を思い出せなかった。

同じ現象だと決めるには早い。

けれど、似た部分はあった。

 

「顔は覚えていましたか」

「ぼんやりとな。手を見たのは覚えてる。右手に、ひどい火傷の痕があった」

 

息を止めた。

閉鎖前日の書記が見た男にも、同じ特徴があった。

 

「その傷は、指の付け根から手首まで?」

「……そうだ。なんで知ってる」

「昔の記録を扱った人が、似た特徴を話してくれました」

 

十年前の男と、ダレンが見た男。

本当に同じ人物なのか。

年月の差を考えれば、顔の特徴を確かめる必要がある。

 

「二番と名乗った人は、年配でしたか」

「声は若くなかった。でも顔は暗くてよく見えねえ。俺が見たのは、胸の札と手だけだ」

「その人は、自分から名前を言ったんですね」

「俺が聞いたからな。……でも、あとで思ったんだ。あいつ、本当に自分の名前を言ったのかって」

 

言葉の意味を問う前に、医師が手を上げた。

 

「今日はそこまでだ」

「まだ話せる」

「話せることと、話してよいことは違う。息が速くなっている」

 

ダレンは不満そうに口を閉じた。

立ち上がると、背後から呼び止められる。

 

「なあ、あんた」

「はい」

「俺があの名前を言いそうになったら、止めてくれ」

 

こちらを見つめる目には、怯えだけでなく、はっきりした意思があった。

 

「分かりました」

 

*

 

昼前、ベルクが古い書記を連れてきた。

白髪の男は杖をつき、治療所の食堂へ入るまでに二度立ち止まった。

本人の希望で名前は記録に残さないという。

話を聞く前に、その条件を確認した。

 

「昔のことを思い出してもらうのに、無理はさせません」

「無理をして来たのは、わしのほうだよ」

 

乾いた笑いが返る。

椅子に座ると、持参した布袋から小さな板を取り出した。

 

「隊長さんから、二番の札について聞かれた。これを見せるべきか、ずっと迷っていたんだ」

 

掌に収まるほどの木板だった。

表面には三本の線と丸い印。

その下に『照合人二』と彫られている。

 

「本物ですか」

「役所から持ち出したものじゃない。閉鎖のあと、捨てられた道具を集めていたときに拾った。帳面の文字を写すための見本板だ」

 

ノルドに見せれば材質や年代を確かめられるだろう。

だが、いま気になるのは別のことだった。

 

「この板には名前がありませんね」

「そう。二番は名ではなく役目だった。少なくとも、わしが帳面をつけていたころは」

 

ベルクが手帳を開いた。

 

「役目なら、交代することもあったのか」

「それは知らん。二番の札を持つ者が来れば、二番として扱えと言われていた」

「札を持つだけで?」

「書類の上ではな。だが、閉鎖の前日だけは違った」

 

杖の握りが軋んだ。

 

「右手に火傷のある男が、最後の欄を空けておけと言った。わしが理由を聞くと、こう答えたんだ。『札を持っている者と、名を持っている者が違う』」

 

誰もすぐには口を開かなかった。

 

「その言葉、当時はどう理解しました?」

「偽物がいるのかと思った。だが、男は偽物だとも本物だとも言わなかった。代わりに、紙を二枚出した」

 

書記は木板を伏せた。

 

「片方には二番の印があった。もう片方には、誰かの名前が書いてあった。わしは後者を受領簿へ写そうとしたが、止められた」

「その名前は覚えていますか」

「覚えていない」

 

即答だった。

しかし、次の言葉までには長い間があった。

 

「正確には、読んだ記憶がない。紙を見たのは覚えている。文字があったことも覚えている。なのに、どういう字だったのかだけが抜けている」

 

ベルクと目が合った。

昨夜の出来事を、二人とも思い出していた。

 

「その紙はどうなりました?」

「火傷の男が持ち帰った。印のあるほうは、わしが預かったはずだ」

「今もありますか」

「ない。閉鎖の日、書類をまとめたときに消えた」

 

『消えた』という言葉が気になった。

 

「紛失したという意味ですか。それとも、紙の文字が?」

「紙ごとだ。誰かが持ち去ったのかもしれん。わしはその場を見ていない」

 

区別をつけて答えてくれたことに、少し救われた。

何もかもを異常として扱えば、本当におかしな出来事を見失う。

 

「もう一つだけ」

 

ベルクが静かに尋ねる。

 

「その男は、オルデンと一緒に来たのか」

「最初は別々だった。だが帰るときには、オルデンが外で待っていた。二人で話していたのを覚えている」

「何を?」

「オルデンが、『あの人はもう戻っている』と言った。すると男は、『戻ったことと、返したことは違う』と」

 

十年前の言葉が、少しずつ形を変えながら重なっていく。

帰したことにするな。

戻っていないことにするな。

そして、戻ったことと返したことは違う。

どれも似ているが、同じではない。

 

書記は疲れた様子で目を閉じた。

医師が休憩を勧めると、素直に頷く。

それ以上は聞かなかった。

 

*

 

午後、ノルドが見本板を調べた。

古い木札と並べ、穴の位置を測っている。

 

「これ自体は機械に差す札じゃないな。厚みが違う。印の形を写すための板だろう」

「二番の役目を示す印ですね」

「ああ。ただし、気になるものがある」

 

裏側を灯りへ向けた。

木目に沿って細い傷が二本走っている。

片方は古く、もう片方は新しい。

 

「裏に紙を貼った跡がある。剥がすときについた傷だ」

「名前が書かれていた可能性は?」

「紙があったことしか分からん。文字の有無は調べようがない」

 

ノルドは板を布に包んだ。

 

「それより、ミラが持ってきた札を見直したい。あれは新しい墨で『仮受領者に渡すこと』と書かれていた。もし誰かが古い道具を使っているなら、印を写す板も必要になる」

「この見本板を使って?」

「いや。これは十年前から書記が持っていた。別の板があるかもしれん、という話だ」

 

物が一つ増えるたび、謎も一つ増える。

そう思っていると、廊下からベルクが戻ってきた。

 

「ミラの家を調べた兵士から報告が来た。脅しの紙が挟まっていた戸の外側に、赤い粉が付いていたそうだ」

「赤い線と同じものですか」

「まだ分からん。採ってある。紙の線と比べる」

 

机の上には、木板と古い写しが並んでいる。

そこへ新しい赤い粉が加わった。

 

「ミラさんは?」

「守備隊の保護下にいる。家には戻さない。本人も同意している」

 

その判断に頷いた。

名を告げることが危険かもしれないなら、危険を知っている人間だけで試せばいいというものではない。

誰かを巻き込んで確かめる方法は、選びたくなかった。

 

*

 

夕方、リシアと一緒に庭の端まで歩いた。

医師から許された距離は短い。

途中で脇腹が痛み、石の腰掛けに座る。

 

「無理しましたね」

「少しだけ」

「その『少し』が信用できないんです」

 

叱られて、返す言葉がなかった。

彼女は薬草の籠を足元へ置き、隣に腰を下ろした。

 

「今日、昔の書記さんとお話ししていましたよね」

「うん。十年前の記録を扱っていた人だよ」

「私、あの方が帰るときに聞かれたんです。『ここには、誰の名前が残るんだ』って」

 

顔を向けた。

 

「何て答えたの?」

「患者さんの名前は、必要な記録に残します。でも、それを誰にでも渡すわけじゃありません、って」

 

彼女らしい答えだった。

 

「そしたら、安心したみたいでした」

 

風が吹き、薬草の葉が小さく揺れた。

記録に残すことと、誰かに渡すこと。

その二つは同じではない。

第三倉の帳面が何をしていたのかは分からない。

それでも、今日聞いた話には、ひとつ共通するものがあった。

名前を確かめるふりをして、名前の扱いを他人に決めさせようとしている。

 

「ありがとう」

「またですか?」

「うん。大事なことを教えてもらったから」

 

少し照れたように笑う。

 

「それなら、早く部屋に戻ってください。先生に見つかったら、私まで叱られます」

 

立ち上がると、痛む脇腹をかばって歩いた。

隣を歩く彼女の足音が、ゆっくりこちらに合わせられていた。

 

*

 

夜、ベルクが一枚の紙を持ってきた。

昼に話を聞いた書記が、帰宅後に古い手箱を探し直したらしい。

その底板の下から、薄い紙が見つかったという。

 

「本人が覚えていたんじゃない。娘が手箱を直そうとして、偶然見つけたそうだ」

「何が書かれていたんですか」

「閉鎖の日の控えだ。原本かどうかは調べる必要があるが、内容を見てくれ」

 

紙は四つ折りになっていた。

外側に『二番 本人確認保留』とある。

開くと、短い文章が二つ並んでいた。

 

『札の所持者を照合人と認めないこと』

『本人が名乗るまで、代理の申告を受け付けないこと』

 

昼の証言と一致する部分がある。

札を持つ者と、名前を持つ者が違う。

その区別を守るための注意書きにも読めた。

 

「誰かが二番になりすましていたんでしょうか」

「その可能性はある。だが、本人の名が何を指すのかはまだ不明だ」

 

裏面へ目を移した。

そこには、別の筆跡で一行だけ追記されていた。

 

『照合人二が名乗った場合、最後の退出者を返却する』

 

喉が乾いた。

返却する。

人を物のように扱う言葉だった。

 

「最後の退出者って、誰ですか」

「名前の欄はない。だが、日付は閉鎖前日だ」

 

オルデンが先に詰め所を出た夜。

顔を隠した男が、二枚の木札を持っていた夜。

そこにいた誰かを、最後の退出者として数えたのだろうか。

 

「ダレンさんが知っている名前を、言わせるつもりですか」

「いや。本人が拒んでいる。俺たちが代わりに聞き出す理由はない」

 

返事を聞いて、肩の力が抜けた。

 

「ただ、向こうはそう考えていないかもしれん」

 

ベルクは窓の外へ視線を向けた。

 

「治療所の見張りから報告があった。夕方、北の道から来た男が、門の前で名前を尋ねて回っていたそうだ」

「誰の名前を?」

「二番だ。『照合人二の本当の名前を知っている者はいないか』と」

 

ダレンの手紙を思い出した。

『名前を聞かれても、代わりに答えるな』。

 

「その人は捕まったんですか」

「声をかけたら立ち去った。顔は布で隠していたが、右手だけは見えたそうだ」

 

嫌な予感がした。

 

「火傷の痕が?」

「いや。手袋をしていた。だから傷の有無は分からん」

 

ベルクはそこで言葉を切った。

 

「ただ、男は最後に、妙なことを言ったらしい」

「何と?」

「『名前を言わなくてもいい。本人を連れてこい』」

 

一瞬、何のことか分からなかった。

二番本人を連れてこいという意味だろうか。

それとも、二番の名前を知っているダレンを指しているのか。

 

「見張りは、どちらのことだと思ったんでしょう」

「聞き返す前に消えたそうだ。そこは分からん」

 

廊下の奥で、扉が閉まる音がした。

続いて、急いだ足音。

リシアが診察室の戸口に現れた。

 

「先生が呼んでいます。ダレンさんが、誰かに会いたいって」

「誰に?」

「……名前は言っていません」

 

手にしていた紙を握り直した。

 

「ただ、窓の外に人が立っていたそうです。先生が見に行ったときには、もういなくて」

 

息を整えてから、続ける。

 

「その人が去ったあと、ダレンさんが言ったんです。『二番が来た』って」

 

ベルクが立ち上がった。

 

「本人がそう言ったのか」

「はい。でも、次にこう言いました」

 

リシアの声がかすかに震えた。

 

「『あれは、俺に名前を教えた男じゃない』って」

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