世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
「あれは、俺に名前を教えた男じゃない」
リシアの言葉を聞いて、ベルクはすぐには動かなかった。
治療所の廊下には、夕食の支度をする音が遠く響いている。
いつもなら気にも留めない鍋の音が、今夜はやけに大きかった。
「ダレンは、その男を見たのか」
「窓越しに、少しだけ。先生も確認しようとしたんですけど、もういなくて」
「見張りは?」
「北側の柵を調べています」
ベルクが手帳を閉じた。
「レイ、お前はここにいろ。俺が外を見る」
「ダレンさんの話を聞いても?」
「先生が許すならな。だが、名前を聞き出すなよ」
「分かっています」
外套を羽織る背中を見送り、リシアと病室へ向かった。
歩くたびに脇腹が引きつる。
急いでいるつもりでも、彼女の歩幅に追いつくのがやっとだった。
*
ダレンは上半身を起こし、窓を見つめていた。
医師が肩へ手を置いている。
「見張りが調べている。今は休め」
「休んでたら、また来る」
「来ても勝手に通しはせん」
こちらに気づくと、目を細めた。
「……あんたか」
「外にいた人について、少しだけ聞いてもいいですか」
「二番だ」
「どうして、そう思ったんです?」
枕元の水杯を見たまま、唇を結ぶ。
「札を見せた。胸のところにな。丸と三本線、それに二の数字があった」
「顔は?」
「布で隠してた。背は、あのときの男より低い気がした」
「声は聞きましたか」
「聞いた。窓を叩いて、俺の名前を呼んだ」
医師の手が止まった。
「窓を叩く音は、わしも聞いた。だが声までは分からなかった」
「何と言われたんですか」
「『ダレン、返却を受けろ』」
返却を受けろ。
物を渡すのではなく、何かを受け取らせるための言葉だった。
「返事は?」
「しなかった。そしたら、あいつは札を窓に押しつけて、もう一度言った。『二番が来た。今度こそ終わらせる』って」
「それで、違う人だと?」
「ああ。俺に名前を教えた男は、そんな喋り方をしなかった。それに……」
言いかけたところで咳き込んだ。
リシアが水を差し出し、医師が背を支える。
少し落ち着くと、ダレンは声を絞った。
「本物なら、俺に受け取れなんて言わねえ」
「どうしてですか」
「最初に会ったとき、そう言われたんだ。『お前は運び手だ。受け取る側になるな』って」
それ以上は医師が止めた。
寝台を離れる直前、ダレンが袖をつかんだ。
「俺が知ってる名前は、誰にも言わねえ。けど、あんたも気をつけろ」
「何に?」
「知らない名前を、知ってるふりするな」
*
夜の診察室には、ノルドが先に来ていた。
ベルクが戻るまでの間、机に置かれた二枚の木札の写しを見比べる。
井戸から出た札と、ミラが運ばされた札。
似ているのに、穴の縁の削り方が違う。
「二番の札を見せられたそうです」
「見せるだけなら、写しでもできる」
「でも、窓から見たダレンさんには区別できませんよね」
「そこを狙ったのかもしれん」
ノルドは筆で紙の端に小さな円を描いた。
「俺が気になってるのは、札の穴だ。井戸の札には、紐を通した擦れが片側だけにある。ミラが持ってきた札には、両側にある」
「使い方が違う?」
「そうとも言える。ただ、後から穴を広げた可能性もある」
戸が開き、冷たい空気が流れ込んだ。
戻ってきたベルクの靴には、湿った土が付いていた。
「柵の外に足跡があった。北へ向かっているが、道の途中で途切れた」
「追えませんか」
「夜だ。こちらが無理をすれば、見張りが薄くなる。朝に調べる」
椅子に腰を下ろし、手帳を開く。
「ダレンは何と言った」
聞いた言葉を順に伝えた。
二番の札を見せたこと。
本人を名乗ったこと。
返却を受けろと迫ったこと。
そして、ダレンが本物ではないと考えた理由。
「運び手は受け取る側になるな、か」
「誰かが、役割を入れ替えようとしているようにも聞こえます」
「その見方は記録しておく。だが、目的はまだ決めるな」
ノルドが紙を一枚取り出した。
「なら、役割を確かめよう。第三倉の計数台には『通過』と『照合』があった。ところが鉄の箱には、底に札を入れる窪みが一つしかない」
「二枚一組の札なのに?」
「ああ。もう一枚は別の場所へ差すのか、箱とは無関係なのか。そこが引っかかってた」
写しの端へ、もう一つ長方形が描き加えられた。
「井戸の台座に残っていた溝を測り直した。鉄の箱の底と、幅が同じだった」
「箱を台座に載せる仕組みですか」
「可能性はある。ただし、箱を持ち出して試すつもりはない。先に図面を探す」
ベルクが頷いた。
「明日は俺が旧道の記録を調べる。ノルドは道具を見てくれ。レイは治療所で待機だ」
「……はい」
返事が不満そうに聞こえたのか、二人に揃って見られた。
*
翌朝、ダレンは自分から名前を告げた。
リシアが薬を渡す前に、はっきりと「ダレンだ」と言ったらしい。
それを聞いても、彼女は驚いた様子を見せなかった。
ただ、いつもどおり薬の量を確かめ、少しだけ笑った。
「今日は先に言ってくれたんですね」
「昨日も言ったろ」
「ええ。だから、覚えています」
そのやり取りを廊下から聞いた。
何度も確かめることは、相手を疑うことではない。
少なくとも、ここではそういう約束になりつつあった。
診察が終わると、医師に頼まれて包帯の束を数えた。
手を動かすだけの仕事なら、傷にも響かない。
十本ずつ紐でまとめていると、リシアが隣へ来た。
「昨日の人、また来るでしょうか」
「分からない。でも、見張りは増えてる」
「ダレンさん、あの人のことを本物じゃないって言っていましたね」
「うん」
「本物かどうか、どうやって確かめればいいんでしょう」
答えに詰まった。
札は真似できる。
声も、姿も、記録だけでは決められない。
名前さえ、本人以外が口にできる。
「本人に名乗ってもらうしかないのかな」
「でも、本人だと確かめるために、誰かが名前を知っていないといけませんよね」
紐を結ぶ手が止まった。
確かめる側も、確かめられる側も、互いを知らなければ成立しない。
そのどちらかの記憶が欠けていたら。
「……そうだね」
「だから、名前だけじゃ足りない気がするんです」
リシアは数え終えた包帯を籠へ移した。
「ダレンさんが今朝、自分で名乗ったこと。昨日、薬が苦いって言ったこと。そういうことも一緒に覚えていたいです」
その言葉を聞いて、昨日の自分が彼女に名乗り直したことを思い出した。
彼女が覚えているのは、こちらの名前ではないかもしれない。
それでも、一緒に積み重ねた出来事まで、何もなかったことにはしたくなかった。
*
昼過ぎ、守備隊の若い兵士が封をした包みを運んできた。
ベルクからの伝言だという。
中には、古い北方保管所の勤務割を写した紙が入っていた。
『第一照合 朝』
『第二照合 夜』
日付は十年前の閉鎖より、さらに二年ほど前だった。
欄外には細い字で、交代時の注意が記されている。
『札を引き継ぐ際は、旧担当者の名を記し、新担当者本人の申告を受けること』
「二番って、二人目の人間じゃなかったんですね」
兵士が言った。
「隊長もそう考えてる。少なくともこの記録では、朝と夜の役目の区別らしい」
紙を読み直した。
照合人二。
それは、いつも同じ人物を指す名前ではない。
ダレンが見た男と、十年前に書記が会った男が同じとは限らない理由が、もう一つ増えた。
「交代した人の名前は残っていないんですか」
「この写しにはない。ただ、別の簿冊があるらしい。隊長が探してる」
兵士が去ったあと、日記に新しい事実を書いた。
照合人二は役目の番号。
交代の際には旧担当者の名前と新担当者の申告が必要。
だからこそ、誰かが名乗ることに意味があったのかもしれない。
そこで筆を止めた。
『名を代わりに告げた者を、受領者と見なす』。
古い封筒の注意書きと、勤務割の規則は、同じことを言っていない。
むしろ、逆だった。
一方は本人の申告を求め、もう一方は他人の申告に責任を負わせる。
その矛盾を、日記の余白に囲んで残した。
*
夕方、ベルクが戻ったとき、最初に見せたのはその囲みだった。
「二つの規則が、食い違っているように見えます」
「俺も気づいた。書かれた時期が違うんだ」
「時期?」
手帳から別の写しが出てきた。
閉鎖の半年前に出された通達だった。
『第二照合の交代記録を停止する。以後、担当者の名を受領簿に記さないこと』
「どうして停止したんでしょう」
「理由はない。ただ、通達を出した部署の印が不鮮明で、どこの命令か確認できていない」
名前を残す制度から、名前を残さない制度へ。
そして閉鎖前日には、本人が名乗るまで代理の申告を受け付けるなという注意書きが現れる。
何かを隠そうとした者と、それを止めようとした者がいたのだろうか。
「書記の方は、この通達を覚えていますか」
「覚えていた。だが、変わったのは帳面だけじゃないそうだ」
ベルクは少し声を落とした。
「それまで二番の札は、勤務を終えるたびに返していた。通達のあと、返されなくなったらしい」
「誰が持ち続けたんです?」
「そこが分からん。書記は、夜番の顔を見なくなったと言っていた」
顔のない役目。
名前のない受領者。
そして、いくつも現れる二番の札。
「昨日の男は、その仕組みを利用してるんでしょうか」
「そう考えることはできる。ただ、利用するためには記録を知っている必要がある」
「十年前の関係者か、記録を手に入れた誰か」
「ああ」
机の上の紙を見つめる。
そこへ、ノルドが遅れて入ってきた。
工具袋を肩から下ろすなり、古い図面を広げる。
「箱と台座の話だが、分かったことがある」
指先が、計数台の裏側を示した。
以前は擦れて読めなかった箇所に、斜めから光を当てて写した文字がある。
『受領札は箱底へ。照合札は台座へ』
「別々に差すんですね」
「ああ。箱を台座に載せる前提の仕組みだった可能性が高い。ただ、これだけでは何が起きるか分からん」
二枚の札。
二つの場所。
片方だけでは終わらない返却。
「じゃあ、今ある札のどちらかが照合札で……」
「そうとは限らん。穴の位置は似ていても、文字は削られてる。何より、今は触らないほうがいい」
ベルクが図面を受け取った。
「第三倉の中に残っていた仕掛けを、誰かが外へ持ち出した。少なくとも、その可能性は高くなったな」
「誰が?」
「それを知るために、もう一つ調べる場所がある」
手帳に記されたのは、北の旧道から外れた小さな番小屋だった。
第三倉の外部計数台とは別に、夜番が札を返すための場所があったという。
「明日の朝、兵を連れて行く」
「危険じゃないですか」
「だから一人では行かん」
言いながら、こちらの顔を見た。
「お前は来るな」
「まだ何も言ってません」
「言う顔をしてる」
少しだけ笑ってしまった。
*
夜になり、治療所の見張りが交代した。
日記を閉じようとしたとき、廊下の向こうから低い声が聞こえた。
「今夜の見張りは、誰だ」
「守備隊の者です。隊長の指示で」
医師と兵士の会話だった。
続いて、戸口を叩く音がした。
「レイ、起きているか」
ベルクではない。
聞き覚えのない男の声だった。
「どなたですか」
「隊長から伝言を預かっている。北の番小屋についてだ」
扉を開けかけて、手が止まった。
ベルクはさっき、明日の朝に調べると言っていた。
それを今夜、別の誰かが伝えに来る理由はない。
「見張りの方を呼んできます」
そう答えると、外が静かになった。
足音はしない。
息を潜めているのか、立ち去ったのか。
廊下の奥から医師の声がした。
「誰と話しておる」
戸を開けると、目の前には誰もいなかった。
窓際に立っていた兵士が、こちらへ振り向く。
「今、男の人が来ませんでしたか」
「いや。ここは誰も通っていない」
扉の外に続く廊下は、一本道だ。
窓は閉まっている。
見張りが嘘をついているようには見えなかった。
「声がしたんです。隊長の伝言だと」
「隊長は今夜、詰め所に戻ったはずだが……」
兵士が足元へ目を落とした。
戸の下に、薄い紙が差し込まれている。
「さっきはなかったぞ」
拾い上げようとした手を、思わず止めた。
「触らないでください。先生と一緒に確認しましょう」
医師を呼び、紙の位置を記録してから、布越しに引き出した。
表には、短い文が書かれていた。
『二番を探すな。二番を終わらせろ』
裏には、丸と三本線。
そして、その下に小さな数字があった。
『一』
これまで見てきた二番の印とは違う。
「一番の照合人……?」
口にしてから、すぐに首を振った。
数字が一つあるだけで、持ち主の役目は分からない。
けれど、誰かがこちらに新しい印を見せたがっていることだけは確かだった。
そのとき、隣の病室からダレンの声がした。
「……その印、見せるな!」
戸口に立った姿は、片脚を引きずっていた。
医師が慌てて支える。
紙を見たのか、話を聞いたのかも分からないまま、ダレンは言った。
「二番は人じゃねえ。あれは……終わらなかった夜番のことだ」