世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
「二番は人じゃねえ。あれは……終わらなかった夜番のことだ」
ダレンの声は、廊下の冷えた空気に吸い込まれるように消えた。
医師に支えられた身体が傾く。
包帯を巻いた脚を床につけた途端、顔が歪んだ。
「寝台に戻れ。傷が開くぞ」
「でも、あの印を……」
「見せていません」
紙を持つ兵士に目で合図した。
兵士はすぐに裏返し、布で包んだ。
ダレンが見たのは、戸口から覗いた白い紙の端だけだったはずだ。
それなのに、何が描かれているか知っているような口ぶりだった。
「一の数字を見たんですか」
「見てねえ。あんたらの声が聞こえた」
「それなら、どうして見せるなと?」
「……あの札を見た奴は、次の夜番にされる」
医師の手に力がこもった。
「今夜はもう話すな。明日、わしのいるところで聞け」
ダレンは反論しかけたが、唇を噛んで引き下がった。
寝台へ戻る途中、こちらの袖をつかむ。
「番小屋へ行くなら、夜明け前には入るな」
「ベルクさんには伝えます」
「違う。夜明け前に入るなって言ってるんじゃねえ」
息が荒くなる。
「夜が明けたことを、確かめてから入れ」
その違いを聞き返す前に、医師が戸を閉めた。
*
兵士は紙を詰め所へ運ぼうとしたが、まず現場を残すことになった。
戸の下には細い土の筋があり、廊下の床板にも乾いた泥が落ちていた。
見張りは誰も通っていないと言った。
それなら紙だけが勝手に滑り込んだのか。
そう考えたくなるほど静かな廊下だったが、床の傷を見て思い直した。
「この戸、下に隙間がありますね」
医師が灯りを近づける。
「古い建物だからな。外から細い棒を差し込めば、紙くらいは動かせる」
「廊下には人がいなかったんですよね」
兵士が眉を寄せた。
「俺は窓際を見ていた。ずっと扉を見張っていたわけじゃない」
「声は?」
「聞かなかった。医師と話していたから、重なったのかもしれん」
誰も見ていない時間があった。
その事実を、見ていないものが現れた証拠に変えるべきではない。
声をかけた男が本当にいたとしても、どこから去ったかはまだ分からなかった。
紙の文面を手帳へ写した。
『二番を探すな。二番を終わらせろ』
その下に『一』
一番の照合人だと決めつけるには、材料が足りない。
ただ、相手は俺たちが二番を探していることを知っていた。
北の番小屋へ行く予定まで知っていた。
その二つの事実は、別々に記しておく必要があった。
夜更け、ベルクが戻った。
紙を見せる前に、廊下の状況とダレンの言葉を伝えた。
「予定を聞いた者は?」
「この部屋にいたのは、あなたとノルドさん。それから俺です。兵士にも番小屋の名前が伝わっていました」
「詰め所の連絡に乗った可能性があるな」
ベルクは紙を灯りに透かした。
「裏の印は墨だ。赤い粉はない。筆跡も、ミラの家に届いた紙とは違って見える」
「別の人物でしょうか」
「同じ人間でも書き分けられる。紙が違うだけで別人にはできん」
それから、ダレンの警告を書き留めた。
「夜が明けたことを確かめろ、か」
「どういう意味だと思います?」
「夜明けを告げる鐘か、番の交代か。俺たちが勝手に意味を決めても仕方ない」
ベルクは紙を封筒に入れた。
「明日の調査は予定どおり行う。ただし番小屋へ入る前に、外から建物と時刻を確認する。お前は治療所に残れ」
「はい」
「素直だな」
「脚を引きずっている人を見たばかりなので」
脇腹に残る痛みが、言い訳を許さなかった。
*
翌朝、空は雲に覆われていた。
朝日が見えないまま、村の鐘が六つ鳴った。
治療所の庭でその音を聞き、妙な不安が残った。
鐘が鳴ったから朝なのか。
朝になったから鐘が鳴るのか。
普通なら、考えもしない違いだった。
リシアが薬草を運んできた。
「顔色が悪いですよ」
「昨夜、あまり眠れなくて」
「ダレンさんのことですか」
「それもある」
籠を置いた彼女は、庭の石畳を見つめた。
「先生から聞きました。あの方、夜明けを確かめろって言ったんですよね」
「うん」
「昔、祖母が似たことを言っていました」
思わず顔を上げた。
「夜の鐘を聞いても、朝の鐘を聞くまでは戸を開けるな、って。子どもを怖がらせる話だと思っていましたけど」
「この村の話?」
「北の道の番人の話です。鐘の数を間違えた人が、夜番を一日余分に務めたとか」
彼女は困ったように笑った。
「昔話です。細かいところは覚えていません」
「それでも、ありがとう」
「お礼より、今日は休んでください」
言いながら、傷に響かない高さへ籠を持ち直してくれた。
祖母の話を知っていることと、第三倉の仕組みを知っていることは違う。
だが、夜番を終える合図として鐘が使われていた可能性はある。
日記には、彼女がそう聞いたという形で残した。
*
昼近く、ノルドがやってきた。
手には古い図面の写しがあった。
「番小屋の外壁に鐘が付いていたらしい。現物はなくなってるが、吊り金具の跡が残っていたそうだ」
「ベルクさんたちが見つけたんですか」
「ああ。俺は道具を持って後から合流した。建物の中へはまだ入ってない」
「どうして?」
「扉の閂が、内側から掛かっていた」
背筋が冷えた。
「誰かいるんですか」
「窓からは見えん。だが、煙突に煤が新しく付いてる。使われた形跡はある」
ノルドは図面を広げた。
番小屋は小さな一室で、裏に物置が付いている。
図面の隅に『夜番終了 鐘二打』と書かれていた。
「朝の鐘とは違うんですね」
「村の鐘は六つ。番小屋は二つ。時刻を告げる鐘じゃなく、交代を告げる鐘だったんだろう」
「その鐘がなくなっている」
「そういうことだ」
図面にはもう一行、細い文字があった。
『終了の報告なき場合、翌番への引継ぎを行わない』。
ダレンの言葉が頭に戻ってきた。
終わらなかった夜番。
二番という役目を、誰かが終わらせずにいる。
それは人間の勤務の話なのか。
それとも、第三倉の記録そのものが、終わっていないことになっているのか。
「中へ入るんですか」
「ベルクが決める。今は裏の物置から確認してる」
ノルドは図面を畳み、しばらく黙った。
「箱のことも気になるが、俺はあれを番小屋へ運ぶつもりはない。鉄の箱が何をする道具か、まだ分かってないからな」
「それがいいと思います」
「ああ。壊れた仕組みを動かすより、先に壊れた理由を調べる」
その言葉には、道具を扱う人間らしい確かさがあった。
*
午後、ダレンが話せる状態になった。
医師が同席し、質問は短くすると約束した。
「夜番が終わらなかった、というのは?」
寝台の男は、しばらく天井を見つめた。
「倉に入ったとき、壁に板が掛かってた。『二番勤務中』って書いてあった」
「いつの話ですか」
「荷を運んだ夜だ。閉鎖されたはずの倉にな」
「それが、終わらなかったという意味?」
「違う。俺が見たとき、板の下に古い日付があった。十年前の閉鎖の日付だ」
「新しい札に、古い日付が?」
「札が新しかったかどうかは知らねえ。埃は積もってた。だが、日付は読めた」
医師が水を渡した。
「俺は夜番の男に、もう閉鎖した倉だろうって聞いたんだ。そしたら、あいつが言った。『終わったと報告した者がいない』って」
「その人が、名前を教えた男ですか」
「ああ。右手に火傷があった」
「名前は言わなくていいです。代わりに、何をしていたか教えてください」
「帳面を見てた。誰が出たかを数えて、最後に空欄を指で押さえた」
「空欄?」
「『戻った人間はいる。でも返す先がない』って」
それは、これまで見つかった書類の文言と重なっていた。
ただ、ダレン自身が何を見たのか、記録の意味をどう理解したのかは分けておく必要がある。
「窓に来た別の男は、その夜番を終わらせたいんでしょうか」
「知らねえ。けど、あいつは俺に受け取れと言った。俺は運び手だ。受け取る役じゃない」
拳が毛布を握った。
「誰かが俺の名前を書いたら、俺が受領者になるのかもしれねえ。だから言うなって頼んだんだ」
「あなたの名前を?」
「俺のじゃねえ。二番の名前だ」
話が食い違っているように聞こえた。
本人が名乗るまで代理の申告を受け付けない。
名を代わりに告げた者を受領者と見なす。
この二つが別の手続きを指しているなら、両方が存在していてもおかしくない。
だが、何を受け取るのかは依然として分からなかった。
「もう一つだけ」
医師の許可を待って続けた。
「昨夜の紙には、一の数字がありました。あなたは見ていませんね」
「見てねえ」
「一番について、何か知っていますか」
ダレンの表情が変わった。
「一番は……鐘を鳴らす」
「夜番終了の鐘を?」
「そうだ。二番が出たら、一番が鐘を二つ鳴らす。俺が運んだ夜には、鳴らなかった」
医師がそこで話を止めた。
「今日は十分だ」
寝台から離れる前に、ダレンが小さく言った。
「俺は、鳴らなかった鐘を待ってたんじゃねえ。あの男が待ってたんだ」
*
夕刻、守備隊から使いが来た。
番小屋の裏の物置が開き、ベルクたちは中を確認できたらしい。
誰もいなかった。
内側から掛かった閂は、窓の下に通された細い針金で外から動かせる状態だったという。
誰かが閉じ込められているように見せた可能性がある。
見つかったのは、古い鐘の舌と、日付の書かれた木板。
鐘そのものはなかった。
「隊長から、これを預かりました」
兵士が差し出したのは、小さな封筒だった。
中には番小屋の帳面を写した一枚がある。
最後の頁には、二つの欄が並んでいた。
『第二照合 勤務開始』
その下に、十年前の閉鎖前日の日付。
隣の『勤務終了』は空欄だった。
さらに下には、別の筆跡でこう書かれている。
『終了報告を受ける者 一番』
そして、欄外に小さく追記があった。
『鐘が鳴らぬ場合、名による代理終了を禁ず』
「代理終了……」
昨夜の紙を思い出した。
二番を終わらせろ。
相手は、鐘を鳴らす方法を探しているのか。
それとも、名前を使って本来できない終了を行わせようとしているのか。
兵士は続けた。
「隊長は、今夜も番小屋に見張りを置きます。ただし鐘は鳴らさないそうです」
「それがいいと思います」
「それから、もう一つ」
封筒の底から、細長い紙片が出てきた。
「物置の棚に挟まっていました。誰かが最近書いたものらしいです」
墨はまだ濃く、紙の縁も擦り切れていなかった。
そこには、名前ではなく、場所が記されていた。
『鐘は第三倉に戻した』。
*
夜、ベルクが治療所に戻った。
紙片を確認すると、窓の外を見た。
「番小屋に鐘がない理由は分かったかもしれん。ただし、書いた奴の言葉が本当なら、だ」
「第三倉へ行くつもりですか」
「いずれはな。だが今夜は行かない。俺たちが鐘を鳴らすのを待っている奴がいるかもしれん」
「一番を名乗る人でしょうか」
「名乗ったわけじゃない。紙に一と書いただけだ」
その慎重さに頷いた。
ベルクは椅子へ腰を下ろし、手帳を開いた。
「番小屋で見つかった帳面には、奇妙なところがあった」
「勤務終了の空欄ですか」
「いや。最後の頁だけ、紙が新しかった。綴じ糸も一度切られていた」
十年前の記録に、誰かが最近手を加えた。
「本当に十年前から夜番が終わっていないのか、それとも、そう見せたい奴がいるのか。そこから調べ直す」
「ダレンさんの話と、帳面の記録が一致していても?」
「一致するように作ることもできる。あいつが見た板だって、誰かが後から掛けたのかもしれん」
言葉を失った。
これまで、古い記録が見つかるたび、過去に近づいていると思っていた。
けれど、誰かが現在の手で過去の形を作り直しているなら、証拠の古さだけでは信用できない。
「それでも、何も分からないわけじゃないですね」
「そうだ。少なくとも、今もこの仕組みを動かしたがっている奴がいる」
ベルクは封筒を閉じた。
「明日は書記に、閉鎖当日の鐘の記録を聞く。お前はダレンのそばにいてくれ。本人が何か思い出しても、無理に言わせるな」
「分かりました」
その夜、治療所の灯りが一つずつ消えた。
眠る前に日記を開き、聞いたことだけを書き足した。
二番の勤務終了欄は空白。
一番が鐘を二つ鳴らすという証言。
鐘は第三倉へ戻されたという、出所不明の紙片。
そして、帳面の最後の頁には、最近手を加えた跡がある。
筆を置いたとき、遠くで金属の音がした。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
窓を開けた。
村の鐘とは違う、乾いた短い響きだった。
北の方角から聞こえたようにも思う。
ただ、距離も場所も確かめられない。
廊下へ出ると、見張りの兵士も窓際に立っていた。
「今の、聞こえましたか」
「ああ。二つ鳴ったな」
「どこから?」
「分からん。村の鐘じゃない」
隣の病室で、寝台が軋んだ。
ダレンの声が、閉じた戸の向こうから聞こえる。
「……遅すぎる」
医師が戸を開けると、ダレンは起き上がろうともせず、天井を見つめていた。
「今の鐘を知っているんですか」
「知ってる。あの夜も、こうして二つ鳴るはずだった」
「今、鳴りました」
「ああ」
乾いた唇が動いた。
「だから、誰が夜番を終えたことにされたのか、確かめろ」
その直後、廊下の見張りがこちらを呼んだ。
戸口の下に、また紙が差し込まれていた。
今度は誰も声を聞いていない。
医師と兵士が位置を確かめ、布越しに拾い上げる。
表には、たった一行。
『終了を受領した者の名を、記せ』
その下には、空欄があった。
赤い線で囲まれた、名前一つ分の空欄だった。