世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第36話 終わらなかった夜

「二番は人じゃねえ。あれは……終わらなかった夜番のことだ」

 

ダレンの声は、廊下の冷えた空気に吸い込まれるように消えた。

医師に支えられた身体が傾く。

包帯を巻いた脚を床につけた途端、顔が歪んだ。

 

「寝台に戻れ。傷が開くぞ」

「でも、あの印を……」

「見せていません」

 

紙を持つ兵士に目で合図した。

兵士はすぐに裏返し、布で包んだ。

ダレンが見たのは、戸口から覗いた白い紙の端だけだったはずだ。

それなのに、何が描かれているか知っているような口ぶりだった。

 

「一の数字を見たんですか」

「見てねえ。あんたらの声が聞こえた」

「それなら、どうして見せるなと?」

「……あの札を見た奴は、次の夜番にされる」

 

医師の手に力がこもった。

 

「今夜はもう話すな。明日、わしのいるところで聞け」

 

ダレンは反論しかけたが、唇を噛んで引き下がった。

寝台へ戻る途中、こちらの袖をつかむ。

 

「番小屋へ行くなら、夜明け前には入るな」

「ベルクさんには伝えます」

「違う。夜明け前に入るなって言ってるんじゃねえ」

 

息が荒くなる。

 

「夜が明けたことを、確かめてから入れ」

 

その違いを聞き返す前に、医師が戸を閉めた。

 

*

 

兵士は紙を詰め所へ運ぼうとしたが、まず現場を残すことになった。

戸の下には細い土の筋があり、廊下の床板にも乾いた泥が落ちていた。

見張りは誰も通っていないと言った。

それなら紙だけが勝手に滑り込んだのか。

そう考えたくなるほど静かな廊下だったが、床の傷を見て思い直した。

 

「この戸、下に隙間がありますね」

 

医師が灯りを近づける。

 

「古い建物だからな。外から細い棒を差し込めば、紙くらいは動かせる」

「廊下には人がいなかったんですよね」

 

兵士が眉を寄せた。

 

「俺は窓際を見ていた。ずっと扉を見張っていたわけじゃない」

「声は?」

「聞かなかった。医師と話していたから、重なったのかもしれん」

 

誰も見ていない時間があった。

その事実を、見ていないものが現れた証拠に変えるべきではない。

声をかけた男が本当にいたとしても、どこから去ったかはまだ分からなかった。

紙の文面を手帳へ写した。

 

『二番を探すな。二番を終わらせろ』

その下に『一』

 

一番の照合人だと決めつけるには、材料が足りない。

ただ、相手は俺たちが二番を探していることを知っていた。

北の番小屋へ行く予定まで知っていた。

その二つの事実は、別々に記しておく必要があった。

 

夜更け、ベルクが戻った。

紙を見せる前に、廊下の状況とダレンの言葉を伝えた。

 

「予定を聞いた者は?」

「この部屋にいたのは、あなたとノルドさん。それから俺です。兵士にも番小屋の名前が伝わっていました」

「詰め所の連絡に乗った可能性があるな」

 

ベルクは紙を灯りに透かした。

 

「裏の印は墨だ。赤い粉はない。筆跡も、ミラの家に届いた紙とは違って見える」

「別の人物でしょうか」

「同じ人間でも書き分けられる。紙が違うだけで別人にはできん」

 

それから、ダレンの警告を書き留めた。

 

「夜が明けたことを確かめろ、か」

「どういう意味だと思います?」

「夜明けを告げる鐘か、番の交代か。俺たちが勝手に意味を決めても仕方ない」

 

ベルクは紙を封筒に入れた。

 

「明日の調査は予定どおり行う。ただし番小屋へ入る前に、外から建物と時刻を確認する。お前は治療所に残れ」

「はい」

「素直だな」

「脚を引きずっている人を見たばかりなので」

 

脇腹に残る痛みが、言い訳を許さなかった。

 

*

 

翌朝、空は雲に覆われていた。

朝日が見えないまま、村の鐘が六つ鳴った。

治療所の庭でその音を聞き、妙な不安が残った。

鐘が鳴ったから朝なのか。

朝になったから鐘が鳴るのか。

普通なら、考えもしない違いだった。

 

リシアが薬草を運んできた。

 

「顔色が悪いですよ」

「昨夜、あまり眠れなくて」

「ダレンさんのことですか」

「それもある」

 

籠を置いた彼女は、庭の石畳を見つめた。

 

「先生から聞きました。あの方、夜明けを確かめろって言ったんですよね」

「うん」

「昔、祖母が似たことを言っていました」

 

思わず顔を上げた。

 

「夜の鐘を聞いても、朝の鐘を聞くまでは戸を開けるな、って。子どもを怖がらせる話だと思っていましたけど」

「この村の話?」

「北の道の番人の話です。鐘の数を間違えた人が、夜番を一日余分に務めたとか」

 

彼女は困ったように笑った。

 

「昔話です。細かいところは覚えていません」

「それでも、ありがとう」

「お礼より、今日は休んでください」

 

言いながら、傷に響かない高さへ籠を持ち直してくれた。

祖母の話を知っていることと、第三倉の仕組みを知っていることは違う。

だが、夜番を終える合図として鐘が使われていた可能性はある。

日記には、彼女がそう聞いたという形で残した。

 

*

 

昼近く、ノルドがやってきた。

手には古い図面の写しがあった。

 

「番小屋の外壁に鐘が付いていたらしい。現物はなくなってるが、吊り金具の跡が残っていたそうだ」

「ベルクさんたちが見つけたんですか」

「ああ。俺は道具を持って後から合流した。建物の中へはまだ入ってない」

「どうして?」

「扉の閂が、内側から掛かっていた」

 

背筋が冷えた。

 

「誰かいるんですか」

「窓からは見えん。だが、煙突に煤が新しく付いてる。使われた形跡はある」

 

ノルドは図面を広げた。

番小屋は小さな一室で、裏に物置が付いている。

図面の隅に『夜番終了 鐘二打』と書かれていた。

 

「朝の鐘とは違うんですね」

「村の鐘は六つ。番小屋は二つ。時刻を告げる鐘じゃなく、交代を告げる鐘だったんだろう」

「その鐘がなくなっている」

「そういうことだ」

 

図面にはもう一行、細い文字があった。

『終了の報告なき場合、翌番への引継ぎを行わない』。

ダレンの言葉が頭に戻ってきた。

終わらなかった夜番。

二番という役目を、誰かが終わらせずにいる。

それは人間の勤務の話なのか。

それとも、第三倉の記録そのものが、終わっていないことになっているのか。

 

「中へ入るんですか」

「ベルクが決める。今は裏の物置から確認してる」

 

ノルドは図面を畳み、しばらく黙った。

 

「箱のことも気になるが、俺はあれを番小屋へ運ぶつもりはない。鉄の箱が何をする道具か、まだ分かってないからな」

「それがいいと思います」

「ああ。壊れた仕組みを動かすより、先に壊れた理由を調べる」

 

その言葉には、道具を扱う人間らしい確かさがあった。

 

*

 

午後、ダレンが話せる状態になった。

医師が同席し、質問は短くすると約束した。

 

「夜番が終わらなかった、というのは?」

 

寝台の男は、しばらく天井を見つめた。

 

「倉に入ったとき、壁に板が掛かってた。『二番勤務中』って書いてあった」

「いつの話ですか」

「荷を運んだ夜だ。閉鎖されたはずの倉にな」

「それが、終わらなかったという意味?」

「違う。俺が見たとき、板の下に古い日付があった。十年前の閉鎖の日付だ」

「新しい札に、古い日付が?」

「札が新しかったかどうかは知らねえ。埃は積もってた。だが、日付は読めた」

 

医師が水を渡した。

 

「俺は夜番の男に、もう閉鎖した倉だろうって聞いたんだ。そしたら、あいつが言った。『終わったと報告した者がいない』って」

「その人が、名前を教えた男ですか」

「ああ。右手に火傷があった」

「名前は言わなくていいです。代わりに、何をしていたか教えてください」

「帳面を見てた。誰が出たかを数えて、最後に空欄を指で押さえた」

「空欄?」

「『戻った人間はいる。でも返す先がない』って」

 

それは、これまで見つかった書類の文言と重なっていた。

ただ、ダレン自身が何を見たのか、記録の意味をどう理解したのかは分けておく必要がある。

 

「窓に来た別の男は、その夜番を終わらせたいんでしょうか」

「知らねえ。けど、あいつは俺に受け取れと言った。俺は運び手だ。受け取る役じゃない」

 

拳が毛布を握った。

 

「誰かが俺の名前を書いたら、俺が受領者になるのかもしれねえ。だから言うなって頼んだんだ」

「あなたの名前を?」

「俺のじゃねえ。二番の名前だ」

 

話が食い違っているように聞こえた。

本人が名乗るまで代理の申告を受け付けない。

名を代わりに告げた者を受領者と見なす。

この二つが別の手続きを指しているなら、両方が存在していてもおかしくない。

だが、何を受け取るのかは依然として分からなかった。

 

「もう一つだけ」

 

医師の許可を待って続けた。

 

「昨夜の紙には、一の数字がありました。あなたは見ていませんね」

「見てねえ」

「一番について、何か知っていますか」

 

ダレンの表情が変わった。

 

「一番は……鐘を鳴らす」

「夜番終了の鐘を?」

「そうだ。二番が出たら、一番が鐘を二つ鳴らす。俺が運んだ夜には、鳴らなかった」

 

医師がそこで話を止めた。

 

「今日は十分だ」

 

寝台から離れる前に、ダレンが小さく言った。

 

「俺は、鳴らなかった鐘を待ってたんじゃねえ。あの男が待ってたんだ」

 

*

 

夕刻、守備隊から使いが来た。

番小屋の裏の物置が開き、ベルクたちは中を確認できたらしい。

誰もいなかった。

内側から掛かった閂は、窓の下に通された細い針金で外から動かせる状態だったという。

誰かが閉じ込められているように見せた可能性がある。

見つかったのは、古い鐘の舌と、日付の書かれた木板。

鐘そのものはなかった。

 

「隊長から、これを預かりました」

 

兵士が差し出したのは、小さな封筒だった。

中には番小屋の帳面を写した一枚がある。

最後の頁には、二つの欄が並んでいた。

 

『第二照合 勤務開始』

 

その下に、十年前の閉鎖前日の日付。

隣の『勤務終了』は空欄だった。

さらに下には、別の筆跡でこう書かれている。

 

『終了報告を受ける者 一番』

 

そして、欄外に小さく追記があった。

『鐘が鳴らぬ場合、名による代理終了を禁ず』

 

「代理終了……」

 

昨夜の紙を思い出した。

二番を終わらせろ。

相手は、鐘を鳴らす方法を探しているのか。

それとも、名前を使って本来できない終了を行わせようとしているのか。

兵士は続けた。

 

「隊長は、今夜も番小屋に見張りを置きます。ただし鐘は鳴らさないそうです」

「それがいいと思います」

「それから、もう一つ」

 

封筒の底から、細長い紙片が出てきた。

 

「物置の棚に挟まっていました。誰かが最近書いたものらしいです」

 

墨はまだ濃く、紙の縁も擦り切れていなかった。

そこには、名前ではなく、場所が記されていた。

『鐘は第三倉に戻した』。

 

*

 

夜、ベルクが治療所に戻った。

紙片を確認すると、窓の外を見た。

 

「番小屋に鐘がない理由は分かったかもしれん。ただし、書いた奴の言葉が本当なら、だ」

「第三倉へ行くつもりですか」

「いずれはな。だが今夜は行かない。俺たちが鐘を鳴らすのを待っている奴がいるかもしれん」

「一番を名乗る人でしょうか」

「名乗ったわけじゃない。紙に一と書いただけだ」

 

その慎重さに頷いた。

ベルクは椅子へ腰を下ろし、手帳を開いた。

 

「番小屋で見つかった帳面には、奇妙なところがあった」

「勤務終了の空欄ですか」

「いや。最後の頁だけ、紙が新しかった。綴じ糸も一度切られていた」

 

十年前の記録に、誰かが最近手を加えた。

 

「本当に十年前から夜番が終わっていないのか、それとも、そう見せたい奴がいるのか。そこから調べ直す」

「ダレンさんの話と、帳面の記録が一致していても?」

「一致するように作ることもできる。あいつが見た板だって、誰かが後から掛けたのかもしれん」

 

言葉を失った。

これまで、古い記録が見つかるたび、過去に近づいていると思っていた。

けれど、誰かが現在の手で過去の形を作り直しているなら、証拠の古さだけでは信用できない。

 

「それでも、何も分からないわけじゃないですね」

「そうだ。少なくとも、今もこの仕組みを動かしたがっている奴がいる」

 

ベルクは封筒を閉じた。

 

「明日は書記に、閉鎖当日の鐘の記録を聞く。お前はダレンのそばにいてくれ。本人が何か思い出しても、無理に言わせるな」

「分かりました」

 

その夜、治療所の灯りが一つずつ消えた。

眠る前に日記を開き、聞いたことだけを書き足した。

二番の勤務終了欄は空白。

一番が鐘を二つ鳴らすという証言。

鐘は第三倉へ戻されたという、出所不明の紙片。

そして、帳面の最後の頁には、最近手を加えた跡がある。

 

筆を置いたとき、遠くで金属の音がした。

一度。

少し間を置いて、もう一度。

 

窓を開けた。

村の鐘とは違う、乾いた短い響きだった。

北の方角から聞こえたようにも思う。

ただ、距離も場所も確かめられない。

廊下へ出ると、見張りの兵士も窓際に立っていた。

 

「今の、聞こえましたか」

「ああ。二つ鳴ったな」

「どこから?」

「分からん。村の鐘じゃない」

 

隣の病室で、寝台が軋んだ。

ダレンの声が、閉じた戸の向こうから聞こえる。

 

「……遅すぎる」

 

医師が戸を開けると、ダレンは起き上がろうともせず、天井を見つめていた。

 

「今の鐘を知っているんですか」

「知ってる。あの夜も、こうして二つ鳴るはずだった」

「今、鳴りました」

「ああ」

 

乾いた唇が動いた。

 

「だから、誰が夜番を終えたことにされたのか、確かめろ」

 

その直後、廊下の見張りがこちらを呼んだ。

戸口の下に、また紙が差し込まれていた。

今度は誰も声を聞いていない。

医師と兵士が位置を確かめ、布越しに拾い上げる。

表には、たった一行。

 

『終了を受領した者の名を、記せ』

 

その下には、空欄があった。

赤い線で囲まれた、名前一つ分の空欄だった。

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