世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

4 / 7
第4話 忘却の境界

朝、宿の主人はまた初対面の顔をした。

 

「おや、旅のお客さんかい」

 

その声を聞いても、もう驚かなかった。

昨夜は、忘れていたら教えてほしいと言ってくれた。あの言葉に嘘はなかったはずだ。

それでも、今朝の主人にとっては、昨日の約束など最初から存在しない。

 

「二階の奥の部屋を借りています。代金は払ってあります」

 

帳簿を見せると、主人は納得したように頷いた。

昨日まで名前のあった場所には、例の判読できない線が残っている。

 

「妙な字だねえ。誰が書いたんだか」

 

昨日、その字を見て震えていたことさえ、覚えていないらしい。

食堂の隅で朝食をとりながら、日記を開いた。

自分の書いた文字は今朝も変わらず残っている。

記録が残ることは分かった。だが、肝心なことをまだ確かめていなかった。

 

人は、いつ俺を忘れるのか。

 

夜を越えることが条件なのか。

眠ることなのか。

それとも、一定の時間が過ぎれば、昼間でも記憶は失われるのか。

この違いは大きい。

 

もし一度目を離しただけで忘れられるなら、誰かと協力して何かを成し遂げることすら難しい。

反対に、数時間は覚えていられるのなら、その間にできることがある。

 

日記の新しいページに、問いを一つ書いた。

 

『忘却は、いつ始まる?』

 

答えを知るためには、誰かの協力が必要だった。

 

*

 

昼前、ガルドの畑を訪ねた。

農夫は鍬を地面に突き立て、こちらを見るなり目を細めた。

 

「何だ、兄ちゃん。仕事でも探してるのか?」

「少し頼みがあります。時間をもらえませんか」

「また妙なことを言いに来たな」

 

笑いながらも、ガルドは話を聞いてくれた。

自分は人に忘れられやすいらしい。

それを確かめたいので、何度か名前を尋ねてほしい。

説明は、それだけに留めた。

 

「忘れられやすいって、そりゃ誰でもそうだろ。初めて会った相手の名前なんぞ、すぐ抜けるぞ」

「だから、実験してみたいんです」

「実験ねえ。暇な旅人だな」

 

ガルドは呆れたように笑ったが、仕事の合間ならと引き受けてくれた。

 

「レイです」

「レイだな。よし、覚えた」

 

まず、十分ほど一緒に畑の石を拾った。

ガルドは作業をしながら、今年の麦の出来や、雨が少ないことを話した。

十分後、名前を尋ねる。

 

「レイだろ。まだ忘れちゃいねえよ」

 

さらに二十分。

日陰で水を飲み、村の北にある街道の話を聞いた。

 

「レイ。何度聞くんだ」

 

三十分が過ぎても、ガルドは俺の名前を覚えていた。

そのことに、思いのほか安堵している自分がいた。

ほんの短い時間でも、誰かの記憶に留まっていられる。

当たり前の事実が、今では貴重だった。

 

「今度は、少し離れてみてもいいですか」

「おう。俺は仕事をしてるぞ」

 

畑を離れ、村の広場まで歩いた。

鐘楼の下で時刻を確かめ、四半刻ほど待つ。

この土地の鐘は一日を区切るためのもので、正確な分数を測れるわけではない。

それでも、日記に記録を残すには十分だった。

 

戻ると、ガルドは荷車に麦束を積んでいた。

 

「おう、レイ。終わったか」

 

名前を呼ばれた。

 

思わず立ち止まった。

 

「……覚えてるんですね」

「何をだ?」

「俺のことです」

「さっきまで石拾いしてたじゃねえか」

 

当然だという顔だった。

少なくとも、短い別離では忘れない。

胸の中に、小さな灯りがともった。

 

「もう一度、今度は長めに離れてみます」

「好きにしろ。ただし、夕方までに戻るなら薪を運ぶのを手伝えよ」

「ああ。約束します」

 

ガルドは笑い、仕事に戻った。

 

*

 

村の端を流れる小川で、時間を潰した。

水は澄んでいて、川底の小石が見える。

対岸には白い花が群生し、羽の透明な虫が水面を飛んでいた。

 

石に腰を下ろし、日記を開く。

 

『会話中は記憶が続く』

『短時間離れても、名前を覚えていた』

 

そこまで書いて、筆が止まった。

これは救いなのだろうか。

忘れられるまでの時間が延びたところで、結末は同じかもしれない。

むしろ、覚えていてもらえる時間を知れば、その終わりが近づくたびに怯えることになる。

それでも、知る必要があった。

 

分からないまま失うよりは、失われる仕組みを少しでも理解していたかった。

日が傾き始めた頃、畑へ戻った。

ガルドは納屋の前で薪を束ねていた。

 

「……あの」

 

声をかけると、振り返った。

 

「ああ、兄ちゃん。何か用か?」

 

嫌な予感がした。

 

「さっき、ここで石を拾っていたレイです」

「石拾い?」

 

ガルドは手を止めた。

 

「確かに今日は誰かに手伝ってもらったな」

「その相手が俺です」

「……そうだったか?」

 

しばらく顔を見つめられた。

 

「悪いな。どうも思い出せねえ」

 

喉の奥が詰まった。

 

昼には、確かに名前を呼んでくれた。

一度離れて戻ったときも、覚えていてくれた。

だが、今は違う。

 

昼と夕方の間の、どこかで。

俺という人間は、彼の記憶から抜け落ちた。

 

「薪を運ぶ約束も、覚えていませんか」

「薪? ああ、人手が欲しいとは思ってたが……」

 

ガルドは不思議そうに首を傾げた。

 

「お前、手伝ってくれるのか?」

 

約束は消えた。

けれど、運ぶべき薪はそこにある。

 

「……ええ。手伝います」

 

返事をすると、ガルドは屈託なく笑った。

 

「助かるよ、兄ちゃん」

 

*

 

夕暮れ、薪を運び終えると、ガルドは礼に小さなパンを二つ持たせてくれた。

受け取ったパンは温かかった。

家の中では誰かが夕食の支度をしているらしく、香草を煮る匂いが漂っていた。

 

「明日も来るか?」

 

ガルドが尋ねた。

 

「……分かりません」

 

「そうか。まあ、旅人なら仕方ねえな」

 

男はそれ以上引き留めなかった。

 

村へ戻る道すがら、実験の結果を整理した。

眠る必要はない。

日付が変わる必要もない。

別れた直後に必ず消えるわけでもない。

 

少なくとも、今日のガルドは、離れてからしばらく俺を覚えていた。

そして、数時間のうちに忘れた。

 

時間だけが原因なのか、それとも別の条件があるのか。

一人の例では決められない。

 

ただ、ひとつ確かなことがあった。

忘却には境界がある。

その向こうへ渡った瞬間、俺たちの間にあった時間は、相手にとって別の形へ変わってしまう。

その境界がどこにあるのか、見えないことが恐ろしかった。

 

*

 

広場の井戸端で、リシアを見かけた。

大きな籠を足元に置き、汲んだ水を小瓶へ移している。

銀色の髪を後ろで束ね、袖を肘までまくっていた。

 

声をかけるか迷った。

数日前、彼女は俺を見て懐かしいと言った。

昨日もまた、同じようなことを口にした。

だが、それは記憶ではない。

名前を思い出したわけでも、以前の会話を覚えていたわけでもない。

その違いを、忘れてはいけないと思った。

 

「……あれ?」

 

先に気づいたのはリシアだった。

 

「こんにちは。あの、もしかして……」

 

期待が胸をよぎる。

 

「前に、どこかでお会いしましたか?」

 

予想していた言葉だった。

それでも、少しだけ痛んだ。

 

「何度か、話したことがある」

 

リシアは申し訳なさそうに眉を寄せた。

 

「ごめんなさい。どうしても思い出せなくて」

「謝らなくていい」

「でも、何だか失礼な気がして……」

 

彼女は籠から布を取り出し、小瓶の口を拭いた。

 

「最近、変なんです。知らないはずの人が、知らない人に思えなくて」

 

その言葉を聞いて、胸の奥が静かに揺れた。

 

「怖くないのか?」

「少しは」

 

リシアは正直に答えた。

 

「でも、その人が悪い人だとは思わないんです。理由は分かりませんけど」

 

それは、記憶の代わりにはならない。

明日になれば、今の会話も消えるのだろう。

けれど、何も残らないわけではないのかもしれない。

 

「レイだ」

 

名前を告げると、彼女は小さく頷いた。

 

「レイさん。私はリシアです」

「知ってる」

 

思わず答えてしまった。

リシアは目を丸くしたが、やがて苦笑した。

 

「そうでしたね。前にも話したんでした」

 

そう言って、籠を持ち上げる。

中には青緑色の葉をつけた草と、細い根を束ねたものが詰まっていた。

 

「それ、薬草か?」

「はい。熱を下げるためのものです。村の東に、具合の悪い方がいるので」

「毎日採ってるのか?」

「必要なときだけです。今日は森の手前で採れましたけど、明日はもう少し奥へ行かないと足りないかもしれません」

 

その言葉に、背中が冷たくなった。

 

森。

消えた石碑。

不自然な静けさ。

村人たちが口を揃えて警戒する魔物。

 

「奥は危ないと聞いた」

「ええ。だから、明るいうちに戻るつもりです」

 

リシアは軽く笑った。

 

「慣れた道ですし、大丈夫ですよ」

 

その自信が、かえって不安を募らせた。

 

慣れた道でも、危険は起こる。

昨日まで安全だった場所が、今日も安全だとは限らない。

それは、この世界に来てから嫌というほど思い知らされたことだった。

 

「……気をつけてくれ」

「ありがとうございます」

 

リシアは会釈し、家路についた。

しばらく、その背中を見送った。

呼び止める理由はなかった。

危ないから森へ行くなと言っても、彼女には薬草を必要とする人がいる。

その事情を知らないまま、行動を決めつけることはできない。

それでも、胸のざわめきは消えなかった。

 

*

 

宿へ戻ると、主人が台所で火種石を使っていた。

指先に挟まれた小さな石が青く光り、炉の薪に火が移る。

昨日見たときと同じ、生活の中の魔法だった。

 

「何だい、そんなに見つめて」

「……少し、気になって」

「魔法が珍しい土地から来たんだねえ」

 

主人は笑い、石を棚に戻した。

 

「魔法で、人の記憶を消すことはできるんですか」

 

その問いに、主人の手が止まった。

 

「何だって?」

「人の顔や名前を、忘れさせるような魔法です」

 

主人はしばらく考えた。

 

「さあねえ。王都の術師なら、そういうこともできるのかもしれないけど」

「この村では?」

「聞いたこともないよ」

 

主人は肩をすくめた。

 

「そんなことができたら、商売人は困るだろうね。借金した客の顔を忘れちまう」

 

冗談めかした言葉だった。

だが、笑えなかった。

この宿では、まさにそれが起きている。

 

代金を払った客の顔が分からない。

帳簿に残した名前が読めない。

 

主人は自分の言葉が持つ意味に気づいていないらしい。

鍋の蓋を開け、夕食の味を確かめ始めた。

 

魔法が原因なのかは分からない。

だが、少なくとも主人にとって、記憶を消す魔法は日常のものではない。

もし誰かが俺に魔法をかけているのなら、その誰かは今も、どこかで働きかけ続けていることになる。

考えたくない想像だった。

 

*

 

夜、日記を開いた。

ガルドとの実験を、時間の順に書き記す。

 

『会話中は記憶を保持』

『短い別離のあとも、名前を覚えていた』

『数時間後には、顔と名前を忘れていた』

『作業を手伝われた事実は残った』

 

次に、リシアの言葉を記す。

 

『以前に会った気がする。ただし、具体的な記憶はない』

 

その下に、もう一行。

 

『明日、森の奥へ薬草を採りに行く可能性がある』

 

筆先が止まった。

本来なら、明日の朝には村を出るつもりだった。

忘れられ続ける場所に留まるのは辛い。

ここを離れれば、少なくとも同じ人間に何度も忘れられる苦しみからは逃れられる。

 

だが、村を出たところで、俺を忘れる世界そのものからは逃げられない。

それに、リシアの言葉がどうしても気にかかった。

 

『慣れた道ですし、大丈夫ですよ』

 

あの森には、何かがある。

魔物だけではない。

石碑が消えたことも、記憶の底から聞こえてきた声も、まだ何ひとつ説明できていない。

 

もちろん、それらとリシアの身に迫る危険が結びついている証拠はなかった。

それでも、明日彼女が森へ入ると知りながら、何もせず立ち去ることはできそうになかった。

日記の余白に、新しい予定を書いた。

 

『明朝、森へ向かう道を確かめる』

 

書き終え、窓を開ける。

夜風が部屋に入り込み、灯りの炎が揺れた。

村の向こうには、月明かりに沈む森が広がっている。

昼間、ガルドに名前を呼ばれたときのことを思い出した。

 

「レイ」

 

たった二文字。

それが、あんなにも嬉しかった。

けれど、嬉しかった時間の長さだけ、忘れられた瞬間の痛みも深くなる。

誰かの記憶に残ることを望まなければ、傷つかずに済むのだろうか。

答えは出なかった。

 

窓を閉めようとしたとき、森の方角から低い鳴き声が聞こえた。

獣の声に似ていた。

だが、途中で音が途切れ、別の生き物の声を継ぎ足したような、奇妙な響きだった。

 

耳を澄ます。

もう一度、声がした。

今度は、少し近い。

 

昼間の森で見たものを思い出す。

足元に続いていた、不自然に平らな石。

音もなく消えた石碑。

あの場所を覆っていた、理由の分からない静けさ。

 

明日、リシアはあの森へ入る。

 

日記を閉じ、枕元に置いた短刀を確かめた。

刃は短く、頼りない。

魔物を相手に何ができるのかも分からない。

それでも、何もしない理由にはならなかった。

 

この世界は、俺の名前を残してくれない。

だが、目の前で誰かが危険に向かうのを見て、知らなかったことにはできない。

たとえ、その誰かが明日も俺を忘れるとしても。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。