世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
朝、宿の主人はまた初対面の顔をした。
「おや、旅のお客さんかい」
その声を聞いても、もう驚かなかった。
昨夜は、忘れていたら教えてほしいと言ってくれた。あの言葉に嘘はなかったはずだ。
それでも、今朝の主人にとっては、昨日の約束など最初から存在しない。
「二階の奥の部屋を借りています。代金は払ってあります」
帳簿を見せると、主人は納得したように頷いた。
昨日まで名前のあった場所には、例の判読できない線が残っている。
「妙な字だねえ。誰が書いたんだか」
昨日、その字を見て震えていたことさえ、覚えていないらしい。
食堂の隅で朝食をとりながら、日記を開いた。
自分の書いた文字は今朝も変わらず残っている。
記録が残ることは分かった。だが、肝心なことをまだ確かめていなかった。
人は、いつ俺を忘れるのか。
夜を越えることが条件なのか。
眠ることなのか。
それとも、一定の時間が過ぎれば、昼間でも記憶は失われるのか。
この違いは大きい。
もし一度目を離しただけで忘れられるなら、誰かと協力して何かを成し遂げることすら難しい。
反対に、数時間は覚えていられるのなら、その間にできることがある。
日記の新しいページに、問いを一つ書いた。
『忘却は、いつ始まる?』
答えを知るためには、誰かの協力が必要だった。
*
昼前、ガルドの畑を訪ねた。
農夫は鍬を地面に突き立て、こちらを見るなり目を細めた。
「何だ、兄ちゃん。仕事でも探してるのか?」
「少し頼みがあります。時間をもらえませんか」
「また妙なことを言いに来たな」
笑いながらも、ガルドは話を聞いてくれた。
自分は人に忘れられやすいらしい。
それを確かめたいので、何度か名前を尋ねてほしい。
説明は、それだけに留めた。
「忘れられやすいって、そりゃ誰でもそうだろ。初めて会った相手の名前なんぞ、すぐ抜けるぞ」
「だから、実験してみたいんです」
「実験ねえ。暇な旅人だな」
ガルドは呆れたように笑ったが、仕事の合間ならと引き受けてくれた。
「レイです」
「レイだな。よし、覚えた」
まず、十分ほど一緒に畑の石を拾った。
ガルドは作業をしながら、今年の麦の出来や、雨が少ないことを話した。
十分後、名前を尋ねる。
「レイだろ。まだ忘れちゃいねえよ」
さらに二十分。
日陰で水を飲み、村の北にある街道の話を聞いた。
「レイ。何度聞くんだ」
三十分が過ぎても、ガルドは俺の名前を覚えていた。
そのことに、思いのほか安堵している自分がいた。
ほんの短い時間でも、誰かの記憶に留まっていられる。
当たり前の事実が、今では貴重だった。
「今度は、少し離れてみてもいいですか」
「おう。俺は仕事をしてるぞ」
畑を離れ、村の広場まで歩いた。
鐘楼の下で時刻を確かめ、四半刻ほど待つ。
この土地の鐘は一日を区切るためのもので、正確な分数を測れるわけではない。
それでも、日記に記録を残すには十分だった。
戻ると、ガルドは荷車に麦束を積んでいた。
「おう、レイ。終わったか」
名前を呼ばれた。
思わず立ち止まった。
「……覚えてるんですね」
「何をだ?」
「俺のことです」
「さっきまで石拾いしてたじゃねえか」
当然だという顔だった。
少なくとも、短い別離では忘れない。
胸の中に、小さな灯りがともった。
「もう一度、今度は長めに離れてみます」
「好きにしろ。ただし、夕方までに戻るなら薪を運ぶのを手伝えよ」
「ああ。約束します」
ガルドは笑い、仕事に戻った。
*
村の端を流れる小川で、時間を潰した。
水は澄んでいて、川底の小石が見える。
対岸には白い花が群生し、羽の透明な虫が水面を飛んでいた。
石に腰を下ろし、日記を開く。
『会話中は記憶が続く』
『短時間離れても、名前を覚えていた』
そこまで書いて、筆が止まった。
これは救いなのだろうか。
忘れられるまでの時間が延びたところで、結末は同じかもしれない。
むしろ、覚えていてもらえる時間を知れば、その終わりが近づくたびに怯えることになる。
それでも、知る必要があった。
分からないまま失うよりは、失われる仕組みを少しでも理解していたかった。
日が傾き始めた頃、畑へ戻った。
ガルドは納屋の前で薪を束ねていた。
「……あの」
声をかけると、振り返った。
「ああ、兄ちゃん。何か用か?」
嫌な予感がした。
「さっき、ここで石を拾っていたレイです」
「石拾い?」
ガルドは手を止めた。
「確かに今日は誰かに手伝ってもらったな」
「その相手が俺です」
「……そうだったか?」
しばらく顔を見つめられた。
「悪いな。どうも思い出せねえ」
喉の奥が詰まった。
昼には、確かに名前を呼んでくれた。
一度離れて戻ったときも、覚えていてくれた。
だが、今は違う。
昼と夕方の間の、どこかで。
俺という人間は、彼の記憶から抜け落ちた。
「薪を運ぶ約束も、覚えていませんか」
「薪? ああ、人手が欲しいとは思ってたが……」
ガルドは不思議そうに首を傾げた。
「お前、手伝ってくれるのか?」
約束は消えた。
けれど、運ぶべき薪はそこにある。
「……ええ。手伝います」
返事をすると、ガルドは屈託なく笑った。
「助かるよ、兄ちゃん」
*
夕暮れ、薪を運び終えると、ガルドは礼に小さなパンを二つ持たせてくれた。
受け取ったパンは温かかった。
家の中では誰かが夕食の支度をしているらしく、香草を煮る匂いが漂っていた。
「明日も来るか?」
ガルドが尋ねた。
「……分かりません」
「そうか。まあ、旅人なら仕方ねえな」
男はそれ以上引き留めなかった。
村へ戻る道すがら、実験の結果を整理した。
眠る必要はない。
日付が変わる必要もない。
別れた直後に必ず消えるわけでもない。
少なくとも、今日のガルドは、離れてからしばらく俺を覚えていた。
そして、数時間のうちに忘れた。
時間だけが原因なのか、それとも別の条件があるのか。
一人の例では決められない。
ただ、ひとつ確かなことがあった。
忘却には境界がある。
その向こうへ渡った瞬間、俺たちの間にあった時間は、相手にとって別の形へ変わってしまう。
その境界がどこにあるのか、見えないことが恐ろしかった。
*
広場の井戸端で、リシアを見かけた。
大きな籠を足元に置き、汲んだ水を小瓶へ移している。
銀色の髪を後ろで束ね、袖を肘までまくっていた。
声をかけるか迷った。
数日前、彼女は俺を見て懐かしいと言った。
昨日もまた、同じようなことを口にした。
だが、それは記憶ではない。
名前を思い出したわけでも、以前の会話を覚えていたわけでもない。
その違いを、忘れてはいけないと思った。
「……あれ?」
先に気づいたのはリシアだった。
「こんにちは。あの、もしかして……」
期待が胸をよぎる。
「前に、どこかでお会いしましたか?」
予想していた言葉だった。
それでも、少しだけ痛んだ。
「何度か、話したことがある」
リシアは申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ごめんなさい。どうしても思い出せなくて」
「謝らなくていい」
「でも、何だか失礼な気がして……」
彼女は籠から布を取り出し、小瓶の口を拭いた。
「最近、変なんです。知らないはずの人が、知らない人に思えなくて」
その言葉を聞いて、胸の奥が静かに揺れた。
「怖くないのか?」
「少しは」
リシアは正直に答えた。
「でも、その人が悪い人だとは思わないんです。理由は分かりませんけど」
それは、記憶の代わりにはならない。
明日になれば、今の会話も消えるのだろう。
けれど、何も残らないわけではないのかもしれない。
「レイだ」
名前を告げると、彼女は小さく頷いた。
「レイさん。私はリシアです」
「知ってる」
思わず答えてしまった。
リシアは目を丸くしたが、やがて苦笑した。
「そうでしたね。前にも話したんでした」
そう言って、籠を持ち上げる。
中には青緑色の葉をつけた草と、細い根を束ねたものが詰まっていた。
「それ、薬草か?」
「はい。熱を下げるためのものです。村の東に、具合の悪い方がいるので」
「毎日採ってるのか?」
「必要なときだけです。今日は森の手前で採れましたけど、明日はもう少し奥へ行かないと足りないかもしれません」
その言葉に、背中が冷たくなった。
森。
消えた石碑。
不自然な静けさ。
村人たちが口を揃えて警戒する魔物。
「奥は危ないと聞いた」
「ええ。だから、明るいうちに戻るつもりです」
リシアは軽く笑った。
「慣れた道ですし、大丈夫ですよ」
その自信が、かえって不安を募らせた。
慣れた道でも、危険は起こる。
昨日まで安全だった場所が、今日も安全だとは限らない。
それは、この世界に来てから嫌というほど思い知らされたことだった。
「……気をつけてくれ」
「ありがとうございます」
リシアは会釈し、家路についた。
しばらく、その背中を見送った。
呼び止める理由はなかった。
危ないから森へ行くなと言っても、彼女には薬草を必要とする人がいる。
その事情を知らないまま、行動を決めつけることはできない。
それでも、胸のざわめきは消えなかった。
*
宿へ戻ると、主人が台所で火種石を使っていた。
指先に挟まれた小さな石が青く光り、炉の薪に火が移る。
昨日見たときと同じ、生活の中の魔法だった。
「何だい、そんなに見つめて」
「……少し、気になって」
「魔法が珍しい土地から来たんだねえ」
主人は笑い、石を棚に戻した。
「魔法で、人の記憶を消すことはできるんですか」
その問いに、主人の手が止まった。
「何だって?」
「人の顔や名前を、忘れさせるような魔法です」
主人はしばらく考えた。
「さあねえ。王都の術師なら、そういうこともできるのかもしれないけど」
「この村では?」
「聞いたこともないよ」
主人は肩をすくめた。
「そんなことができたら、商売人は困るだろうね。借金した客の顔を忘れちまう」
冗談めかした言葉だった。
だが、笑えなかった。
この宿では、まさにそれが起きている。
代金を払った客の顔が分からない。
帳簿に残した名前が読めない。
主人は自分の言葉が持つ意味に気づいていないらしい。
鍋の蓋を開け、夕食の味を確かめ始めた。
魔法が原因なのかは分からない。
だが、少なくとも主人にとって、記憶を消す魔法は日常のものではない。
もし誰かが俺に魔法をかけているのなら、その誰かは今も、どこかで働きかけ続けていることになる。
考えたくない想像だった。
*
夜、日記を開いた。
ガルドとの実験を、時間の順に書き記す。
『会話中は記憶を保持』
『短い別離のあとも、名前を覚えていた』
『数時間後には、顔と名前を忘れていた』
『作業を手伝われた事実は残った』
次に、リシアの言葉を記す。
『以前に会った気がする。ただし、具体的な記憶はない』
その下に、もう一行。
『明日、森の奥へ薬草を採りに行く可能性がある』
筆先が止まった。
本来なら、明日の朝には村を出るつもりだった。
忘れられ続ける場所に留まるのは辛い。
ここを離れれば、少なくとも同じ人間に何度も忘れられる苦しみからは逃れられる。
だが、村を出たところで、俺を忘れる世界そのものからは逃げられない。
それに、リシアの言葉がどうしても気にかかった。
『慣れた道ですし、大丈夫ですよ』
あの森には、何かがある。
魔物だけではない。
石碑が消えたことも、記憶の底から聞こえてきた声も、まだ何ひとつ説明できていない。
もちろん、それらとリシアの身に迫る危険が結びついている証拠はなかった。
それでも、明日彼女が森へ入ると知りながら、何もせず立ち去ることはできそうになかった。
日記の余白に、新しい予定を書いた。
『明朝、森へ向かう道を確かめる』
書き終え、窓を開ける。
夜風が部屋に入り込み、灯りの炎が揺れた。
村の向こうには、月明かりに沈む森が広がっている。
昼間、ガルドに名前を呼ばれたときのことを思い出した。
「レイ」
たった二文字。
それが、あんなにも嬉しかった。
けれど、嬉しかった時間の長さだけ、忘れられた瞬間の痛みも深くなる。
誰かの記憶に残ることを望まなければ、傷つかずに済むのだろうか。
答えは出なかった。
窓を閉めようとしたとき、森の方角から低い鳴き声が聞こえた。
獣の声に似ていた。
だが、途中で音が途切れ、別の生き物の声を継ぎ足したような、奇妙な響きだった。
耳を澄ます。
もう一度、声がした。
今度は、少し近い。
昼間の森で見たものを思い出す。
足元に続いていた、不自然に平らな石。
音もなく消えた石碑。
あの場所を覆っていた、理由の分からない静けさ。
明日、リシアはあの森へ入る。
日記を閉じ、枕元に置いた短刀を確かめた。
刃は短く、頼りない。
魔物を相手に何ができるのかも分からない。
それでも、何もしない理由にはならなかった。
この世界は、俺の名前を残してくれない。
だが、目の前で誰かが危険に向かうのを見て、知らなかったことにはできない。
たとえ、その誰かが明日も俺を忘れるとしても。