世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
夜明け前、宿の廊下で床板が鳴った。
目が覚めたのは、その音のせいだったのかもしれない。
窓の外はまだ薄暗い。屋根の向こうに見える森だけが、夜の色を残していた。
昨夜の鳴き声を思い出す。
獣に似ていながら、どこか不自然な途切れた声。
眠りにつくまで耳を澄ませていたが、三度目は聞こえなかった。
枕元の日記を開く。
『明朝、森へ向かう道を確かめる』
昨日、自分で書いた一文だ。
短刀を腰に差し、宿の階段を下りた。台所にはまだ火が入っていない。主人を起こさず外へ出ようとしたところで、玄関の脇に立てかけられた箒が倒れた。
乾いた音が、薄暗い食堂に響く。
「……誰だい?」
奥から眠たげな声がした。
「二階の客です。すみません、箒を倒しました」
「二階の?」
しばらく沈黙があった。
「まあ、気をつけておくれよ」
それきり、足音は遠ざかった。
こちらが誰なのか、確かめに来ることすらなかった。
扉を閉めると、冷えた朝の空気が頬に触れた。
村はまだ眠っている。石畳の隙間に夜露が残り、家々の煙突からは細い煙が上がり始めていた。
東へ歩く。
昨日、リシアが薬草を届けると言っていた家は、村の外れにあった。
戸の前に小さな水桶が置かれ、窓には厚い布が掛かっている。
中から咳が聞こえた。
短く、息を吸う暇もないような咳だった。
その音を聞いて、立ち止まる。
彼女が森へ行く理由は、確かにここにある。
危ないからやめろ、と言うだけでは足りない。薬草がなければ困る人がいる。村の誰かが代わりに採れるのなら、その方がいい。
まずは、何が必要なのかを知ろう。
そう考えたところで、戸が開いた。
出てきたのは、目の下に濃い影をつくった中年の女だった。空の水桶を抱え、こちらを見て驚いたように足を止める。
「こんな朝早くに、何か?」
「すみません。昨日、薬草を届けていた娘さんのことで」
「リシアのこと?」
女の顔が少し和らいだ。
「ええ。あの子には本当に助けられてるよ。うちの父さん、熱が下がらなくてね」
女は家の中を振り返った。
「薬師さんも来てくれたけど、薬が足りないんだって。昨日の分で少し落ち着いたのに、夜になるとまた熱が上がって」
「必要な草は、森の奥にしかないんですか」
「日陰の湿ったところに生えるんだそうだよ。近場はもう採り尽くしたって、リシアが」
そのとき、家の奥からまた咳が聞こえた。
女は水桶を抱え直した。
「ごめんね。水を汲まないと」
「手伝いましょうか」
「いいよ、いいよ。旅の人にまで迷惑はかけられない」
断り方は穏やかだった。無理に食い下がる理由もない。
礼を言って離れると、背後で戸が閉まった。
森へ入る必要があるのは、リシアの思い込みではなかった。
それが分かった分だけ、気持ちは重くなった。
*
村の北東には、森へ続く道が二本ある。
一本は薪を運ぶための広い道。
もう一本は、畑の外れから木々の間へ入る細い踏み跡だ。
広い方には荷車の轍が残り、朝露を含んだ土が黒く光っていた。
昨日までの話からすると、リシアが使うのは細い道のはずだった
薬草が育つ湿地は、そちらから入った方が近いという。
分かれ道の前でしゃがみ、地面を確かめる。
小さな靴の跡がいくつかあった。
昨夜の雨は降っていないから、昨日以前のものだろう。
その隣に、深く沈んだ跡がある。
明らかに靴ではないなにか。
丸く広がったくぼみの先に、三本の細い溝が刻まれていた。
獣の爪痕に見えた。
ただ、妙に大きい。
指を広げた手のひらより、ひと回りほど幅があった。
昨日、村で聞いた魔物の話が頭をよぎる。
その跡は、森の奥から村へ向かって続いていた。
二つ、三つ続いたところで草に隠れ、見失う。
足元の土をつまむが、表面はまだ崩れていない。
いつついた跡なのかは分からない。けれど、古いものには見えなかった。
「何してるんだ、兄ちゃん」
声に振り向くと、荷車を引いたガルドが立っていた。
昨日、一緒に薪を運んだ男だ。
「足跡を見ていました」
「足跡?」
指さした先を見た途端、ガルドの顔から笑みが消えた。
「……こりゃ、まずいな」
荷車を道端に寄せ、しゃがみ込む。
「猪じゃねえ。森狼でも、こんな跡はつけねえぞ」
「魔物ですか」
「断言はできん。でも、村のすぐそばまで来てるってことだ」
ガルドは顔を上げ、細い道の先を見た。
「見回りの連中に知らせる。お前も今日は森に入るなよ」
「リシアが薬草を採りに行くと言っていました」
「リシアが?」
ガルドは舌打ちした。
「まったく、あの娘は。誰かのためとなると無茶するからな」
立ち上がり、荷車の取っ手を握る。
「俺からも止めておく。兄ちゃんは村に戻れ」
そう言い残し、急ぎ足で去っていった。
見送ったあと、もう一度爪痕を見た。
ガルドは今、確かに警告を受け取った。
明日には、誰から聞いたのか忘れるかもしれない。
それでも、魔物らしい足跡を見た事実は残るはずだ。
ならば、伝えるべきことは伝わった。
そう思いたかった。
*
朝の鐘が鳴る頃、村の広場は慌ただしくなっていた。
井戸端で女たちが話し込み、家畜を追う少年が何度も森の方を振り返っている。
ガルドの姿を探すと、見回りの男二人と話しているところだった。
「村の近くまで出てるなら、今すぐ確かめないと」
「いや、まず村長に報告だろう」
「その間に誰かが入ったらどうする」
言い争う声が聞こえた。
一人がこちらを見た。
「おい、足跡を見たってのはお前か」
「はい。森の細い道の入口です」
「どのくらいの大きさだった?」
説明すると、男は眉間に皺を寄せた。
「森喰いの類かもしれん」
聞き慣れない名前だった。
「森喰い?」
「木の陰に潜む魔物の総称だ。姿も大きさもまちまちだが、爪の跡が深い。人を襲うものもいる」
もう一人が口を挟む。
「脅かすな。あれがそうと決まったわけじゃない」
「決まってからじゃ遅いだろう」
そのとき、広場の向こうに銀色の髪が見えた。
リシアだった。
肩から籠を下げ、いつもより厚手の上着を羽織っている。腰には小さな採集用の刃物。足元は泥のついた丈夫そうな靴だった。
準備を整えた姿を見た瞬間、心臓が強く打った。
「リシア!」
思わず声を上げる。
彼女が振り返った。
「はい?」
近づくと、紫色の瞳がわずかに揺れた。
「……あの」
その先を待つ。
「どこかで、お会いしましたか?」
昨日と同じ問いだった。
「レイだ。昨日、井戸のところで話した」
「あ……ごめんなさい」
リシアは申し訳なさそうに頭を下げた。
「不思議ですね。お名前は思い出せなかったのに、声を聞いたら少し安心してしまって」
その言葉に、答えられなかった。
覚えてはいない。
それでも、彼女の中に何かが残っているのだろうか。
確かめたい気持ちを押し込み、森の話をした。
「入口に大きな爪痕があった。見回りの人たちも危険だと言ってる」
「そうなんですか」
リシアは籠の持ち手を握り直した。
「でも、今日は薬草を採らないと」
「他の人に頼めないのか」
「採れる場所を知っている人が少ないんです。薬師さんは今、別の患者さんのところへ行っていて」
「俺が代わりに行くのは?」
「危ないと分かっている場所に、知らない人を一人で行かせられません」
きっぱりした返事だった。
思わず口をつぐむ。
「それに、似た草がいくつかあるんです。間違えると、熱を下げるどころか悪くしてしまうこともあります」
彼女は目を伏せた。
「昨日の夜、また熱が上がったそうです。できるだけ早く届けたいんです」
森へ行く理由を、もう知っている。
それでも本人の口から聞くと、重さが違った。
止めることだけを考えていた自分が、急に浅はかに思えた。
「……じゃあ、せめて誰かと一緒に行ってくれ」
「そうですね。見回りの方にお願いしてみます」
リシアは小さく笑った。
「心配してくれて、ありがとうございます」
その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
一人で行かせなければいい。
危険を知ったうえで、大人が何人か付き添えば、少なくとも無謀な行動にはならない。
そう考えた。
*
ところが、見回りの男たちは同行できなかった。
「村長が東の柵を見ろって言うんだ。昨夜、家畜が騒いだらしい」
一人が困った顔で言った。
「薬草採りなら、午後にしてくれないか」
「午後では遅くなるかもしれません」
リシアが答える。
「じゃあ、ガルドに頼んでみろ。あいつは道に詳しい」
ガルドなら、と期待した。
だが、畑へ向かう途中で会ったガルドは、今度は水路の修理を頼まれていた。
「悪いな、リシア。昼までには終わると思うんだが」
「分かりました。無理を言ってごめんなさい」
「いや、俺も気になる。終わったら森の入口まで行くよ」
話はそこで途切れた。
見回りの男たちも、ガルドも、危険を軽んじているわけではない。皆、自分の仕事を抱えている。
それでも、誰もリシアと一緒には行けなかった。
偶然なのだろう。
村で暮らしていれば、仕事が重なることもある。
ただ、その重なり方が、ひどく都合よく見えた。
彼女を一人にするために、別々の理由が用意されているような。
馬鹿げた考えだと分かっている。
何もかもを世界のせいにするのは簡単だ。そうすれば、目の前の人間が抱える事情まで、ただの仕掛けに見えてしまう。
それだけは避けたかった。
「俺がついて行く」
言葉が口をついて出た。
リシアが振り向く。
「でも、さっき危険だって……」
「だから、一人では行かせたくない」
「レイさんまで怪我をしたら困ります」
「それは同じだ」
返すと、彼女は少し困ったように笑った。
「……変な人ですね」
「よく言われる」
本当は、そんなことを言ってくれる人さえ、翌日には忘れてしまう。
けれど今は、その事実を説明する時間が惜しかった。
「まず、入口まで一緒に行こう。危なそうなら引き返す」
リシアはしばらく考え、頷いた。
「約束ですよ。無理はしないでください」
「分かった」
その約束を、守れるだろうか。
不意に、そんな考えが浮かんだ。
*
森へ続く細道は、朝より静かだった。
陽は高くなっている。葉の間から差す光は明るく、湿った土には虫が這っていた。
それなのに、鳥の声が少ない。
リシアは慣れた足取りで進み、ときどき立ち止まって草を確かめた。
「これは違います。葉の裏が白くないので」
しゃがみ込み、小さな葉を裏返して見せる。
「似てるんですね」
「ええ。見た目だけなら、間違える人も多いと思います」
薬草の名前を聞いたが、一度では覚えられなかった。リシアは笑って、もう一度ゆっくり教えてくれた。
その声を聞いていると、少しだけ森への恐怖が薄れた。
彼女にとって、ここは恐ろしいだけの場所ではない。
季節ごとに草が生え、雨のあとに茸が顔を出し、病人を助けるものが見つかる場所なのだ。
「小さい頃から来ていたのか?」
「母に教わりました。草の見分け方も、森の歩き方も」
「今も一緒に?」
「……いいえ」
答えは短かった。
聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。
謝ろうとすると、リシアが先に口を開いた。
「母はもういません。でも、教えてもらったことは残っています」
足元の草を避けながら、静かに続ける。
「だから、誰かの役に立てるなら、忘れずに使いたいんです」
忘れずに。
何気ない言葉が胸に刺さった。
彼女は母親の教えを覚えている。
その記憶が、今の彼女を動かしている。
人が人を覚えていることは、名前を知っているというだけではない。
一緒に過ごした時間が、その人の選択を形づくる。
そういうものなのだろう。
「……いいお母さんだったんだな」
「はい」
リシアは迷わず頷いた。
「とても」
その表情を見て、これ以上は聞かなかった。
*
森の奥へ進むにつれ、地面が柔らかくなった。
足首まで沈みそうな場所を避け、倒木を越える。リシアは道を知っていたが、歩き慣れないこちらは何度か枝に服を引っかけた。
「大丈夫ですか?」
「何とか」
「無理しないでくださいね」
「そっちこそ」
短いやり取りに、彼女が笑う。
その直後だった。
遠くで、木が折れる音がした。
乾いた枝が砕けるような、小さな音ではない。
太い幹が、重さに耐えきれず裂ける音だった。
リシアの笑顔が消えた。
「……今の」
「聞こえた」
二人で立ち止まる。
風は吹いていない。
木々の葉も動いていなかった。
もう一度、音がした。
今度は低く、地面を伝わってくるようだった。
「引き返そう」
声を抑えて告げる。
リシアは頷いた。
迷いはなかった。
「はい。ここからなら、別の道で戻れます」
来た道ではなく、左手の斜面を指さした。
「少し遠回りですけど、地面が固いので走れます」
その判断の早さに救われた。
二人で斜面へ向かう。
しかし、数歩進んだところで、リシアが足を止めた。
「……おかしい」
「どうした?」
「ここに、倒れた木なんてなかったはずです」
見れば、斜面を塞ぐように太い幹が横たわっていた。
枝にはまだ青い葉がついている。折れたばかりらしく、裂け目から白い木肌が覗いていた。
さっき聞こえた音。
その正体が、目の前にあった。
「別の道は?」
「少し戻れば……」
言いかけて、リシアの視線が止まった。
来た方角に、深い影が落ちている。
木々の間を、何かが横切った。
黒い背中のように見えた。
次の瞬間には消えていた。
「レイさん」
リシアの声が震えた。
「……あれ、何ですか」
答えられなかった。
姿を確かめるには遠すぎた。
ただ、影が動いた場所の草が、遅れて大きく揺れた。
そこにいた何かは、少なくとも人間よりずっと大きい。
「走れるか」
「はい」
「じゃあ、戻ろう。音を立てないように」
踵を返した。
そのとき、足元に奇妙なものが見えた。
濡れた土の上に、爪痕があった。
三本の細い溝。
村の入口で見たものと同じ形だ。
だが、向きが違う。
痕は森の奥へ続いていた。
今、自分たちが進んできた道を、なぞるように。
いつの間に。
来るときには、こんな跡はなかった。
リシアが息を呑む。
背後で、葉が擦れた。
振り返らずに、彼女の手首を掴んだ。
「行こう」
走り出す。
ぬかるんだ地面が靴を引き、枝が頬を掠める。肺に冷たい空気が流れ込み、呼吸が荒くなった。
リシアの足音がすぐ後ろから続く。
まだ、大丈夫だ。
そう思った瞬間、森の奥で低い声がした。
昨夜、宿の窓から聞いた声だった。
獣の唸りに似ている。
だが、途中で音が不自然に途切れ、別の喉が続きを引き受けたように響く。
右手の茂みが激しく揺れた。
思わず顔を向けた、その一瞬だった。
掴んでいた手首が、するりと抜けた。
「リシア?」
返事はない。
足を止めて振り返る。
ついさっきまで隣にいたはずの少女が、どこにもいなかった。
銀色の髪も、肩から下げた籠も見えない。
細い踏み跡が二本の木の間を抜け、その先で藪に呑まれている。
「リシア!」
呼んでも、森は答えなかった。
転んだのかもしれない。手が離れた拍子に、脇の斜面を滑り落ちたのかもしれない。
膝をつき、土を調べた。
二人分の足跡があった。
ひとつは自分のもの、もうひとつは小さな靴の跡。
その小さな跡は、木の根を越えたところで途切れていた。
先には柔らかな泥が広がっている。歩いたなら、何か残るはずだった。
胸が速く打つ。
「……リシア。聞こえるか」
声を落として呼んだ。
遠くで枝が折れた。
振り返ると、来た道の木々がかすかに揺れている。
あの足音が近づいている。
ここに留まれば危険だ。それでも、一人で逃げるという選択肢はなかった。
藪をかき分け、濡れた葉が顔に貼りつき、細い枝が手の甲を切った。
斜面の下を覗き込み、倒れた幹の陰まで確かめる。
いない。
さっきまで交わしていた会話が、急に遠い出来事のように思えた。
彼女は母親の教えを忘れずに生きていると言った。
誰かを助けるために、危険な森へ入った。
そんな人間が、手を離した一瞬で消えてしまう。
「……ふざけるな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
そのとき、木々の向こうから、か細い声が届いた。
「……レイさん?」
息が止まった。
「リシア! どこだ!」
返事はない。
声が聞こえたのは、右手の斜面の下だったはずだ。
けれど、茂みを押し分けても、濡れた土と倒木の根しか見えない。
「リシア、もう一度呼んでくれ!」
風のない森で、葉がひとつ落ちた。
その向こうから、何かが地面を踏みしめる音がした。
その音は重く、人間の足音ではない。
斜面を下りるべきか、声のした場所から離れるべきか。
迷っている間にも、足音は近づいてくる。
短刀を抜こうとして、指が柄を滑った。
もう一度、名前を呼ぶ。
「リシア!」
今度は、何も返ってこなかった。