世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
「リシア!」
呼びかけた声は、木々に吸い込まれた。
足元には濡れた土が広がっている。
斜面を下ればさっき声がした場所へ近づけるが、背後では何かが枝を踏み折っていた。
立ち止まっていては見つかる。
腰の短刀を握り直し、根の張った斜面を滑るように下りた。
靴底が泥を削り、膝をついた拍子に掌を擦りむいたが、痛みを確かめる余裕はなかった。
「聞こえるか! 返事をしてくれ!」
左手には倒木、右手には、背丈ほどの茂み。
どちらにも少女の姿はない。
また、木の折れる音がした。
近い。
背筋を冷たいものが這い上がる。
そのとき、倒木の根の下から小さな石が転がり出た。
続いて、震える声。
「……ここです」
根の張り出した陰に、狭い窪みがあった。
上から覗いただけでは見えない。崩れた土に半ば埋もれるように、リシアが片膝をついていた。
「リシア!」
顔を上げた彼女は、泣きそうな表情でこちらを見た。
「レイさん……よかった。声が届いて」
「どうして、こんなところに」
「急に足元が崩れて……滑ったと思ったら、根の下に落ちていました」
手を伸ばすと、彼女の指が強く握り返してきた。
引き上げようとしたが、足場が悪い。
靴を木の根に押し当て、体重を後ろへかける。
リシアは痛そうに顔をしかめながらも、自分の力で這い上がってきた。
「足は?」
「少し打ちました。でも、歩けます」
「なら、すぐに戻ろう」
頷いた彼女が立ち上がる。
その足元を見て、言葉を失った。
崩れた斜面には、二人が今つけた跡が残っている。
だが、彼女が落ちたはずの場所には、滑った跡が見当たらない。
泥は柔らかい。
あの高さから人が落ちたなら、何かが残るはずだった。
「レイさん?」
リシアの声に、顔を上げた。
疑問を口にするより先に、木々の間で影が動いた。
「……下がって」
彼女を背に庇う。
前方の茂みが揺れた。
逃げ道を探して振り返ると、背後の斜面でも枝が折れた。
右は深い藪、左は崩れた土。
さっきまで二人で歩いてきた道は、いつの間にか見失っていた。
森から音が消えた。
鳥も、虫も、何も存在していないかのような静寂。
リシアの浅い呼吸だけが、やけに近く聞こえる。
耳の奥で、紙をめくるような音がした。
ぱらり。
そして、木々の隙間に二つの目が浮かんだ。
「……レイさん」
リシアが腕を掴んだ。
目が合った、と思った。
木々の間に浮かぶ二つの光は、濁った琥珀色をしていた。
獣の目に似ているが、その位置が高すぎる。
湿った息が聞こえた。
枝を押し分けて現れたのは、黒い毛皮に覆われた巨体だった。
肩の高さだけで大人の胸ほどあり、前脚は不自然に長く、地面を踏むたび三本の爪が土を抉った。
狼に似た頭部。
その顎が開くと、内側には長さの揃わない歯が幾重にも並んでいた。
鼻先から垂れた唾液が、枯れ葉の上に落ちる。
「……動かないで」
リシアが囁いた。
手首を掴んだまま、足が止まっていた。
走り出せば追われ、立ち尽くしていても助かる保証はない。
魔物は頭を傾けた。
その仕草だけが妙に静かだった。
「森喰い、でしょうか」
「分からない」
喉は渇き、声が掠れる。
腰の短刀に触れる。
刃渡りは手のひら二つ分ほどで目の前の怪物に向けるには、あまりにも短い。
「左の斜面は登れるか」
「途中までは。でも、上が崩れています」
「じゃあ、右の藪は」
「向こうは湿地です。足を取られます」
退路を一つずつ確かめる間も、魔物は動かなかった。
こちらを観察しているのか。
それとも、何かを待っているのか。
様子を伺っていると背後から、別の枝が折れる音がした。
振り返りかけた瞬間、目の前の巨体が跳ねた。
「伏せろ!」
リシアを押し倒した。
頭上を黒い塊が通り過ぎた。
風圧とともに木の皮が弾け、背後の幹に爪が突き立ち、腕ほどの太さの枝が落ちてくる。
肩から地面に転がった。息が詰まる。
魔物は木の幹を蹴って向きを変えた。重さを感じさせない動きだった。
「立てるか」
「はい……!」
リシアの腕を引く。彼女の膝には泥がつき、籠から薬草がこぼれていた。
その葉に目を向けたのは、一瞬だった。
薬草を持ち帰らなければならない。
そのために、彼女はここまで来た。
「籠は置いていけ」
「でも」
「命の方が大事だ!」
強い声が出た。
リシアは唇を噛み、籠から手を離した。
二人で斜面へ走る。
足元の土が崩れ、靴が滑った。木の根を掴んで身体を引き上げる。背後から地面を叩く音が近づいた。
次の瞬間、右のふくらはぎに鋭い衝撃が走った。
身体が前へ投げ出される。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
斜面に倒れ、起き上がろうとしたとき、脚が言うことを聞かなかった。
ズボンの布が裂け、その下から血が滲んでいる。
爪が掠めたのだ。
遅れて痛みが来た。焼けた鉄を押し当てられたような熱さが、膝の裏まで広がる。
「レイさん!」
リシアが戻ってくる。
「来るな。先に行け!」
「置いていけません!」
彼女は肩を貸そうとした。
その背後で、魔物が低く唸る。
振り向いたリシアの顔から血の気が引いた。
逃げなければならない。
分かっているのに、立ち上がるだけで視界が揺れた。
息を吸うたび胸の奥が痛み、指先が冷たくなっていく。
ここで死ぬのか。
雨の夜の白い光が、唐突に脳裏を掠めた。
あのときと同じように、何が起きたかも分からないまま。
「……下がって」
リシアの声だった。
顔を上げると、彼女は採集用の小刀を抜いていた。
刃先が震えている。
それでも、こちらの前に立とうとしていた。
「何してる」
「怪我をしてるじゃないですか」
「だからって、そんなもので」
「レイさんだって!短刀しか持っていないじゃない!」
言い返せなかった。
彼女は怖がっている。
肩も、手も震えている。それでも逃げずにいる。
その背中を見たとき、別の恐怖が生まれた。
このままでは、彼女が死ぬ。
根拠のある予感ではなかった。
だが、胸の奥で何かが冷たく定まった。
まるで、まだ起きていない出来事を知っているかのように。
*
魔物が飛びかかり、リシアが小刀を構える。
間に合わない。
無我夢中で地面を蹴った。
痛む脚に体重がかかり、膝が折れかける。
それでも彼女の背中を掴み、横へ引き倒した。
爪が肩口を裂いた。
熱いものが流れる。服が皮膚に貼りついた。
声が出なかった。
魔物の身体がすぐ脇を抜け、倒木にぶつかる。湿った木片が飛び散った。
リシアが何か叫んでいる。
聞き取れない。
耳の奥で、紙をめくるような音がした。
ぱらり。
風は吹いていない。
ぱらり。
魔物が頭を上げた。
その目は、こちらを見ていなかった。
倒れたリシアだけを見つめている。
不意に、森の景色が奇妙に整って見えた。
崩れた斜面。
逃げ道を塞ぐ倒木。
彼女の手から離れた小刀。
一歩遅れて動く身体。
偶然が積み重なった結果だ。
そう考えれば説明できる。
それなのに、すべてが一つの結末へ向かって並べられているように思えた。
『リシアの死』
その言葉が、理由もなく頭に浮かんだ。
「……嫌だ」
声が漏れた。
何が決まっているのかなんて知らない。
誰が決めたのかも知らない。
目の前で人が死ぬことに、納得できる理由などなかった。
魔物が地面を蹴る。
リシアは起き上がれない。
足首を捻ったのか、身体を引きずるように後退している。
距離は数歩。
助けに入るには遠すぎた。
それでも走った。
脚の傷が開き、靴の中が生温かくなる。
「こっちだ!」
叫びながら、拾った石を投げた。
石は魔物の肩に当たって落ちた。ほとんど反応はない。
次の一歩で、足がもつれ倒れる。
魔物の口が開いた瞬間、リシアが両腕で顔を庇った。
間に合わない。
その瞬間、時間が伸びたように感じた。
見えたのは、彼女の髪に絡んだ枯れ葉だった。
紫色の瞳。
恐怖に強張った口元。
そして、まだ何も知らないまま生きている、一人の少女の顔。
世界がその命を奪うのなら。
そんな世界の方が、間違っている。
*
指先が、倒木の割れ目に触れた。
先ほど魔物がぶつかった場所だった。幹の内部は腐り、表面だけが硬く残っている。
目の前に、折れかけた太い枝があった。
考えるより先に、それを掴んだ。
身体を起こし、魔物の進路へ突き出す。
槍と呼ぶには不格好な木の棒だった。
刃もない。
けれど、先端だけは鋭く裂けていた。
魔物が跳ぶ。
逃げずに踏み込んだ。
衝突の瞬間、両腕に凄まじい重さがかかった。
枝の先が、開いた顎の内側に突き刺さる。
骨を叩くような鈍い感触。
次いで、枝が折れた。
反動で身体が吹き飛ばされ、背中を地面に打ちつけた瞬間、肺の空気が一度に抜けた。
魔物は数歩よろめいた。
口の端から暗い血が滴っている。
死んでいない。
むしろ、痛みに怒ったように頭を振った。
立とうとしても、腕が震えて力が入らない。
「レイさん!」
リシアが這うように近づいてきた。
「来るな……!」
声がほとんど出ない。
彼女は耳を貸さず、肩に手を回した。
「一緒に逃げます」
「無理だ」
「無理でも、置いていきません」
その言葉が、胸の奥に残った。
明日には、忘れてしまうのに。
今日のこの瞬間、彼女は確かにそう言った。
「……じゃあ、あの木まで」
顎で左手を示す。
太い根が地面から浮き、下に人一人が潜れるほどの空洞があった。
「先に入れ。俺も続く」
「本当に?」
「約束する」
彼女は頷いた。
立ち上がろうとして顔を歪めたが、木の根へ向かって這い始めた。
その背を見送る。
魔物はまだ口を気にしていた。
今なら間に合うかもしれない。
そう思った直後、怪物の目がこちらを捉えた。
違う。
見ているのは、その向こうにいるリシアだった。
巨体が身を低くする。
次の跳躍で、根の下まで届く。
「……こっちを見ろ」
短刀を抜いた。
柄が血で滑る。握り直すと、肩の傷がひきつった。
根元へ向かって、一直線に魔物が跳んだ。
その横腹に、全身をぶつけた。
身体はびくともしない。
ただ、わずかに軌道が逸れた。
爪が根を削り、木屑が散る。
短刀を突き出すと刃は黒い毛皮を抜け、脇腹の柔らかい部分に沈んだ。
手首まで衝撃が伝わる。
魔物が身を捩った。
短刀が手からもぎ取られた。
次いで、前脚が胸に当たった。
息が止まる。
地面を転がり、石に脇腹を打ちつけ肋骨のあたりに鋭い痛みが走る。
吸おうとしても空気が入らない。
視界の端が暗くなった。
動けない。
魔物は身体を反転させ、再び根の下へ向かった。
「リシア……!」
名前を呼んだ。
返事はなかった。
ただ、木の根の下から、震える呼吸が聞こえた。
生きている。
まだ、生きている。
その事実だけが、意識を繋ぎ止めた。
*
手探りで石を掴んだ。
立つことはできない。
それでも、腕だけは動いた。
魔物の後脚へ石を投げつける。
今度は、振り向いた。
血の混じった唾液が、顎から糸を引いていた。
こちらへ向かってくる。
それでいい。
根の下から離れてくれれば。
魔物の前脚が持ち上がる。
逃げようとしたが、脚に力が入らない。
爪が目の前に迫った。
そのとき、背後で大きな音がした。
木の幹が軋む音だった。
先ほど魔物が二度もぶつかった倒木。
その根元が、地面からゆっくり浮き上がっている。
湿った土が崩れた。
折れた枝が、こちらへ傾く。
偶然だったのかもしれない。
腐った木が、衝撃に耐えきれなくなっただけなのかもしれない。
だが、倒れる方向だけが不自然だった。
枝は魔物の背中へ向かって落ちた。
鈍い音がした。
巨体が押し潰され、地面が震えた。
魔物は苦しげに身を捩ったが、幹の下から抜け出せない。
前脚の爪が土を掻き、三本の溝を何度も刻んだ。
その動きが、少しずつ弱くなった。
助かった。
そう思った瞬間、耳の奥で音がした。
ぱらり。
紙をめくる音。
今までで、いちばん近い。
森のざわめきが消えた。
魔物の唸りも、木が軋む音も、リシアの呼吸さえ聞こえなくなった。
静寂の中で、視界の上端に白い筋が走った。
空だった。
木々の間に見える青空に、細い亀裂のようなものが浮かんでいる。
雲ではない。
光でもない。
紙を強く折ったときにできる、白い線に似ていた。
瞬きをすると、その線は消えた。
音が戻る。
風が葉を揺らし、遠くで鳥が鳴いた。
倒木の下では、魔物がまだ小さく身じろぎしていた。
あれが何だったのか、考える余裕はなかった。
「リシア……」
喉を絞るように呼ぶ。
木の根の下から、銀色の髪が覗いた。
「レイさん?」
彼女は這い出し、こちらへ向かってきた。
「よかった……生きてる」
言い終える前に、リシアの顔が歪んだ。
「血が……こんなに」
肩を押さえる彼女の手が、すぐに赤く染まる。
「大丈夫だ」
見るからに大丈夫ではないことはわかる。
リシアもそんなことは分かり切ったような表情だ。
身体のどこが傷ついているのか、もう正確には分からない。
右脚は痺れ、胸を動かすたび鋭い痛みが走る。
指先には力が入らず、寒くもないのに震えが止まらなかった。
「大丈夫じゃありません」
リシアは上着の裾を裂き、肩の傷へ押し当てた。
「押さえます。痛くても、少し我慢してください」
布越しに圧迫され、思わず声が漏れた。
「ごめんなさい。でも、血を止めないと」
涙を浮かべながらも、彼女の手つきは確かだった。
この森で薬草を採ってきた人間の手だった。
「……怪我は」
「私は、足を少し。歩けます」
「なら、村へ」
「一緒に帰ります」
その言葉に、頷こうとした。
だが、首を動かすだけで視界が暗くなる。
リシアが何度も名前を呼んだ。
レイさん。
レイさん。
その声が遠ざかる。
明日になれば、きっと忘れる。
森で誰かに助けられたことは残っても、その相手が誰だったのかは分からなくなる。
それでもいい。
今は、彼女が生きている。
それだけで十分だと思いたかった。
薄れていく意識の向こうで、また紙の音がした。
今度は、ページを戻すような音だった。
――違う。
誰かが、そう囁いた気がした。
声の主を探す前に、視界が閉じた。