世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
目が覚めたとき、最初に感じたのは薬草の匂いだった。
乾いた葉と煮詰めた根の苦い香りに、洗いたての布の匂いが混じっている。
見知らぬ天井には太い梁が渡され、壁際の棚には色の異なる液体を満たした瓶が並んでいた。
宿ではない。
そう理解した途端、森で見たものが脳裏をかすめた。
身体を起こそうとして、喉の奥から声にならない息が漏れる。
右肩を熱した針で深く刺されたような痛みが走り、続いて脇腹が軋むと、天井の輪郭が黒く滲んだ。
「動くな。縫ったところが開くぞ」
低い声の方へ顔だけを向けると、白髪の老人が椅子に腰掛け、すり鉢の中で薬草を潰していた。
袖口は緑の粉に汚れ、節くれ立った手には古い傷がいくつも走っている。
「……ここは」
「村の治療所だ。お前さんは森から運ばれてきたんだよ。丸一日以上眠っておった」
一日以上。
その長さが、痛みとは別の恐怖を呼び起こした。
「リシアは……銀髪の女の子は、どうなりました」
「生きておる。足を打ったが、歩ける程度だ。まずは自分の心配をせい」
ようやく肺の底まで息が入った。
胸を満たした安堵に身を任せたいのに、呼吸を深くするたび脇腹が引きつり、そこに傷があることを容赦なく思い出させる。
老人の話では、リシアが村まで助けを呼びに戻り、男たちが担架を持って森へ入ったらしい。
肩の傷は深く、脇腹も裂け、脚はひどく腫れていたため、運び込まれた時点では助かるかどうか分からなかったという。
「傷口は洗って縫った。だが熱が出れば危ないし、今夜を越えたところで無理をすれば元の木阿弥だ」
「治癒の魔法は……」
「使える者がいれば、治りを早めることはできる。だが、この村にはおらん。町から呼ぶにも二日はかかるし、魔法があれば何でも治るわけじゃない」
叱責というより、幾度となく患者に言い聞かせてきた言葉に聞こえた。
短刀一本で魔物に向かった無謀さを、今になって身体が教えてくる。
恐怖に足がすくみ、逃げ道を探し、それでもリシアの前に立ったことを思い出すと、胸の内側が妙に冷たくなった。
生き残れたのは、実力ではない。
「……ありがとうございました」
「礼なら娘にも言ってやれ。自分も足を痛めておるのに、何度も森へ戻ろうとしてな。お前さんを一人にしたくなかったらしい」
老人は薬草を布に包み、ふと思い出したように付け加えた。
「もっとも、あの娘も妙なことを言っておったが」
「妙なこと?」
「自分を助けてくれた人の名前が、どうしても思い出せんとな」
包帯の下で脈打っていた痛みが、ほんの一瞬、遠ざかった。
*
昼過ぎ、治療所の戸が開き、籠を抱えたリシアが入ってきた。
「先生、頼まれていた薬草を――」
銀色の髪を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。
薄い青の上着に着替えていたが、左足を少し庇う歩き方は森での出来事をありありと思い出させた。
老人へ籠を渡した彼女は寝台に目を向け、こちらと視線が合うと、驚いたように立ち止まった。
「……目が覚めたんですね。よかった」
安堵した表情は紛れもなく本物だった。
けれど、その瞳には、昨日まで名前を呼び合っていた相手を見つけたときの確信がない。
「心配をかけた」
「いいえ。私のせいで、こんな怪我を……」
彼女は寝台の脇へ歩み寄り、肩の包帯を見て唇を噛んだ。
水を勧められ、器を受け取ろうとしたものの、右腕は思うように動かない。
痛みに顔をしかめるより早く、リシアが器を支えて口元へ運んでくれた。
冷たい水が喉を通る。
何度かに分けて飲み終えると、彼女は器を膝の上に置き、何か言いたげに指を重ねた。
「森のこと、覚えてるか」
「はい。薬草を探していて、足を滑らせて……そのあと、大きな魔物が現れたんです」
声が少し震えた。
「逃げられないと思いました。でも、誰かが間に入ってくれて、私を庇って……ひどい怪我をしたことも覚えています」
彼女の目が、包帯へ落ちる。
「それが、あなたなんですよね」
「……そうだ」
「先生から聞きました。森から運ばれてきたのは、あなた一人だったって」
救われた事実は残っている。
魔物も、怪我も、誰かが身を挺してくれたことも消えていない。
ただ、そこで剣の代わりに短刀を握り何度も彼女の名を呼んだ人間だけが、記憶の中から抜け落ちている。
「助けていただいて、本当にありがとうございました」
深く頭を下げられたとき、感謝されることがこれほど苦しいとは思わなかった。
「頭を上げてくれ。無事なら、それでいい」
「でも……ひとつ、聞いてもいいですか」
頷くと、リシアはためらいがちに顔を上げた。
「あなたの、お名前は?」
予想していた問いだった。
それでも、胸のどこかが音もなく沈んでいく。
森の中では確かに呼んでくれた。
斜面の下から助けを求めたときも、魔物の前で腕を掴んだときも、声が途切れる寸前まで、何度も。
「レイだ」
「レイさん……」
リシアはその響きを確かめるように繰り返し、少しだけ首を傾げた。
「変ですね。初めて聞いたはずなのに、何度も呼んだことがあるような気がします」
「……そうか」
「ごめんなさい。変なことを言って」
「変じゃない」
思いのほか強い声が出てしまい、彼女が目を見開いた。
「少なくとも、俺にはそう思えない」
それ以上の説明はできなかった。
彼女の中に残る曖昧な親しみは、記憶とは違う。
こちらの名前を聞いて懐かしいと感じても、昨日の会話や森で交わした言葉を思い出したわけではないのだ。
けれど、そのわずかな感覚を、何もないものとして切り捨てることもできなかった。
*
老人が薬を取りに奥へ入ると、リシアは窓際の椅子に腰を下ろした。
外では荷車が石畳を軋ませ、子どもたちの笑い声が通り過ぎていく。
誰かが森で死にかけた翌日にも、村ではパンが焼かれ、洗濯物が風に揺れていた。
その当たり前の平穏が、今は少し遠い。
「森で、何か見ませんでしたか」
沈黙を破ったのはリシアだった。
「魔物が倒れたときです。急に何も聞こえなくなって、空が白く光った気がしたんです。木の間から見えただけなので、はっきりとは……」
白い亀裂。
紙を折った跡にも似た、空に走る細い線。
「見たよ。俺にも」
リシアが顔を上げる。
「本当ですか?」
「空に細い線が走って、すぐに消えた。音も……あのときだけ、なくなった気がする」
「……よかった」
意外な返事に目を向けると、彼女は困ったように笑った。
「私一人だけが見たものだったら、怖いですから。でも、二人とも見たなら、それはそれで怖いですね」
同じものを見た人間がいることは孤独を和らげる一方で、異変が現実に起きた可能性を強める。
あの白い線は、恐怖が生み出した幻覚ではなかったのかもしれない。
「森には、もう入らないほうがいい」
思わず口にすると、リシアは左足へ視線を落とした。
「……しばらくは入れません。でも、熱を出している人がいるんです。昨日探していた薬草がないと、夜がつらくなるかもしれなくて」
彼女が無謀だから森へ入ったわけではないことを、改めて思い知らされる。
村の誰かの苦しみを知っていて、危険を承知で足を踏み入れたのだ。
「ほかに採れる人は?」
「少しなら。でも、奥まで行ける人は少ないんです」
「だったら、先生と相談してくれ。薬草の代わりになるものがあるかもしれないし、誰かと一緒に行く方法もある」
リシアはしばらく考え、ゆっくり頷いた。
「はい。もう、一人では行きません」
その約束が明日も残るかどうか、確かなことは言えない。
ただ、彼女自身が選んだ判断なら、俺という人間の記憶が消えたあとにも残ってくれるのではないか。
そう信じたかった。
*
夕方、ガルドが治療所を訪ねてきた。
「おう、起きたか。大変だったな、兄ちゃん」
包帯を見るなり顔をしかめ、森で担架を運んだときのことを話してくれた。
リシアが必死に村へ戻ってきたこと、男たちが手分けして道を探したこと、見つけたときには顔色が悪く、誰もが間に合わないと思ったこと。
「妙な話なんだがな」
ガルドは声を潜めた。
「森へ行った連中、誰も魔物の死骸を見てねえんだ。血はあったし、木も折れてたのに、でかい獣だけがいない」
あの魔物が倒れたところは見た。
しかし、息絶えたことまでは確かめていない。
逃げた可能性もあるが、あの巨体が深手を負ったまま、何の痕跡も残さず消えられるのだろうか。
「足跡は?」
「それが途中から分からなくなっちまう。森の土は柔らかいのにな。あんな図体なら、跡が残るはずだろ」
リシアが斜面で消えたときも、足跡は不自然に途切れていた。
あの森では、何かが繰り返されている。
「まあ、猟師たちに任せるさ。お前は身体を治せ。次に行ったら、本当に死ぬぞ」
「……そうですね」
ガルドは立ち上がりかけて、ふと振り返った。
「そういや、名前を聞いてなかったな」
畑で一緒に石を拾った日のことが蘇る。
あの日、何度も名前を呼んでくれた男は、今も担架を担いだことを覚えている。
その担架に乗っていた人間の名前だけが、きれいに抜け落ちていた。
「レイです」
「レイか。覚えとくよ」
明るい返事に、笑い返すことができなかった。
*
夜になると熱が上がった。
肩の傷が脈打つたび縫われた皮膚が引きつれ、寝返りを打とうとするだけで脇腹が痛む。
額に浮いた汗は冷えていくのに、身体の芯だけが燃えるように熱かった。
老人が薬湯を飲ませ、包帯を確かめてから、灯りをひとつ残して部屋を出ていった。
眠れないまま、枕元の荷物へ手を伸ばす。
森で泥に汚れた日記は、誰かが宿から運んでくれたらしく、布に包まれて置かれていた。
震える左手で表紙を開くと、見慣れた自分の文字が並んでいる。
『明朝、森へ向かう道を確かめる』
森へ入る前の夜に書いた一行だった。
あのときは、まだ誰も怪我をしていなかった。
新しいページに、リシアが生きていること、左足を痛めたこと、自分が右肩と脇腹と脚を負傷したことを書きつける。
さらに、彼女が救助された事実を覚えていながら、助けた相手の名前を思い出せなかったことも記した。
筆先を止めると、傷とは別の鈍い痛みが胸に残った。
忘れられることには、少しずつ慣れてきたつもりだった。
けれど、命を懸けて交わした言葉まで、相手の中から失われてしまうとは思いたくなかった。
森で聞いた「レイさん」という声は、今では自分一人の記憶にしか残っていない。
続けて、空に白い亀裂が現れたこと、リシアも同じような光を見たこと、魔物の死骸が発見されていないことを書き残した。
そして、もう一行。
『あの声は「違う」と言った』
何が違ったのだろう。
リシアが生き残ったことなのか、魔物が倒れたことなのか。
それとも、あの森で本来起こるはずだった、まだ知らない何かが変わってしまったのか。
考えようとすると熱に浮かされた頭が重くなり、窓の外で鳴った夜の鐘も、遠い水底から響いてくるように聞こえた。
明日の朝、リシアが治療所を訪ねてきたら、また名前を尋ねられるのだろう。
今日交わした約束も、誰に言われたものだったのかは分からなくなるかもしれない。
それでも、森に一人で行かないという判断が彼女の中に残るなら、言葉を伝えた意味はある。
誰かの記憶に居場所を作れなくても、その人の明日を少しだけ変えられるのなら。
そう考えた途端、別の不安が生まれた。
もし、誰かを救ったという事実さえ、いつか別の意味へ書き換わるのだとしたら。
包帯の下で肩が疼いた。
この痛みだけは、誰にも取り上げられない。
少なくとも今は、森で起きたことが現実だったと証明してくれる。
日記の最後に、一行を書き足した。
『リシアを助けたのは、レイだ』
しばらく見つめていても、文字は消えなかった。
少なくとも、今夜は。