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「原作の大幅なコピー」などの規約の都合により、14話を削除して力技で決闘シーンをスキップしました。そして、こちらの都合で13話を改変するついでに再投稿させてもらいました。申し訳ございませんでした。
パーティーの翌日。
マリエは自室で、カイルと向かい合いながら朝食を取っていた。
窓から差し込む朝の光が、テーブルの上に並べられた食器を照らしている。焼きたてのパンからは香ばしい匂いが漂い、ティーポットから注がれた紅茶は、カップの中で湯気を立ち上らせていた。
穏やかな朝だった。
昨夜、学園で起きた騒動さえなければ、いつもと何も変わらない朝だっただろう。
カイルはポットを傾け、マリエのカップに紅茶を注いだ。十分な量を満たしたところでポットを戻し、彼女の手元へと滑らせる。
「それで、決闘の話はどうなったの?」
マリエは紅茶に口をつける前に尋ねた。
彼女にとって、昨夜のパーティーで起きた騒動は、これからの計画を左右する重要な出来事だった。
アンジェリカとの決闘。
あの場で決闘が成立したこと自体は、マリエにとって好都合だった。問題は、学園側が本当に決闘を認めるのか、そして予定どおりに事を進められるかという点だ。
「闘技場の使用許可は取れたそうです。学園側を説得するのに、ジルクさんとブラッドさんが随分と苦労したそうですけどね」
「ふうん。まあ、あの人たちなら何とかすると思っていたわ」
マリエは何でもないことのように答えた。
実際、ジルクやブラッドが動けば、学園側も簡単には無視できないだろう。王族や有力貴族の意向が絡んでいる以上、決闘そのものを取りやめる方が難しいはずだった。
「それと、使用人仲間から聞いた話ですが、あのリオンという男の成績は上の下程度らしいですよ。実技の方も、特別に優れているという評判はありません。周囲も勝負にならないだろうと言っています」
「そ、そう」
マリエの胸中に、安堵が広がった。
リオンの実力については、多少気になっていたのだ。
ゲームの主人公だからといって、何もかもが原作どおりに進むとは限らない。実際、この世界に転生してからは、彼女自身の行動によって予定が変わった部分もある。
それでも、学園での成績や家柄といった基準で考えれば、リオンがユリウスたちに勝てるとは思えなかった。
少なくとも、周囲の人間はそう判断している。
ならば、わざわざ余計な心配をする必要もないだろう。
マリエはパンを口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
(予定は少し狂ったけど、これでアンジェリカを追い出せるわね)
昨日のパーティーで、彼女は意図的にアンジェリカの神経を逆なでした。
ユリウスに親しげに近づき、その直後には別の男と身体を密着させ、手を握るところまで見せつけた。
アンジェリカが何を大切にしているのか、マリエは知っていた。
彼女にとってユリウスは、単なる婚約者ではない。王太子の婚約者という立場も含め、これまでの人生で築き上げてきたものの象徴だった。
だからこそ、その大切なものを踏みにじるような振る舞いをすれば、彼女が冷静さを失うことも予想できた。
結果は期待どおりだった。
アンジェリカは決闘を申し込んできた。
(本当に短絡的なんだから。もう少し冷静になれば、自分がどれだけ不利な立場にいるか分かるでしょうに)
マリエは紅茶を口に運んだ。
今の彼女にとって、アンジェリカは排除すべき障害に過ぎない。
決闘で敗北すれば、周囲からの信用は失われる。公爵家の令嬢という立場があったとしても、婚約者を奪われたうえに決闘で負けた女という評判が広まれば、学園に居続けるのは難しくなるはずだ。
そうなれば、ユリウスとの関係にも決着がつく。
あとは自分が正しい位置に収まればいい。
(夏休み中に準備を進めないとね。ダンジョンで必要なアイテムを回収して、それからアレも手に入れないと……)
マリエの頭の中では、これから起こる出来事がすでに筋書きとして組み上がっていた。
彼女は知っている。
この世界が、かつて自分がうっすらと遊んでいたゲームの世界であることを。
そして、これから先に何が待ち受けているのかも。
だからこそ、今のうちに必要なもの…すなわち、聖なる首飾りを手に入れ、神殿に自分を売り込んで聖女として認められて聖なる腕輪と聖なる杖を手に入れておく必要があった。
計画に必要なものを揃え、障害となる人間を排除し、知っている未来へと進んでいく。
それが、マリエの考える勝利への道だった。
ただし、彼女はまだ知らない。
自分が知っているはずの「アルトリーベというゲームとしての物語」が、少しずつ本来の筋書きから外れ始めていることを。
そして、その変化に関わっている人物が、自分のすぐ近くにいることも。
「……荒らされてないな」
自室の扉を開けた僕は、室内を見回して呟いた。
机、椅子、本棚、ベッド。
出かける前に整えておいた配置は、ほとんど変わっていない。机の上に置いていた小物も、棚に並べていた資料も、見た限りでは元の位置に収まっている。
てっきり、リオンたちとの関係を疑われて部屋を物色されるか、何かしらの嫌がらせを受けると思っていたのだが。
何も起きていない。
いや、正確には、何も起きていないように見えるだけかもしれない。
僕はわざと留守にして、部屋への出入りを容易にしておいた。誰かが侵入するつもりなら、むしろ好都合だったはずだ。
それでも何も変わっていないのなら、警戒していた相手が動かなかったという情報が得られたことになる。
もちろん、単純に侵入する必要がなかった可能性もある。
あるいは、乃蒼と麻璃を経由して藍衛との間接的な繋がりが生まれることを恐れ、迂闊な行動を控えているのかもしれない。
現時点では、どれも推測に過ぎなかった。
「まあ、何もないならそれでいいか。で、ルイナ。何か分かった?」
僕が問いかけると、傍らに控えていたルイナが静かに頷いた。
<はい、マスター。あなたが必要とする可能性が高いと判断し、関連情報を収集しておきました>
「おっ、仕事が早いね。さすが」
ルイナのレンズが光る。
すると、何もない空間から数枚の書類が現れ、机の上へと整然と並べられた。
こういうところは本当に便利だ。
人間を相手にしていたら、ここまで迅速に情報を集めて整理することは難しいだろう。
僕は椅子に腰掛け、最初の書類を手に取った。
「えーっと、これは……」
そこには、リオンに対する嫌がらせの記録がまとめられていた。
備品の破損、持ち物への細工、授業や実習での妨害。
さらに、リオンと行動を共にする人間を孤立させるための働きかけまで記録されている。
記録された内容を読み進めるほど、僕の眉間には自然と皺が寄っていった。
やっていることが、いちいち陰湿なのだ。
正面から勝負を挑むのではなく、相手が困るように仕向け、周囲の人間を巻き込み、立場を悪くしていく。
貴族社会というものは、こうしたやり方が妙にまかり通るらしい。
「……よくもまあ、ここまでやるもんだ」
<組織的な嫌がらせとして見るなら、特別に珍しい事例ではありません。身分差が存在する環境では、同様の行動が発生しやすい傾向にあります>
「それ、慰めになってないからね」
<慰める意図はありませんでした>
「知ってるよ」
僕はため息をつき、次の書類へと手を伸ばした。
そこには、昨日のパーティーで起きた騒動について記されていた。
どうやら原作通りにリオンが5馬鹿を煽り倒し、決闘する流れになったらしい。
ブラッド、グレッグ、クリス、ジルク、ユリウス。
この順番で、それぞれがリオンと1対1で戦うことになる。
「とりあえず、こっちは原作どおりか」
思わず安堵の息が漏れた。
この世界に来てから、原作の知識は便利な道具であると同時に、信用しすぎると危険なものにもなっている。
少し行動を変えただけで、予想外の結果が生じる可能性があるからだ。
そのため、知っている展開がそのまま進んでいると分かるだけでも、精神的にはかなり助かる。
別の書類には、リオン陣営からの人員の引き抜きを試みた記録や、協力者を切り崩すための接触記録があった。
そして最後の数枚には、学園内の人間関係をまとめた相関図が描かれている。
リオンに協力する者。
敵対する者。
状況を見て態度を決めようとしている日和見主義者。
どちらにも属さない中立派。
そもそも騒動に興味がない者。
そして、騒動への参加そのものを避けている者。
学園内の人間関係が、かなり細かく分類されていた。
「これは……思った以上にいい材料になりそうだ」
僕は思わず口元を緩めた。
もちろん、これらの記録を学園側へ提出したところで、すべてが解決するとは思っていない。
この世界では、爵位や家柄が物事の判断に大きな影響を与える。
教師よりも高い身分の生徒が珍しくない以上、教師が公平な判断を下せるとは限らないのだ。
いじめや嫌がらせを告発したところで、相手の家が有力貴族なら、まともに取り合ってもらえない可能性すらある。
被害者側に問題があったという話にすり替えられることだってあるだろう。
だからといって、証拠が無意味になるわけではない。
今すぐ使えなくても、必要なときに切れる札があるというだけで選択肢は増える。
僕は書類を丁寧にまとめ、机の端へ置いた。
「ありがとう、ルイナ。これだけでも十分に助かるよ」
<お役に立てたのであれば何よりです>
そのとき、ルイナは何も言わずに壁の方へ視線を向けた。
次の瞬間、彼女のプロジェクター機能が作動し、壁面に立体映像が投影された。
表示されていたのは、決闘に関する賭けの割合を示すグラフだった。
「……ああ、そっちもか」
予想していたとはいえ、思わず笑いが漏れる。
ユリウスたち5人に賭ける人間が圧倒的に多く、リオンに賭ける人間はほとんどいない。
リオンは完全な大穴扱いだった。
いや、大穴というより、そもそも賭けの対象としてまともに見られていないと言った方が正確かもしれない。
ユリウスたちに賭ければ勝つ可能性が高いと考えられているため、配当も期待できない。
逆にリオンに賭ける人間は少なすぎて、賭けそのものが成立しにくい状況になっていた。
「圧倒的不人気だよ」
<おや。彼に人気があると思っていたのですか?>
「そんなわけないだろ。分かっていて確認しただけだよ」
<それは失礼しました。ところで、マスターは賭けに参加されますか?>
ルイナの問いに、僕は腕を組んで考えた。
別に、金を増やすこと自体が目的ではない。
僕の財布には白金貨が50万枚ある。
学園の生徒が扱う金額としては、どう考えても常識外れだ。そこから多少減ったところで、生活に困るわけではない。
しかし、ただ金を積むだけでは意味がない。
今回の賭けには、金銭以外の目的もあった。
「……白金貨を1000枚。僕の財布から出して」
<よろしいのですか? 賭けに負けた場合、あなたの資産が減少します>
「分かってるよ」
僕は少しだけ視線を落とした。
頭の中に浮かんだのは、昨日のパーティーでの姉上の姿だった。
姉上は、間違いを犯すこともある。
時には感情に任せて行動し、周囲の思惑に気づかないことだってあるだろう。
それでも、彼女が何をされても黙って見ていなければならない理由にはならない。
「……僕はただ、姉上が馬鹿にされている現状に対して、何も言えずにいる自分を変えたいだけなんだよ」
言葉にしてみると、妙に大げさに聞こえた。
「ついでに、姉上を笑いものにしている連中が、大損して悔しがる姿を見たい。それだけ。まあ、姉上が間違った方向へ進もうとしたら、全力で止めるつもりだけどね」
<相変わらずのシスコンっぷりですね>
「うるさいなぁ」
思わず顔をしかめる。
否定するつもりはないが、わざわざ指摘されると腹が立つ。
それに、姉上のためという理由だけでもない。
何もしないまま、後から結果を眺めて文句を言う。
それでは、以前の自分と大して変わらない。
少なくとも、今は自分で考え、自分で決めたことを実行しようとしている。
それだけでも、何もしないよりはましだろう。
そして、後からダニエルとレイモンドにこっそりお裾分けしようとも考えている。
「それより、工作の準備を始めよう。ブックメーカー、ゴシップ好きの生徒、学園新聞の印刷所。とにかく情報が集まる場所と、情報が広まる場所を押さえてほしい」
<具体的には、どのような工作を?>
「偽情報の流布でも、発信源へのサボタージュでもいい。手段は問わない。ただし、他の生徒から見た賭けの状況を、できる限りユリウスたち優勢に見せかけておくこと」
僕は壁のグラフを指差した。
「ユリウスたちが圧倒的な人気を集めていて、リオンに賭けているのはダニエルとレイモンド、それに数人の変わり者くらい。そんな印象を維持してほしい」
<実際の賭けの割合とは少しだけ異なる情報を流すのですね>
「そう。情報の要所を押さえて、できる限り自然にね。こっちが何かしていると気づかれたら意味がないから」
学園は、外の社会から隔離された小さな世界だ。
独自の暗黙の了解があり、独自の力関係があり、そこで暮らす生徒たちだけが共有している価値観がある。
多くの生徒にとって、今回の決闘は公爵令嬢が王太子殿下を筆頭とする有力貴族に喧嘩を売ったという構図に見えているだろう。
その認識がある以上、リオンが勝つ可能性を真面目に考える者は少ない。
しかし、学園の中で起きた出来事が学園の中だけで終わるとは限らない。
生徒の評判は家族に伝わり、親族の付き合いや派閥の関係にまで波及する。場合によっては、本人の知らないところで家同士の問題へ発展することだってある。
だからこそ、今回の賭けは慎重に進めなければならなかった。
「ちなみに、1000枚にしたのはリオンが500枚を賭けているから。こっちが大きく賭けすぎて、賭けのバランスが崩壊するのも困るからね」
<なるほど。目立つ金額ではありますが、完全に市場を支配するほどではない、と>
「そういうこと。じゃあ、次の指示ね」
僕は机の引き出しから、以前の作戦で使う予定だった資料を取り出した。
「棚にある1000枚の白金貨を小分けにして包装してくれ。それから、結局発動しなかったB2号作戦の準備で作った人形たちを使う」
<人形たちを、今回こそ投入するのですね>
「そう。編成は、そこそこの地位にいる令嬢の見た目をしたものと、その令嬢に従う亜人奴隷の見た目をしたもののペアを複数。それに、友人同士の男子生徒の見た目をしたものや、単独行動をする男子生徒の見た目をしたものも混ぜてくれ」
<全員を同じ外見や行動様式にしない、ということですね>
「そう。部隊名はリトルグリーンメン。作戦名は『ケルチ作戦』。個人を識別できるような特徴的な服装や、一点物の装飾品は禁止。見た目も行動も、できる限りばらけさせてほしい」
<了解しました。まるで怪しいアルバイトの募集要項ですね>
「例えがひどくない?」
<事実を述べたまでです>
ルイナの淡々とした返答に、僕は肩をすくめた。
これだけ人員を分散すれば、情報が漏れる量を減らせるかもしれない。
もちろん、絶対に成功する保証はない。
どれだけ準備しても、予想外の事態は起こるものだ。
それでも、何もしないよりはずっといい。
少なくとも、今の僕は、自分から行動することに意味を見出していた。
「よし。やれるだけやってみよう」
<かしこまりました、マスター>
ルイナが再び透明化する。
こうして、リトルグリーンメンによる賭けの工作が始まった。
学園の食堂。
昼休みが近づき、生徒たちが集まり始めた頃、片隅のテーブルでは5人の男子生徒が頭を抱えていた。
彼らは今回の決闘を対象とした賭けを仕切る、ブックメーカーの役割を担っていた。
「どうする? このままだと、せっかくの決闘なのに盛り上がりに欠けるぞ」
「みんな殿下たちに賭けているからな。リオンに賭ける奴なんて、ほとんどいない」
「リオン本人が500枚も賭けたのは驚いたけどな。あれはあれで、相当な金額だぞ」
「でも、これじゃ配当がリオンやらダニエルやらレイモンドとかの少数に集中する。もう少しリオンに賭ける奴が出てこないと俺たちの利益が……」
彼らも、学園を無事に卒業したい生徒である。
貴族社会で余計な恨みを買うのは避けたいし、王太子殿下たちに逆らうような真似をするつもりもなかった。
だからこそ、最初は彼ら自身もユリウスたちが勝つと考えていた。
しかし、賭けを運営する立場からすれば、勝敗が明白だと思われている状況は好ましくない。
参加者が少なければ利益も出ない。
まして、リオンに賭ける人間がほとんどいないのであれば、賭けとしての面白みもなくなってしまう。
そんな彼らの前に、数人の生徒が台車を押して現れた。
先頭に立っていたのは、そこそこの家柄と思われる令嬢だった。
彼女の後ろには、荷物を運ぶ亜人奴隷と、数人の男子生徒が続いている。
どこにでもいそうな集団だった。
少なくとも、見た目だけなら。
「すみません。賭けを受け付けているのはこちらですか?」
「あ、ああ。そうだけど……」
「それなら、これをリオンに賭けてください」
令嬢は台車の上に置かれた箱を開いた。
中には、白金貨がぎっしりと詰め込まれていた。
その輝きを見た瞬間、ブックメーカーの5人は言葉を失った。
「……は?」
「ちょ、ちょっと待て。これ、全部白金貨か?」
「ええ。もちろん本物です」
令嬢は何でもないことのように答えた。
「私はこれだけ賭けます。それと、私たちのグループにも、リオンに賭けたいという変わり者が何人かいるんです」
「いや、変わり者って……」
「だって、勝つ可能性があるなら賭けてもいいでしょう?」
彼女は小首を傾げた。
その仕草には不自然さがなく、むしろ金額の大きさを理解していないようにさえ見えた。
ブックメーカーの1人が、おそるおそる尋ねる。
「こ、これだけの白金貨を本当に全部賭けるのか? さっきリオン本人も500枚を賭けたんだぞ?」
「ええ。これは兄からの贈り物なんです。全財産というわけではありませんし、半分くらいなら問題ありませんから」
「半分……?」
5人の顔が引きつった。
学生が扱う金額としては、あまりにも大きい。
しかも、彼女の口ぶりからすると、まだ同じだけの資産が残っているらしい。
「と、とにかく確認させてくれ!」
彼らは白金貨を手に取り、刻印や重量を確かめ始めた。
偽物ではない。
少なくとも、彼らの知識で確認できる範囲では、本物としか思えなかった。
「おい、これだけあれば他にも賭ける奴が出てくるぞ!」
「すぐに宣伝しないと!」
「今回は盛り上がるぞ!」
さっきまでの沈んだ空気は、どこかへ吹き飛んでいた。
そして、この光景を皮切りに、学園内の賭けは少しずつ様子を変え始める。
昼休み。
放課後。
授業の合間。
時間も場所もばらばらに、リオンへ賭ける生徒たちが現れた。
数十枚の白金貨を差し出す者もいれば、100枚以上を賭ける者もいる。
ある者は友人と連れ立って訪れ、ある者は使用人を伴って現れ、またある者は人目を避けるようにして静かに賭けを済ませた。
それぞれの行動には微妙な違いがあり、誰かが同じ指示を出しているようには見えなかった。
もちろん、実際には同じ指示を受けているのだが。
リトルグリーンメンは、学園のあちこちで淡々と任務を遂行していた。
その頃、リオンは賭けの集計について話を聞き、眉をひそめていた。
「……何か変だな」
自分に賭ける人間が増えている。
しかも、その金額が妙に大きい。
「俺より賭けている奴がいるんだが……?」
自分が500枚を賭けたときには、確かにブックメーカーの5人は驚いていた。
しかし、周囲の反応は静かなものだったはずだ。
それなのに、いつの間にか自分に賭ける人間が増えている。
しかも、単なる冷やかしにしては金額が大きすぎた。
何か裏があるのではないか。
そう考えるのは当然だった。
ただし、彼はまだ知らない。
その裏側で動いている人物が、決闘の結果だけでなく、学園の空気そのものを変えようとしていることを。
中庭。
僕は木陰のベンチに腰掛け、スマホを耳に当てていた。
家から電話がかかってきたのだ。
「はい、父上。何かご用でしょうか?」
「……お前、ダンジョン実習のときに殿下とグレッグに警告射撃を行ったらしいな」
「ああ、その件ですか」
思わず空を見上げた。
そういえば、あの件については、まだ父上から直接問い詰められていなかった。
てっきり、すぐにでも呼び出されると思っていたのだが。
まさか、今になって話が来るとは。
タイムラグがありすぎるだろ。
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
電話の向こうで、父上はすぐには返事をしなかった。
その沈黙が、妙に重い。
「すでにお前は王妃に呼び出され、殿下とも話をつけている。そのため、今さら私がその件を蒸し返すつもりはない」
「ありがとうございます」
「だが、勘違いするな」
声の調子が変わった。
「我が家の影響力は、少しずつ衰退している。正当な理由があったとしても、些細な行動が命取りになることはある。相手が王族であれば、なおさらだ」
僕は口を閉じた。
父上の言葉は正しい。
ダンジョン実習で、僕は殿下たちに警告射撃を行った。
結果的には必要な行動だったと思っている。あの場で何もしなければ、もっと悪い事態になっていた可能性もある。
しかし、相手が誰であろうと、警告射撃を行ったという事実は消えない。
それがどのように受け取られるかは、こちらの意図だけでは決められないのだ。
「お前はレッドグレイブ家の人間だ。自分の行動が、家全体にどう影響するのかを考えろ」
「……はい。肝に銘じます」
「分かっているならいい。今後は自分の立場を考えて行動しろ」
「承知しました」
そこで電話は切れた。
僕はスマホを膝の上に置き、しばらく空を眺めていた。
学園の庭は穏やかだった。
遠くでは生徒たちが談笑し、校舎の窓からは授業の声が聞こえてくる。
平和な光景だ。
それなのに、僕の頭の中では、家の勢力や貴族同士の関係、王族との距離感といった面倒な問題がぐるぐると回っていた。
「……政治って難しいなぁ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
正しいことをすれば報われる。
少なくとも、そう単純な世界ではないらしい。
立場が違えば、同じ行動でも意味が変わる。
相手が何を考えているのか分からない以上、自分が正しいと思ったことだけを押し通すわけにもいかない。
かといって、何もせずに周囲の顔色ばかりうかがっていたら、守りたいものまで失ってしまうだろう。
難しい話だ。
僕は貴族社会の仕組みを完全に理解しているわけでもなければ、政治的な駆け引きに長けているわけでもない。
そんな人間が、どこまでやれるのか。
正直、分からない。
それでも、だからといって何もしない理由にはならない。
今の僕にできることを、少しずつやっていくしかないのだろう。
そう思っていた。
その瞬間だった。
ドンッ。
「ぐぁっ!?」
腹部に強い衝撃が走った。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
遅れて、制服の下腹部がじわりと濡れていく感覚が伝わってくる。
視線を落とす。
血だった。
「……は?」
火薬の匂いがする。
銃声が聞こえたのだと、ようやく理解した。
僕は撃たれた。
そう認識した途端、身体が硬直しかけた。
慌てて後ろを振り向く。
そこには、学園所属の警備員が立っていた。
銃を構えたまま、こちらを見ている。
なぜ。
その疑問が頭に浮かぶ。
警備員が、どうして僕を撃った?
何かの間違いか。
いや、そんなことを考えている場合ではない。
「はぁ……うぐっ」
腹部を押さえながら、僕は立ち上がろうとした。
痛みはある。
しかし、漫画やアニメで見るような、全身を貫く激痛ではなかった。
撃たれた瞬間の衝撃と、腹部に広がる鈍い痛み。
それだけなら、まだ動ける。
そう判断して、僕は保健室へ向かおうとした。
ところが、足に力が入らなかった。
「……っ、なんだ、これ……」
視界が揺れる。
地面が傾いたように感じられ、僕は数歩進んだところでバランスを崩した。
手をつこうとしたが、うまく身体を支えられない。
膝が地面にぶつかり、そのまま倒れ込んだ。
銃弾に何か細工がされていたのかもしれない。
毒系の魔法でも仕込まれていたのだろうか。
それとも、出血によって身体が動かなくなっているだけなのか。
考えようとしても、頭がうまく回らなかった。
遠くから誰かの声が聞こえる。
周囲が騒がしくなっているような気もした。
それでも、僕の意識は急速に薄れていく。
最後に見たのは、銃を構えたまま立ち尽くす警備員の顔だった。
その表情は、まるで初めて人を撃ったかのように青ざめていた。
……だったら、どうして撃ったんだ。
その疑問に答えが出ることはなかった。
僕の意識は、そこで途切れた。
次に僕が目を覚ましたとき、視界に入ったのは見慣れた保健室の天井だった。
「……ここは」
「お、やっと起きたか。血ぃ流してぶっ倒れてたからびっくりしたぞ……」
ベッドの隣から、気の抜けた声が聞こえてきた。
顔を向けると、レン先生が椅子に座っていた。
相変わらず、どこかだらしない姿勢だ。
白衣は着ているものの、きっちりと着こなしているとは言い難い。椅子の背もたれに身体を預け、片手でタブレットを操作している。
まるで、僕が腹を撃たれたことなど大した問題ではないとでも言いたげだった。
いや、実際には心配してくれているのかもしれない。
ただ、表情や声色からは判断しづらい。
そこがレン先生らしいといえば、らしいのだが。
それにしても、血を流して倒れていた生徒に対して、もう少し言い方というものがあるのではないだろうか。
……まあ、レン先生だから仕方ないか。
僕は念のため、身体が動くかどうかを確認しようと上半身を起こした。
同時に、別のことを思い出す。
そうだ。
決闘。
リオンと5馬鹿の決闘が始まっているはずだ。
今、どうなっているのだろう。原作とのズレも気になる。
少なくとも、スマホで映像を確認するくらいはしたい。
「おい」
起き上がろうとした僕を見て、レン先生が呆れたように声を上げた。
「いくら魔法で銃弾を取り出したからって、すぐに動けるわけじゃないからな。しばらく安静にしてろ」
「……はい。ですが、スマホで決闘の様子の確認を……」
「お前なぁ……」
レン先生は深いため息をついた。
「撃たれた直後に倒れて、ようやく目を覚ましたと思ったら、それかよ」
「重要な確認事項なので」
「はいはい。分かった、分かった」
先生は手元のタブレットを操作し、それから僕の方へ差し出した。
「アタシの仕事用のタブレットを貸してやる。それで安静にしてろ。変な動きをしたら、もう見せてやらないからな」
「ありがとうございます、先生」
「礼を言うくらいなら、まずは寝てろ」
そう言いながらも、レン先生はタブレットの画面を操作し、決闘の映像を表示してくれた。
僕はベッドに横になったまま、画面を覗き込む。
そこには、原作どおりの光景が映し出されていた。
リオンはアロガンツに搭乗し、ブラッドを圧倒している。
ブラッドが必死に攻撃を仕掛けても、アロガンツはそれをものともせずに押し返していた。
続くグレッグとの決闘でも、リオンは優位に立っていた。
クリス、ジルク、そしてユリウス。
対戦相手が変わっても、リオンの勢いは衰えない。
5試合とも、原作で知っている流れをなぞるように進んでいた。
「……やっぱり、強いな」
思わず呟いた。
アロガンツの性能が優れているのはもちろんだが、それだけではない。
リオン自身も、相手の攻撃を見極め、状況に応じて対応している。
単純に強い鎧を持っているだけの人間では、ここまでの戦い方はできないだろう。
画面の中で、リオンは相手を圧倒していた。
しかし、ただ相手を打ち負かしているだけではなかった。
口では容赦なく罵倒し、相手のプライドを徹底的にへし折っている。
それでも、その言葉の端々には、相手の欠点を指摘し、これから何を改善すべきなのかを突きつけるような意味が含まれていた。
悪役を演じながら、相手の成長の芽を残している。
原作を知っている僕には、その意図が何となく分かった。
もっとも、言われている側が素直に受け取れるかどうかは別の話だろう。
ブラッドもグレッグも、クリスもジルクも、そしてユリウスも。
今は悔しさや屈辱の方が強いはずだ。
それでも、いつか自分の敗北を振り返ったとき、リオンの言葉を思い出すことがあるかもしれない。
そう考えると、あの罵倒にも意味があるのだろう。
僕は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……原作どおり、か」
「何だ? リオンって奴、そんなに強かったのか?」
レン先生が横から尋ねてきた。
「ええ。少なくとも、周囲の評価とは随分違うみたいですね」
「そりゃ、実際に戦ってるところを見なきゃ分からないこともあるだろ。成績が全部なら、教師なんていらないしな」
「……それはそうですね」
何気ない言葉だった。
しかし、妙に納得できるものがあった。
成績や評判だけで実力を判断する。
身分や家柄だけで人間の価値を決める。
この世界では、そうした考え方が当たり前のように存在している。
けれど、目の前の結果を見れば、それだけでは分からないこともある。
リオンはそのことを、決闘という形で学園中に示していた。
その後も、僕はレン先生と一緒に決闘の様子を見ていた。
やがて映像の中で最後の試合が終わり、周囲の歓声が大きくなる。
原作どおりの決着だった。
ひとまず、これで大きな流れが変わっていないことは確認できた。
僕がほっとしていると、レン先生が思い出したように口を開いた。
「そういえば、お前の部屋、荒らされてたぞ」
「……はい?」
思わず先生の方を向いた。
「今、何と?」
「だから、お前の部屋。荒らされてたから、清掃員を呼んで綺麗にさせといた」
「……ちょっと待ってください」
僕は上半身を起こしかけ、すぐに腹部の違和感を思い出して動きを止めた。
「部屋が荒らされていたって、いつの話ですか?」
「撃たれたお前をアタシが治療し終わった後だったかな。詳しい時間は覚えてないけど」
「……そうですか」
やはり、何も起きていなかったわけではないらしい。
僕が部屋を確認したときには、すでに荒らされた痕跡が消えていたということか。
だが、問題はそこだけではない。
「先生が清掃員を呼んだんですか?」
「そうだぞ」
「勝手に?」
「勝手にって、お前の部屋だろ。生徒が使う部屋が荒らされてたら、片付けさせるくらい普通じゃないか?」
「いや、そういう問題ではなくてですね……」
僕が言葉を選んでいると、レン先生は面倒くさそうに頭を掻いた。
「なんせ、アタシは両政府だけじゃなく、国王と依代の両方の印璽が付けられた『2国間交換実習生』だからな」
「……はい?」
今度こそ、僕は完全に固まった。
両政府。
国王。
依代。
印璽。
2国間交換実習生。
聞き慣れない単語が並んだわけではない。
むしろ、どれも意味は理解できる。
理解できるからこそ、問題だった。
「……先生、それはどういう意味ですか?」
「ん? そのまんまの意味だぞ」
レン先生は、まるで今日の昼食の献立でも説明するような調子で答えた。
「アタシは美空から来た教育実習生だろ。だから、両国の政府が認めてる。国王の印璽も付いてるし、美空側は依代の印璽も付けてきた」
「……親任式で、美空国から来た教育実習生だということは分かっていましたけど」
「だろうな。ああ、ちなみに依代に権力なんてないぞ。美空の面子のために印璽を付けただけだ。向こうにも、こちらと同じような事情があるんだろ」
「……それは何となく知っています」
話の筋は理解できた。
美空国から派遣された教育実習生であり、両国政府の承認を受けている。
さらに国王と依代の印璽まで付けられているということは、単なる教育実習生という立場を超えた、外交上の意味を持つ人物ということになる。
だからこそ、ダンジョン実習のときにユリウスへタメ口で話しても、大きな問題にならなかったのだろう。
単にレン先生の性格が図太いからだと思っていたが、どうやらそれだけではなかったらしい。
もっとも、本人の性格が図太いこと自体は間違いないのだろうが。
「それで、清掃費用も公金だ。流石に適用範囲は学園内だから、税金で遊ぶなんてことはできないけどな」
「……先生」
「何だ?」
「僕の部屋を片付けるために、公金を使ったんですか?」
「そうだぞ。荒らされてたんだから、仕方ないだろ」
「いや、仕方ないで済ませていい話なんですかね……」
「駄目だったか?」
「……いえ、助かったのは事実ですけど」
僕は額に手を当てた。
部屋が荒らされていたことも問題だが、それを清掃するために公金が使われたという事実も、なかなか衝撃的だった。
普通なら、学園側に正式な手続きを踏んで対応を求めるべきなのではないだろうか。
しかし、レン先生にそんな常識を期待する方が間違っているのかもしれない。
そもそも、両国政府公認の実習生という立場なら、一般の教員とは違う権限を持っていても不思議ではない。
僕の知らないところで、いろいろと面倒な事情が絡んでいるのだろう。
それにしても。
レン先生は、想像していた以上に厄介な立場の人だった。
だらしなくて、気だるげで、いつも面倒くさそうにしている。
そんな人物が、実は両国政府の承認を受け、国王の印璽まで付けられているのだから、世の中は分からない。
いや、むしろ、そういう人だからこそ面白いのかもしれないが。
「そんじゃ、アタシはバーデンに行ってくるから、何かあったらそこのヤブ医者に頼れよ」
「……はい?」
またしても、予想外の言葉が飛び出した。
「バーデンって、あのバーデンですか?」
「他にどこがあるんだよ。王都の統合型リゾート施設。カジノもあるし、飯も食えるし、寝るところにも困らない。便利な場所だぞ」
「いや、施設の説明を求めているわけではなくてですね……」
「じゃあ何だよ」
「……先生、今から遊びに行くんですか?」
「そうだけど?」
レン先生は、さも当然のように頷いた。
僕は言葉を失った。
生徒が腹を撃たれて保健室に運ばれた。
その生徒がようやく目を覚ました。
そして、決闘の映像を見せてくれと頼んできた。
ここまでは、まあいい。
しかし、その直後に教師がカジノへ遊びに行くというのは、いくら何でも自由すぎないだろうか。
「……生徒をほったらかしにして、ギャンブルですか?」
「ほったらかしじゃないだろ。ちゃんと後から来るヤブ医者に頼れって言ったじゃん」
「その言い方だと、先生自身も信用していないように聞こえるんですが」
「実際、あんまり信用してないしな」
「それは駄目でしょう!」
思わず声が大きくなった。
レン先生は面倒くさそうに耳を押さえた。
「うるさいなぁ。大声を出すなよ。傷に響くだろ」
「誰のせいですか、誰の!」
「はいはい。じゃあ、アタシは行くから。安静にしてろよ」
先生は立ち上がり、タブレットを回収すると、保健室の出口へ向かった。
その背中を見送りながら、僕は深いため息をついた。
……本当に自由な人だ。
だが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
レン先生はだらしない。
生徒を置いて遊びに行こうとするし、説明も雑だし、教師としてどうなのかと思うところもある。
それでも、必要な処置はしてくれた。
僕が目を覚ますまで、少なくとも保健室にはいてくれたのだ。
そのあたりは、きちんと評価してもいいのかもしれない。
それに。
見た目も込みで、こういう先生は僕の癖に刺さる。
気だるげな雰囲気。
面倒くさそうな口調。
何事にも執着していないように見えるのに、必要な場面では意外としっかりしているところ。
……うん。
やっぱり、好みだ。
まあ、だからといって、教師としての問題点をすべて見逃していいわけではないのだが。
「……はぁ。何なんだ、この人」
誰に聞かせるでもなく呟き、僕は再びベッドに身体を預けた。
決闘は原作どおりに進んだ。
そして僕という異物の部屋は荒らされていた。
そして、僕は何者かに撃たれた。
分からないことが多すぎる。
特に、あの警備員がなぜ僕を撃ったのか。
初めて人を撃ったような顔をしていたことを考えると、本人の意思だけで行動したとは思えない。
命令されていたのか。
脅されていたのか。
それとも、僕を狙う別の誰かがいたのか。
今の時点では、何も分からない。
ただ、部屋が荒らされていたことと、銃撃されたことが無関係だと考えるのも難しいだろう。
偶然が重なっただけという可能性も、完全には否定できないが。
「……とりあえず、今は安静にするか」
僕は目を閉じた。
考えなければならないことは山ほどある。
けれど、動けない状態で無理に考えたところで、答えが出るとは限らない。
今は身体を回復させることを優先しよう。
そう決めて、僕は静かに息を吐いた。
窓の外からは、学園の生徒たちの声が聞こえてくる。
決闘が姉上側の代理人であるリオンの勝利で終わることで、学園はしばらく騒がしくなるだろう。
賭けに参加した生徒たちも、結果を受けてさまざまな反応を見せるはずだ。
そして、僕を撃った人物の背後に誰かがいるのなら、その人物もまた、次の行動を起こすかもしれない。
何もかもが、まだ途中なのだ。
僕は小さく息を吐き、ベッドの中で身体を休めることにした。
……せめて、次に目を覚ましたときには、もう少し平穏な状況になっていてほしい。
そんな、ささやかな願いを抱きながら。
どうにかここまで辿り着く事ができましたが、僕自身の頭が悪いので工作などの面は大幅カットしました。