硝煙に包まれし乙女の楽園   作:Lulan_810

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9話が完成しました。どうにかして今週中には決闘シーンの終盤までいきたいです。


※お知らせ:作品の雰囲気を整えるため、第1話〜第11話における主人公の口調を「タメ口」から「敬語」へ一括修正いたしました。ストーリー展開自体に変更はありません。

↓pixiv版はこちらです。
https://www.pixiv.net/novel/series/16639627


招かれざる客と、特待生への挨拶

「……疲れた……」

 

 

 思わず、そんな言葉が口から漏れた。

 

 昨日は散々遊び回り、その日の真夜中から茶会の準備に取り掛かったのだ。おかげで、身体の疲労はもちろん、精神的にもかなり参っている。

 

 そもそも、どうして僕がこんな苦労をしなければならないのだろう。

 

 

 いや、理由なら分かっている。

 

 自分の意思で飲み会に参加したのだから、最後まで責任を持つしかない。

 

 

 別に酒が飲みたいわけではない。前世の記憶がある僕からすれば、むしろ未成年のうちから飲酒を強要されないだけマシだと思うくらいだ。

 

 問題は、貴族社会において、そうした事情が必ずしも通用するとは限らないことである。

 

 酒の席に顔を出さない。年上の貴族たちに合わせない。そうした些細な行動でさえ、敵対する派閥にとっては格好の攻撃材料になりかねない。

 

 

 レッドグレイブ家の人間でありながら付き合いが悪い。

 

 若造のくせに生意気だ。

 

 そんな具合に悪評を広められれば、僕個人だけでなく家名にまで泥を塗ることになる。

 

 ……本当に、貴族というのは面倒な生き物だ。

 

 

 もっとも、リオンは口が悪くて捻くれているが、根っこの部分では信用できる男だ。ダニエルもレイモンドも同じである。

 

 少なくとも、あの3人が証拠もなく僕を貶めるような真似をするとは思っていない。

 

 彼らと出会えたことは、今の僕にとって数少ない幸運の1つだった。

 

「……さて、いつまでも愚痴をこぼしているわけにもいかないか」

 

 僕は机の上に置かれた茶器へと視線を向けた。

 

 

 茶会に使用する道具は、可能な限り王国の職人が作ったものを揃えてある。

 

 本当なら、美空の職人が手掛けた品々を使いたかった。

 

 前世の知識を持つ僕にとって、あの国の工芸品には馴染みがある。独特の形状や繊細な意匠には、こちらの文化とは異なる美しさがあった。

 

 

 しかし、この国の文化は大まかに言えばドイツ風だ。

 

 そこへ美空の茶器を持ち込んだところで、悪目立ちするだけだろう。

 

 何より、この学園では伝統的な洋風の茶会が主流である。

 

 

 自分の前世での文化を押し通すために余計な波風を立てるのは、本末転倒だった。

 

 茶器だけでなく、茶葉や菓子の選定にも気を配った。

 

 何を出せば客人に喜ばれるのか。どの程度の格式を保つべきなのか。先生たちにも相談し、必要なものを1つずつ揃えていった。

 

 

 部屋の掃除も済ませてある。

 

 机と椅子の配置を調整し、客人が落ち着いて過ごせるように整えた。

 

 これだけ準備して、誰も来なかったら笑えない。

 

 いや、笑うしかないのかもしれないが。

 

 

<マスター、準備が整いました。室内の温度、備品の配置、茶器の状態、いずれも問題ありません>

 

「ありがとう、ルイナ」

 

 室内の中央に浮かんでいたルイナが、淡々と報告してくれる。

 

 

 こういう時、自分専用のサポート役がいるというのは本当にありがたい。

 

 僕1人では確認しきれない部分まで見てくれるのだから、感謝してもしきれない。

 

 もっとも、そのルイナが続けた言葉は、あまりありがたくないものだった。

 

 

<なお、私が送信した招待状のうち、1件だけ返信がありました>

 

「……1件?」

 

<はい。怖いもの知らずなのか、マスターの招待に応じてくださる方がいらっしゃったようです>

 

「怖いもの知らずって……僕を何だと思ってるんだよ……」

 

 

<少なくとも、一般的な貴族令嬢が気軽に近づける人物ではないかと>

 

「僕は別に人を取って食ったりしないよ」

 

<その点については理解しています>

 

「本当に理解しているのか?」

 

 

 ルイナに軽口を叩きながら、僕は返信の書かれた紙を手に取った。

 

 そして、差出人の名前を確認した瞬間、思わず眉をひそめる。

 

 ステファニー・フォウ・オフリー。

 

 ……あの性悪伯爵令嬢か。

 

 

 正直、予想外だった。

 

 この学園には、性格に難のある貴族令嬢など珍しくもない。家柄や権力を笠に着て、他人を見下すような連中はいくらでもいる。

 

 だが、ステファニーは悪い意味で目立つ存在だ。

 

 原作での彼女は、後に空賊を引き入れるという暴挙に出て、その結果として家を取り潰される。

 

 

 ただし、それは未来の話だ。

 

 今の時点で彼女が将来どんな罪を犯すかなど、僕に断定できるはずがない。

 

 そもそも、まだ犯してもいない罪を理由に人を裁くなど、普通に考えておかしいだろう。

 

 僕が問題視しているのは、あくまで現在の彼女の言動だ。

 

 

 ……まあ、だからといって、僕自身が聖人君子というわけでもないのだが。

 

「とにかく、来るというのなら迎えるしかないか」

 

 

<マスター。念のため、警戒を推奨します>

 

「分かってるよ」

 

 返事をしながら、僕は室内をもう1度見回した。

 

 

 この時期、学園の茶会用の部屋はどこも混み合っている。

 

 学園には茶会専用の部屋がいくつも用意されており、生徒たちはそこを借りて客人をもてなすのが一般的だった。

 

 しかし、学園の規模が大きいせいで、需要が集中すると部屋を確保するだけでも一苦労する。

 

 

 原作でも、この時期には部屋の予約が難しくなると描写されていたはずだ。

 

 実際、茶器や茶葉を扱う業者まで予約で埋まっていた。

 

 先生たちの助力がなければ、ここまで準備を整えることはできなかっただろう。

 

 学園の規模が大きいのは結構だが、その弊害が生徒にまで押し寄せてくるのは勘弁してほしい。

 

 

 そんなことを考えていた、その時だった。

 

 コン、コン。

 

 部屋の扉がノックされた。

 

 

「……来たか」

 

 僕は姿勢を正し、扉へ向かった。

 

「ようこそ――」

 

 

 扉を開けた瞬間、右ストレートが飛んでくる。

 

 あるいは、下腹部への容赦ない蹴り。

 

 そんな光景を一瞬だけ想像したが、さすがにそこまで警戒する必要はないだろう。

 

 

 ……ないよな?

 

 そんな自分の考えを裏切るように、扉の向こうに立っていたステファニーは、僕の顔を見るなり露骨に不快そうな表情を浮かべた。

 

「へぇ……このクソガキが、無礼にも私を招待したってことなの?」

 

 

 挨拶もなければ、礼儀もない。

 

 どうやら、僕の招待に応じたのは、純粋に茶会を楽しみたかったからではないらしい。

 

 彼女は僕を頭の先から足元まで眺めると、隣に立っていた大柄な亜人奴隷へ視線を向けた。

 

 

「まあいいわ。やっちゃって頂戴」

 

「……は?」

 

 理解が追いつかなかった。

 

 

 彼女は今、何と言った?

 

 そう考える暇すらなかった。

 

「ぐあっ!?」

 

 次の瞬間、腹部に衝撃が走った。

 

 

 筋骨隆々の亜人奴隷が、何のためらいもなく拳を振るってきたのだ。

 

 僕の身体は簡単に浮き上がった。

 

 視界が傾く。

 

 背後には大理石の床が迫っていた。

 

 

(あ、これ……駄目なやつだ……)

 

 そんな間の抜けた考えを最後に、後頭部へ強い衝撃が走った。

 

 ビタンッ!

 

 

 鈍い音が室内に響き渡る。

 

 そのまま、僕の意識は暗闇へと沈んでいった。

 


 

「……え?」

 

 目を開けると、見知らぬ天井があった。

 

 いや、正確には見知らぬわけではない。

 

 学園の保健室だ。

 

 

 消毒液の匂いが鼻をくすぐり、周囲からは何人もの生徒の話し声が聞こえてくる。

 

 どうやら、僕はここへ運び込まれたらしい。

 

 問題は、なぜか頭の後ろに妙に柔らかい感触があることだった。

 

 恐る恐る視線を下げる。

 

 そこには、レン先生の姿があった。

 

 

「……っ!?」

 

 思わず身体を起こそうとしたが、頭がズキリと痛んだ。

 

「お~、やっと起きたか」

 

 先生は、そんな僕の反応を気にする様子もなく声をかけてきた。

 

 

「起きたばかりで悪いが、今はご令嬢の奴隷にぶん殴られたりして怪我した奴らでベッドが満杯なんだ。しばらくこうしていてくれ」

 

「……えっと、これは……?」

 

「見て分からないか? 膝枕だよ」

 

 分かっている。

 

 分かっているからこそ、困っているのだ。

 

 

 後頭部にはタイツ越しに伝わる大人の女性の太ももの感触。

 

 そして、視界の端に入るのは、どう考えても目のやり場に困るほどの大きな胸。

 

 レン先生は教育実習生でありながら、服装も言動もかなり気だるそうな人物だった。

 

 だが、今の僕にとっては、そんな彼女の性格よりも別の問題のほうが深刻だった。

 

 

 周囲から突き刺さる視線である。

 

 羨望。

 

 嫉妬。

 

 そして、明らかに殺意を含んだような圧力。

 

 

 ……やめてくれ。

 

 僕はまだ13歳だぞ。

 

 こういう空気には、前世でも今世でも慣れていない。

 

 いや、前世の僕なら、そもそも女性と親しくなる努力すらしていなかったのだから、慣れる機会がなかったというべきか。

 

 そんなことを考えながら、僕はそっと身体を起こそうとした。

 

 

「おい」

 

「はい...ッ!?」

 

「立っていいなんて、アタシは1度も言ってないぞ。大人しく膝枕を堪能してろ」

 

「い、いえ、ですが、それでは先生のお仕事が……」

 

 

「こんな薄い格好をしたアタシに、まともな仕事が回ってくると思うか?」

 

「……」

 

「そういう仕事は教育実習生じゃなくて、本職の先生がやるんだよ。分かったら、病人は大人しくしてろ」

 

 

 先生は僕の腕を軽く掴んだ。

 

 そのまま、僕が起き上がろうとするのを止める。

 

 

 ……軽く掴んだだけのはずなのに、びくともしない。

 

 握力が強すぎる。

 

 というか、僕よりも明らかに力が強い。

 

 

「……分かりました」

 

「よし。最初からそうしておけばいいんだ」

 

 僕は諦めて、再び頭を預けた。

 

 周囲の男子生徒たちの視線が、さらに痛くなった気がする。

 

 

 頼むから、そんな目で見ないでほしい。

 

 僕だって好きでこうなっているわけではないのだ。

 

 

 そうやって、どうにか気恥ずかしさを紛らわせようと視線を逸らしていると、保健室の扉が開いた。

 

「失礼しま~す……って、レン先生!?」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 

「何やってるんですか!? ていうか、保健室配属だったんですか!?」

 

「おい、アル! お前、ちゃっかり堕としてるんじゃねぇだろうな!」

 

 リオンとダニエル、レイモンドの3人だった。

 

 ……よりにもよって、このタイミングか。

 

 

「いや、これは、その……」

 

「ステファニーの奴にぶっ飛ばされたアルが救急で運ばれてきたんだけど、ベッドがいっぱいだったから膝枕してるってわけ。見舞いなら、さっさと済ませてくれよな」

 

 レン先生は、実に面倒くさそうな口調で説明した。

 

 それを聞いた3人は、ようやく納得したらしい。

 

 

「……お前、ステファニーって人に殴られたのか?」

 

「そうなんだですよ……」

 

「いや、そうなんだですよ……、じゃねぇだろ。何がどうなったら、茶会に招待した相手から殴られるんだよ?」

 

 

「僕が聞きたいよ……」

 

 まったくもって、その通りだった。

 

 招待状を送った。

 

 相手が来た。

 

 

 挨拶をしようとした。

 

 殴られた。

 

 ……どう考えても、僕に落ち度はない。

 

 

 それでも、貴族社会というのは面倒なもので、相手が一方的に悪いと分かっていても、家同士の関係によっては簡単に決着がつかない場合がある。

 

 今回も、そういう話なのだろう。

 

 と、そこで僕は3人の後ろに立つ少女へ視線を向けた。

 

 

「あの……アルさん、大丈夫ですか?」

 

 控えめな声だった。

 

 その少女の姿を見た瞬間、僕の思考が止まった。

 

 

 オリヴィア。

 

 原作の主人公であり、平民出身の特待生。

 

 この時期の彼女は、ブラッドから招待状を受け取り、茶会へ向かったはずだ。

 

 そして、原作通りなら、そこで酷い仕打ちを受けている。

 

 

 招待状を破られ、周囲の生徒たちから嘲笑され、心身ともに傷ついた彼女をリオンが助ける。

 

 その後、余り物の茶会を開いて、彼女を元気づけるのだ。

 

 ……つまり、原作通りに進んでいる。

 

 僕が余計なことをしなければ、少なくとも大筋は変わらない。

 

 

 そう考えたはずだった。

 

 なのに。

 

 僕はオリヴィアから目を離せなかった。

 

 彼女の髪は乱れていた。

 

 よく見ると、誰かに掴まれたような跡がある。

 

 

 頬には、薄く痣が浮かんでいた。

 

 腕にも、衣服に隠れかけた場所にも、いくつか傷が見える。

 

 大きな怪我ではないのかもしれない。

 

 

 命に関わるような傷でもないのだろう。

 

 けれど、そんなことは関係なかった。

 

 彼女は、傷ついている。

 

 ただそれだけの事実が、妙に胸に引っかかった。

 

 

(……何だ、これ)

 

 僕は、原作の展開を知っている。

 

 彼女がどんな目に遭うのかも、おおよそ把握していた。

 

 だからこそ、僕は計画を立てたのだ。

 

 

 914計画。

 

 そのための手段として、オリヴィアを利用することも考えていた。

 

 必要な存在。

 

 

 計画を成立させるための要素。

 

 原作の知識を持つ僕にとって、彼女はそういう存在として認識されていたはずだった。

 

 前世の僕は、某「鉄の心臓」だの「文明」だのそういう戦略ゲームで遊んでいた。

 

 

 そこでは、数万人の人間が犠牲になろうと、数字が変動した程度にしか感じなかった。

 

 都市が焼かれ、軍隊が壊滅し、何万という人間が命を落とす。

 

 それでも、画面の向こうの出来事として処理していた。

 

 

 ニュースで戦争の話を見ても、どこか遠い世界の出来事だと思っていた。

 

 自分とは関係のない場所で、知らない誰かが苦しんでいる。

 

 その程度の認識だった。

 

 

 それなのに。

 

 今、目の前にいる少女の傷を見ただけで、僕は動揺している。

 

 どうしてだろう。

 

 彼女がオリヴィアだからか?

 

 モブせかとしての原作のヒロインだからか?

 

 それとも、これから起こる物語の中心人物だからか?

 

 

 ……違う。

 

 そんな理由では、説明がつかない。

 

 彼女は、僕の目の前にいる。

 

 画面の中の登場人物ではない。

 

 設定資料に書かれた名前でもない。

 

 僕が利用しようとしていた、計画上の要素でもない。

 

 

 傷つけば痛いし、怖い思いをすれば怯える。

 

 理不尽な扱いを受ければ、悲しくもなる。

 

 当たり前のことだ。

 

 そんな当たり前のことを、僕は今になって突きつけられていた。

 

 

(……僕は、本当に914計画のために、この子を利用しようとしていたのか?)

 

 喉の奥が詰まるような感覚がした。

 

 視界がわずかに滲む。

 

 慌てて顔を背けたが、もう遅かった。

 

「……ッ」

 

 頬を伝った涙を、自分でも驚くほどはっきりと感じた。

 

 

 何が悲しいのか、うまく説明できない。

 

 自分の計画が間違っていると思ったのか。

 

 彼女の境遇に同情したのか。

 

 あるいは、その両方なのか。

 

 

 ただ、1つだけ分かったことがある。

 

 このまま原作通りに進めばいい。

 

 そんな言葉で片付けていいほど、目の前の現実は単純ではないのだ。

 

 

「……アルさん?」

 

 オリヴィアが心配そうに声をかけてくる。

 

 僕はすぐに返事をしようとした。

 

 けれど、言葉が出てこなかった。

 

 

「……大丈夫です。ちょっと、頭が痛むだけですから」

 

 ようやく、それだけ答えた。

 

 嘘ではない。

 

 実際、後頭部はかなり痛かった。

 

 ただ、それ以外にも痛む場所があるような気がした。

 

 それがどこなのか、今の僕には分からなかった。

 

 


 

 それから3時間ほどが経過した。

 

 頭の痛みはまだ残っていたものの、ようやく自分の足で歩ける程度には回復した。

 

 医師の診察を受けたところ、幸いにも深刻な異常は見つからなかったらしい。

 

 もっとも、頭を強く打ったことに変わりはないため、しばらくは安静にしておくようにと言われた。

 

 

 ……ステファニーめ。

 

 今後、どういう形で決着をつけることになるのかは分からないが、少なくとも二度とあんな目には遭いたくない。

 

 それにしても、驚いたことが1つあった。

 

 

 リオンたちは、僕が歩けるようになるまでずっと保健室に残っていたのだ。

 

 ダニエルは何度か様子を見に来るだけのつもりだったらしいが、結局そのまま居座った。

 

 レイモンドも、心配そうに僕の顔色をうかがっていた。

 

 そして、オリヴィアも。

 

 

 本来なら、彼女には僕を気遣う理由などないはずだ。

 

 むしろ、自分自身のことで精一杯でもおかしくない。

 

 それなのに、彼女はリオンたちと一緒に僕の隣にいてくれた。

 

 

 ……申し訳ない。

 

 僕が怪我をしたせいで、彼らの時間を奪ってしまった。

 

 そう思うと、どうにも落ち着かなかった。

 

「……よし」

 

 ゆっくりと立ち上がり、足元がふらつかないことを確認する。

 

 ようやく保健室を出られそうだった。

 

 

 廊下へ向かう途中、オリヴィアが少し緊張した様子で声をかけてきた。

 

「あ、あの……私はオリヴィアと言います」

 

 

「先ほども聞きましたが、改めてよろしくおねがいします。」

 

 僕は彼女に向き直った。

 

「僕はアルフォンス・ラファ・レッドグレイブです。気軽にアルと呼んでくれて構わないので…」

 

 

「レッドグレイブ……?」

 

 オリヴィアが目を丸くする。

 

 無理もない。

 

 

 レッドグレイブ家といえば、この王国でも有数の権力を持つ公爵家だ。

 

 そんな家の人間が、平民出身の特待生に気軽に接している。

 

 彼女にとっては、戸惑うことばかりなのだろう。

 

 

「そんなに驚かなくてもいいです。少なくとも、僕は君をどうこうするつもりはないので…。」

 

「は、はい……ありがとうございます」

 

 彼女は少しだけ表情を和らげた。

 

 その様子を見て、僕もようやく肩の力を抜くことができた。

 

 

 無理に親しくなる必要はない。

 

 今すぐ何かを約束する必要もない。

 

 まずは、普通に会話ができる関係になればいい。

 

 そう考えていると、リオンが僕の肩を軽く叩いた。

 

 

「それじゃあ、俺とオリヴィアは姉貴のところに用事があるから。病人はちゃんと休んでろよ」

 

「病人って……もう歩けるんですが…。」

 

「頭をぶつけた奴が何言ってんだ。大人しく帰って寝ろ」

 

「はいはい……」

 

 

 リオンはオリヴィアを連れて歩き出した。

 

 その後ろ姿を見送りながら、僕は小さく息を吐いた。

 

 ……おそらく、あれは原作の展開につながるのだろう。

 

 姉上に会い、学園内での暗黙の了解を教えてもらう。

 

 

 特待生として学園に在籍する以上、オリヴィアも貴族社会の面倒な仕組みを知らなければならない。

 

 その意味では、リオンの判断は正しい。

 

 ただ。

 

 僕は、もう「原作通りだから」という理由だけで安心することができなくなっていた。

 

 目の前で起きている出来事は、物語の筋書きではない。

 

 それを忘れないようにしなければならないと思った。

 

 

「……うぅ、痛い」

 

 後頭部をそっと押さえる。

 

 やはり、まだ痛む。

 

 致命傷にならなかっただけ、幸運だったのだろう。

 

 

「お前、本当に大丈夫か?」

 

 ダニエルが心配そうに尋ねてきた。

 

「まあ、何とか…。」

 

「ステファニーの奴、実家が反レッドグレイブ陣営だから、相応の罰は受けないらしいぞ。ただ、先生からは注意を受けたみたいだから、そこは安心しろ」

 

「ダニエル、それって何も変わってないって意味じゃ……」

 

「しーっ! レイモンドは黙ってろ!」

 

 

 ダニエルが慌ててレイモンドの口を塞いだ。

 

 ……いや、聞こえてるんだけどな。

 

 どうやら、2人なりに僕を気遣ってくれているらしい。

 

 余計なことを言って、僕を怒らせないようにしているのだろう。

 

 

 気持ちはありがたい。

 

 ありがたいのだが、現状が改善していないという事実まで隠されると困る。

 

 とはいえ、政治の事情が絡んでいる以上、簡単に解決できる問題でもない。

 

 オフリー家は反レッドグレイブ派の貴族だ。

 

 

 さらに、最近の王太子殿下の動向を考えれば、ステファニーが強気に出られる理由もある程度は想像できる。

 

 ユリウス殿下が姉上を冷遇し始め、マリエに入れ込んでいる。

 

 その情報をオフリー家が掴んでいるのなら、今のうちにレッドグレイブ家の影響力を削ろうと考えても不思議ではない。

 

 

 もっとも、僕は政治が得意ではない。

 

 こうした推測がどこまで正しいのか、確信は持てなかった。

 

「……面倒なことに巻き込まれたなぁ」

 

 

 思わず漏れた言葉は、廊下の空気に溶けて消えていった。

 

 ダニエルもレイモンドも、それ以上は何も言わなかった。

 

 ただ、2人とも僕のそばを離れようとはしなかった。

 

 それが、今は妙にありがたかった。

 

 


 

 後日。

 

 姉上は、オリヴィアとリオンを呼び出した。

 

 僕としては、できることなら参加したくなかった。

 

 しかし、姉上の言い分によれば、今回の呼び出しは必要な儀式なのだという。

 

 

 学園内での権威を維持するため。

 

 取り巻きや周囲の貴族たちに軽く見られないため。

 

 そして、特待生であるオリヴィアに、この学園における暗黙の了解を理解させるため。

 

 表向きの理由はいくつかあるらしい。

 

 

 要するに、貴族社会における立場の確認ということだ。

 

 ……本当に、面倒くさい。

 

 僕は護衛の男子生徒たちと共に、姉上の後ろに立っていた。

 

 

 手には拳銃を持っている。

 

 前世では"にわか"とはいえミリオタだったので、戦争自体は嫌いだが武器を扱うこと自体に抵抗はない。

 

 もっとも、今回の配置に関しては、僕自身の意思とは別の意味があった。

 

 

 同じ公爵家の人間とはいえ、僕は姉上の弟だ。

 

 この場で僕を後ろに立たせることで、誰が主導権を握っているのかを周囲に示しているのだろう。

 

 姉上はアンジェリカ・ラファ・レッドグレイブ。

 

 この学園において、強い権威を持つ公爵令嬢だ。

 

 対して、僕はその弟。

 

 

 家柄は同じでも、立場や経験は異なる。

 

 姉上の権威を補強するための配置としては、理にかなっている。

 

 

 ……まあ、拳銃を持って立っているのが僕である必要はないと思うのだが。

 

 そんなことを考えていると、姉上が紅茶のカップを置いた。

 

 オリヴィアは緊張した面持ちで、その様子を見つめていた。

 

 机の上に並べられた茶器も、紅茶そのものも、リオンが用意したものより明らかに上等だ。

 

 

 それは単に値段が高いというだけではない。

 

 使用されている素材、装飾、そして茶葉の品質。

 

 どれを取っても、レッドグレイブ家の財力と格式を示すのに十分なものだった。

 

 姉上は、そうした道具を使うことに何のためらいもない。

 

 それが当たり前であるかのように、優雅に紅茶を口に運ぶ。

 

 そして、カップを置くと、オリヴィアへ鋭い視線を向けた。

 

 

「誰の入れ知恵か知らないが、挨拶に来たことは褒めてやろう」

 

 静かな声だった。

 

 しかし、その場にいる者を従わせるだけの威圧感がある。

 

「精々、身の丈に合った生き方をすることだ。ここはお前のような者がいる場所ではない。だが、弁えているのなら、隅で大人しくしていることくらいは許してやろう」

 

「……」

 

 オリヴィアは戸惑ったように視線を泳がせた。

 

 

 何を答えるべきなのか、分からないのだろう。

 

 僕にも、彼女の気持ちは理解できた。

 

 この学園には、外の世界とは異なる独特のルールが存在する。

 

 その中には、誰かが明文化したわけでもないのに、生徒たちの間で当たり前のように守られている慣習もあった。

 

 

 今回の「挨拶」も、その1つだ。

 

 別に、絶対に必要なことではない。

 

 しかし、学園生活を円滑に進めるためには、無視できない意味を持っている。

 

 特に、オリヴィアのような立場の生徒にとっては。

 

 

 彼女には、強力な後ろ盾がない。

 

 家柄による優位性もなければ、貴族社会の慣習について教えてくれる身内もいない。

 

 学園内での立場は、非常に弱いものだった。

 

 だからこそ、今回のような儀式を通じて、上位の貴族から最低限の了解を得ておく必要がある。

 

 ……少なくとも、姉上はそう考えているのだろう。

 

 

「え、えっと……それは、学園にいることを許してくださるということでしょうか?」

 

 オリヴィアが、おずおずと尋ねた。

 

 その瞬間、姉上の表情が微妙に変化した。

 

 ほんのわずかに眉が動き、こめかみを押さえそうになる。

 

 

 ……あ、これは。

 

 僕は思わず視線を逸らした。

 

 姉上の言いたいことが、何となく分かったからだ。

 

 

 オリヴィアの質問は、素朴な疑問としては間違っていない。

 

 しかし、この場における正解は、質問をすることではなかった。

 

 姉上の言葉に頷き、紅茶を飲んで帰る。

 

 それだけで、形式上の手続きは終わる。

 

 

 ところが、オリヴィアは言葉の意味をそのまま受け取り、確認しようとしてしまった。

 

 貴族社会の暗黙の了解を知らない彼女にとっては、当然の反応なのだろう。

 

 しかし、姉上にとっては話が違う。

 

 彼女は小さく溜息を吐くと、部屋にいた取り巻きの女子たちへ退出するよう命じた。

 

 護衛の生徒たちも部屋から出ていく。

 

 

 ……いや、待ってほしい。

 

 僕も出してくれないだろうか。

 

 護衛の生徒たちがいなくなったことで、後ろに立っている僕だけが妙に目立つようになってしまった。

 

 

 姉上とオリヴィア。

 

 そして、その後ろに立つ僕。

 

 何とも言えない構図である。

 

「……あそこで頷いて、茶を飲んで帰る。それだけで全て終わった。お前が質問をするから、話がややこしくなっただろうが」

 

「――え?」

 

 オリヴィアは、ますます困惑した表情を浮かべた。

 

 

 姉上は深々と溜息を吐いた。

 

 先ほどまでの威圧的な雰囲気とは異なり、少し疲れたようにも見える。

 

「許すも何も、私がお前を追い出そうと思っているとでも思ったか?」

 

 

「え、でも……先ほど、ここは私のような者がいる場所ではないと……」

 

「形式的な挨拶だ。言葉をそのまま受け取るな」

 

 姉上は、やや呆れた口調で答えた。

 

 

「正直な話、特待生の件には興味がない。私もお前に関わっていられるほど暇ではないからな」

 

「そ、そうなのですか……?」

 

「そうだ」

 

 姉上は再び紅茶を口に運んだ。

 

 

 そして、ほんの小さな声で呟いた。

 

「王太子殿下にすり寄るあの女よりはマシか」

 

「あの、何かおっしゃいましたか?」

 

「いや、何でもない」

 

 そう言って、姉上は小さく笑った。

 

 

 その表情は、普段の凛としている彼女からは想像しにくいほど柔らかいものだった。

 

 オリヴィアも、少しだけ緊張を解いたようだった。

 

 普段の姉上は、覇気があり、「一線を越えると」気性が激しくなる。

 

 学園内で怒鳴り散らす姿を目撃した生徒も少なくない。

 

 

 そのため、オリヴィアが抱いていた印象も、決して間違いではないのだろう。

 

 しかし、今の姉上は違った。

 

 少なくとも、この場では、彼女を一方的に追い詰めようとしているようには見えない。

 

 

 立場を守るための言葉と、本人の本音。

 

 その2つが、必ずしも一致するとは限らないのだ。

 

 

 ……まあ、だからといって、もう少し分かりやすく話してやればいいのに、とは思うが。

 

 姉上は、ふと思い出したようにオリヴィアへ尋ねた。

 

「ところで、特待生。お前に挨拶の話を教えたのは誰だ?」

 

「えっ?」

 

「ああ、勘違いするなよ。別に、含むところがあるわけではない」

 

 姉上は片手を軽く振った。

 

 

「周囲の連中が特待生であるお前に距離を置く中、お前を助けた奴が気になっただけだ。これは個人的な興味だよ」

 

 それは、確かにそうだろう。

 

 男子生徒たちは、将来の結婚相手を探すのに夢中だ。

 

 女子生徒たちからは、特待生という立場ゆえに反感を持たれている。

 

 そんな中で、オリヴィアを助け、学園内で生きていくための知識を教えた人物がいる。

 

 

 姉上にしてみれば、興味を抱くのも不思議ではなかった。

 

 オリヴィアは少し悩んでから、リオンの名前を口にした。

 

 

 リオンが自分を助けてくれたこと。

 

 そして、自分の姉であるアンジェリカを紹介してくれたこと。

 

 その経緯を、彼女なりに説明している。

 

 

「バルトファルトの三男か」

 

 姉上は、どこか面白そうに笑った。

 

「アレは変わり者だな。まあ、好感は持てる」

 

 

「ご存じなのですか?」

 

「お前、知らないのか?」

 

 姉上は、少し意外そうに目を見開いた。

 

 

「私たちの世代では、間違いなく一番出世した奴だぞ。今後、あいつのように自力で独立できる奴が何人出てくるか……」

 

 リオン・フォウ・バルトファルト。

 

 男爵家の三男でありながら、独自の道を切り開いてきた人物。

 

 

 その実績は、同世代の貴族たちの中でも際立っている。

 

 姉上が彼に一定の評価を与えているのも、そのためだろう。

 

 

「それに、人となりも悪くないのだろう?」

 

「は、はい。とても親切にしていただきました」

 

「ならば、なおさらだな」

 

 姉上は頷いた。

 

 

「王太子殿下と話す機会を設けてもよいかもしれない」

 

「……え?」

 

 オリヴィアが目を丸くする。

 

 どうやら、彼女にとっては予想外の話だったらしい。

 

 

 姉上は、そんな彼女を見てクスクスと笑った。

 

 その表情には、先ほどまでの威圧感はない。

 

 まるで、年相応の少女が、ちょっとした悪戯を思いついた時のようだった。

 

 僕は、そのやり取りを後ろから眺めながら、密かに息を吐いた。

 

 

 ……これで、ひとまずは大丈夫だろうか。

 

 オリヴィアがこの学園で生きていくためには、まだまだ越えなければならない壁がある。

 

 リオンとの関係。

 

 貴族社会の慣習。

 

 そして、彼女を取り巻く人々の思惑。

 

 その全てを、今すぐ僕がどうにかすることはできない。

 

 けれど、少なくとも、目の前で起きていることを見て見ぬふりする必要はないはずだ。

 

 

 僕は、拳銃を持つ手にわずかに力を込めた。

 

 前世の僕なら、きっと考えもしなかったことだろう。

 

 他人の人生など、自分の遊びや利益に関係がなければ、どうでもよかった。

 

 誰かが苦しんでいても、遠くの世界の出来事として片付けていた。

 

 

 だが、今の僕は違う。

 

 ……いや、まだ違うと言い切れるほど立派な人間ではない。

 

 ただ、少しずつでも変わっていきたいと思っている。

 

 原作の知識に頼るだけではなく、自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の行動に責任を持つ。

 

 それくらいは、できるようになりたい。

 

 

 そんなことを考えていると、姉上がこちらを振り返った。

 

「アル。何をぼんやりしている?」

 

「い、いえ。何でもありません」

 

 

「そうか。ならば、いつまでもそこに突っ立っていないで、茶の用意でも手伝え」

 

「……はい」

 

 僕は苦笑しながら、机のほうへ歩き出した。

 

 やはり、姉上は姉上だった。

 

 

 優しいところがあっても、「一線を越えられると」気性が激しくなる面があっても、面倒見がよくても、僕に対する態度が急に変わるわけではない。

 

 それでいいのだと思う。

 

 人間というのは、そう簡単に変わるものではないのだから。

 

 だからこそ、僕も焦る必要はない。

 

 目の前のことを1つずつ片付けていけばいい。

 

 そう自分に言い聞かせながら、僕は新しいカップを手に取った。




これでひとまず9話は終わりです。もしかしたら10話でダンジョンでの実習のシーンが入るかもしれません。
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