ヤン子さんのBCC10連覇街道 作:チョコファッション
コツ、コツ、と万年筆を走らせる音がトレーナー室に響く。
閉め切ったトレーナー室は、少し暗い。
机には一本のペンと、一枚の書類。
自分以外誰一人いない静かな空間に、規則的な音だけが響いていた。
ペンを握る手にはやや力がこもっている。
一文字ずつ、丁寧に書き進めていく。
ペンの進みはやや重い。
コツ、コツ、と音が鳴る。
先ほどと違い、今度はペン先が紙を叩いた。
退職届の最後、自分の名前の欄に署名しようとした時、どうしても手が止まってしまった。
やはり、躊躇してしまっている。
一度、ペンを机に置いた。
周囲を見回したが、やはり誰もいない。
静かに書類をしまうと、席を立ち、トレーナー室を出た。
暖かく心地良い風が、トレセン学園に春の訪れを知らせる。
空は青い。
雲は手に掴めそうなほど近く見える。
澄んだ空気の中を、軽い足取りで歩いていく。
夢や希望を語る声や、蹄鉄が地面を踏みしめる音、遮二無二トレーニングに励む生徒の息遣い。
耳に入る音の数々が、気分を明るくさせた。
「――おーい!」
また一つ、音が増えた。
しかも今度聞こえた音は意味を持った言葉で、恐らくは自分に呼びかけているのだろう。
トレーナーは足を止めず、耳だけを貸すことにした。
「あれ、聞こえてない感じ?グッドルッキングガイさーん?」
「どうした。何か用か?」
「いや反応はやっ!超絶ナルシじゃーん」
確かにこの反応の仕方では無理もないだろう。
ひとまず返答しなければ失礼だと、声が耳に入った瞬間反射的に返事をしたのだ。
こちらにも非はあるだろう。
それでも少し、ムッとしてしまう。
「失礼だな。誰だ君は?トレセン学園の生徒なんだろうが…」
「Hi! フォーエバーヤングだよ!Nice to meet you♪」
「どうも。それで、俺に何の用だ?」
「まあまあ、肩の力抜いて聞いてよ」
確かに目の前の少女は気を張ってはいない。
相手に合わせることも必要だろう。
ひとまず、その提案に乗ることにした。
「オケ?んじゃ、こっから本題。実はアタシ、BCクラシックを10連覇くらいしなきゃいけなくてさ。だから、アタシのトレーナーになってくれない?」
「……は?」
「んー、わかんないか。アタシと君でシナジー盛って、ウマ娘界にイノベーション起こそー!って感じ?」
余計に困惑してしまった。
どこから聞けばいいのか、少し整理しながら口を開く。
しかし、考えたところで何もわからない。
目の前の少女が掛けているサングラスのように、不透明だ。
「まず10連覇とはなんなんだ。普通に考えておかしいと思わないのか?そもそも、物理的に無理じゃないか?」
「なんかBCクラシックを10連覇しないと永遠に卒業できない感じっぽくてさー。君に協力して欲しいなーって♪」
最も重要な話が省略された。
話せないのか、話す気がないのか。
笑みを浮かべているその表情からは何も読み取れない。
「……話す気はないのか?」
「まあまあ、細かいことはいいじゃん?ヤン子のお願い、聞いてくれる?」
端々から感じられる余裕も、こちらの判断を曇らせる。
その勢いには思わず流されそうになるが、そうはいかない。
たかが紙一つ。
破り捨てれば何の意味もない。
だが、それが持つ重みは流されるほど軽くはない。
「君という担当を持ったところで、俺にはBCクラシックを勝たせる才能なんてない。夢に付き合う気力もだ」
「弱腰だねー。そんなんじゃ一生ヤングなままだよ?アプローチしなきゃ。こっちはロードマップの準備OK!さ、行こ行こ♪」
流されるがままというより、引かれるがままだ。
しかしその時ようやく、サングラスの下が見えた。
エメラルドのような輝きを放っていた。
想像したのは、春の新緑や深い森。
深く、奥へと引き込まれるようだ。
視線が重なり合ったその時、もう一度少女は微笑んだ。
今度の笑みは青い空のように透明だった。
未だ若い少女に、手を引かれてしまった。
「これ、どこに向かっているんだ?」
「まあ答えてもいいんだけど、ね?」
またしても不透明な、含みのある言い方だ。
トレーナーはまずその意図から解いていくことにした。
そう思って考えたものの、それなりの速度で走っているからか、上手く思考がまとまらず長考するには少し向いていない。
しかし、進行方向から考えるに室内ではないだろう。
「ほら、ここだよ。ウマ娘がトレーナーにアプローチする場所なんて一つでしょ☆」
残念、タイムオーバーだ。
答えは少女の口からでなくとも、視界に映る景色を見ればどこかはすぐにわかった。
確かにアプローチには適した場所だろう。
「レース場か…しかもダート。なるほど、実力を示すわけか」
「That's right!少しはやる気出てきた?」
「やる気だなんて言い方はよしてくれ。単に、そこまで言う君に少しの興味が湧いただけだ」
「あはっ、素直じゃないねー。まあ今はそれでオケオケ♪」
トレーナーと少女は、それぞれ反対側に足を進める。
トレーナーは観客席に座り、一息つく。
もっと近くで見ることもできたが、所詮はただの好奇心だ。
フォーエバーヤングはまだ走らない。
外していた腕時計をはめ、時間を確認した。
腕にある時計が秒針を刻む音が聞こえる。
カチッ、カチッ、という音が60回ほど聞こえた時、トレーナーは目を凝らし、少女は走り出した。
◇
有史以来、人とウマ娘は深い関係にあり、共存してきた。
ウマ娘には、一般的な人間を優に上回る身体能力が備わっている。だからこそ、レースという舞台でその美しさを観客に見せ、競い続けてきたのだ。
しかし、目の前の光景は疑わざるを得ない。
圧倒的なパワーが起こす力強い走り。
芝が向いていないとは思わない。
だが、そのダイナミックな走りを見るにダートがベターだろう。
速い。
速い。
速い。
あのウマ娘は、本当にまだデビューしていないのだろうか。
これをなんと言い表せばいいのか。
いや、ひと言でそんなことは済む。
強い!ただ、それだけで彼女を表すには十分だ。
あのウマ娘がBCクラシックを勝つ光景が、明確にイメージできた。
しかし、その隣にはまだ誰もいない。
であれば、自分がそこに立つこともできるということだ。
それを逃すのは、砂漠にある水に手を伸ばさないのとそう変わらない。
差し出された風船を子供が手に取らないのと同義だ。
そんなことは普通、あり得ない。
「……いや、落ち着け。掛かりすぎだな」
だが、贔屓目無しにフォーエバーヤングは強い。
これは予感でなく、確信だ。
あの若きウマ娘は、間違いなく世界を獲る。
秒針が2周ほどした時、フォーエバーヤングは走り終えた。
そして、トレーナーは少女に向かって歩き出した。
「想定以上だ。君が、まさかあんなに凄いやつだとは」
「ヤン子の実力、よくわかったっしょ☆」
軽く、弾んだような口調からは想像していなかった。
きっと、強いのだろうとは思っていた。
しかし、目の前の少女はその予想を悉く裏切ってきた。
斜め上の方向に。
「いい走りだった。これ以上ないくらいに」
「あはっ!でしょ?知ってる。でもありがと♪」
その口調の軽さからは想像できないほどに強い。
走りから想像できるのは王者の風格。
しかし、王者というにはあまりに挑戦的だ。
BCクラシックを勝利するのが、日本のウマ娘。
アメリカの先頭に立つのがこのウマ娘。
日本のレース界を牽引するのが、若きウマ娘。
その未来を想像したとき、フッ、と笑ってしまった。
想像もできないような未来。
笑ってしまうような荒唐無稽な未来。
それが恐らく、自分の最も近くにある。
「アタシの走りも見たんだし、そろそろ答えは出たっしょ?」
「ああ、そうだな」
あれほどまでの走りを見せられて。
才気溢れる勇姿を見せられて。
今後何万、何十万が熱狂するだろう脚を目の前で見せられて。
その貴重な時間を割いてまで誘われたのだから、100人中1000人がyesかはいを伝えるだろう。
「俺は、君の担当トレーナーにはなれない」
「………」
もっとも、そのデータにこのトレーナーは含まれていないが。
「やば。ちょー強情じゃん?」
目の前の少女はサングラスを下げてそう言った。
「君について納得はしたが、特に俺である必要性はない」
「こーんなに可愛いウマ娘がお願いしてるのにな〜」
サングラスを元の位置に戻し、フォーエバーヤングは周囲を囲むように歩き回る。
「君の才能を育てるのは、もっと熟練のトレーナーなほうが望ましい」
「随分老いた感性してんね。ぜーんぜんヤングじゃない」
少女は笑みを崩し、不満げな顔を浮かべた。
トレーナーは目線を逸らすように、時計を確認する。
「もう昼だ。俺はこれで失礼する」
「アタシも行こうと思ってたんだよね♪どこ行く?」
少女はすぐさま表情を戻し、トレーナーの隣側へ位置取る。
表情が豊かで、フランクな性格をしている。
そんな少女はきっと、さぞ友人が多いことだろう。
トレーナーは踵を返し、嘆息する。
「構う必要はない。友人とでも食事を楽しめばいい」
「交渉相手とは仲を深めなくちゃでしょ?」
「商談相手との食事はさぞ辛いだろう。遠慮しておこう」
「食事っていうのは人がいたほうが楽しいもんじゃーん?」
「賑やかなのは嫌いじゃないが、食事は一人で取りたくてね」
「あー…そういう感じ?なんかごめんね」
「…そこで一歩引かれると逆に傷つくな」
何か事情を察したような目で少女はトレーナーを見る。
物理的な距離も少し開いただろうか。
それでもなお、フォーエバーヤングの瞳に翳りはない。
全てを見通されているような感覚に、背筋が冷たくなる。
「はぁ、こうしている時間も無駄か」
「お、ようやく諦めがついた感じ?」
「もう食事は諦めるさ。元々食は細い」
「健康に悪くない?ヤングっていうか、チルディッシュだね」
「確かに、そうかもしれないな」
精神的未熟さ、という意味では否定しきれない。
むしろ、それを否定すること自体が未熟に当たり得る。
そう考えると、自然と肯定の言葉が出てくる。
トレーナーは再度時計を確認した。
「君はウマ娘だろう。ご学友と食事を楽しむのがマストだ」
「そんな常識、いったい誰が決めたの?」
「アスリートにとって食事がどれだけ大切なものか、知らないわけではないだろう。こうしていたところでなんの意味もない」
「アタシにはこのドーナツがあるからさ♪」
マジックでも見せられたような、そんな戸惑いが来た。
よく見ると少女は真ん中に穴のある揚げ菓子を持っていた。
トレーナーとして止めなければという使命感に駆られた。
仕方がなく、トレーナーは少女へ近づいた。
「それを昼のメインにするのはやめておいたほうがいい」
「えー、どうして?ヤン子に教えてくれる?」
緩んだ口調は意図的か、少女は答えを求める。
まさか、知らないわけでもないだろうに。
そう思いつつも、トレーナーは口を開く。
「血糖値の急上昇や栄養バランスに偏りが出る」
「へー、詳しいじゃん。さっすがトレーナーって感じ☆」
「トレーナーでなくてもわかることだ。君はいつまでここにいるつもりだ?いても意味はないだろう」
「確かにそうかもね。じゃ、行こっか♪」
そう言い少女はトレーナーの手を引き、歩を進めた。
「…君は言葉の意図を汲み取るのが苦手なのか?」
トレーナーが少女をなんとか制止し、咎めるように尋ねる。
すると、少女は一度考える素振りを見せ、こう答えた。
「アタシがしてるのは、いわば投資なんだよね。だからさ、別に必ずリターンがあるだなんてことは思ってないわけ」
「意外だな。見込みのない投資を君がするとは思えないが」
「普通じゃない、ビッグなことを成し遂げるんならセオリーばかりに従ってられないでしょ?」
「定石というのは、一般的に正しいことが多い故に定石なんだ。奇抜なことばかりをすればいいというわけではない」
「言ったでしょ、シナジー盛ってこ、ってさ。アタシの求める結果は定石なんかじゃ成し遂げられないの」
目は口ほどに物を言う。
いつでも浮かべていた笑みが、この瞬間に消えた。
その瞳は真剣で、彼女が本気で物を言っていることがわかる。
だからこそ、トレーナーにはわからない。
「君の言うシナジーが、なぜ俺にあると?」
「だって、君は普通じゃないでしょ。半信半疑ながらもアタシの話を聞いてる。普通は笑い飛ばして終わるだけ」
「今もまだそれについては納得していないがな」
「君は何もかもを諦めてるようで、何も諦めてない。それが逆にアタシにとって、ちょうどいいんだよね」
少女は再度、歩みを進める。
しかし今度は一人、前を行くように足を出した。
その意図が、トレーナーにはわからない。
わからないから、ただ見ていることしかできない。
「諦めてるから折れることがない。折れていないから、前に進み続けられる」
「……そんなの詭弁だ。俺に君は……」
そう言いかけたが、言葉が出なかった。
出なかったというよりは、飲み込んだのかもしれない。
それを見てフォーエバーヤングは、また笑みを浮かべた。
それから、ずっと着けていた帽子を手に取りそして…
「―――とりま、世界ひっくり返していこ!」
再度トレーナーの手を取った。
気づけば、トレーナーの手には帽子が握られていた。
逸らしてきた目が、逸らせなくなった。
彼女が何を隠しているのか。
その瞳の奥から読み取ることはできない。
しかし、それは彼女にとってのトレーナーもそうだろう。
隠し事ばかりで、ままならない。
それでも真っ直ぐ目を見つめ、少女は言葉を放つ。
「アタシの共同出資者に、なってくれない?」
確かに今は、諦めているのかもしれない。
だが、未来に希望を持つことはできる。
目の前の少女には、確かにそれを感じたのだから。
手放した希望を携えやってきた少女がいた。
夢を語り、夢のために走る少女がいた。
互いに見透かし、見定めようとしつつも結局は言葉に頼ってばかりで、捨て置くことなどできていなかった。
「君は、最初からこれを予想していたのか?末恐ろしいな」
であれば、言葉はもう不要だ。
トレーナーは手に持つ帽子を、少女の頭へ返した。
―――未だ若い少女に、惹かれてしまったのだ。