「るるかさんの最初の事件って、どんなのだったのかな?」
みくるの何気ない問いに、るるかはロンドン時代の出来事を語り始める。
大富豪のパーティーに出席したるるかは、そこで不審な行動をとる一人の老人を見つける。
事件を未然に防いだはずのその出来事は、なぜか今もるるかの心に暗い影を落としていて――。
天才名探偵、森亜るるかの探偵としてのあり方を決めた最初の事件のお話。
全5回
それはいつか必ず聞かれるだろうと、るるかはどこかで覚悟していた問いだった。
「るるかさん、聞きたいことあるんですが」
そう口を開いたのは、小林みくるだった。先輩探偵である森亜るるかを心から尊敬しているらしく、その瞳に宿る憧れの光は、いつだってるるかの目には眩しく映った。
「……なに?」
胸の奥で嫌な予感がよぎるのを感じながら、るるかはみくるのほうを向いた。一緒におやつを囲んでいた帆羽くれあと明智あんなも、なんだろう、と視線をみくるに向ける。そんな空気の中で、みくるはまったく邪気のない笑顔のまま言った。
「るるかさんの最初の事件って、どんなのだったのかなって」
ロンドンで天才名探偵とまで呼ばれたるるかにだって、当然、初めてはあったはずだ。そんな記念碑的な事件の話を聞いてみたい――それは、ごく普通の、純粋な興味本位に過ぎない思いだろう。
だが、その問いに触れた瞬間、るるかはどうしても息が詰まるような思いを覚えた。失敗したわけではない。それでも――
「るるか……」
当時を知るくれあが、心配そうに声をかけた。
るるかの様子がおかしいことに気づいたのか、みくるも慌てて言葉を翻す。
「あ、あの、もしもあまりいい思い出じゃないとかいうのだったら、無理に聞きたいわけじゃないですっ!」
わたわたと両手を振るさまは、必死すぎてかえって可笑しいほどだった。
るるかはくすりと微笑み、みくるに小さく頷いた。
「大丈夫。ただ、あなたたちに話してもいいものかしら、と思っただけ。でも……もう、いいのかもしれない」
そう言って、るるかはくれあを見た。
「くれあも当時のこと、詳しくは知らないと思う。だから一緒に聞いて」
そして――私なんかに憧れを抱くのを、止めてほしい。
そう、小さくぽつりと呟いた。
「るるか……」
その小さな胸元で漏れたささやきを耳にした唯一の存在が、心配げにるるかを見上げた。
そんなマシュタンをぎゅっと抱きしめて、るるかは静かに話を始めた。
それは、るるかがキュアット探偵事務所の名探偵として関わった、初めての事件の話だった。
その日、るるかはキュアット探偵事務所・ロンドン本部の所長、花崎まふるの指示を受け、ある大富豪のパーティに姿を現していた。
「今後、着飾ってお偉いさんと会ったりする機会も増えるだろうからね。今日は、その練習とでも思って、うまいもん食って帰ってきな」
まふるの言葉は、それだけだった。パーティで何をせよとも、誰を調べよとも言わない。ただ、まともに着飾ってどこかへ出かける経験のなかったるるかに、そうした場を一度くぐらせておきたいというだけの、軽い考えのようだった。
るるかは、生まれて一度も袖を通したことのない、華麗なゴシックロリータのドレスに身を包んでいた。純白のビロードを基調に、繊細なレースが幾重にも重なり、光を受けるたびに淡く揺れる。髪はいつもより丁寧にまとめ上げられ、白いレースのカチューシャがそっと添えられている。鏡に映った自分の姿を見たとき、るるかはわずかに息をのんだ。華やかすぎて、どこか自分ではないような気がした。一方、くれあやマシュタンは「似合ってる」「さすがるるかね!」と、るるか自身よりずっと嬉しそうにほめそやしていた。
そうした着飾った姿で、るるかは華やかなパーティ会場へと足を踏み入れた。
天井から幾つものシャンデリアがぶら下がり、降り注ぐ光が毛足の長いじゅうたんの床をやわらかく照らしている。生演奏のワルツが低く流れ、香水と花の香りが混じり合った空気が静かに漂っていた。豪奢な衣装を身にまとった男女が優雅に談笑し、銀のトレイを手にした給仕たちが、まるで影のように通路を行き交う。
普段会うこともない上社会の人々の中に違和感なく溶け込むこと――それもまた、名探偵としての訓練の一つなのだろうと、るるかは考えた。同行者もいない。知り合いもいない。そんなるるかにできることは、限られていた。
結局、るるかはお金持ちの子女が集まっている一角へそっと近づき、気配を消して彼らの仲間の一人として振る舞うことにした。落ち着いて周りを見渡すと、子供たちは無邪気に歓談しているようだった。だが大人たちのほうは、難しい顔をして議論を交わしたり、半ば喧嘩同然の言い合いをしているグループも少なくない。総じて、会場の空気はどこか重く、ざわついていた。
さもありなん、と思う。
潜入前にくれあとともに簡単に調べたところ、今回のパーティの主催者であるイーロン・ゴードン男爵は、貴族の称号を持ちながら金貸し業を営み、金のない庶民を不幸に落として富を築いてきた人物らしい。当然、多くの人から恨みを買っている。このパーティの参加者たちも、さまざまな思惑を胸に抱えて集まっているのだろう。
るるかはそうした人々のしがらみに、軽い面倒くささを覚えつつ、あらためてあたりを見回した。
すると、一人の年寄りが目に入った。スーツに身を包んではいるが、そのブランドは二昔ほど前のもので、生地に張りがない。それだけで、この金持ちばかりが集まるパーティには明らかにそぐわない。さらに、腰にはなぜか大きな水筒をぶら下げており、その異様な取り合わせが、るるかの中に強烈な違和感を残した。
老人は、まるで会場の警備員の視線を意識しているかのように、立ち話をする人々の影に身を潜めながら、ゆっくりと移動していた。ただ、るるかのような子供にまで気を配るほどの技量はなく、そのぎこちない動きは、るるかの目にはまる見えだった。
老人の瞳はひどく剣呑で、狂気の光が時おりちらつく。そしてその視線の先には、パーティの主催者であるゴードンの姿があった。
それを見て、るるかは思わず首を傾げた。
老人がゴードンを害したいと考えているのは、ほぼ間違いないだろう。だが、るるかを困惑させたのは、彼の腰にぶら下がった水筒だった。古くから知られる殺人の手口に、魔法瓶に氷やドライアイスで作ったナイフを忍ばせ、刺したあとで凶器を溶かして消してしまう、というものがある。老人の水筒は、そんな安易なトリックをるるかの頭に浮かばせた。
その想像が正しいかどうかはさておき、るるかは当然のように、あやしげな老人の存在を警備員に知らせた。最初は子供の言葉だと軽く流そうとした様子だったが、花崎まふるの代理として参加していることを明かすと、途端に真摯な態度に変わった。
結果として、老人は別室へと連れて行かれた。
興味本位で水筒の中身を見せてもらえるよう頼むと、警備員は抵抗する老人からあっさりとそれを取り上げ、中身を空けた。
中には果たして、氷で雑に形作られた、出来の悪いナイフのようなものが入っていた。
警備員がその氷の塊を見せながら「これは何か」と問い質すと、老人は涙を流しながら訴えた。
見逃してくれ。俺にゴードンの野郎を殺させてくれ、と。自分だけじゃない。子供が、孫が、ゴードンに騙されて借金を重ね、ついには自殺に追い込まれた。奴は悪魔だ。鬼畜だ。死んで当然だ、と。
るるかは老人の訴えを聞きながら、どうしても抱いていた疑問を口にせずにはいられなかった。
「どうして、氷でナイフを用意したんですか? 普通に市販のナイフを使った方が、確実に殺せると思いますが」
老人は潤んだ目でるるかを睨むようにして、こう返した。
「ガキには分かるまい。殺しても、凶器が見つからなければ、つかまらないんだ。俺は、娘や孫の名誉のために、あんな奴を殺した男としてつかまるわけにはいかないんだ」
るるかには、老人の言葉が理解できなかった。
そもそも、厳重に警備されている富豪に近づくこと自体が、並大抵ではないはずだ。それでも、もしかしたらナイフを刺す機会くらいはあったかもしれない。しかし、氷のナイフなどという稚拙なトリックでは、きっと何も誤魔化せない。あっという間に犯人を特定され、捕まってしまうだろう。だったら、限られたチャンスの中ででも相手を害する確率が上がるよう、脆い氷などではなく、普通のナイフを用意した方がよほど賢明だと思うのだが。
るるかは唖然としながらも、それ以上は何も聞かなかった。
老人は、結局何かをしでかすまでもなく、氷のナイフのようなものを取り上げられただけで釈放されたが、もちろん、パーティ会場からは追い出された。
連れ出された別室から、パーティ会場に戻る廊下と、外へ続く出口に向かう通路で、ふたりは正反対の道を進んだ。るるかは背後から聞こえる老人の「ちくしょう、ちくしょう……」という悔し泣きを背に聞きながら、再び会場へと足を向けた。
そしてしばらく華やかなパーティ会場で適当に料理を口にし、参加者のうち社会的に重要な人物の顔や仕草をいくつか記憶してから、帰宅した。
るるかの、初めての潜入捜査らしきもののすべては、それだけだった。
そこまで話して、るるかはみくるとあんなの表情に、改めて目を向けた。
二人とも、困惑の色を浮かべている。当然だろう。ここまでの話に、華々しい名探偵としての活躍も、スカッとした見事な推理も出てこない。ただの追い詰められた哀れな老人と、その老人が事件を起こす前に警備員へ知らせた少女が登場するだけの、地味な話だった。
けれど、心配する必要はない。話はもちろん、これでは終わらない――。
次回公開予定:10/28 18:00
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