「そのひと月ほど後のことだった」
るるかは、静かに話の続きをはじめた。
その日、事務所にはるるかとくれあだけが居た。くれあは掃除をしながら電話番を務め、るるかは資料の整理と称して、ただ本を読んでいた。
なんでもない昼下がりのことだ。そこに一本の電話がかかってきた。
「はい、キュアット探偵事務所です……」
くれあが受話器を取る声を聞きながら、るるかは本に没頭していた。しかし、「はぁ、それは――」と応じるくれあの声に、かすかな困惑が混じっているのに気づき、ページをめくる手を止める。
「確かに、森亜るるかは私共の事務所に所属しておりますが……」
くれあの受け答えを聞いて、自身にかかってきた電話だと察したるるかは、そっと立ち上がって近づいた。気配を感じたくれあはわずかに逡巡し、「少々お待ちください」と受話器を手で押さえると、小さな声でるるかに囁いた。
「るるか。先月のゴードン男爵のパーティでお世話になった、という方からお礼の電話なんだけど……心当たりはある?」
るるかの脳裏に、ふとあの哀れな老人の顔が浮かんだ。ただ恨まれることはあっても、感謝されるいわれはないはずだ。逆に、それがるるかの興味を引いた。
「うん。電話、かわって」
心配そうに受話器を差し出すくれあの様子に、るるかはわずかに違和感を覚えた。だが、その理由はすぐに判明する。
「かわりました……森亜るるかです」
「ああ、その声! あのときのお嬢さんだねぇ!」
確かにあの老人の声だった。ただ、ひどく興奮しているのか、はぁはぁと荒い息遣いが言葉の合間から漏れ、聞き取りにくい。込められた熱量には、正常ではない精神の不安定さが色濃く滲んでいた。
「……どのような御用でしょうか」
るるかの問いかけに、老人ははははっと大きく笑った。
「感謝だよ! お礼を言いたくて電話をしたんだ! キミの名前を調べるのには苦労をしたよ。あの日の警備員を捕まえて、キミの名前を聞いたんだ。あの高名なキュアット探偵事務所、暁の証明とやらの関係者だというじゃあないか。どおりで、幼いのに賢いわけだ!」
老人はまくしたてるように言い、しゃがれた声で礼を述べた。
「キミにはあのとき俺を止めてくれたことを感謝したかったんだ! そうだ、あのときの俺はどうかしていた! あんな氷のナイフで、ひとを殺せるはずがなかったんだ! でもキミが止めてくれた! だから、だから……はははははっ!!」
最後には言葉にもならない、嗚咽にも似た笑い声をあげながら、電話は切れた。
「もしもしっ、もしもしっ」
るるかが何度か呼びかけても、ツーッ、ツーッ、という不通の音が響くだけだった。
ただ、老人の最後の笑い声が酷く不吉なものに聞こえた。
あの日の絶望に満ちた響きがみじんも見られない。むしろ、なにかを成し遂げたかのような開放的な声色だった。
おじいさんは、あの日、なにをしようとして、なにが出来なかった?
なにを成したら、あんな笑い声をあげられる?
るるかは僅かに考え、すぐに答えにたどり着く。
「るるか?」
不審げな顔をみせるくれあに、るるかはすぐに指示を出した。
「イーロン・ゴードン男爵。彼がまだ生きているかどうか――至急、調べて」
結果は、すぐに出た。
ゴードン男爵は、あるビルの一室で、複数の刺し傷を受けて死んでいた。今朝のことだった。
るるかは急いで準備を整え、現場へ向かった。
花崎まふるの名を出すと、警察との連携は容易だった。先月のパーティの話、そしてあの日の老人の件を伝えると、むしろ積極的に協力を求められた。
「全員にアリバイがある?」
「そうなんだよね。容疑者は複数いる。だけど、みんなそれぞれにアリバイがあって、犯行は不可能だってことになってるらしいよ」
対応したのは、若くて警官になりたての少年のような容姿の男だった。るるかを子供と侮っているのだろう。ひどく馴れ馴れしく、不快感を覚えたが、必要な情報が得られるのなら否応はなかった。
「私が説明した、あのご老人は?」
「ああ、あの人も容疑者のひとりだよ。一番怪しい感じだけど、やっぱり複数の人間が、彼のアリバイを証明してるってさ」
恨まれて当然の被害者に、複数の容疑者。だが、すべての容疑者にアリバイがある。
るるかは、アガサ・クリスティの有名な小説を思い出していた。
「……まさかと思いますが、それぞれの容疑者が、アリバイを証明しあっている、ということはありませんか?」
「ははは、なんかどこかの推理小説にでもありそうな話だね。少なくとも、それぞれの容疑者を結びつけるリンクは見つかってない、と聞いてるけど。もちろん、ゴードン氏に恨みを持ってる奴らはたくさんいるから、数人はそうしたつながりはあるみたいなんだけど、でも、今回のアリバイ証言の中には、ゴードン氏との関わりがない人もそれなりに交じってるそうだよ」
警察も、るるかと同じような推理を一度は立てたらしい。しかし、成立しなかった。
少なくとも、彼らが捜査した限りでは。
警察の捜査能力は高く、るるか個人のそれを大きく上回る。その警察が違うと言っている。しかし、るるかの勘は、どうしても全員の共謀という線を捨てるべきではない、と囁いた。
関係者は、容疑者候補を含めて二十三名。ゴードンに恨みを持つ者もいれば、単に殺人現場周辺でお弁当を売っていただけの人や、あたりを流していたタクシー運転手なども含まれていた。
ただ、容疑者たちのアリバイは、ひどく繊細で、難解なパズルのような緻密な計算を想起させた。ひとりのアリバイをもうひとりが証明し、そのもうひとりのアリバイを次の関係者が証言し、というように精巧に組み合わされたシステムのような構造をしている。逆に言えば、どこかが欠ければ、すべてが崩壊してしまうような危うさを漂わせていた。
そこを突き崩せば――
「るるか、そろそろ休んだ方がいいんじゃない?」
くれあがホットミルクをテーブルに置いた。一休みしましょう、という誘いだった。
「……アイスがいい。ラズベリー」
そう呟くと、分かっていますよ、とばかりにラズベリーアイスの乗った皿が差し出される。
るるかは思わず微笑んで、資料をめくる手を止めた。
「……そんなに難しい事件なの?」
「難しくはない。ただ、どうしても信じられないだけ」
るるかの言葉にくれあは首を傾げ、どういうこと?と目で問いかける。るるかは答えた。
「犯人は、容疑者として挙がっている人たちみんな。それぞれにそれぞれのアリバイを、無関係な人たちも巻き込んで成立させている。それは間違いない。でも――」
何度調べても、首謀者、つまりそれらの容疑者たちやアリバイを証言した人々をまとめ上げた人物の候補が、ひとりしかいない。
それが、あの老人だ。
『不可能なことをすべて除外してしまえば、残ったものが、どんなにありそうもないことであっても、それが真実』
名探偵ホームズの言葉として、広く世界の名探偵たちも心がける名言だ。
すべての不可能を排除して、最後に残ったのがあの老人であったなら。るるかはあの愚かに見えた哀れな老人が、実は知的で狡猾な犯罪者であったと認めなければならない。
「でも……あのおじいさんに、そんな繊細なアリバイを組み立てる能力が、あるはずがない。あの日のおじいさんの行動が、仕草が目の動きが、すべて演技だったとは思えない」
るるかは、確信をもってくれあに告げる。
「だったら、もう一度、そのおじいさんに会いに行ってみたら?」
くれあの言葉に、るるかはおじいさんとの面会を決めた。
次回公開予定:10/30 18:00
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