マサラタウン。
緑豊かな丘に囲まれた、小さな町。
ポケモンと暮らす人々にとっては、ごくありふれた町。しかし、これから旅立つ少年たちにとっては、すべての冒険が始まる場所だった。
その町の一軒家で、一人の少年がベッドに横たわっていた。
シンヤ、十歳。
明日は、ポケモントレーナーとして旅立つ日。
そして、彼の人生が大きく変わる日でもあった。
「……ん?」
朝の光が窓から差し込み、シンヤはゆっくりと目を開いた。
いつもの天井。いつもの自室。机の上には勉強道具が整頓され、棚にはポケモンに関する本が並んでいる。
明日からの旅に備え、持ち物もほとんど準備できていた。
なのに。
「……なんだ、今の夢?」
頭の奥に、妙な感覚が残っていた。
夢にしては、あまりにも鮮明。
見たこともないゲーム機。見慣れたポケモンの姿。何度も遊んだはずのゲーム画面。そし
て、画面の向こう側からポケモンたちを見つめていた、もう一人の自分。
初代『ポケットモンスター』。
金・銀、ルビー・サファイア、ダイヤモンド・パール。
その後の世代。そして、数えきれないほどの外伝作品。
対戦、育成、収集、冒険。
知識を蓄え、戦術を考え、時には何時間も同じ作業を繰り返した記憶。
「……あれ?」
シンヤは上半身を起こした。
その記憶は、夢ではなかった。
自分は以前、別の世界で生きていた。
ポケモンのゲームを初代から外伝まで遊び尽くした、一人の人間だったのだ。
そして、今の自分は――。
「……転生、したのか?」
口にした瞬間、記憶が一気につながった。
自分の人生。前世で過ごした年月。好きだったこと。夢中になったゲーム。そして、ポケモンが大好きだったこと。
同時に、十年間この世界で過ごしてきた記憶も、はっきりと自分のものとして感じられた。
母のミサキ。 父のマサユキ。
マサラタウンでの生活。
そして、明日から始まる旅。
「……マジかよ」
シンヤは両手で顔を覆った。
「本当にポケモンの世界じゃん……!」
思わず声が弾む。
しかし、すぐに彼は冷静になった。
ゲームなら何度もプレイしている。知識だって相当なものだ。
けれど、ここはゲーム画面の中ではない。
ポケモンたちは生きている。傷つくし、疲れるし、嬉しいことも悲しいこともある。
そして、自分が知っているゲームの知識が、すべてそのまま通用する保証もない。
「……よし」
シンヤはベッドから立ち上がった。
「せっかく第二の人生をもらったんだ。今度は、本物のポケモンたちと一緒に冒険するんだ」
そう思い、行動を起こそうとした、そのとき。
コンコン。
「シンヤー? 起きてるの?」
扉の向こうから、優しい女性の声がした。
「あ、起きてるよ!」
「入るわねー」
ガチャリ、と扉が開く。
そこに立っていたのは、シンヤの母親だった。
「おはよう、シンヤ」
「おはよう、母さん」
母――ミサキは、柔らかな笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
整った顔立ち。艶のある髪。上品な立ち居振る舞い。
どう見ても、十歳の息子がいる母親には見えない。
(……そういえば、俺の記憶が正しければ、父さんと母さんって十代後半で結ばれて、俺が生まれたんだよな?)
シンヤは改めて母の顔を見つめた。
(いや、待って。これで三十手前って……めっちゃ美人なお母さんなんですけど!?)
もちろん、そんな感想は口に出さない。
出した瞬間、何を言われるかわかったものではないからだ。
「ふふっ、どうしたの? そんなにじっと見つめて」
「い、いや! なんでもないよ!」
「そう?」
ミサキは少し不思議そうに首を傾げたものの、すぐに微笑んだ。
「随分早くに起きていたわね。まあ、それほどポケモンを貰うのが楽しみだったってことだけどね~」
「そうだね。ポケモントレーナーになるのが夢だったし、そこからどんなふうに自分の可能性を広げていくのか、楽しみで仕方ないよ」
「ふふっ、シンヤらしいわね」
ミサキは嬉しそうに目を細めた。
「小さい頃からポケモンの本を読んでは、私やお父さんにいろいろ教えてくれたものね。まだ習っていないことまで知っていて、びっくりしたこともあったわ」
「あはは……」
(それ、前世の知識が混ざってたからなんだよな……)
もっとも、転生前の記憶を思い出す前から、シンヤはポケモンに関する知識を豊富に持っていた。
ポケモン図鑑を読むのが好きで、タイプの相性や技の特徴について考えるのも好きだった。
運動も勉強も苦にせず、むしろ自分から積極的に取り組む。
わからないことがあれば調べ、理解したことを誰かに教える。
そんな少年だった。
だからこそ、母も息子が明日の旅を楽しみにしていることを、よく理解していた。
「ところで、シンヤ」
「ん?」
「明日、オーキド博士の研究所に行く前に、忘れ物がないかもう一度確認しておきなさいね。旅立ってから気づいても、簡単には取りに戻れないんだから」
「うん、わかってる。昨日のうちに確認したけど、もう一回チェックしておくよ」
「えらいわね。あとは……」
ミサキは一瞬だけ、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「明日から、しばらく家を離れることになるでしょう?」
「あ……」
「もちろん、あなたが旅に出ることは応援しているわ。でも、今までずっと一緒に暮らし
てきたから、やっぱり少し寂しいわね」
その言葉に、シンヤは胸の奥が温かくなるのを感じた。
この母親は、自分を十年間育ててくれた人だ。
前世の記憶が戻ったからといって、その事実が変わるわけではない。
むしろ、今まで当たり前だと思っていた日常が、急にかけがえのないものに感じられた。
「……母さん」
「なあに?」
「心配しないで。ちゃんと連絡するし、無茶もしない。それに、旅先でいろんなポケモン
に出会って、いっぱい成長してくるよ」
シンヤは、まっすぐに母を見つめた。
「だから、帰ってきたらたくさん話を聞いてね」
ミサキは一瞬驚いたように目を丸くした。
それから、優しく微笑む。
「ええ。楽しみにしているわ」
彼女はシンヤの頭をそっと撫でた。
「でも、今日はまだ旅立ちの日じゃないんだからね。朝ご飯を食べたら、お父さんのお手伝いもしてあげて」
「父さんの?」
「そう。昨日も何か新しい道具を作るんだって、工房にこもっていたでしょう?」
「あー……父さん、また何か作ってるのか」
シンヤの父、マサユキ。
ガラル地方出身の発明家で、便利な道具を作ることに情熱を注いでいる。
生活を便利にする小物から、ポケモンとの暮らしを助ける道具まで、発想を思いつけばすぐに試作品を作ろうとする人物だった。
(そういえば、父さんって何を発明してるんだっけ? 前世の記憶を思い出したばかりで、ちょっと気になるな……)
ゲームの知識が豊富なシンヤにとって、発明家の父親という存在は非常に魅力的だった。
自分の知識を活かせば、父の発明に新しいアイデアを提供できるかもしれない。
旅先で役立つ道具だって作れるだろう。
「わかった。朝ご飯を食べたら工房に行ってみるよ」
「ええ、お願いね。それじゃあ、着替えていらっしゃい」
ミサキはそう言うと、部屋を出ていった。
パタン。
扉が閉まる。
シンヤはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……さて」
彼は自分の両手を見つめる。十歳の少年の手。前世の記憶を持つ、自分の手。
そして――。
「この世界での俺には、もう一つ秘密があるんだよな」
シンヤは鏡の前に立った。
鏡に映る自分の瞳を、じっと見つめる。
その瞬間だった。
視界の奥で、何かが弾けた。
「……っ!?」
頭の中に、今まで感じたことのない情報が流れ込んでくる。
部屋の外にいる母親の気配。家の中を流れる空気。
遠くから聞こえるポケモンの鳴き声。
それらが、ただの音や景色ではなく、何か意味のある情報として感じられた。
そして、シンヤは理解した。これは、ただの視力ではない。
生き物の存在や状態を捉える、もっと別の感覚。
前世の記憶が戻ったことで、眠っていた何かが目覚めたのだ。
「……これが、波動?」
シンヤは自分の胸に手を当てた。
ゲームの知識にある、波動を扱うポケモンたち。
特に、ルカリオ。そして、アニメで波動を使っていたサトシの姿。
それらの知識が、次々と頭に浮かんでくる。
「いや、待てよ……。これ、波動を感じるだけじゃない?」
視界に意識を集中させる。
すると、見慣れた自分の部屋の中に、今まで気づかなかった情報の輪郭が浮かび上がった。物の状態。空気の流れ。生き物が発する気配。
まだ不完全ではある。けれど、使い方を理解していけば、もっと多くのことがわかるようになるはずだ。
「……まさか、転生ボーナスってやつ?神様に出会った記憶すらないけどさ」
シンヤは思わず苦笑した。
「いや、これ……下手したら、とんでもない能力なんじゃ……」
自分の知識と、この眼。組み合わせれば、今まで誰も気づかなかったことまで見抜けるかもしれない。
しかし、そこでシンヤは考えを改めた。
「……いや、まずは実際に確かめてからだな」
知識だけで決めつけるのは危険だ。
ここはゲームの世界に似ているけれど、ゲームそのものではない。
まずは観察し、試し、確かめる。
それが前世から変わらない、自分のやり方だった。
そして、シンヤはまだ知らない。
この目が、ポケモンの覚えている技だけでなく、体調、闘志、得意不得意、さらには好みの味にまでつながっていくことを。
そして明日。
オーキド博士の研究所で、最初の相棒と出会うことが、この能力の本当の意味を知るきっかけになることも。
「よし! まずは朝ご飯だ!」
シンヤは着替えを手に取った。
転生を自覚したばかりの少年。
前世の知識。
目覚め始めた波動の眼。
そして、明日出会う最初のパートナー――それは既に決まっている。
長い冒険の始まりは、もうすぐそこまで迫っていた。
という感じで物語を進めていきます。もしよければ続きをのんびり作っていきます。