◆準決勝前の約束
セキエイリーグ、準決勝。
試合開始を控えた控室で、シンヤとリーフは向かい合っていた。
ここまで勝ち上がってきた二人。互いに実力を認め合うライバルであり、幼い頃からの付き合いでもある。
そんな二人の間で、ちょっとした賭けが持ち上がった。
「ねえ、シンヤ」
「ん?」
「せっかくだから、賭けをしない?」
「賭け?」
リーフは楽しそうに笑い、シンヤへ人差し指を向けた。
「私が勝ったら、一つだけ私のお願いを聞いてもらうからね!」
「面白い。なら、俺も同じように願い事をさせてもらおうか」
「ふふっ。いいよ」
「お互い、勝った方が一つだけお願いできる。そういうことだな?」
「そういうこと!」
二人は軽く拳を合わせた。
単純な約束だ。
勝った方が、負けた方に一つだけお願いできる。
ただそれだけのことだった。
――少なくとも、シンヤにとっては。
一方のリーフは、少し違っていた。
(お願い、かぁ……)
彼女は最近、恋愛小説を読むことに夢中だった。
まだ十歳ではあるものの、物語の中で描かれる恋愛模様には興味津々。好きな相手と二人きりになったり、普段は言えない気持ちを伝えたり、少し大胆なお願いをしたり。
そういった場面を読むたびに、胸を弾ませていた。
(もし私が勝ったら、シンヤに何をお願いしようかな)
二人きりで出かけてもらう?
それとも、普段はなかなかできないことをお願いしてみる?
考えれば考えるほど、想像が膨らんでいく。
(……逆に、シンヤが勝ったら?)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
シンヤが自分に何かをお願いする。
それは一体どんな内容なのだろう。
(もしかして……)
リーフの頬がほんのり赤くなる。
恋愛小説のように、少し特別なことをお願いされるかもしれない。
例えば、二人きりで出かけたいとか。
あるいは――。
「リーフ?」
「ひゃっ!?」
「どうした? 顔が赤いぞ」
「な、何でもない!」
「そうか?」
「そうなの!」
慌てて顔を背けるリーフ。
シンヤは不思議そうに首を傾げたが、深く追及することはなかった。
(と、とにかく! 勝てばいいんだから!)
リーフは気を取り直し、拳を握り締める。
絶対に勝つ。
そして、自分のお願いを聞いてもらうのだ。
◆勝者のお願い
試合は激戦となった。
リーフは手持ちのポケモンたちと共に、最後まで勝利を目指して戦った。
シンヤの戦術に何度も苦しめられながらも、簡単には崩れない。最後まで食らいつき、勝機を探し続けた。
しかし、最後に勝者として名前を呼ばれたのはシンヤだった。
「勝者、シンヤ選手!」
会場が大きな歓声に包まれる。
「……負けちゃった」
リーフは悔しそうに息を吐いた。
「いい試合だったよ、リーフ」
「うん。シンヤも強かった」
悔しさはある。
けれど、全力を出し切った試合だった。そこに後悔はなかった。
そして、もう一つ。
(……賭けはシンヤの勝ち)
リーフはちらりとシンヤを見る。
彼は勝利を喜びながらも、何かを考えているようだった。
(どんなお願いをするんだろう……)
そのことを考えると、胸が少しだけ落ち着かなくなる。
自分が勝ったときのことばかり想像していたが、シンヤが勝った場合のことは、あまり考えていなかった。
もしかしたら、二人きりで出かけようと言われるかもしれない。
あるいは、自分にだけ何か特別なことを頼んでくるかも。
(……ま、まさかね)
期待している自分に気づき、リーフは小さく首を振った。
だが、シンヤが近づいてくると、自然と背筋が伸びる。
「リーフ」
「な、何?」
「賭けのことなんだけど」
「う、うん!」
ついに来た。
リーフは心の中で身構えた。
「俺のお願い、決めたよ」
「そ、そうなんだ」
「ああ。今度、実家に戻ったときに、ポケモンたちの世話を手伝ってほしいんだ」
「…………え?」
「うちにはたくさんポケモンがいるだろ? リーグの間は両親やスタッフに任せていたけど、帰ったら一緒に様子を見て回ろうと思ってさ」
「……えっと」
「リーフも手伝ってくれると助かるんだ。お願いできるかな?」
「…………」
沈黙。
リーフの頭の中で、何かが止まった。
「……それが、お願い?」
「ああ」
「私に?」
「うん」
「ポケモンのお世話を?」
「そう。嫌だったか?」
「う、ううん! 嫌じゃないよ! ポケモンは好きだし!」
「よかった。じゃあ、お願いするな」
シンヤはいつものように爽やかに笑った。
悪気など微塵もない。
彼にとっては、実家のポケモンたちの世話を手伝ってもらうことが、純粋に嬉しいお願いだったのだ。
しかし、リーフの胸中は穏やかではなかった。
(……えええええっ!?)
恋愛小説のような展開を期待していた。
二人きりのお出かけや、ちょっと特別なお願い。
そんな想像をしていたのに。
実際に告げられたのは、ポケモンたちのお世話。
(そ、そんなぁ……)
もちろん、シンヤのお願いを断るつもりはない。
ポケモンたちと触れ合えるのは嬉しいし、シンヤの家に行けることも楽しみではある。
それでも。
(少しくらい……少しくらい期待したっていいじゃない!)
リーフは心の中で叫んだ。
「じゃあ、帰ったらよろしくな」
「……うん」
シンヤは何も気づいていなかった。
その無邪気な笑顔が、今のリーフには少しだけ恨めしかった。
◆シンヤの実家にて
リーグ終了後。
シンヤの実家では、いつも通り多くのポケモンたちが元気に過ごしていた。
広大な敷地には、草地や水辺、岩場など、様々な環境が整えられている。ポケモンたちが自由に動き回れるように管理された場所だ。
そして、その一角では――。
「よーし。次はお前だぞ。ギャラドス」
「ギャオォォォォ!」
シンヤが声をかけると、ギャラドスが水辺から大きな頭を持ち上げた。
「はいはい。元気なのは分かったから、ちょっと落ち着いてくれ」
シンヤは慣れた手つきでギャラドスの様子を確認していく。
一方、その少し離れた場所では、リーフが子ガルーラと格闘していた。
「えっと、子ガルーラちゃん、とりあえず暴れないでね?」
「カルー!」
「わっ! だから、そんなに動かないでってば!」
子ガルーラは元気いっぱいに跳ね回り、リーフの周囲を駆け回る。
リーフは何とか落ち着かせようとするが、なかなか言うことを聞いてくれない。
「シンヤ、この子、全然じっとしてくれないんだけど!」
「ははっ。まだ小さいからな。遊びたいんだろ」
「笑ってないで助けてよ!」
「分かった、分かった。ほら、こっちだぞ」
シンヤが声をかけると、子ガルーラはぴたりと動きを止めた。
そして、彼の方へ駆け寄っていく。
「カルー!」
「よしよし。いい子だな」
シンヤは子ガルーラの頭を撫でてやる。
「……私のときと全然違う」
「慣れてくれば大丈夫だよ。ほら、もう一度やってみよう」
「うぅ……」
リーフは子ガルーラを見つめ、再び声をかけた。
その様子を、少し離れた場所から眺めている者たちがいた。
「ふふっ。あの顔、見た?」
レンだった。
彼女は口元に手を添え、楽しそうに目を細めている。
「期待していたものとは、ずいぶん違ったみたいねぇ」
「レン様、楽しそうですね」
隣にいたレムが、苦笑しながら声をかけた。
「だって、分かりやすいんだもの。あんなにそわそわしていたのに、お願いを聞いた途端、ぴたりと固まっちゃって」
「確かに、少々お気の毒ではありますね」
レムはそう言いながらも、口元に小さな笑みを浮かべていた。
「何を言っているの。自業自得よ」
ラムは腕を組み、淡々と言い放つ。
「勝負に負けたのだから、お願いを聞くのは当然でしょう。恋愛小説の読みすぎで勝手に期待していたのなら、なおさらね」
「姉様、そんなに言わなくても……」
「レム。事実を言っているだけよ」
「ふふっ。ラムってば、相変わらず容赦ないわねぇ」
レンはくすくすと笑う。
「でも、リーフも可愛いところがあるじゃない。あんなに期待しちゃって」
「そうですね。シンヤ様のお願いを楽しみにしていたのだと思います」
「楽しみにしていたというより、勝手に妄想していたのでしょう」
ラムの言葉に、レムは困ったように微笑んだ。
「姉様……」
「何よ。間違っていないでしょう?」
「それにしても、シンヤは本当に気づいていないみたいね」
レンはシンヤの方へ視線を向けた。
彼はギャラドスの確認を終えると、今度は別のポケモンの世話に取りかかっている。
リーフがどんな期待をしていたのか、まるで分かっていない様子だった。
「シンヤらしいと言えば、シンヤらしいけれど」
「坊ちゃまは、ポケモンたちのことになると本当に真剣ですからね」
「ええ。そこは良いところよ。ただ、女の子の気持ちには少し鈍いわね」
ラムはため息をついた。
「リーフも苦労するわね」
「ラム、それは少し意地悪です」
「そうかしら?」
「そうですよ」
レムが姉をたしなめると、レンはまた楽しそうに笑った。
そのとき、後ろから明るい声が聞こえてきた。
「あらあら、みんな揃ってどうしたの?」
振り返ると、シンヤの母ミサキと父マサユキ、そしてブルーがこちらへやって来ていた。
「何か面白いものでもあるのか?」
マサユキが視線を向ける。
レンはにこりと笑い、少し離れた場所を指差した。
「ほら、あそこ」
そこでは、リーフが子ガルーラを追いかけていた。
「わっ! 待って、子ガルーラちゃん!」
「カルー!」
「もうっ! どうして私の言うことは聞いてくれないのー!」
子ガルーラは楽しそうに走り回っている。
その一方で、シンヤは別のポケモンの世話をしながら、リーフに声をかけていた。
「リーフ、そっちが終わったら水桶をお願いできる?」
「う、うん!」
「助かるよ」
「……はーい」
どこからどう見ても、普通の飼育作業だった。
ミサキはその光景を見て、すぐに事情を察したらしい。
「あらあら。そういうことだったのね」
「何がだ?」
マサユキが尋ねる。
「準決勝で二人が賭けをしたんでしょう? シンヤが勝ったから、お願いを聞いてもらっているのよ」
「なるほど。あいつらしいな」
マサユキは納得したように頷いた。
「でも、リーフちゃんは少し違うことを期待していたみたいね」
ミサキが微笑む。
ブルーはリーフの表情を見て、肩を震わせた。
「ふふっ。あれは完全に期待外れだった顔ね」
「ブルーまで……」
「だって、分かりやすいんだもの。シンヤのお願いを聞いた瞬間、目に見えて落ち込んでいたわよ?」
「うふふ。可愛いわねえ」
ミサキは口元を押さえて笑った。
「シンヤったら、もう少し女の子の気持ちを考えてあげればいいのに」
「いや、あいつは本当にポケモンの世話を手伝ってほしかっただけだろう」
マサユキは苦笑する。
「悪気がないのが、また何とも言えないな」
「そこがシンヤらしいんだけどね」
ミサキは楽しそうに目を細めた。
「でも、リーフちゃんも頑張っているわ。あんなに一生懸命お世話をしてくれて」
「そうだな。せっかく来てくれたんだ。後で何かお礼をしてやろう」
「そうね。今日は夕食も一緒に食べてもらいましょうか」
「賛成だ」
ブルーは二人の会話を聞きながら、再びリーフの方へ目を向ける。
「それにしても、シンヤ君って本当に鈍いわね」
「そうねぇ」
ミサキは否定しなかった。
むしろ、どこか楽しそうに頷いている。
◆期待外れのお願い
「リーフ、そっちの水桶をお願いできる?」
「う、うん!」
シンヤの声に、リーフは慌てて返事をした。
水桶を持ち上げ、指定された場所へ運ぶ。
水を入れ替え、周囲を掃除していると、今度は別のポケモンが近づいてきた。
「どうしたの? お腹が空いたのかな?」
ポケモンはリーフの手元を覗き込み、期待するように鳴いた。
「ちょっと待ってね。今、用意するから」
餌を準備して与えると、ポケモンは嬉しそうに食べ始めた。
「ふふっ。よかった」
その姿を見ていると、リーフの表情にも自然と笑みが戻ってくる。
ポケモンたちは可愛い。
世話をすることも楽しい。
シンヤと一緒に過ごせる時間だって、嬉しい。
それでも、やっぱり気になってしまう。
(……でも、やっぱり少しくらいは期待したかったな)
そんなことを考えていると、レンがすぐ隣にやって来た。
「リーフ」
「な、何?」
「お仕事、頑張っているわねぇ」
「そ、そう?」
「ええ。さっきからずいぶん熱心じゃない」
「ポケモンのお世話なんだから、ちゃんとやらないと!」
「ふふっ。そうねぇ」
レンは少し身を屈め、リーフの顔を覗き込む。
「でも、本当は別のお願いを期待していたんじゃない?」
「っ!?」
リーフの肩が跳ねた。
「な、何で分かるの!?」
「やっぱり当たり?」
「レンちゃん!」
「あらあら。そんなに慌てなくてもいいじゃない」
レンは小さく笑い、リーフの頬をつつく。
「子猫みたいに可愛い反応ねぇ」
「もうっ!」
「シンヤと二人きりでお出かけ、とか? それとも、もっと特別なお願い?」
「ち、違うもん!」
「ふふっ。そういうことにしておいてあげる」
レンは満足そうに笑うと、ひらりと身を翻した。
「まあ、次の勝負で勝てばいいんじゃない? 今度はちゃんとお願いを考えておくことね」
「……絶対に勝つんだから」
「期待しているわぁ」
そのやり取りを少し離れた場所で見ていたラムが、ぼそりと呟く。
「次も勝てるとは限らないけれど」
「姉様、もう少し優しくしてあげてください」
「優しくしているわよ。現実を教えてあげているのだから」
レムは困ったように微笑んだ。
そして、リーフの方へ歩み寄る。
「リーフさん。大丈夫ですか? 何かお手伝いできることがあれば、レムもお手伝いしますよ」
「ありがとう、レム……」
「ふふ。子ガルーラちゃんのお世話も、ゆっくり慣れていけば大丈夫です」
「うん!」
リーフは気を取り直し、子ガルーラへ向き直った。
「よし! 今度こそ、ちゃんとお世話するんだから!」
「カルー!」
子ガルーラは元気よく返事をした。
その様子を見て、レムも優しく微笑む。
「リーフ、こっちも終わったよ」
シンヤが声をかけてきた。
「お疲れさま。助かったよ」
「うん。どういたしまして」
「やっぱり、みんなの世話は一人だと大変だからな。手伝ってもらえて本当に助かった」
「……そ、そう」
「また機会があったら頼んでもいいか?」
「えっ?」
リーフの目が少しだけ輝いた。
しかし、続く言葉は――。
「もちろん、今度はもっと人数を集めてもいいと思うけど。今日みたいに一緒にやるのも楽しいしな」
「…………」
またしても、ポケモンのお世話。
リーフは何とも言えない顔になった。
その表情を見て、レンが吹き出す。
「ぶふっ、あははっ!」
「レンちゃん!」
「ごめんなさい。だって、あまりにも分かりやすいんだもの」
ラムも口元をわずかに緩めている。
「坊ちゃま。少しは相手の期待を察してあげたらどうです?」
「期待?」
シンヤは不思議そうに首を傾げた。
「何かあったのか?」
「……何でもない!」
リーフはぷいっと顔を背けた。
その反応に、ミサキもマサユキも、ブルーも笑いをこらえきれなくなった。
「うふふ。シンヤ、あなたは本当に変わらないわね」
「え? 母さん?」
「いいのよ。リーフちゃんも、今日はゆっくりしていってね」
「はい……」
リーフは小さく返事をする。
その頬は、ほんのり赤くなっていた。
シンヤは周囲の様子を見回し、ますます不思議そうな顔をする。
「……何でみんな笑っているんだ?」
「さあ?」
ブルーが肩をすくめる。
「自分で考えてみたら?」
「うーん……」
シンヤは本気で考え始めてしまった。
その姿を見て、今度はレンがまた笑う。
「ふふっ。やっぱり、シンヤは面白いわねぇ」
リーフはそんな一同を見回し、頬を膨らませた。
(もう……みんなして!)
けれど、怒りきれない。
シンヤと一緒に過ごせたことは嬉しかったし、ポケモンたちの世話も楽しかったのだから。
ただし。
(次こそは絶対に勝つんだから!)
今度こそ、自分のお願いを聞いてもらう。
そして、恋愛小説のような展開を――。
「リーフ、次はあっちのポケモンも見てくれるか?」
「……はーい!」
シンヤの声に、リーフは返事をした。
その後ろでは、レンが小さく笑い、ラムとレムが顔を見合わせている。
ミサキとマサユキも、ブルーも。
みんなが、リーフの次の挑戦を楽しみにしていた。
――もっとも、シンヤだけは最後まで、何がそんなに面白いのか分かっていなかったのだが。