――翌朝、ハナダシティ。
ゴールデンボールブリッジでの100連続バトルを乗り越え、ハナダ岬でレンとのデート……と言っていいのか微妙な時間を過ごしたシンヤは、心身ともにすっかり回復していた。
ポケモンたちの体調も確認済み。
今日はいよいよ、二つ目のジムバッジを懸けたハナダジム戦である。
(よし。今日は水タイプとのバトルだ。リザードやピカチュウだけじゃなく、ほかの仲間たちの経験も踏まえて、しっかり対策を考えてきた)
シンヤはモンスターボールを確認し、隣を歩くレンに笑顔を向けた。
「じゃあ、行こうか。ハナダジムへ!」
「ええ。ふふっ、楽しみね。今度はどんなバトルを見せてくれるのかしら?」
「相手はジムリーダーだからな。簡単にはいかないと思うけど、全力で挑むよ」
「頑張ってね、シンヤ♪」
レンの応援を受け、シンヤは力強く頷いた。
そして二人は、ハナダジムへと足を踏み入れたのだった。
……ところが。
「ごめんなさいねぇ? 今日は午後から水中人魚ショーがあるのよ」
出迎えた金髪ロングヘアの女性が、申し訳なさそうに言った。
その隣には、青い髪の女性と、桃色の髪の女性がいる。
ハナダジムのジムリーダーを務める三姉妹――サクラ、アヤメ、ボタンだった。
サクラはおっとりした雰囲気の長女。
アヤメは冷静な口調の次女。
ボタンは毒舌気味な三女。
三人とも水中人魚ショーの準備に気を取られている様子だった。
「だから、今日はジム戦はできないの」
アヤメが淡々と告げる。
「ええっ、せっかく来たのに?」
レンが驚いたように声を上げた。
するとボタンが、さも当然というように肩をすくめた。
「仕方ないでしょ? 私たち、ショーの準備で忙しいんだから」
「そうそう。どうしてもバッジが欲しいなら、水中ショーを手伝ってくれたらあげてもいいわよ?」
サクラがにこやかに提案する。
「……は?」
シンヤの笑顔が、ぴたりと止まった。
「水中ショーを手伝ったら……バッジをくれる?」
「そうよぉ。どうする?」
サクラは、まだ気づいていない。
目の前の少年が、今どれほど不愉快な気持ちになっているのかを。
シンヤのこめかみに、ぴくりと何かが走った。
(……落ち着け)
一度、息を吸う。
(まだだ。事情があるのかもしれない。まずは話を聞こう)
シンヤは笑顔を消し、三姉妹を正面から見据えた。
「確認させてください」
「ええ、何かしら?」
「ここは、ポケモンリーグが認めている公認のポケモンジムですよね?」
三姉妹は顔を見合わせた。
「そうだけど?」
アヤメが答える。
「では、ジムに挑戦者が来た場合、正当な理由なく挑戦を断るのは問題なのではありませんか?」
「え?」
「僕は、バッジをもらうためにここへ来ました。水中人魚ショーを手伝うためではありません」
シンヤの口調は丁寧だった。
しかし、その声には明確な不満が込められていた。
レンは、隣で思わず息を呑んだ。
(……あら?)
普段のシンヤは、誰に対しても落ち着いている。
相手が挑発してきても、理不尽なことを言ってきても、すぐに感情を爆発させるようなことはない。
だが今は違う。
静かな声の奥に、抑え込まれた怒りが感じられる。
「うーん……でもねぇ」
サクラが困ったように頬に手を当てた。
「ジム戦に使う子たちは、昨日の試合で疲れちゃっているのよ。だから、今日は出せないの」
「……昨日?」
シンヤの眉がわずかに動いた。
「昨日もジム戦をしていたんですか?」
「ええ。だから、みんな回復させているところなの」
サクラは悪びれる様子もなく続けた。
「ジム戦用じゃない子なら何匹かいるんだけど……」
「それでは、そのポケモンたちでお願いします」
「えっ?」
三姉妹が同時に目を瞬かせた。
「いやいや、あなたねぇ」
ボタンが呆れたように言う。
「ここまで来たってことは、二つ目のバッジが欲しいんでしょ? だったら、それなりに強いポケモンと戦いたいんじゃないの?」
「……?」
「ジム戦用じゃない子たちじゃ、あなたにはちょっと厳しいんじゃないかしら?」
その言葉を聞いた瞬間。
シンヤの纏う空気が変わった。
隣にいたレンは、それをはっきりと感じ取った。
(……シンヤ?)
彼は怒鳴っていない。
声を荒らげてもいない。
それなのに、先ほどまでとは明らかに違う。
その瞳から、柔らかな表情が消えていた。
「……では」
シンヤは静かに言った。
「そのポケモンたちでいいので、バトルしてください」
「え、ええ……まあ、そこまで言うなら?」
サクラは少し困惑しながらも頷いた。
「じゃあ、さっさと終わらせて、ショーの準備に戻りましょう!」
「そうね。午後までに確認することも多いし」
「まったく、忙しい時に来るんだから……」
三姉妹は、そんな会話を交わしながらバトルフィールドへと向かった。
その態度を見て、シンヤの中で何かが切れた。
(……この人たちは、本当にジムリーダーなのか?)
もちろん、ポケモンにも休息は必要だ。
昨日使ったポケモンを回復させているという説明自体は、理解できる。
だが、だからといってジム戦そのものを軽く扱っていい理由にはならない。
挑戦者は、バッジを懸けて真剣に戦いに来ている。
それなのに、目の前の三姉妹はショーの準備を優先し、挑戦者を適当にあしらおうとしている。
しかも、バトルを受けることになっても、相手を見くびったままだ。
(……なら、見せてやる)
シンヤはモンスターボールを握りしめた。
(ポケモンバトルは、そんなに軽いものじゃないってことを)
◆ハナダジム戦、開始!
ジムのバトルフィールドには、広いプールが設けられていた。
水中人魚ショーを行うための設備でもあり、水タイプのポケモンにとっては有利な環境だ。
審判役のアヤメが、淡々とルールを説明する。
「今回のジム戦は二対二。どちらかのトレーナーのポケモンが二匹とも戦闘不能になった時点で勝敗が決まります。交代できるのはチャレンジャー側のみです」
ニビジムと同じ形式だった。
「それでは、ハナダジムのジムリーダーとチャレンジャー、バトル開始!」
「シェルダー! お願い!」
サクラが最初のモンスターボールを投げた。
「シェルッ!」
現れたのは、硬い殻を持つ水タイプのポケモン、シェルダー。
シェルダーはフィールドのプールを見つけると、すぐさま水の中へ逃げ込もうとした。
「……」
シンヤは、静かにモンスターボールを掲げた。
「行け、リザード!」
「リザーーーッ!」
炎を尻尾に宿したリザードが、力強くフィールドへ降り立つ。
それを見たサクラは、目を丸くした。
「ええっ!? リザードなの? 水タイプのジムなのに、炎タイプを出すの?」
「……このままでいいです」
シンヤの声は低かった。
「えっ、でも……」
「このままで、お願いします」
サクラは戸惑いながらも、肩をすくめた。
「まあ、本人がそう言うなら……。シェルダー! 水の中に入って!」
シェルダーがプールへ向かって動き出す。
だが――。
「リザード! かみなりパンチィィィィ!!」
「リザーーーッ!!」
リザードが一気に踏み込んだ。
拳に電気が走る。水へ逃げ込もうとしたシェルダーが振り返るよりも早く、リザードの拳がその硬い殻へと叩き込まれた。
バチィィィッ!!
「シェルッ!?」
強烈な電撃が走り、シェルダーの身体が大きく跳ねる。
そして、そのままフィールドに倒れ込んだ。
「シェルダー、戦闘不能!」
「……え?」
サクラが固まった。
アヤメも、ボタンも、目を点にしている。
一撃。たった一撃で、シェルダーが倒されたのだ。
しかも、リザードは水タイプに有利な電気技を使い、相手が水へ逃げるよりも先に攻撃を当てた。
サクラは慌ててシェルダーをボールへ戻した。
「ちょ、ちょっと! シェルダー、大丈夫!?」
ボールを確認してから、次のモンスターボールを手に取る。
「……次は、アズマオウよ!」
「アズッ!」
二匹目のポケモン、アズマオウがプールに飛び込んだ。
水面が揺れ、アズマオウの姿が水中へと消える。
「ふふっ。今度はそう簡単にはいかないわよ!」
サクラは少しだけ余裕を取り戻したようだった。
「アズマオウ! 水の中を泳ぎ回って、相手を翻弄して!」
アズマオウは水中を素早く泳ぎ始めた。
水面には波紋が広がり、どこから飛び出してくるのか分からない。
通常なら、相手の位置を見失い、攻撃のタイミングを掴むのも難しいだろう。
しかし。
「……リザード。水面をよく見ろ」
「リザ!」
シンヤの波動の眼が、アズマオウの位置と動きを捉えていた。
水中で動くポケモンの姿。
水の流れ。
水面に生じる波紋。
それらを総合して、シンヤはアズマオウの位置を見極める。
「そこだ! りゅうのいかり!」
「リザードッ!」
リザードの口元にエネルギーが集まる。
放たれた竜の力が、水面へと叩きつけられた。
ドォォォンッ!!
大きな水柱が上がる。
「アズッ!?」
爆発的な衝撃に押し出され、アズマオウが水中から飛び出した。
本人も、まさか強引に水から引きずり出されるとは思っていなかったのだろう。
目を丸くし、空中で一瞬動きを止める。
「ええっ!? そんな方法があるの!?」
サクラが驚いている間に、リザードはすでに走り出していた。
「リザード! かみなりパンチィィ!」
「リザーーーッ!!」
電気を帯びた拳が、空中で体勢を崩したアズマオウに直撃する。
バチバチバチッ!!
「ア、アズマオウ、戦闘不能!」
アズマオウはフィールドへ落ちる直前、審判の指示で安全に受け止められ、そのままボールへ戻された。
「……」
「…………」
「………………」
三姉妹は、そろって固まっていた。
二匹。二匹とも、一方的に倒された。
しかも、相手は水タイプのジムリーダーが出したポケモンである。
「しょ、勝者……チャレンジャー、シンヤ!」
アヤメの宣告が響いた。
シンヤはリザードのもとへ歩み寄る。
「よくやった、リザード。ナイスバトルだ」
「リザード!」
リザードは、主人の声を聞いて嬉しそうに鳴いた。
だが、シンヤの表情は晴れなかった。
「……これで、僕の勝ちですね」
「え、ええ……」
サクラは、まだ呆然としている。
「じゃあ、バッジをお願いします」
シンヤは淡々と告げた。
「……は、はい!」
サクラは慌ててブルーバッジを取り出し、シンヤへと差し出した。
「こ、これがハナダジムのブルーバッジよ……!」
シンヤはそれを受け取った。
「ありがとうございます」
言葉だけなら、丁寧だった。
しかし、声に喜びはない。
ニビジムでグレーバッジを手にした時とは、まるで違っていた。
本来なら、ジムリーダーとの真剣勝負を乗り越え、互いの実力を認め合った末に手にするもの。
それなのに、今回のジム戦はあまりにもあっけなかった。
リザードが強かったから、というだけではない。
シンヤが本当に失望していたのは、バトルに向き合う三姉妹の姿勢だった。
「……それでは、失礼します」
シンヤは一礼すると、リザードをボールへ戻した。
そして、レンとともにジムを後にした。
「えっ、ちょっと! もう行っちゃうの!?」
背後からサクラの声が聞こえたが、シンヤは振り返らなかった。
「……シンヤ」
隣を歩くレンが、心配そうに声をかける。
「……ごめんなさいね。せっかく楽しみにしていたジム戦だったのに」
シンヤは、すぐには答えなかった。
ただ、握りしめたブルーバッジへと視線を落とした。
◆機嫌直しのお茶会
ハナダジムを出て、少し歩いたところで。
レンは、シンヤの顔をそっと覗き込んだ。
「……シンヤ?」
「……ん?」
「その……ジム戦も終わったことだし、約束していたお茶会に行かないかしら?」
「…………」
シンヤは、そこでようやくレンの気遣いに気づいた。
彼女は、ジム戦を楽しみにしていた自分が失望していることを察してくれたのだ。
せっかく二つ目のバッジを懸けた戦いだったのに、あのような形で終わってしまった。
楽しみにしていた分、落胆も大きい。
レンは、そんな自分を少しでも元気づけようとしてくれている。
「……ありがとう、レン」
シンヤは小さく息を吐いた。
「心配させてごめんな。せっかく一緒に来てくれたのに、嫌な顔を見せてしまった」
「気にしていないわよ」
レンは、いつものように微笑んだ。
「そもそも、お茶会は約束していたことでしょう? ジム戦が終わったら、一緒にお茶を飲むって」
「……そうだったな」
「ええ。だから、今日は私に付き合ってちょうだい?」
レンは、少しだけいたずらっぽく目を細めた。
「もちろん、あなたが嫌でなければ、だけれど」
「嫌なわけないだろ。むしろ、こっちからお願いしたいくらいだよ」
「ふふっ。それなら決まりね♪」
レンは嬉しそうに頷いた。
シンヤの表情にも、ようやく少しだけ笑みが戻る。
「……よし。それじゃあ、気分を切り替えよう」
「そうそう。その調子よ」
レンは彼の手を取り、軽く引っ張った。
「美味しいお茶とお菓子を楽しみながら、ゆっくりお話ししましょう?」
「……ああ」
二人は並んで歩き出した。
シンヤは、胸の中に残る不満を完全に消せたわけではなかった。
公認ジムの役割とは何なのか。
挑戦者にとってバッジとは何なのか。
そして、ジムリーダーは何を背負うべきなのか。
考えたいことは、まだいくつもある。
けれど今は――隣にいる少女の気遣いを、素直に受け取ろうと思った。
「……レン」
「何かしら?」
「お茶会、楽しみにしてるよ」
「……っ」
レンの頬が、ほんのりと赤くなる。
「ふふっ……ええ。私も楽しみよ、シンヤ♪」
こうして二人は、ハナダシティのお茶を楽しめる店を探しに向かうのだった。
その頃、ハナダジムでは――。
「……ねえ、アヤメ」
「何?」
「……私たち、もしかして……」
「……」
「……ジムリーダーとして、まずかったのかしら?」
アヤメとボタンは、顔を見合わせた。
二人とも、すぐには答えられなかった。
水中人魚ショーの準備。
ジム戦用のポケモンの回復。
挑戦者への対応。
それらを、どう考えるべきなのか。
少なくとも、シンヤが見せた実力と態度は、三姉妹にとって無視できないものだった。
そして――シンヤが獲得したブルーバッジは、彼にとって二つ目のバッジとなった。
次なる目的地へ向かう準備は整いつつある。
だが、ハナダジムのあり方については、まだ波乱が残されているのかもしれない。
まあ数日後には忘れて、末っ子のカスミが戻ってきた時にどやされるんだけどね!
◆喫茶店での甘い一時
ハナダジムを後にしたシンヤとレンは、ハナダシティでも有名な喫茶店を訪れていた。
落ち着いた木目調の内装に、窓から差し込む柔らかな日差し。店内にはコーヒーの香ばしい匂いと、焼きたてのお菓子の甘い香りが漂っている。
この店はコーヒーや紅茶といった飲み物はもちろん、ケーキをはじめとした各種スイーツが絶品だと評判なのだ。
店内のショーケースには、イチゴをたっぷりと乗せたショートケーキ、艶やかなチョコレートケーキ、色鮮やかなフルーツタルト、そしてふわふわのチーズケーキが並んでいる。
甘い物好きには、まさに天国のような場所だった。
「わぁ……! どれも美味しそうね!」
ショーケースを眺めるレンの目が、キラキラと輝いた。
普段はどこか大人びていて、余裕たっぷりに振る舞う彼女も、目の前に並ぶスイーツには心を躍らせているらしい。
「そうだな。俺もこういう店は好きだよ。旅先で美味しいものを見つけるのも、旅の醍醐味だし」
「ふふっ。シンヤって、ポケモンのことになると本当に頼もしいのに、こういうところでは普通の男の子なのね」
「……そりゃ、甘いものくらい食べるだろ」
「ええ、もちろん。そういうところも可愛いと思うわよ?」
「ぶっ……!?」
早速、レンの先制攻撃が炸裂した。
シンヤは咳き込みそうになるのを必死に堪え、レンはそんな彼を見て楽しそうに微笑む。
だが、彼女もまた、先ほどから頬がほんのり赤い。
ハナダ岬で手を繋いだこと。
シンヤから可愛いと言われたこと。
そして、今もこうして二人きりでお茶会をしていること。
思い返すたびに胸がくすぐったくなるのだ。
やがて二人の前に、注文したケーキと飲み物が運ばれてきた。
シンヤはチョコレートケーキとブラックコーヒー。レンはイチゴのショートケーキとミルクティーを選んでいる。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます♪」
二人はフォークを手に取り、さっそくケーキを味わい始めた。
「……うん、美味い」
「本当ね。スポンジがふわふわで、生クリームも甘すぎないわ」
しばらくは、二人とも普通にケーキを楽しんでいた。
しかし――レンはふと、向かいに座るシンヤの顔を見た。
彼はまだ、ハナダジムでの一件を引きずっている。
カップルのような甘い空気が流れている一方で、眉間にはわずかに皺が寄っていた。
もちろん、レンとの時間を楽しんでいないわけではない。
ただ、トレーナーとして楽しみにしていたジム戦が、あのような形で終わってしまったことが残念だったのだ。
(……せっかくのお茶会なのに、まだ気にしているのね)
レンは少しだけ考え込む。
そして――悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねえ、シンヤ?」
「ん? どうした?」
「ちょっと、こっちを向いてくれるかしら?」
「こう?」
シンヤが顔を上げた、その瞬間。
レンは自分のショートケーキをフォークでひと口分だけ掬い取った。
そして、それをシンヤの口元へと差し出す。
「は、はい……シンヤ。あ、あーん……///」
「…………は?」
シンヤの思考が止まった。
目の前にはケーキ。
その向こうには、顔を真っ赤にしているレン。
普段なら余裕たっぷりにからかってくる彼女が、今は自分の行動に照れているのだ。
「れ、レン……?」
「な、何かしら? せっかくのお茶会なんだから、こういうことをしてみるのもいいと思って……。ほ、ほら、冷めないうちに食べてちょうだい?」
「ケーキは冷めないだろ……!」
「も、もう! 細かいことは気にしないの!」
言い返しながらも、レンはフォークを引っ込めようとはしなかった。
むしろ、彼女自身が引っ込みのつかない状況になっているらしい。
シンヤは周囲の視線が気になり、ちらりと店内を見回した。
すると――。
近くの席に座っていた老夫婦が、微笑ましそうにこちらを見ていた。
窓際の席にいる若い女性二人組は、口元を押さえてニヤニヤしている。
さらにカウンターでは、新聞を読んでいた男性が、新聞紙の上からじっとこちらを見つめていた。
(やめろ! そんな目で見るな! 俺たちは別にカップルじゃないんだぞ!?)
シンヤの心の叫びが、喫茶店の空気に溶けていく。
しかし、目の前で頬を赤らめながら待っているレンを見れば、無下に断ることもできない。
「……い、いただきます」
シンヤは観念したように口を開けた。
「あ、あーん……」
ぱくっ。
レンのフォークからケーキを食べる。
ふわりと広がるイチゴの甘酸っぱさと、生クリームの優しい甘み。
確かに美味しい。
だが――。
「ど、どうかしら?」
「……美味しい」
「そ、そう! それならよかったわ!」
レンは嬉しそうに微笑んだ。
その顔が、また可愛い。
(……いやいやいや! 落ち着け、俺!)
シンヤは自分の頬が熱くなるのを感じながら、コーヒーを飲んで気持ちを落ち着けようとした。
ブラックコーヒーの苦味が口の中に広がる。
しかし、顔の熱さはまったく引かなかった。
そしてレンはというと――。
(や、やっちゃった……! 本当に食べてくれた……!)
自分から仕掛けておきながら、彼が素直に応じたことに動揺していた。
胸がドキドキする。
もっと喜んでほしい。
もっと自分を意識してほしい。
そんな気持ちが、ほんの少しだけ芽生えていた。
だが、まだその感情に名前をつける勇気はない。
「……シンヤ」
「な、何だ?」
「もう一口、食べる?」
「えっ?」
レンは再びケーキを掬った。
「ほら、あーん♪」
「ま、また!?」
「嫌なの?」
「い、嫌じゃないけど……!」
「じゃあ、どうぞ?」
「…………あーん」
ぱくっ。
二口目。
レンの顔が、ますます赤くなる。
シンヤの顔も、負けじと赤くなる。
そして、なぜか周囲の客たちの表情まで変わっていった。
ある男性客は、持っていたスプーンを静かに皿へ置いた。
「……マスター。ブラックコーヒーをもう一杯」
「かしこまりました」
別の席では、恋人のいない女性客が、砂糖もミルクも入っていないコーヒーを一気に飲み干した。
「……苦いわね」
「コーヒーですからね」
「そうじゃないのよ……」
その隣の男性も、無言でメニューを開いた。
「すみません。エスプレッソをお願いします」
店員は、にこやかに応じる。
「かしこまりました」
この店では、ブラックコーヒーの注文が増えること自体は珍しくない。
しかし、なぜか今日は異様な勢いで注文が入っていた。
そして、その原因となっている二人は――。
「……レン、そろそろ俺も食べさせてもらってばかりじゃ悪いし」
「えっ?」
シンヤは自分のチョコレートケーキをフォークで掬った。
レンの目が、ぱちぱちと瞬く。
「……お返し、というわけじゃないけど。レンも食べる?」
「そ、それって……」
「……あーん」
今度はシンヤが、フォークをレンの口元へ差し出した。
レンの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「~~~~っ!?///」
「……嫌なら無理にとは言わないけど」
「い、嫌なわけないでしょう!? そ、その……いただくわ!」
レンは少しだけ身を乗り出し、そっと口を開いた。
「あ、あーん……///」
ぱくっ。
チョコレートケーキが、レンの口へと運ばれる。
「……どう?」
「…………美味しいわ」
「そっか。よかった」
シンヤが微笑む。
レンはその笑顔を見て、ますます顔を赤くした。
(な、何なの、この人……! どうして、そんなに自然に笑えるのよ……!)
先ほどまで自分がしていたことを、いざ相手にされるとこうも恥ずかしいとは。
レンは改めて思い知った。
そして――。
「……も、もう一口、いただいてもいいかしら?」
「もちろん」
「あ、ありがとう……///」
再び、あーん。
シンヤのフォークからチョコレートケーキを食べるレン。
今度は、シンヤのほうも少しだけ楽しそうに笑っていた。
ジム戦で感じた苛立ちが、いつの間にか少しずつ薄れている。
それに気づいたレンは、ほっと胸を撫で下ろした。
(よかった……少しは元気になってくれたみたい)
彼が自分との時間を楽しんでくれるなら、それだけで嬉しい。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
――なお。
周囲の客たちには、まったく別の問題が発生していた。
「……マスター。ブラックコーヒー、おかわり」
「かしこまりました」
「俺もだ……」
「私もお願いします……」
カウンターには、いつの間にかブラックコーヒーの注文がずらりと並んでいる。
その中の一人が、耐えきれずに呟いた。
「……甘い。甘すぎる。ケーキなんかより、あの二人のほうがよっぽど甘い……!」
「分かる……。なんだ、あの初々しさは……」
「付き合ってるのか?」
「いや、どう見ても付き合いたて……いや、まだ付き合っていない可能性もあるぞ」
「それが一番恐ろしいんだよ……!」
恋人のいない客たちは、二人の初々しいやり取りを見せつけられ、次々と苦い飲み物を注文する羽目になっていた。
その光景を、カウンターの向こうから眺める人物がいる。
この喫茶店の店長である。
店長は注文票を確認しながら、満足げに頷いた。
「……よしよし。今日もいい感じだ」
店員が不思議そうに尋ねる。
「店長、今日はずいぶんとブラックコーヒーが出ますね?」
「ああ。実に素晴らしいことだ」
「……何がですか?」
「若い二人の恋模様というのは、実にいいものだなぁ」
「はあ……?」
店長は、窓際の席に視線を向けた。
そこでは、シンヤとレンが、今度は互いにケーキを食べさせ合っている。
レンが食べさせる。
シンヤが食べさせる。
シンヤが照れる。
レンが照れる。
そして、また食べさせ合う。
まさに無限ループである。
「……追加のケーキを出しておきなさい」
「えっ? でも、あのお客様方は追加注文をされていませんよ?」
「構わん。店からのサービスだ」
「サービス……ですか?」
「ああ。特製のフルーツタルトと、季節のケーキを一皿ずつ。飲み物も追加で持っていきなさい」
「は、はい……!」
店長の指示を受けた店員は、追加のケーキを用意し始めた。
もちろん、シンヤとレンはそんな裏事情など知る由もない。
「……えっ? あの、店員さん。これは頼んでいないんですが……」
運ばれてきた追加のケーキを見て、シンヤが戸惑う。
店員はにこやかに答えた。
「店長からのサービスです。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」
「そ、そうですか……ありがとうございます」
「ふふっ。嬉しいサービスね、シンヤ」
「まあ、せっかくだしな。残すのも申し訳ないから、ありがたくいただこう」
シンヤはそう言って、追加されたケーキへと手を伸ばす。
そして、ふとレンの顔を見た。
「……レン。次はこっちを食べてみる?」
「えっ……い、いいの?」
「もちろん。あーん」
「~~~~っ!?」
レンは一瞬固まった後、真っ赤な顔で口を開いた。
「あ、あーん……///」
ぱくっ。
「……美味しい!」
「だろ?」
「ええ! こちらもとっても美味しいわ!」
嬉しそうに笑い合う二人。
それを見た店長は、カウンターの陰で静かに拳を握った。
「よし……! 今日も売上が伸びるぞ……!」
「店長、顔が悪いですよ……」
「失礼な。私はただ、お客様に幸せな時間を提供しているだけだ」
「その割に、さっきからブラックコーヒーの注文が入るたびに嬉しそうですけど……」
「気のせいだ」
店長はきっぱりと言い切った。
その後も、シンヤとレンは追加されたケーキを食べさせ合いながら、楽しい時間を過ごした。
最初こそ恥ずかしがっていた二人だったが、次第に慣れてきたのか、互いにケーキを差し出すことへの抵抗も薄れていく。
もちろん、顔が赤くなることだけは、最後まで変わらなかったが。
そして――。
喫茶店を出る頃には、シンヤの機嫌はすっかり回復していた。
「……いや、本当に美味しかったな。あの店、また来たい」
「ふふっ。私もよ。ケーキも美味しかったし、とても楽しかったわ」
「そうだな。また一緒に来よう」
「……っ!」
レンは足を止めた。
「……一緒に?」
「ん? ああ。次にハナダシティへ来たときや他の街とかさ」
「……そ、そう。次も一緒に……」
レンは顔を赤らめながら、そっとシンヤの隣へ並ぶ。
「……約束よ?」
「うん、約束」
二人は微笑み合い、再び歩き始めた。
まだ恋人同士ではない。
お互いの気持ちも、はっきりと言葉にはしていない。
それでも、二人の距離は確実に近づいていた。
――その頃、喫茶店では。
「店長! 本日のブラックコーヒーの売上、過去最高を更新しました!」
「そうか! よくやった!」
「それと、カップルのお客様にサービスでお出ししたケーキの分を差し引いても、十分な利益が出ています!」
「素晴らしい! やはり、若い二人の初々しい食べさせ合いは最高だな!」
「……店長。やっぱり、最初からそれが目的だったんですね?」
「何を言う。私は純粋に、若者の恋を応援しているだけだ」
「……はあ」
店員は呆れたように溜息をついた。
後日、シンヤとレンがこの喫茶店の店長の商売上手な一面を知ることになるのだが――それは、また別のお話。
こういう甘い雰囲気がリアルでもあったら面白いと思うのは作者だけかな?