◆それぞれの帰路
オーキド研究所での模擬戦が終わり、夕方が近づいていた。
「いやー、今日は面白かったな!」
サトシは満足そうに伸びをした。
「ウインディもスピアーも、まだまだ強くなれそうだぜ! よーし、オレもみんなと特訓するぞ!」
「その前に、ちゃんと休ませるんだよ。今日の試合で疲れているのは、君のポケモンたちも同じなんだからね」
シゲルが釘を刺す。
「分かってるって!」
「本当に分かっているのか、少し不安だけどね……」
二人のやり取りに、リーフはくすくすと笑った。
「ふふっ。二人とも、リーグで会いましょうね」
「ああ! 次は絶対に勝つからな、シゲル!」
「それはこちらの台詞だよ、サトシ」
ライバル同士の視線が交差する。
その後、サトシとシゲルはそれぞれポケモンたちを連れて研究所を後にした。
残ったシンヤとリーフも、オーキド博士に挨拶を済ませる。
「今日はいいバトルだったぞ、シンヤ、リーフ。リーグ本番でも、今日の経験を活かすんじゃぞ」
「はい。ありがとうございました、博士」
「私も、とても勉強になりましたわ」
リーフは丁寧にお辞儀をした。
研究所の門を出たところで、二人は並んで歩き始める。
「シンヤは、これから5の島に戻るのよね?」
「ああ。フーディンで向かう」
「そう。私はマサラタウンに戻って、ポケモンたちの様子を確認するわ」
リーフは少しだけシンヤを見上げた。
「……ねえ、シンヤ。今日は楽しかった?」
「もちろん。カブトプスもニョロボンも、いい戦いをしてくれたからな」
「そうじゃなくて……」
「ん?」
「……ううん。何でもないわ」
リーフは一瞬だけ頬を膨らませかけたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「また会いましょうね。今度は、私が勝つんだから」
「ああ。楽しみにしている」
二人は別れの挨拶を交わした。
やがてリーフの姿が見えなくなると、シンヤはフーディンのモンスターボールを取り出した。
「さて、俺も帰るか。フーディン、頼むぞ」
光が弾け、フーディンが姿を現す。
シンヤが頷くと、フーディンはスプーンを掲げた。
次の瞬間、空間が歪み、二人の姿は光に包まれて消えた。
◆5の島の別荘――ただいま、のはずだった
一方、その頃。
5の島の別荘では、ラムとレムが玄関付近で困り果てていた。
「姉様……どうしましょう?」
短い水色の髪を揺らしながら、レムが小声で尋ねる。
「どうしましょう、じゃないわよ。まったく……坊ちゃまも坊ちゃまだし、レン様もレン様だわ」
ピンク色の髪のラムは、腕を組んで深いため息をついた。
二人の視線の先には、一人の少女がいた。
ピンクがかった紫色のボブヘア。大きなリボン。フリルをあしらった上品なドレス。
レンである。
レンは玄関の真ん中に陣取り、両腕を組み、頬をぷくっと膨らませていた。
その姿は、まるで帰宅した主人を待ち構える小さなお姫様だった。
「……レン様。そろそろ、お茶でも召し上がりませんか?」
レムが恐る恐る声をかける。
「いらないわ」
即答だった。
「で、ですが、お菓子もご用意してありますよ?」
「いらないの」
「……かしこまりました」
レムは困ったように微笑み、ラムの後ろへそっと下がった。
ラムは小声で囁く。
「レム。あんた、余計なことを言わないの。今のレン様は、何を出しても坊ちゃまが帰ってくるまで動かないわよ」
「姉様も、そう思いますか?」
「思うも何も、あの顔を見なさいよ。完全にお怒りじゃない」
「でも、レン様が怒っている理由は……」
「分かっているわよ。坊ちゃまが何も言わずに出かけたことと、帰りが遅くなったこと。それから……」
ラムはそこで言葉を切り、レンの様子をちらりと窺った。
「……たぶん、それだけじゃないわね」
「え?」
「何でもないわ」
ラムは肩をすくめた。
そのときだった。
玄関の空間が淡く光り始めた。
「……来たわね」
レンの頬が、さらにぷくっと膨らんだ。
光の中から、シンヤとフーディンが姿を現す。
「ふう、ただいま。フーディン、ありがとう。ゆっくり休んでくれ」
シンヤがフーディンをボールに戻そうとした、その瞬間。
「……シンヤ?」
聞き慣れた声がした。
シンヤの手が止まる。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには――。
頬を膨らませ、腕を組み、仁王立ちしたレンがいた。
その後ろでは、ラムとレムが「どうかご無事で」とでも言いたげな表情で見守っている。
「…………」
「…………」
沈黙。
シンヤはレンを見つめ、レンもまたシンヤをじっと見つめ返した。
やがてレンが、にっこりと微笑んだ。
ただし、目は笑っていない。
「おかえりなさい、シンヤ」
「た、ただいま……?」
「今日は、オーキド研究所に行ってたのね?」
「ああ、そうだけど……」
「そしてそこでサトシ君とシゲル君がバトルして、その流れでリーフとバトルを?」
「うん。よく知ってるな?」
「ええ。知っているわ」
レンは一歩、シンヤへ近づいた。
「それで?」
「……それで?」
「どうして、私には何も言わずに行ったのかしら?」
シンヤの表情が固まった。
「えっと……」
「私、朝からずっと別荘にいたのよ?」
「うん」
「あなたが帰ってきたら、今日のことを聞こうと思っていたの」
「うん……」
「それなのに、帰ってきたと思ったら、ずいぶん楽しそうな顔をしているじゃない?」
レンはさらに一歩近づいた。
「サトシとシゲルのバトルを見て、リーフとバトルをして……私には何も知らせてくれなかったのね?」
「いや、それは……」
シンヤは助けを求めるように、後ろのラムとレムへ視線を向けた。
ラムは即座に目を逸らした。
レムは申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
二人とも、助けてくれる気はないらしい。
(……これは、完全に俺が悪いかもしれない)
シンヤは心の中でため息をついた。
確かに、出かける前にレンへきちんと伝えておけばよかった。
研究所での模擬戦に夢中になり、帰りの時間もあまり気にしていなかった。
そして、帰ってきたらレンが待っていた。
……しかも、かなり怒っている。
「レン、悪かった。出かけるときに、ちゃんと話しておくべきだったな」
シンヤが素直に謝ると、レンは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……本当に、そう思っているの?」
「ああ。心配させたなら、ごめん」
「…………」
レンの頬は、まだ膨らんだままだった。
「……それだけ?」
「えっ?」
「私、ずっと待っていたのよ?」
レンの声が、ほんの少しだけ小さくなる。
「あなたが帰ってくるのを、ずっと……」
シンヤは言葉を失った。
レンは視線を逸らし、ドレスの裾を指先でつまんだ。
「別に、あなたがどこへ行こうと自由よ。オーキド研究所に行くのも、サトシたちとバトルをするのも、構わないわ」
「うん」
「でも……」
レンはちらりとシンヤを見た。
「……私にも、教えてほしかったの」
その言葉を聞いた瞬間、シンヤはようやく気づいた。
レンは、ただ帰りが遅かったことに怒っているのではない。
自分が知らないところでシンヤが楽しい時間を過ごし、その出来事を後から知ることになったのが、少し寂しかったのだ。
「……そっか」
シンヤは穏やかに微笑んだ。
「ごめんな、レン。次からは、出かけるときにちゃんと話すよ。帰りが遅くなりそうなら、それも伝える」
「……本当?」
「ああ、約束する」
シンヤが手を差し出すと、レンは少し迷ったあと、その手を取った。
「……絶対よ?」
「絶対」
「……なら、許してあげるわ」
そう言って、レンはようやく頬の膨らみを少しだけ緩めた。
しかし、次の瞬間。
「それで?」
「ん?」
レンは顔を上げた。
「リーフとは、どんなバトルをしたのかしら?」
「え? ああ、2対2で……」
「それから?」
「カブトプスとニョロボンを出して……」
「それから?」
「……キュウコンとフシギバナと戦った」
「そう」
レンは微笑んだ。
「ふふっ。詳しく聞かせてもらいましょうか。最初から、最後までね?」
シンヤは苦笑した。
どうやら、まだ解放されるわけではないらしい。
お茶会という名の事情聴取
「さあ、こちらへどうぞ」
レムがほっとしたように声をかけ、応接室へ案内する。
ラムはシンヤの隣を通り過ぎるとき、小声で囁いた。
「坊ちゃま。次からは、出かける前に一言くらい伝えておくことね」
「……はい」
「まったく。レン様がずっと玄関で待っていらっしゃるものだから、ラムたちまで落ち着かなかったんだから」
「ラム、そんなに怒らないであげてください。坊ちゃまも、悪気があったわけではないで
しょうし……」
「分かっているわよ、レム」
ラムは呆れたようにため息をついた。
「ただ、こういうことはちゃんとしてもらわないと困るの。レン様だって、ずっとここで待っていたんだから」
シンヤは申し訳なさそうに頭を下げた。
「二人にも心配をかけて悪かった」
「……ふん。分かればいいのよ、坊ちゃま」
ラムはそっぽを向いたが、その口元はわずかに緩んでいた。
応接室に入ると、レムが紅茶とお菓子を用意してくれた。
レンはソファに座り、シンヤの隣を自然に確保する。
「それで、まずはサトシ君とシゲル君のバトルから聞かせてちょうだい」
「分かった。最初はウインディとニドキングの対戦で……」
シンヤが説明を始めると、レンは真剣に耳を傾けた。
ウインディの機動力。ニドキングの地面技。スピアーの回避能力。カメックスの防御と水
技。
そして、サトシがスピアーの動きに合わせて戦術を変えていったこと。
「……なるほどね。サトシ君は、ポケモンが見せた動きをそのまま戦術に取り入れたのね」
レンは紅茶を一口飲み、考え込んだ。
「ああ。シゲルも、その点を評価していたよ」
「ふふっ。サトシ君らしいわね。理屈を積み重ねるというより、実際の動きから可能性を見つけるのが得意なのかしら」
「俺もそう思った」
シンヤは頷いた。
その後、話題はシンヤとリーフの対戦へ移った。
カブトプスが水技を使わずにキュウコンと戦ったこと。炎技をぎりぎりで回避し、地形や土煙を利用して接近したこと。
そして、ニョロボンがれいとうパンチで草技を凍らせ、氷の塊や破片を攻撃に利用したこと。
レンは次第に目を輝かせていった。
「……それは、実際に見たかったわね」
「見ていたら、きっと面白かったと思う」
「そうね。特にニョロボンの戦い方は、私も参考にしたいわ。相手の技を防ぐだけではなく、その結果生まれたものを利用するなんて……」
レンは少し悔しそうに笑った。
「次にあなたと戦うときは、もっと工夫しなくちゃいけないわね」
「いつでも相手になるよ」
「ふふっ。言ったわね?」
レンは嬉しそうに微笑み、シンヤの腕にそっと自分の腕を絡めた。
その様子を見たラムが、レムの耳元で囁く。
「……機嫌、直ったみたいね」
「はい。よかったです」
「でも、坊ちゃまも大変ね。レン様にあれだけ心配されるなんて」
「姉様、それは……」
「何よ?」
「……いえ、何でもありません」
レムは微笑みながら、空になったティーカップへ紅茶を注いだ。
窓の外では、5のしまの夕日が海を黄金色に染めていた。
今日の模擬戦で、シンヤはライバルたちの成長を確認できた。
そして帰宅してからは、自分を待っていてくれる人がいることを、改めて実感した。
ポケモンたちとの絆も、人との絆も、日々の積み重ねで深まっていく。
だからこそ、次からは出かける前にきちんと伝えよう。
シンヤは隣で微笑むレンを見つめ、小さく笑った。
「……レン」
「何かしら?」
「待っていてくれて、ありがとう」
レンは一瞬、きょとんとした。
それから、ほんのり頬を赤く染める。
「……ふふっ。どういたしまして」
そう答えると、レンは再びシンヤの腕に寄り添った。
「でも、次に出かけるときは、ちゃんと私にも教えてちょうだいね?」
「ああ。約束だ」
ラムとレムは顔を見合わせ、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
こうして、5のしまの別荘には、いつもの穏やかな空気が戻ってきたのだった。