『天雲星系・銀河の記憶』 作:DanhDu_Chronicle
風が……止まった。
静かになったからではない。
……押さえつけられたのだ。
この時、白藤江の一帯は、
もはや川ではなかった。
……戦場だ。
数十隻もの黒い戦艦が水面を覆い尽くしている。
船体は巨大な亡霊のように垂直にそびえ立ち、
甲板には、赤い瞳がいくつも開いていた。
音はない。
ただ……圧力だけがある。
ヴァン・ティエンはそこに立っていた。
呼吸は重い。
その隣で、
宝瑛が彼の手を強く握りしめる。
「ティエン兄さん……」
彼は答えなかった。
視線は前方から、一瞬たりとも離れない。
中央の戦艦。
その上に、赤眼黒龍が立っていた。
両手を大きく広げる。
「これが……」
「……俺の世界だ。」
ドォン!!!!
凄まじい圧力の波が叩きつけられ、
大地が大きくひび割れた。
ヴァン・ティエンは歯を食いしばる。
「数が……多すぎる」
数百隻もの船が、
こちらへと近づいてくる。
だが――
その時。
かすかな音が響いた。
「トン……」
一打。
大きくはない。
だが、それは……今の時代の音ではなかった。
「トン……」
二打目。
風向きが変わる。
水面が……静止した。
赤眼黒龍が動きを止める。
その瞳が……ほんの一瞬、揺れた。
「……何だ?」
「トン……トン……」
太鼓の音。
遅い。
重い。
まるで大地の底から響いてくるように。
ヴァン・ティエンの足元の大地が、
小さく震えた。
戦艦のせいではない。
何かが……
目覚めようとしている。
川面が変わり始めた。
乱れていた波紋が、
次第に揃っていく。
まるで……
ひとつの呼吸のように。
ヴァン・ティエンは目を見開いた。
「この感覚は……」
首にかかったペンダントが、
激しく光り始める。
青い光ではない。
それよりも……遥かに古い光だった。
風が逆方向へ吹き抜ける。
前方の空間が……裂けた。
黒殺団が作り出す裂け目ではない。
これは……
門だった。
その中から、
一歩。
誰かが歩み出る。
ゆっくり。
だが、一歩踏み出すたびに、
空間そのものが沈み込む。
その足は水面を踏んでいる。
まるで岩山の上を歩くかのように、
揺るぎない。
一人の男。
鎧。
現代の金属ではない。
身体を覆うのは、
古き時代の甲冑。
一枚一枚の金属が重なり合い、
まるで龍の鱗のようになっている。
胸と背に備えられた二枚の円形の甲冑が、
淡く、かすかな光を反射している。
……まるで、
何百年もの時を越えてきたかのように。
下半身には、
魚鱗のような装甲が幾重にも重なっている。
一歩踏み出すたび……
ズン……
低く、重い音が響く。
虎の頭を模した兜が顔の半分を覆い、
そこから覗くのは――
深く……
静かな瞳。
背には暗い赤の外套。
龍の紋様が刺繍され、
風を受けて静かに揺れている。
男は両手を背中に回していた。
その眼差しは穏やか。
だが……
海のように深い。
陳興道。
紹介など必要ない。
名乗る必要もない。
ただ、そこに立っているだけで……
空間そのものが静まり返った。
ヴァン・ティエンは立ち尽くす。
「……あなたは……」
陳興道は、すぐには彼を見なかった。
視線は川へ。
黒い艦隊を見つめている。
一秒。
二秒。
そして、静かに口を開いた。
声は低い。
大きくはない。
だが……
その声は空間全体へと広がった。
「この川には、主がいる。」
「この大地には、霊が宿っている。」
「侵す者は……必ず、この身を川底へ沈める。」
ドォン!!
見えない圧力が一気に広がった。
黒い戦艦が……
一斉に震え始める。
赤眼黒龍の瞳が、
初めて大きく揺れた。
「……あり得ない。」
「……この川は……」
「まだ、あれを残していたというのか……」
陳興道は答えない。
ただ……
もう一歩、前へ出た。
赤眼黒龍は彼を見つめ、
そして笑った。
「沈める……だと?」
「ハハハ……まったく、笑わせてくれる。」
「お前は一人だけだ。」
「それに対して、俺の背後には……」
「これだけの大軍がいる。」
「ここで……誰が沈められるのか。」
「まだ分からないだろう?」
興道大王は、そこに立っていた。
その瞳は……
威厳に満ちている。
それを見た赤眼黒龍は、
さらに笑った。
「どうした……?」
「もう怖くなったのか?」
「なんだ……」
「お前も、所詮はその程度か。」
「ハハハハハ!!」
奴がまだ、自信満々に笑っているその時――
カツ……
赤眼黒龍が振り返った。
「……?」
ゴボ……ゴボ……
「……何の音だ?」
兵士たちもその音を聞いた。
次第に……
ざわめき始める。
赤眼黒龍にも、
その音が何なのか分からない。
そして――
ミシ……
兵士たちが何も理解できないまま、
ザブン……!!
一人の兵士が叫んだ。
「船が沈んでいる!!」
「船が沈んでるぞ!!」
赤眼黒龍が振り返る。
「何だと?」
すると、別の兵士たちも叫び始めた。
「こっちもだ!!」
「船が沈んでいる!!」
ミシ……
ザブン!!
別の船も……
次々と沈み始める。
船体が大きく軋み、
ゆっくりと沈んでいくその下。
水面の下を、
極めて静かな水の筋が二つに分かれて走っていた。
何事もなかったかのように……
別の船へと移っていく。
赤眼黒龍が左右を見回す。
「……これは、どういうことだ!?」
その時。
興道大王は背中に回していた両手を、
ゆっくりと下ろした。
そして……
その手が、静かに剣の柄へ触れる。
船上の兵士たちが混乱する中、
水の中では――
小さな渦が、
船の側面、そのすぐ下に現れていた。
水は自然に船内へ流れ込んでいるのではない。
まるで……
見えない力に引きずり込まれるように、
下へ、下へと落ちていく。
兵士たちの叫び声が響く。
その水面の下から、
冷たい霧がゆっくりと立ち上がった。
そして――
静寂に包まれた水の塊の中から、
一つの手が現れた。
青白い。
だが……
筋肉の浮き出た、力強い手。
海水に濡れたその手が、
ゆっくりと傾いた船の舷側へ置かれる。
その手は……
一切、震えていない。
指先が船の木材に触れた瞬間。
ピシ……
ひびが広がり始めた。
手が触れている周囲の海水が、
突然、波打つのをやめた。
鏡のように……
静まり返る。
そして……
冷たい緑色の光を放ち始めた。
船上の兵士たちは恐怖に震える。
「な……何だ、あの手は!?」
手が現れた場所。
水の中から――
長い黒髪が、
ゆっくりと浮かび上がってくる。
髪から落ちた水滴は、
海へ溶けることなく……
小さな光の粒へと変わり、
そして消えていく。
やがて……
両目が現れる。
その瞳には、
盲目的な憎しみなどなかった。
そこにあるのは……
夜の水面のような、
冷たい静けさ。
よく見ると――
一人の勇士だった。
まだ身体の半分しか姿を現していない。
それでも分かる。
岩塊から削り出したかのような、
巨大で屈強な身体。
川底の岩のように、
盛り上がった筋肉。
大きく開かれた瞳は、
静かで……
深い水の中でも、
強く輝いている。
長い黒髪は水の中で揺らめき、
海藻の帯のように広がっている。
その姿は……
野性的でありながら、
同時に威厳に満ちていた。
その手には――
錆びついた鉄の槌。
だがそこからは、
冷たい気が放たれている。
男が水面から姿を現した時、
最初に向けた視線は……
敵ではなかった。
水面の上。
あの岩の上に立つ男へ。
そう。
興道大王へ。
興道大王はそこから彼を見下ろした。
そして口を開く。
低い。
だが……
非常に威厳のある声だった。
「イェット・キエウ。」
「待たせすぎたな。」
「さあ、見せてやれ。」
「この川底にいるのは、魚やエビだけではない。」
「ここには……」
「南の国の魂も眠っているのだ。」
イェット・キエウは何も言わなかった。
ただ……
静かに一度、頷いた。
まるで――
砂塵と時の流れの中で、
一度たりとも消えることのなかった……
鉄の誓いのように。
そして――
その瞳が一瞬で振り向く。
視線が向かった先。
赤眼黒龍。
赤眼黒龍は、
水面の下にいる勇士から放たれる圧力を感じ取った。
「フン……」
だが、次の瞬間。
奴は手を上げた。
船上の兵士たちは、
すぐに槍を水面へ突き下ろす。
だが――
イェット・キエウは、すでに水の中へ沈んでいた。
水面が……
静かになる。
残ったのは、
小さな波だけ。
兵士たちは、
どこを攻撃すればいいのか分からず、
船上で混乱する。
その一方で――
ヴァン・ティエンは、
まだ驚きを隠せずにいた。
「……あの人は……?」
陳興道が振り返る。
初めて。
その眼差しが、
真っ直ぐにヴァン・ティエンを捉えた。
そして川を指差す。
その声は冷たい。
だが……
言葉の一つ一つに、
圧倒的な重みがあった。
「敵の戦船の急所を握る者。」
「この白藤江が、
奴らを裁くために選んだ者。」
「それが――」
「イェット・キエウだ。」
彼はヴァン・ティエンを見る。
「……お前。」
「……この川の上に立っている者よ。」
ヴァン・ティエンが動きを止める。
「……はい……」
「……お前は、これを守りたいのか?」
一秒。
迷いはなかった。
「……はい。」
しばしの沈黙。
陳興道は静かに頷いた。
「……ならば、よく聞け。」
彼は身体を回し、
手を……静かに川へ向ける。
「敵船がどれだけ多くとも、
私は奴らをこの川へ沈めることができる。」
「お前はあそこへ行け。」
「正面から戦うな。」
「奴らを……」
「あの場所へ誘い込め。」
その眼差しが鋭くなる。
「……あの場所。」
「……我々がかつて……」
「一つの軍勢を終わらせた場所へ。」
ヴァン・ティエンは目を見開いた。
何かを言おうとした。
だが――
その時、
彼は理解した。
興道大王の、
厳しく、決意に満ちた眼差し。
その意味を。
風が止まる。
水の下で、
もう一度……
鋭い影が一瞬だけ現れた。
その一方で――
赤眼黒龍は、
再び水面を見下ろしていた。
そして兵士たちへ合図する。
「早く、あの水の中にいる奴を探せ。」
「見つけ次第……殺せ。」
こちらでは――
ヴァン・ティエンが岸に立っている。
腕に力を込める。
青い気が、
彼の周囲へと放たれていく。
「……始めよう。」
戦いは――
新たな段階へと入った。