『天雲星系・銀河の記憶』 作:DanhDu_Chronicle
ハノイ旧市街の狭い路地は、徐々に静けさを取り戻していった。
夜風が苔むした古い壁を撫でながら通り過ぎる。
ホアンキエム湖周辺にある古い路地特有の、湿った冷たい空気が漂っていた。
ヴァン・ティエンは路地の中央に立っていた。
腕には、あの少女を抱えている。
少女はもう泣いていなかった。
それでも、彼の服を強く掴んだまま離そうとしない。
ヴァン・ティエンは周囲を見回した。
黒服の男たちは、完全に消えていた。
残っているのは――
ひび割れた石畳。
そして、あちこちに飛び散ったレンガや石の破片だけ。
彼は小さく眉をひそめた。
「……痕跡がない……」
だが、今は少女を母親のもとへ返さなければならない。
考えている時間はなかった。
ヴァン・ティエンは少女を抱いたまま、路地を後にした。
いくつかの路地を抜けたところで――
ドタドタドタッ!
突然、激しい足音が聞こえてきた。
そして、先ほど助けを求めていた女性が走ってくる。
「私の娘はどこ!?」
女性の後ろには、数人の警察官がいた。
ヴァン・ティエンが無事な少女を抱いているのを見た瞬間――
「よかった……!」
警察官たちから安堵の声が漏れた。
ヴァン・ティエンが少女を地面に下ろす。
すると少女はすぐに母親のもとへ走っていった。
「ママ!」
母親は少女を強く抱きしめる。
そして、涙を流しながら叫んだ。
「あなた……! 怪我はないの!?」
「神様……! もう二度と会えないと思った……」
母親は少女を抱きしめたまま、ヴァン・ティエンの方を振り返った。
声が震えている。
「本当にありがとう……」
「あなたがいなかったら、今頃この子がどうなっていたか……」
ヴァン・ティエンは小さく首を横に振った。
「もう大丈夫です」
「娘さんは無事ですから、心配しないでください」
そのとき、数人の警察官がヴァン・ティエンに質問した。
「誘拐犯はどこへ行きました?」
ヴァン・ティエンは少し考えてから答える。
「……逃げました」
それ以上、彼は何も言わなかった。
周囲では、人々のざわめきが広がり始めていた。
「ねえ、知ってる?」
「さっき旧市街の夜市で、子どもの誘拐事件があったんだって。怖いわね……」
別の人が口を挟む。
「ええっ、本当!?」
「まったく、最近の連中はどうなってるのよ!」
「こんな街の中心で、人が大勢いるっていうのに……それでも平気で手を出すなんて、本当にろくでもない奴らだよ!」
いくつか質問を終えた後、警察官たちはヴァン・ティエンを解放した。
「何か思い出したことがあれば、後日もう一度事情を聞かせてもらうかもしれません」
ヴァン・ティエンは何も言わず、静かに路地を離れた。
外へ出ると――
ミンがずっとそこで待っていた。
ヴァン・ティエンの姿を見つけた瞬間、ミンが駆け寄ってくる。
「ティエン兄ちゃん、大丈夫!?」
「どこか怪我してない!?」
ヴァン・ティエンは小さく笑った。
「大丈夫だよ」
ミンは路地の中を覗き込み、それから彼を見る。
「中はどうなったの?」
「女の子は助かった?」
ヴァン・ティエンは路地を見つめる。
「助かったよ」
「ただ……誘拐犯には逃げられた」
ミンは彼の肩をポンと叩いた。
「大丈夫だよ」
「女の子を助けられたなら、それでいいじゃん」
「それに……兄ちゃんが無事だったなら、僕も安心したよ」
ヴァン・ティエンはミンを見る。
「そうだな」
「もう終わったことだ」
「そろそろ集合時間だし、もう少し見て回ってから戻ろう」
ミンは頷いた。
「うん!」
二人は旧市街の夜市を離れ、再びホアンキエム湖へ戻っていった。
街は――
まるで何事もなかったかのように、相変わらず賑わっていた。
旧市街の夜市の鮮やかな光が、通り全体を照らしている。
人々は相変わらず、賑やかな通りを行き交っていた。
音楽もまだ鳴り響いている。
だが――
先ほどの出来事を経験したヴァン・ティエンには、もう周囲の景色を楽しむ余裕はなかった。
彼の頭の中には、あの光景が何度も蘇っていた。
赤い瞳。
変化した身体。
そして――
あの赤い液体。
ヴァン・ティエンは心の中で呟く。
「……あいつらは、一体どこから来たんだ?」
その瞬間。
冷たい風が突然吹き抜けた。
首にかかった十字架のペンダントが、かすかに揺れる。
そして――
淡い青い光が、一瞬だけ閃いた。
ヴァン・ティエンの足が止まる。
彼は振り返った。
視線の先には、ホアンキエム湖。
遠くの湖面が、街の明かりを受けてキラキラと輝いている。
だが――
なぜだろう。
彼には、何かがおかしいような気がした。
何かが――
こちらを見ているような。
しかし、その感覚は一瞬で消えた。
ヴァン・ティエンは眉をひそめる。
「……本当に変な感じだ」
同じ頃――
旧市街の一角。
暗闇の中で、一人の男が立っていた。
自分が送り込んだ部下たちが全滅したことを知った段鉄は、戦艦の指揮司令部へ通信を繋いだ。
「閣下」
「偵察計画は……失敗しました」
通信の向こうから、統帥の低い笑い声が聞こえる。
「構わん」
「そのまま計画を続行しろ」
段鉄は頭を下げる。
「了解しました」
通信が切れる。
段鉄は暗闇の中で、しばらく何も言わずに立っていた。
そして――
「俺の部下を……よくも殺してくれたな」
「待っていろ……」
「すぐに、この俺がお前の前に現れてやる」
赤い瞳が、暗闇の中で不気味に輝いた。
そして、その姿は闇の中へ消えていった。
その頃――
ヴァン・ティエンとミンは、約束していた集合場所へ戻っていた。
二人を見つけたバ・トゥーが手を振る。
「こっちこっち!」
「二人とも、どこまで行ってたのよ!」
「こっちはずっと待ってたんだからね!」
ヴァン・ティエンは笑って答える。
「ちょっと歩いていただけだよ」
ミンは先ほどの出来事を話そうとした。
だが――
ヴァン・ティエンがそっとミンの手を掴んだ。
そして、静かに首を横に振る。
ミンはその意味を理解した。
何も言わなかった。
バ・トゥーが手を振る。
「はいはい、もういいから!」
「早く車に乗りなさい!」
「みんな待ってるんだから、急いで!」
一行は全員バスへ乗り込んだ。
観光バスは、ゆっくりと旧市街を離れていく。
ヴァン・ティエンは車内で窓ガラスに頭を預けた。
そして――
先ほど黒服の男に殴られた場所へ、そっと手を当てる。
まだ、熱い痛みが残っていた。
だが――
彼は気づいた。
服の下にある十字架のペンダントが、先ほどから微かに震えている。
そして――
ほんのりと熱を帯びていた。
ヴァン・ティエンは目を細める。
彼は理解し始めていた。
敵は、ただ強いだけではない。
あいつらの技術は――
自分のエネルギーに対して、すでに適応を始めている。
「……奴らは、俺の力に合わせて進化している……?」
窓の外。
ハノイの夜景が、静かに流れていく。
だが、その遥か上空では――
誰にも知られることなく、巨大な戦艦が暗闇の中に浮かんでいた。