「東雲トレーナー」
すれ違いざま、声をかけられる。
その相手は……かつてのライバルのトレーナーであり、今はトレーナーの先輩であり同僚でもある人。
会釈だけしてこのまま通り過ぎるつもりだったけど、呼び止められればそうはいかない。
「……昨日、彼が来ていましたよ。相も変わらずと言った様子でしたが」
「そっか」
何事かと耳を傾ければ……あの人が来ていたらしい、と言う話だった。
……トレセンまで来たのなら顔くらい出してくれてもいいのに。
そう思うけど、そうする事すら辛いことくらいは、理解できる。
ボクたちはあれからずっと、こうなんだ。
そしてそれは……あの人が変わりたいと思わなければ、これからも変わらないんだろう。
今の連絡先を知らなければ、何処を生家としているかもわからない。
だから……聞かされても、ボクには出来ることは何も無い。
「それじゃ」
「彼の事、諦めたんです?」
「……」
「不屈と謳われた貴女も、変わってしまわれたか」
……変わった、か。
でも……そうだね。
何かが変わったかと言われれば、それはきっと…
「覆せないものもあると知ったこと、かな」
ボクたちの心は、あの日からずっと凍りついている。
───────
「「ダメダメダメダメダメ!」」
「え……ええーっ?」
やっと、良いトレーナーさんを見つけたかもしれない。
そんな話を友達ふたりに振ってみたんやけど……予想外の反応が返ってきてしまった。
「な、なんでぇ……」
「いやいやいや、逆に知らないの!?ってかあの人まだ学園内に居たの!?」
「ロアお姉も「アレだけは駄目」って言ってたんだよ!?」
「そんなにダメなの!?」
「いやだって……」
そんなに……ダメなのかなぁ。
星のマークの、紺色のチームジャケットの人。
それとももしや。
「もしや、同じトレーナーさんを狙ってらっしゃる?」
「「んな訳あるか!」」
「おぉう」
違うらしい。
一体どういう事なんだろう……
「もーとにかく、実際見た方がいいんじゃない?」
「資料室ならもろもろあるかな?」
「多分ある。サラちゃん、この後予定は?」
「そ、そのトレーナーさんを探してみようかな〜……なんて」
「よーし、そんな事二度と言えない様にしてやるぞー」
「連行っ!」
「ふ、ふええっ!?」
気づけば後ろに回り込んでいたウルちゃんが、私を羽交い締めにしてくる。
そのまま、私は廊下の奥へずるずると引きずられてしまうのだった。
こ、この先どうなっちゃうの〜!?
……
場所は変わって、学園内の資料室。
たった一つの教室に過去のレース映像をはじめ、各種記録や新聞のスクラップ等、多岐に渡るトゥインクルシリーズの膨大な情報が敷き詰められている。
狭苦しくさえなければ、まるでウマ娘博物館とも例えられる程の値千金の情報ばかり……それらが棚をぎゅうぎゅうに圧迫しているのだ。
そんな、照明はついているのにどこか圧迫感のある薄暗い室内で、備え付けられたモニタに光が灯り……その小さな箱の中に、過去の栄光が映し出される。
それは、凡そ十数年前のレース映像だった。
「はい、まずこれが“トウカイテイオー”さんね」
「わぁ……あ、有マ記念だ」
「そだね、伝説のラストランよ」
トウカイテイオー。
“オグリキャップ”のラストランの同日にデビューし、そのまま常勝でクラシック戦線を迎え、無敗の二冠を勝ち取ったウマ娘。
ケガにより断念したものの、菊花賞の出走が叶っていれば……無敗三冠も決して絵空事では無かったと目される。
ビッグマウスなだけでは無い、他を黙らせる強さを見せつけていたウマ娘だった。
それ以降も、幾度もケガに悩まされながらも走り続け、まる一年のブランクを経た有マ記念でのラストランで見せた復活劇は、今でも語り草だ。
「うん、うん……すごい人だよねぇ」
「はい次これ、“ライスシャワー”さん」
「わお、わんこそばならぬわんこレース……春の天皇賞だよね」
ライスシャワー。
デビュー当初こそあまりパッとはしなかったものの、ライバル“ミホノブルボン”と競り合いを繰り返しつつ、メキメキと頭角を表す。
そして菊花賞にて、三冠確実と謳われたブルボンを見事差しきり、更には翌年“メジロマックイーン”の天皇賞・春連覇を阻止。
そのままステイヤーズ
誰が呼んだか、「刺客」、或いは「漆黒のステイヤー」……最強ステイヤー議論では、名前が挙がらぬ事など無いと言っていい強者だ。
「お次は“サイレンススズカ”さんだね」
「おお……惚れ惚れする逃げっぷり」
サイレンススズカ。
光るものはあれどイマイチ勝ちきれない……デビュー以降、そんな評価を受けていた彼女は、あるGIレースから新たなトレーナーを迎える事となる。
そして彼女は、翌年のレースから突如、先行から逃げ戦法に転向。
「大逃げ」を戦術として落とし込み、破竹の快進撃を遂げる。
ただひたすら、何者よりも速い……それだけで、黄金世代をも混じえた群雄割拠の時代で常に先頭を行き、並み居る刺客を捩じ伏せ続けた絶対強者の一人。
誰が呼んだか、「異次元の逃亡者」。
「で、次が“アドマイヤベガ”さん」
「あ、ジャパンカップ!痺れるよねぇ」
アドマイヤベガ。
“テイエムオペラオー”を始めとした強豪同期に囲まれデビューした、通称「覇王世代」の一傑。
日本ダービーを獲り、オペラオー及び“ナリタトップロード”と三冠を分け合う……がしかし、不調から菊花賞出走以後は、長き雌伏の時を過ごす事となる。
復帰を危ぶまれながらもジャパン
当時、唯一抜きん出て並ぶ者無しとされた覇王を真っ向から下した、伝説級に並ぶウマ娘の一人だ。
「で、これは……」
「“アグネスタキオン”!超光速のプリンセスって、異名がカッコいいんだよね」
アグネスタキオン。
覇王世代の、その
その圧倒的な速度でもって他の追随をまるで許さなかった、無敗のクラシック三冠ウマ娘。
黒星はクラシック期のジャパンC、シニア期の天皇賞・春及び宝塚記念のたったの三度、その他全ての出走が白星と言う、圧倒的戦績を誇る。
ある時、突如脚部不安を公表し、惜しまれつつもデビューから三年を待たずして引退……しかし、歴史に燦然と輝く光跡を確かに遺している。
人呼んで「超光速のプリンセス」。
「はい、でこれは“スティルインラブ”さん」
「う、うん……」
「ちょっと怖いけどキレーな人だよね〜」
スティルインラブ。
史上二人目となる、トリプルティアラの偉業を達成したウマ娘だ。
瀟洒な容姿とは裏腹に荒々しい……否、禍々しいとすら言える走りを見せ、当時異彩を放っていた。
同期である“アドマイヤグルーヴ”とはトリプルティアラを始めとしたティアラ路線にて幾度も激戦を繰り広げ、彼女らの世代におけるティアラ戦線の主役はこの二強と名高い。
彼女もまた比較的早期にターフを去る事となったものの、しかし決して消えぬ紅い爪痕を歴史に遺した強者だ。
「で、次は……」
「あ、あの」
「うん?」
おずおずと手を挙げ、友人たちを引き止める芦毛のウマ娘、サラ。
振り返る栗毛のアミに投げかけるのは疑問。
「これ、まだ続く感じ……?」
「うん」
「即答!?」
「と言うか、まだ折り返しくらいだよ?」
「折り返し!?」
「ねーちょっと」
割り込んできたのは鹿毛のウマ娘のウル。
その手には、これまでのものと同じ様な……ちょっとだけ新しめに見える……映像記録ディスク。
「このアス……マ……?って人、誰だろ?」
「んん?んー……わかんない。 誰だっけ? 赤い人だっけ? 白い人だっけ?」
「知らないかも」
「関係ない人混じってたのかなぁ……まあその人のはほっといて、つぎつぎ」
「ほっといていいんだ……」
再生が再開され……映し出されたのは、再びティアラの舞台。
「これは“ラインクラフト”さんだねー。エリ女のとき」
ラインクラフト。
史上初の桜花賞、NHKマイルC、秋華賞の変則三冠を成し遂げたウマ娘だ。
更にその翌年には、前後の世代をも混じえたエリザベス女王杯を制覇。
“シーザリオ”や“エアメサイア”、“デアリングハート”を同期とし、前後の世代まで隙なく強者に囲まれながらもこれを成し遂げた功績は大きく……本来の適正はスプリンターであるとされながも、ティアラ路線のレースにおける最強ウマ娘は彼女だと推す声も少なくない。
「で、こっちは“スマートファルコン”さん」
「きゃーっ、ファル子さ〜ん!追うしかなーい!」
「ファンでござったか」
スマートファルコン。
ウマドルと言う独自の称号を掲げ、自身をアイドルとしてプロデュースしながら走っていた、風変わりなウマ娘だ。
アイドル性も求められるウマ娘としても、頭ひとつ抜きん出た売れっ子にまで至った……が、それはさておき。
競走ウマ娘としてのその実力は、凄まじいの一言に尽きる。
ダートコースこそを適正としながらもデビューから暫くは芝にも果敢に挑み、辛勝ながらも皐月賞を勝ち取った一冠ウマ娘。
本領の砂の上では、サイレンススズカに並ぶとされるその逃げ脚を存分に振るい、現役中は正に他の追随をまるで許さぬ圧倒的強さを見せつけ続け、ダートGIをなんと七勝。
累計八冠を頂き、当時のGI最多勝利記録を更新。
名実共にダート戦最強と言わざるを得ない、伝説級のウマ娘である。
「んでこちらは“ヴィクトワールピサ”さん!」
「うわ、ドバイワールドCだ!リアルタイムで見たよ!」
「うっそ、あれ発走はこっちだと朝の2時だったでしょ!?」
「前の日に風邪ひいてダウンしてて……変な時間に起きちゃって、たまたまねぇ」
ヴィクトワールピサ。
皐月賞を獲り、有マ記念を二連覇……特に二回目の有マ記念は、当時絶頂であったかの暴君“オルフェーヴル”を相手に勝ちをもぎ取った強大なるウマ娘。
彼女はそれだけではなく、世界にも挑み続けたウマ娘であり……フランスに赴きニエル賞を勝ち獲った後、凱旋門賞の掲示板にも食い込む。
更にその翌年には、震災に纏わる事情によりトレーナーの変更を強いられつつも、ドバイワールドCに挑戦し日本ウマ娘史上初の白星を得る。
帰国後は一時調子を崩すものの、先述の有マ記念にて復活……以降、勝ちに恵まれずとも末永く走り続け、輪を繋ぎ続けた。
「でー、ラストだね。“クロノジェネシス”さん!」
「おー……」
「反応薄っ!どったの?」
「いや、あの……なんかおかーさんに似てる気がして」
「流石に歳が違い過ぎるんじゃない?」
クロノジェネシス。
当初はティアラ路線を志し、秋華賞を獲り同期たちとティアラを分け合ったウマ娘。
しかし、シニア以降は京都記念を皮切りに、なんと王道路線へ殴り込みをかける。
大阪杯と有マ記念を勝ち獲り、宝塚記念を二連覇と、グランプリを通算三連勝という、ティアラ路線出身でありながらステイヤーもかくやと言った戦績を積み重ねた。
更に、彼女もまたヴィクトワールピサ同様にドバイとフランスに飛び、ドバイシーマクラシックと凱旋門賞に挑戦。
どちらも二着に食い込み……当人がそう願った様に、確かに歴史に蹄跡を刻んだと言えるウマ娘である。
……
「これ、レース映像見る必要あった?」
「どうせ来たなら見といた方が得じゃん?参考になるし」
「そうかな?そうかも……?
んで、アミちゃん」
「うん」
「みんな私が好きなウマ娘さんたちばっかりではあるけど……何かあるの?」
「……うーん、分からないのかぁ」
「えっ?何か共通点とかあった!?」
キョロキョロと目を滑らす様に、引き出された資料に再び目を通すサラ。
それでも共通点と言えるものは見当たらない。
回遊する視線が二週目も半ばに入った頃、痺れを切らしたウルが
「ここ!」
「そこ?」
そこは、彼女らの所属したチームの名が記された枠。
ある一名は個人トレーナーからチーム所属に、またある一名チーム所属から個人トレーナーの元に移った変遷が書かれているものの……共通して、ここまで見てきたウマ娘たちが皆、“プレアデス”と言う名のチームに所属していた事を示している。
そして、その下の彼女らを担当したトレーナーの名が記された枠にも、共通して全く同じ名前……“葛城 昴”と言う名が必ず入っていた。
「チーム・プレアデスの、くずしろ……こう?」
「苗字はかつらぎ、下の名前はすばる、ね」
「かつらぎすばる……葛城 昴!この葛城さんがどうかしたの?」
「これがサラちゃんが逆スカウトしたいって言ってたトレーナーさんの名前だよ」
「えっ」
きょとん、とした後、もう一度手にした資料に目を落とすサラ。
フードを目深に被った男の姿と、その名が彼女の中で結びつく。
そして彼女はある事実に気づき……きらきらと目を輝かせる。
そんな余りにも嬉しそうな顔で、資料と自身の顔を交互に見るサラの様子を見て……アミはこりゃダメだと心の中で独りごつ。
「えーっ……! 葛城トレーナーさん、すんごい人じゃない!? え、しかも私の推しウマ娘さん、みんな同じチームだったんだ!? クラシック三冠に、トリプルティアラに、八冠に、海外で活躍したウマ娘まで育てた人!? すごぉい!」
「うん、まぁそうね」
「だねー」
「反応薄っ!? なんで!?」
「だって……ねぇ?」
サラには理解できなかった。
これだけの強豪ウマ娘たちを育て、彼女らの所属するチームを立ち上げ運営し支え続けた葛城トレーナー。
それは音に聞くチーム・シリウスの桐生トレーナーに並ぶ、最良のトレーナーと言っても過言では無い程の功績の持ち主と言えるだろう。
だからこそ、腑に落ちない。
何故、葛城トレーナーは敬遠されている?
何故、アミもランも、その他のウマ娘たちも、彼を選ばない?
「だって……
「へ……?」
「ここ、ここ」
ランが指し示すのは、それぞれのウマ娘の経歴……その終端辺り。
そこには、もうひとつの共通項があった。
「ん、ベガさんにタキオンさん、スティルさんの……?“脚の不調を理由とし、早期にトゥインクルシリーズを引退”したって、まあ常識だよね?」
「この二人はまだ全然いい方なのよ。ほら、ファルコンさんとか、これ」
「“ドバイワールドCにて10着、その後重度の腱鞘炎を理由としトゥインクルシリーズ及びアイドル活動を共々引退”……!?え、そうだったの!?」
「ファンなのに知らなかったの!?」
「いやー、おじいちゃんが録画してたテレビ出演しか見てなかったから」
「もっと自分で調べる癖つけなー。と言うか、これでもかなりマシだからね」
「あえ……?」
出るわ出るわ、彼女らの見舞われた不幸。
トウカイテイオーが三度もの骨折を乗り越え走りきった事実は、競走ウマ娘としての彼女を語る上で切っても切り離せない。
それは彼女の不屈を示す美談とも取られた事もあるが……はっきり言って、それだけの怪我を負いながらも走り続けたのは、異常である。
そしてライスシャワー、及びサイレンススズカの二名は“ドリームトロフィーシリーズ”移籍後、長期の休養明けにトゥインクルとドリームトロフィーの交流試合であるエキシビション“レジェンドレース”に出走。
それぞれライスシャワーは宝塚記念、サイレンススズカは天皇賞・秋と条件を同じくしたそのレース中に転倒。
両者とも脚を砕き、予後不良と見なされ……当然トゥインクルシリーズは引退、二度と走る事は叶わぬ身体となる。
「……え?“サイレンススズカは治療の際に
「あと、これね。ラインクラフトさんの」
「“突然昏睡状態に陥り、以後目を覚ます事なく入院し療養中”って……さ、流石にもう退院してらっしゃるんだよね?」
「もし起きたらニュースになってると思うよ」
「う……じゃ、じゃあクロノジェネシスさんは?」
「あの人はラストランの有マ記念で、降着してるんだよねー。不調は無かったって言われてるけど、なんか様子おかしかったし。 ここまで来ると怪しいもんだよ」
ここまで来れば、サラにも葛城トレーナーが敬遠される……否、忌み嫌われている理由が理解できた。
だがそれでも、納得は別だ。
目を皿にして、記述の中から希望を探し……それを見つけた。
「ピサ! ヴィクトワールピサさん! ドバイから帰って、不調から立ち直って、そこからまだ走ってるよ!?」
「それトレーナー代わってるんだわ。 ほら」
「……プレアデスから、別のチームに移籍?」
「まあ、さ。 そういう事なのよ」
そこに横たわっていたのは、絶望と言って差し支えないもの。
トゥインクルシリーズに臨むウマ娘にとって、余りにも致命的な懸念事項。
それはただ偶然が積み重なったものなのか、或いは故意か悪意がそこにあるのか……真相は分からない。
ただ一つ言える事は……
「だから、サラちゃんもあんな“死神”に関わっちゃダメだよ」
「友達が走れなくなっちゃったら寂しいもんね」
葛城トレーナーの担当したウマ娘は、皆走れる脚を失う。
ウマ娘にとって、最も避けたいジンクスと言っても差し支えないものが、そこにはあった。
───────
立て付けの悪い玄関口が、バタンと大きな音を立てる。
薄暗い部屋の中、古いスイッチを入れればパチ、パチと明滅を繰り返した後、蛍光灯が白く灯るのだが……外はまだ明るい。
節電を心掛ける。
いつ見ても、何も無い部屋だ。
随分と古びた、最低限の家具類。
適当な突っ張り棒に、部屋着兼寝間着と、かつてトレーナーだった頃の一張羅を纏めて引っ掛けている。
これが俺が手に入れた全てだった。
芦毛の怪物が見せた夢に惹かれ、トレーナーとなる事を望んだ、俺の末路とも言えるもの。
「……」
敷きっぱなしの煎餅布団にごろりと寝転がる。
腹は空いている筈なのだが、空腹感はいつの間にか感じなくなった。
最早、茶で腹を満たすのも億劫だった。
クビとなった当時には貯蓄だけはあり、この安部屋に何とか転がり込む事は出来た。
だが、最早何もする事はない。
アルバイトすら続かず、殆どばっくれる形で辞めてしまった。
収入は一切無い。
冷蔵庫はあるが、中身は空だ。
最後にコンセントを抜いたのはいつだったか……
飯を買う金も最早無い。
じきに貯蓄は底を尽き、ここからすら蹴り出されるのだろう。
「……ふぅ」
何も無い……だからこそ、ぐるぐる思考は巡る。
何人もの、未来あるウマ娘たちの脚を奪ってきた。
決して、そうしたかった訳じゃあない。
しかし、一人の心を壊したのも。
一人が眠りから目覚めなくなったのも。
一人がいつの間にか消えていた……彼女らしく言うのなら、恐らく海へと流れて行った、と言うべきか……のも。
二人ものウマ娘を、死の淵にまで追いやったのも。
それらは、紛うことなき事実だ。
そういう星の元に生まれたのだということも知らず、トレーナーである事を志し続けた愚か者にとって……今のこれは妥当な末路だと、強くそう思う。
「……あの芦毛の娘は、無事に走れるだろうか」
それでも、心は未だにターフに縛られている。
瞼を閉じれば、芝を巻き上げ、砂を掻き上げ、己がこそ最速と証明すべく燃える熱い魂たちの姿が、ありありと浮かびあがる。
忘れられない……だから、未だに好意に甘えている。
トレセンを訪れても良いという、前理事長と現理事長の言葉に。
逃れられなかった。
「……」
きっとまた、あの場所を訪れてしまうのだろう。
この命の続く限り。
それも、何時まで持つのやらと言った所だが……最期にまた、彼女らの走りが見られるのなら、本望だ。
それだけ考えた所で……まだ日は高いと言うのに、意識は闇へと沈んでいった。
本話サブタイ引用楽曲: ハートエイク /内田雄馬
男は、かの芦毛の怪物の様な夢を、希望を育てる事を志した。
だが運命は彼に、栄光と引き換えに絶望を突き付けた。