「……はあ」
これまでのトレーニングのレポートをまとめる。
それと、出走記録……その結果も。
マメにつけていた甲斐があって、その作業自体は明瞭に終えられた。
明確に、分かりやすく。
だからこそ、そのザマがありありと浮き彫りにされている。
「……はあ」
記録名は“フォルティクレスト”。
ボクがつい先日まで担当していたウマ娘だ。
北海道は日高地方の生まれで、かつては門別トレセンの所属。
門別レース場を主戦場としていたダート適正のウマ娘である彼女は、好調からの初勝利を機に中央への移籍と相成り、つい先日までは大井の砂の上で戦っていた。
そう……つい先日までは。
中央所属時の彼女の戦績は、計十二戦。
九着。
十二着。
五着。
八着。
十着。
四着。
八着。
七着。
十二着。
八着。
八着。
十着。
それが中央で走った彼女の全てだった。
当然、重賞への出走なんて夢のまた夢。
ここに居られた期間も、ごく短いもの。
中央の制服に袖を通した事だけは身内に誇れるかな、なんて彼女は困った様に笑っていた。
ただ一度の勝利すらさせてあげる事が出来ず……あの子は今日、門別へ帰る。
「……はあ」
わかっていた。
地方から中央へ移籍しながらも活躍出来たウマ娘……そんなウマ娘など殆ど存在しない事なんて、トレーナー養成校で散々学んだ。
“オグリキャップ”や“イナリワン”と言った、GI級の地方ウマ娘なんて言うものは、再現性の無いミュータントの様なものだと。
でも……ボクは、上京して来た子たちに手を差し伸べずにはいられなかった。
単純に心配だったのもあるけれど……どちらかと言えば、彼女らの可能性を信じたい想いが強かった。
実は打算もあって……もしも、中央には敵わないと見放されがちな、彼女たちの可能性を開花させられる事が出来たなら。
オグリ程とまで言えなくとも、重賞をひとつ獲れる程の可能性を見せられる事が出来たのなら。
“彼”の直系であるボクが、ケガもさせずにそれを成せたのなら。
ちょっとは彼も見直されるかも……なんて。
捕らぬ狸の皮算用に過ぎなかったし、結果はこの通り散々だったけど。
フォルティより前にも、何人も似たような境遇の子たちを見てきた。
でも結局、ボクは全員の背中を見送ってきた。
それなりに揉まれてきたし、出来る事は全てやってきたつもりだったけど……負担をかける事も少なくなかったと思うし、彼女らにとって完璧で最適なトレーナーで居られた、なんて胸を張って言えない。
自分の未熟さと……今のボクと同じくらいの歳で新人トレーナーとなり、初の担当であるボクにとって最良のトレーナーで居続けてくれた、あの人の凄さを噛み締めるばかりだ。
「……はあ〜」
そんな折、コンコンと戸をノックする音が鳴る。
……誰だろう。
今日はこの後、誰とも合う予定はなかったし、次の担当候補を探しに行こうかと思っていたけれど。
答えも待たずガラリと戸を開けた、その主は……
「よっ。 ため息ばっかりついてると幸せが逃げるぜ、東雲ちゃん」
「……フォルティ?」
フォルティクレストその人だった。
もう二度とここでは聞けないと思っていたその声に、耳が思わずピクリと反応する。
もう、とっくに学園を出てしまっていたと思っていたから、少しだけ面食らってしまった。
「どうしたの? その、飛行機の時間とか……大丈夫なの?」
「言ってなかったっけ? フライトは明日の朝で、今夜はホテル泊まりさ……ククッ」
早すぎる帰還に思わず動揺してしまったのを察したらしく、フォルティが失笑を漏らす。
……相手がボクだからって、舐めよってからに。
「冷やかしなら帰って〜。 これから忙しくなるんだから」
「次のスカウトの準備かい?」
「そうそう、よく分かってるじゃない」
「それなんだけどさ」
フォルティの目つきが鋭くなる。
真面目な話をするつもりで来てたんだなと、察せられた。
飄々としている様で根っこは凄く真面目な奴だから、そういう機微は目を見てれば意外と分かる奴なんだよね。
人としては美徳なんだけど、そういうとこが勝負どころの読まれやすさなんかにも直結してるから、悩ましい問題だ。
……引き戸の影から、フォルティのじゃない尻尾がチラリと見えた気がする。
「栗東寮に、あるトレーナーに師事してもらいたいって言う子が居てねぇ。諸々考えると、あんたがそこまでの繋ぎに一番の適任だから、予定が埋まる前にねじ込んで貰いたくてね」
「ボクが適任? ……なのに、本命はボクじゃないって?」
「うん。 まあ、本当に担当に取らなくても、ダメ元で一回見てほしいのさ」
また……なんだか随分と捻くれた話らしい。
チラリ、チラリと芦毛の尻尾が忙しなく揺れる。
「……ほら、挨拶しないかい」
「うう……だって、いきなりあのテイオーさんに会え、だなんて」
「俺のトレーナーだぞ? 取って食ったりしねぇよ」
まるで親に諭されるかのように、芦毛のウマ娘がひょこりと顔を出す。
……なんとなく、何処かで見たような顔立ちをしている気がする。
「あ、あの……どうもです」
「うん、こんにちは」
「あっ、はい、こんにちは」
……
「以上?」
「あっはい、以上です」
「この話はなかったことに」
「待て待て待て、見限るまでが早すぎるだろ! サラもしっかりしな!」
「だ、だってぇ……」
「……っ、ふふ」
漫才の様なやり取りが出てしまい、思わず笑みを漏らしてしまった。
……なんだか、ふっと肩の力が抜けた気がする。
いつから凝り固まっていたのやら。
「心配しなくても、その子の事は知ってるし、一応声をかけようと思ってたよ。 サラちゃんだったよね? カサマツから来た」
「はっはい、そうですサラちゃんから来たカサマツです」
「逆だ逆」
「にっにににに認知して頂けてるなんておおお恐れ多いと言いますか」
「なんかデジタルみたいだねキミ」
「だ……だって、あの不屈の二冠・グランプリウマ娘のトウカイテイオーさんその人に合うだなんて……ましてや、私の事を知ってるなんて、その震えが止まらなくてぇ……」
思わず、ピクリと反応してしまった。
眉間に力が入って……顔が、相当険しくなっているかもしれない。
今、この子は。
「……何て言った?」
「……ふぇ? その、認知して頂けてるなんて、って」
「その前」
「えっ、その、貴女のことを不屈の二冠・有マ記念覇者って」
「なんで?」
キョトンとした顔で、サラちゃんは真っ直ぐに瞳を見つめてくる。
「なんで、って……
何があっても走るのを諦めなくて、困難を乗り越えて……それで頂点まで獲ったお人じゃないですか。
私、すっごく尊敬してるんです」
……そんな風に、言われるなんて。
もうボクは、世間ではとっくの昔に「最悪のトレーナーに三度も脚を折られた悲劇のヒロイン」として扱われていると言うのに。
ひどく面食らってしまった。
……まだ、ボクの事をそう想ってくれる子が、居たんだな。
全く……頬が緩んじゃうよ。
大人としては、ちょろ過ぎるのかもしれないけど。
でも、もうサラちゃんを見捨てると言う選択肢は、選べなかった。
「……うん、わかった。 とにかく、走りを見せてもらわないとね。
でもまあ、その前に色々と君の話を……」
「走り……走ればいいんですね!」
「うん、そうだけど」
「わっかりました! 一瞬で着替えてきまぁす!」
「ちょっとま────」
走る、と聞いて、途端に眼をきらきらと煌めかせたサラちゃんは、踵を返してロッカーの方面に走っていく。
……廊下、走っちゃダメなんだけどなぁ。
それに。
「……まだ話は半分じゃん!」
「おーい廊下は走るなー……ってもう聞こえてないか」
ウマ娘はなんと言っても、走る事が大好き。
それはヒトから見てもボクらからしても共通認識と言っても差し支えない……んだけど、走ると聞いた途端にああも人の話を聞かないのは、珍しいかも。
あの子は純真でお利口そうに見えたけども、意外と見かけに寄らないものだね。
「結局、一番大事なところを聞きそびれちゃった。
フォルティ」
「応」
「あの子の本命のトレーナーって、結局誰なの? 桐生さん? 氷室さん辺り?」
「それがねぇ……葛城トレーナーなの」
「えっ、葛城トレーナー? ふふん、ボクと同じ人を見初めるとは、見る目あるね」
……
「……ん?」
───────
「あ、あの……私、なにかしちゃいました?」
制服からトレセン指定の体操着……どうやらブルマ派らしい……に着替えてきたサラちゃんが、おずおずと聞いてくる。
……またちょっと、眉間に皺が寄ってたかな?
「……何かしたって訳じゃないけども。 まあ、ねえ?」
「そりゃあ、まあな」
「絶対何かしちゃった感じの反応ですよね!?」
自分が何を志しているのか、まだわかっていないんだろうか。
どこか抜けていると言うか、大物と言うか……笠松って何か、人をそうさせる何かがあったりするんだろうか?
「あのね……葛城トレーナーに着いて貰いたいんでしょ?」
「はいっ!」
「威勢がいいねぇ、でも敢えて言わせて貰うよ。 やめといた方がいいってね」
「なんで!?」
「修羅の道に決まってるからでしょ。 それも、大人でもどうにもならない問題がゴロゴロしてる様な、ね」
現実問題、葛城トレーナーは資格を剥奪されている。
URAの決定である以上、学園の人間やトレーナーごときの嘆願では覆らない。
今の状況で、本当に葛城さんにトレーナーをやって貰ったら、大問題だ。
そもそも、葛城トレーナーは未練はあるみたいだけど、やる気は無い。
あのままトレーナーを続けられていたならまだしも、現状では絶対に首を縦に振らないと思う。
……まあ、ボクらの感情は、別として。
「まあ、でも心配は要らないよ」
「……?」
「ボクがキミのトレーナーになってあげるんだから」
「えー」
「なんで嫌そうなのさ!」
「なんか……なんとなく……」
「なんとなくで嫌われてるのボク!?」
やばい、ちょっと先行きが不安になってきた。
初手の信頼関係で躓きかけてるのはどうなの。
「まあまあ。 それよりとりあえず、走りを見るんだろ?」
「キミが仕切らないでよ……トレーナーとして形無しじゃないか」
「東雲ちゃんの威厳なんてあってないようなもんだろ」
「ひっどいねキミたち!?」
「あの……走りますか?」
「走ってもらうよ!」
……このままだと、情けない大人にしか見えない。
トレーナーとしてデキる所、ビシッと見せなきゃ。
その為に、コースに来たんだから。
「よし、先ずはここのダートコースね」
「ダートですか……」
「カサマツはダートしかないでしょ? とりあえず、いつも通りの走りを見せてほしい。 そうだね……1200mでいいか」
「わ、わかりました」
「それじゃ、よーい……ドン!」
構えたサラちゃんが、地を蹴り駆け出す。
……ちょっと、いやそこそこ出遅れてるね。
スタートは苦手かな?
うん?
これは……うん。
そして、あっという間に走り終える。
1200mはウマ娘にとって所詮スプリント……レコードタイムなら、僅か一分強しかかからない。
それに重賞でも並走でもないんだし、短い距離となれば負担は比較的軽い。
……はずなんだけど。
「はあ、はぁ、はひ……ど、どうれすか……?」
「へろへろだな」
「へろへろだねぇ……」
どう見てもスタミナを使い果たしていた。
それに……
「あ、あの……タイム、結構いい感じな気はしたんですけど……」
「普通だな」
「普通だねぇ」
「普通ですか!?」
「デビュー前の子としては……中の下かな」
「……そんなもんですか」
……正直なところ、まあまあ遅かった。
デビュー前の子としては、まあ普通の範疇かな。
しかしどうにも伸びしろが見えないし、中央のダートレースに対応出来る脚じゃあないのかもしれない。
……ただ、走り方に凄く違和感はあった。
「まずさ」
「はい」
「肩が上がり過ぎだし、腕を強く振りすぎ。
それに、後ろに重心が残り過ぎててブレーキがかかってるよ。
その負債を次の一歩で取り返そうとしてて、身体を前に投げすぎになっているし、悪循環が每歩起きてる。
結果スタミナを使いすぎてて、脚が全く残らないしフォームもどんどん崩れてる。
こんな所かな」
「……つまり?」
「ほぼ全部ダメ」
「ほぼ全部ダメ!?」
「一番の原因はなんとなくわかるんだけど……」
……説明しても良いんだけど、何分かなり初歩的な所だからなぁ。
授業とかで、習ってないはずはないと思うんだけど。
「あのね、ストライド走とピッチ走って知ってる?」
「聞いた事ある様な、無いような……」
「聞いた事無かったら競走ウマ娘として言語道断だぞ」
「……まあ、ざっくり説明するとだね」
ピッチ走法とは、歩幅を小さく保つフォーム。
脚の回転数を多くして、それにより速度を稼ぐスタイルだ。
トップスピードに乗るまでが早いし脚への負担も比較的小さいが、その代わりスタミナを湯水の様に使う。
そして、脚の回転数の調整……要するにギアチェンジする事が容易な分、コーナリングに強い。
ストライド走法とは、その反対に歩幅を大きく保つフォーム。
脚の回転数を減らし、その分筋力とバネを使って走行距離を稼ぐスタイルだ。
スタミナの消耗は比較的少ないけど、その分トップスピードに至るまでが遅くて脚に大きく負担がかかる。
本来ウマ娘の脚が持つパワーをそのまま推進力に使う為、直線での巡航速度と航続距離には目を見張る物がある。
「……で、サラちゃんは多分、本来のフォームはストライド走法だと思うんだよね」
「そうなんですか?」
「ウマ娘には適正ってのがあってな…… 体格とか性格とか癖とかで、どっちの走法が適してるかとかはだいたい決まってるもんなのよ」
「恐らく、サラちゃんは無理やり笠松レース場のコースに適応させようとした結果、中途半端にピッチ走に寄っちゃったんだろうね。 短い距離ほど加速の遅さは命取りになるから、カサマツトレセンで走り続けるのであれば間違いとは言いきれないんだけど……」
でも、正解であるとも決して言えない。
要するに、彼女の走り方はストライド走を無理やりピッチ走の回転数で回そうとして、両者の悪いとこ取りとなってしまっている状態にある。
このやり方で良いとこ取りが出来てしまう子も居るんだけど……少なくとも今のサラちゃんは、きっとそうではない。
なら、どうするか。
「よし、次は同じ距離でおさらいしよう。 ストライド走法を意識しつつ、無理に早めず、脚の溜め方を覚えよっか」
「は……はい」
「ボクが合図するまでスパートはかけない様にしてね」
「それまではどうすれば?」
「力み過ぎず、無理に前に出ようとせず。 ゆったりめに走ってみてね」
「ゆったりめ……」
「分かったかな? それじゃ……よーい、ドン」
さっきと同じ距離。
それを、さっきより大きめの歩幅で、さっきより遅めのペースで走っていく。
……やればできるじゃない。
そうやって我慢するの。
そうして我慢した先で……
「今!」
「っ! はい!」
残った脚を注ぎ込む!
うん、やっぱり彼女は逃げ戦法は向いて無さそうだ。
先行か……いや、この爆発力はもう少し後ろでもいいのかも。
「─────っはぁっ! ど、どうですか!」
「うん、良くなったよ」
「それじゃあタイムも……!」
「タイムは普通だね」
「そんなぁ」
多少はフォームは改善した。
少しは楽そうに見えるけど、タイムはあまり変わっていない。
これは……バ場の問題かな?
「うーん、これは……ダートが合ってないのかな?」
「ダートが……? ダートに良し悪しとかあるんですか?」
「ダートに種類があるとかって話じゃなくてね……そもそもダートが合ってない可能性はあるかも、って思ってね」
「となると……あっちに移ってみるのかい?」
フォルティが指を指したのは……少し離れた場所にある、緑の美しいターフだった。
……
「はぁっ、はっ! これ、でぇ……!」
緑の上を、銀色の風が吹き抜けていく。
砂のクッション性に埋もれていた、彼女のバネの強さがはっきりと見て取れる。
先程までの二走に比べて、プレッシャーが遥かに増している。
それに、先程よりさらにフォームをストライドに寄せても、コーナリングの精度があまり落ちてない。
彼女の脚は、明らかに芝向きだった。
ただ……それでも。
「タイムっ……! どう、ですか!?」
「普通だね」
「はひ……そん、にゃあ〜」
それでも、彼女のタイムはあまり良いとは言えなかった。
カサマツにいた事を鑑みると、やはりダート短距離が中心だったはずだ。
中央への移籍が叶った事を見れば、ダート戦か、
どうにも、彼女はそうではないらしい。
わからない……なら、本人に聞いてみるか。
「サラちゃん、芝走ってみて、どうだった?」
「
「うん、見た感じそうみたいだね……あれ、芝走ったことあるの? 」
「あ、はい。 実家……と言うか。 おじいちゃんちにあるので」
ターフを個人で保有しているという事なのかな???
ボクはこの子に何度面食らわせられるのだろうか。
笠松にそんなものがあるなんて話は、聞いたことがない。
まあ、例えばメジロだとかサトノだとか、あのクラスの富豪であれば、コースを自前で作っているなんてのはこの世界では有り得ない話ではない……のだけど、経歴上この子は一般家庭の出身の筈。
どうしよう、ますます謎が深まった。
少し頭が痛い。
「……」
「……あの、私なにかしちゃいましたか?」
「なにかした訳ではないんだけど、この、なんて言うか……ねえ?」
「まあ、うん……混乱もするさ。お前さん情報量が多すぎるのよ」
軽々しくこんな子のトレーナーになると言ったのは、一体どこのどいつだろうか。
ボクだった。
言ってしまったものは仕方ないか……一旦今日は、持ち帰ろう。
「とりあえずまあ、今日はこんな所にしとこうか。 サラちゃんも疲れたでしょ?」
「まだまだ行けますよ?」
サラちゃんはけろりとした顔で言った。
走り終える度にあんなにへろへろになるのに、少し経てば元に戻ってる。
この子は本当に何なんだろう。
「お前さん、今日は一応休養日だったろ。 やり過ぎは身体に毒だぜ」
「ちょっ……フォルティ、それ先に言ってよ」
「あっ、そういえばなんですけど」
「何?」
「このコースって、何メートルなんですか?」
「そりゃあ……一周だいたい2000mだね」
次に彼女が口にした事に、ボクは耳を疑った。
「じゃあ、一周半くらいですかね。 一回だけ、走ってきてもええですか?」
「いやいや……それ、3000mだよ。 菊花賞の距離だよ?」
「わたし、こんなに広いターフをひとりで走るのが初めてで……走りたくって、仕方なくて」
「話聞いて?」
「……ダメ、ですか?」
一体何を言っているんだこの子は。
少し前まで地方で教導されていた子が、いきなり長距離を走る?
東京大賞典が3000mだった頃……ボクの現役の少し前、イナリワンの時代ならまだしも、今の時代の地方やダートでは、そんな距離は経験できない。
この子は、本当に出来ると思って言っているのか?
分からない……でも、とりあえず言えることは。
「ダメだね」
「がーん」
「そりゃあ、休養日なのに散々走らせちゃったしね。 別に見捨てたりはしないからさ。 また明日からやろ?」
「……一回だけ、一回だけ! お願いします!」
存外食い下がるなあ。
……そんなに走ることが好きなのかな?
そう思ったら、ふと魔が差してしまった。
本当に、彼女は言うだけの事が出来るのか、と。
「……一周半はダメ」
「がーん……」
「一周まで、2000mまでにしてね」
「いいんですかっ!?」
「近い近い! 食いつくねぇ」
「やったー!」
ぴょんぴょん跳ね回るサラちゃん。
そんなに嬉しいかな。
ウマ娘は走る事が本能的に好きな子が殆どではあるけれど、ここまでの子は珍しい。
「じゃあ、いってきまーす!」
そうして、タイムを測るのも待たずに飛び出していく。
さっきよりも、遥かにのびのびとストライドを伸ばし、サラちゃんは駆けていった。
「はは……楽しそうだね」
「だな」
正直ボクは斜に構えていた。
きっと、フォルティも同じだったと思う。
口だけならなんとでも言えるのは、どこの世界だって同じだ。
サラちゃんはもとより
この時までは、そう思っていた。
サラちゃんは駆けた。
さっきよりも遅い速度で、のんびりした加速で。
何度か走ったし、疲労が溜まっているんだろうと見ていた。
「ん……?」
「……なあ、東雲ちゃん。 あれ、どんどん加速してないか?」
「フォルティもそう言うなら、見間違いじゃなさそうだね」
サラちゃんは駆けた。
一歩一歩、芝にしっかりと蹄跡を刻む様に。
適切に機能した脚のバネが、彼女を銀色の風に見まごう速度まで押し上げていく。
そして、最終コーナーに差し掛かり……動いた。
「……!」
「おいおい……!」
サラちゃんは駆けた。
きちんと残していた脚を存分に使い、更に加速する。
加速の開始の瞬間だけ、その足は素早いテンポを刻む。
そうしてついた初速、その勢いを乗せながら身体は低く、低く、前傾に倒れる。
まるで、ストライドの一歩一歩が地を揺らす様で。
それでいて、軽やかに羽ばたく様で。
力強く、それを成す身体は靱やかに。
程なくして……ボクの目の前を、突風を連れて白銀の流れ星が横切った。
「……あ、はは」
そんな事が。
本当に、そんな事が有り得るのか。
数百mもオーバーランした彼女を……その足が深々と刻んだ蹄跡を目の当たりにしても、現実味が無かった。
のびのびと、好きなように走って、コレ?
だって、彼女の走りはまるで。
その蹄跡の深さは、まるで。
ボクの現役の、少しだけ前の時代に一世を風靡し、そしてボクのデビューと同日に奇跡を見せた、あの……
「はーっ……気ん持ちよかったーっ」
‘“芦毛の怪物”の様だった。
本話サブタイ引用楽曲: innocent flowers / Nornis
チャンスと言うものは、諦めなかった者の元に必ず訪れるとは言いきれない。
だがチャンスを掴めるのは、諦めなかった者が殆どだ。