霧の渓谷。
そこは、1年中魔力の霧に覆われた自然の迷宮。
濃霧の中で位置を見失わぬよう、この地のレゾナンスは総じて行動範囲が狭く、大人しい。
だからこそ、今日の霧の渓谷は異常な状態だと言えた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
地面が爆ぜる。
気流が乱れ、霧が雨のように振り注ぐ。
長いひげを持つ鼠のレゾナンス、ウィンドウマウスが逃げ惑う。
草木を食んでいた羊のレゾナンス、
「ブオオオ!!」
その騒動の中心に居たのは、1人と1体のレゾナンスだった。
「しつこい!」
人型のレゾナンス、魔人であるセレスは1本の鎖を放つ。
ここに至るまで幾度となく繰り返されたその魔法は、しかし対峙するもう1体である黒猪の牙によって弾かれる。
「っ!」
「ブモ?」
セレスは弾かれた鎖の勢いそのままに回転、体を蝕む魔力が大きくなることにも構わず魔力を注ぎ込む。
「
黒猪の側面を、鋭くしなった鎖が撫でるように切り裂いていく。
「ブモオオオ!!」
赤黒い血液が飛沫を上げ、黒猪が僅かに怯む。
セレスは振り抜いた鎖を消し去り、その隙を突いて霧の中に姿を隠す。
これは、セレスたちが襲撃を受けてから何度も繰り返した逃走劇。
苛立ちの募った黒猪が、全身を震わせ鳴き声を上げた。
それを背に聴きながら、セレスは突き立った岩の裏に体を滑り込ませて荒い息を調える。
(……今、どれくらい経ったのかしら?)
魔力の霧は深く、厚い。
視覚も、魔力による探知も役に立たない。
だが、追跡者である黒猪はその嗅覚を用いて確実に追跡し、セレスを着実に追い詰めていた。
「調子が良かったのは最初だけね」
黒猪がセレスたちを襲った時、その暴風のような突撃で一撃で護衛であるトライマンが半壊した。
それを確認して、セレスは魔法を使った。
注意を引きつけるため、牽制し護衛であるトライマンを立て直させるために。
そしてそれは、半分うまく行った。
放った
放たれた弓矢が前足付近に突き刺さり、出鼻を挫く。
突き出された槍が背後からその臀部へと突き刺さり、悲鳴を上げさせる。
盾を持った1人がセレスと黒猪の間に割って入り、身代わりとなるべく深く腰を落とした。
お手本のような連携。
セレスの目から見てもその動きは無駄がなく、まるで3人で1つの生き物のように見えるほどだった。
惜しむべきは、最初の暴風が何だったのかを深く解析しなかったことか。
「へ?」と、盾を持った男が間抜けた声を上げながら吹き飛んだ。
それに驚いたトライマンの2人の動きが止まる。
黒猪が臀部に刺さった槍をそのままに半回転し、その牙を槍使いの側面に叩きつける。
槍使いは、咄嗟に槍を盾にしたがその一撃で槍が折れてしまう。
黒猪は
それが1時間前。
幾度の逃走劇の間に、セレスは鎖を1本しか出せないほどに体を蝕まれていた。
「ふぅ……ふぅ……けほ」
休憩を始めて5分程度。
未だにセレスの息は乱れ、手足はだんだんと震え出していた。
それは、この逃走が長く続かないことの証明だった。
(仕方がないとはいえ走り過ぎた……この濃霧じゃ彼らも追いかけてこれない)
セレスは、トライマンの3人を思い浮かべる。
トライマンは人族で、その知覚の多くを視覚と聴覚、そして魔力感知に頼っている。
それはつまり、この霧の渓谷において目隠しをされていることに等しい。
一度見失えば、追いかけるのはもう不可能と言ってもよい。
(そして、目印もなく走り続けた私も……元の道に戻れない。それはこの霧の渓谷では致命的なこと)
セレスは、濡れて重くなり使い物にならなくなったローブを脱ぎ捨てる。
全身に魔力を流し、循環させると同時に意識がブレて片腕をついた。
(ノーバットさんと出会った時と同じくらいかしら……だったら、相打ちになら持っていけるはず)
吸い込まれるような風がセレスの肌を撫でる。
セレスは、殆ど反射的にその場を飛び退いていた。
爆発音。
セレスの隠れていた岩が半透明の砲弾に破壊され、辺りに水飛沫が振り注いだ。
「……」
「ブモ」
黒猪が、無機質な瞳でセレスとの距離を詰めていく。
足を止め、にらみつけるセレスに黒猪は牙に魔力を収束していく。
「その、黒い、靄……
唯一白を残していた牙すらも黒に染まっていく。
その靄の魔力にセレスの中の異常魔力が反応し、更に鼓動を激しく刻んでいく。
「っぁ……!」
頭痛、耳鳴り、目眩。
セレスは途切れそうになる意識を気合いで繋ぎ止め、悪化することも構わずに魔力を更に循環させていく。
黒猪はそれを見ていた。
その姿は、セレスが魔法を発動するのを待っているように見えた。
セレスはその姿を視認しながらも、魔法の狙いを絞っていく。
黒猪に30本。
自身に5本。
1秒間意識を繋ぎ止め、両者とも殺し切れるであろう目算の数値。
これが終われば、結果がどうであろうとセレスの意識はこの世から消え去る。
(私は、お前の思い通りには……ならない)
セレスの瞳が、黒猪の先にいる1人の男を捉える。
セレスの目に映る男の幻影が笑う。
幻影はセレスを指差す。
“まずひとつ”
そんな耳鳴りを振り祓い、セレスは魔法を──
視界に高速回転するノーバットが飛び込んだ。
「死ねええええええええ!!!」
「ブォォォオオオオオオオ!!?」
ドッッッ!!
重く、腹に響く音が鳴り響く。
一瞬の間を置いて、再び赤黒い血液が吹き上がった。
「え?」
思いもしなかった光景に魔法が解け、再びその肌を褐色が覆い尽くしていく。
「……え?」
黒猪の首元、ノーバットが──その手に持った手斧が深々と突き刺さっている。
「
ぶらりと垂らした左手。
ノーバットの苦悶の声。
ノーバットは突き刺さった手斧をそのままに、黒猪を蹴ってセレスの正面に降り立った。
「セレスさん、無事ですか!?」
セレスの肩に、硬く、しかし優しい手が添えられる。
「どう、して……ここに……?」
「説明は後です。先にここを離脱しますよ!」
ノーバットは右手で腰についていたボールを取り、苦痛に喘ぐ黒猪の鼻へと正確に投げつける。
パキン。
乾いた音が鳴り、黒猪とは数メートル距離があるのにも関わらず、周囲をツンと鼻をつく臭いが充満した。
「ブモォ!? ブォオオ!!?」
黒猪が、狂乱したように鼻先を激しく振り始める。
同時、耳鳴りが消え始めたセレスの耳に地面を駆けるガイアの足音が聞こえた。
「っ!」
そこがセレスの限界だった。
気力で保っていた体から力が抜けていく。
「おっと」
それをノーバットが優しく受け止め、抱き上げる。
「すみません、少し揺れるのは許してくださいね」
返事も出来ないセレスを抱えたまま、ノーバットは走り寄ったガイアに飛び乗り、掴む。
「ブモオオオオオオ!!!」
ガイアは黒猪の咆哮を後にその場を走り去っていった。