森に入って最初に感じるのは、色ではなく匂いだ。
湿った土と腐葉土、苔と樹皮の青臭さ。
そこへ、花蜜と熟れた果実の甘い香りが薄く混じっている。
「んー、やはり森は空気が良い。そう思いませんか?」
「そう変わったようには思えないけれど……」
「いやいや、ほら深呼吸してください。こう、感じるでしょう? あらゆるレゾナンスたちの魔力の残り香が!」
「…………」
やはり森は良い。
レゾナンスの密度が段違いだ。
「魔力の残り香というのはわからないけど……そうね、とても良い景色だとは思うわ」
紫の森は奥へ進むごとにその彩りを増していく。
黒と濃紫、蜜を求めて宙を舞う蝶型レゾナンスのネクターウィング。
茶と紫、木に張り付いて樹液を舐める昆虫型レゾナンスのハニービートル。
そして、紫の落ち葉の間を灰紫色の野ウサギが駆け抜ける。
植物だけじゃない、そこで生活するレゾナンスや動物たちすらもその色を重ねている。
こういう光景を見るたびに、仕事を辞めて傭兵になって良かったと思う……ん?
「おっと、ここは迂回しますね」
「迂回……? 何もないように見えるけど」
このままだと通るルートだった先の地面を指す。
見るだけならなんの変哲もない、ただ落ち葉が折り重なった地面だが……
「あそこ、僅かに上下しているのがわかりますか?」
「…………言われてみれば、程度には」
「あそこにアンダーリーフという狼系のレゾナンスが居ます。狩りの途中ですね、目の前を通れば襲われちゃいます」
あぁ、ちょうど飛び出した野ウサギが……
「キィ!?」
木の葉が舞って野ウサギが消えた。
アンダーリーフに木の葉の下、地面へと連れ込まれたのだ。
「……怖い場所ね」
「そうでしょうか?」
確かにアンダーリーフは危険なレゾナンスに含まれるかもしれない。
アンダーリーフの魔法である“
狼ゆえかその顎も、鉄鎧程度なら噛み砕く程に強力だ。
「ここのレゾナンスは基本的に待ち伏せが多いんです。なので、歩く道を間違えなければ襲われることは基本ありません」
アンダーリーフの狩りは単独で行う。
近くにいないとは思うがちょっとだけ迂回しよう。
「私には難しそう」
「慣れですよ、慣れ」
あと興味と知識。
持論だが、それさえあれば即死は防げる。
「あぁ、そういえば……ミミックパックデスマンティスというレゾナンスは知っていますか?」
「ミミックマンティスね、人並みには知っているわ」
「私、彼らの誘引器官……疑似餌を取りに来ていたのですが、その疑似餌に触れる前に襲われまして」
思い返す今朝のことだ。
ミミックパックデスマンティスは慎重な狩人だ、例え獲物が射程圏内に入ったとしても疑似餌に接触するまで一切動かない。
だというのに近づいただけで襲われた。
完全に予想外の行動だった。
「最近はレゾナンスの凶暴化とかいう話も聞きますしね、物騒な世の中になったものです」
「そう、ね」
「これに関して私は行動パターンの変化というより、病気か何かによって思考が変異したと考えているんですよ」
突然変異や個体差というのも考えられるが……その場合、体が適した形に研ぎ澄まされている筈だ。
だがあのマンティスの身体構造や古傷は、通常のマンティスと何ら変わらないものだった。
「……私にはわからないわ」
「すみません、話が脱線してしまっていました。今から彼らの生息域に入るので気をつけるように、と言いたかったのです」
ガイアに騎乗しているので万一もないはずだが念の為。
ここのマンティス、ちょっとだけ擬態の幅が広いからな。
赤い果実、小型の虫、白い花弁に……
「ん、木の葉が邪魔ね……」
あっ。
「ひ! ひっついて……!?」
見逃した!?
ガイアも気づけよ!
えっ、無理? 匂いもない? 私が見逃したのが原因?
そうねぇ……
「ギチチチチチチ……」
足に力を込め、跳ねながら手斧を振り上げる。
予想通り、音もなく振るわれた鎌を弾き飛ばす。
そのまま片手で予備の手斧を振って木の葉……誘引器官を切断。
「ギィッ!」
そこでようやくマンティスが、姿を現す。
「ちょっと走りますよ!」
着地しながら手斧を収納、走り出したガイアの鉄片を掴んでしがみつく。
あいつか。
木に張り付き、枝に擬態していたようだ。
大きさは1メートル程度、子どものマンティスか。
「すみません、危険に晒しました」
20~30秒ほど走り、マンティスが追ってきていないことを確認し、停止する。
マンティスは、狩りに失敗した時点で獲物を諦め逃げる習性を持つため追いかけてくるなんてあり得ないのだが、今朝のこともある。
警戒するに越したことはない。
「いえ、私も全く気づけなかったから」
そう言う割には反応していたように見える。
少なくとも鎌が迫っている時、片腕を突きだして致命傷を防ごうとしていた。
魔法か、鎧に類する防具を身につけて戦っていた経験が見え隠れする。
「すぐにルートを確認しますね……」
ともあれ仕事だ、少し走っただけなのでそれほどズレた場所には来ていないと思うが。
「うん、問題なさそうですね。こちらです」
蜘蛛の糸無し、木の幹に切り傷なし。
少なくとも、ヤバい奴らの縄張りには入っていない。
頭上を見上げる。
差し込む日光がだんだんと弱くなっている。
腰のポーチから方位磁石を取り出して方角を確認。
頭にマップを広げ、歩いた時間、移動した距離から大体の現在地を割り出す。
「少し移動したら野営の準備をしましょうか」
「野営? まだ太陽はあるようだけど」
「確かもう少し進むと夜行性のレゾナンスたちの領域に入ってしまうんですよね」
「なら、距離を犠牲に安全性を取る、ということね」
「そうなります」
明日の早朝に出発しても昼には森を出れるだろう。
歩きながら、野営するのにちょうど良い場所を探す。
非常に残念ながら、この森には休めるような小屋や、野営地跡のようなものは存在しない。
前者は蜘蛛が嬉々として縄張り兼狩場にするし、後者は鹿が原型を留めないくらい粉々に切り刻むからだ。
うーん、この人間の居場所なんてないんだよ! と言わんばかりの殺意……素晴らしい!
「ガゥ」
ガイアの声に振り向く。
どうやら先に、野営に適した場所を見つけてくれたらしい。
「蜘蛛の巣、傷跡なし、木の根が多い、マンティスもいない……」
チェックよし!
ここを野営地に決定し、セレスをガイアから降ろす。
セレスが一息ついていると、ガイアがのっそりと顔を寄せた。
「グァ?」
「……?」
「あー、多分乗り心地について聞いてるんですよ」
よくあることだ、初めて背に乗せた相手には感想を求める。
「ガイアには娘が居るんですが、よく背中に乗せて遊んでましてね……似たような感じであなたにも意見を求めているのかと」
「むすっ!? ……娘という年ではないのだけれど」
「見た目はフード被っていたらわかりませんし、背丈も……私が見たところ、ガイアの娘とあんまり変わりませんからね」
「そ、そう……ちょっと複雑ね」
種族差はちょっとどうしょうもない。
ガイアに感想を伝えてくれているセレスを横目に、焚き火に使えそうな木を集めていくのだった。