ツンとした消毒液の匂い。
ノーバットが眠りについた頃、セレスは目を覚ました。
顔を僅かにしかめ、清潔に整えられたシーツの上で頭を押さえながらゆっくりと体を起こす。
「……ここ、は」
「ここはガレンの医療所だよ」
セレスが声の主へと視線を向ける。
そこには、淡い灰青色の長衣を着た壮年の男が立っていた。
男は手にはペンとボードを持ち、セレスの様子を確認するとボードに貼り付けた紙になにかを書き込んでいく。
「ガレン……?」
「今朝、君が魔力異常で運び込まれてね。僕が診させてもらった」
男は医術師だ。
セレスに話しかけている今も
「私は……」
「セレスさん……いや、セレネースさん。君の事情は傭兵組合から聞いている」
セレネース──本名を呼ばれたセレスは、その体を一瞬強張らせる。
「ここは密室で聞き耳を立てるようなやつはいないし、僕も守秘義務は守るから安心してほしい」
医術師がカルテを書く手を止める。
「病気、といっていいのかすらわからないが随分と恐ろしい……まさか、魔法を使うことで症状が悪化するとは」
「……魔法」
「随分と危機的状況だったようだね。君を運んできた傭兵も酷い怪我をしていた」
傭兵、その単語を聞いたセレスはハッと目を見開く。
「彼は、ノーバットさんはどうなったの……!?」
セレスの記憶にあるのは、左腕から大量に血を流しながら戦う全身鎧の男の姿。
「彼は治療を終えて、別の部屋で休んでいるよ」
「……っ」
「左腕のケガと大量出血に魔力枯渇症……正直に言うと君よりもよっぽど危険な状態だった」
医術師は、呆れたようにため息を吐く。
「鎧は綺麗なものだったからね、見事に騙されて君の治療を優先するように誘導されたよ。まさか鎧の中があんなことになっているとは……」
護衛対象を守るため、左腕を犠牲にしたノーバットの姿をセレスは思い出す。
「ということであの傭兵……ノーバット君には今会えない。彼と一緒に来た、大きな熊のレゾナンスなら中庭に居るけどね」
「……そう、なのね」
セレスは深く目を瞑り、強く歯を噛み締めた。
「…………?」
セレスは違和感を覚えた。
身体に力が入る。
(調子がいい……体が、軽い?)
起きたばかり、気になることが先行して行えていなかったセルフチェックをセレスは行っていく。
「魔力が、流せるようになってる……?」
「セレスさん?」
「あなた、どんな治療をしたの!?」
セレスにとって、それはあり得ないことだった。
体を蝕む魔力。
それは広がることはあっても抑えられることはなく、何もしなくとも時間とともに悪化していく。
少なくとも、セレスが居た国では抑制の方法は見つからなかった。
国が傭兵組合に掛け合い、ツテを使い、蛮国という国にもしかしたら抑制の方法を見つけることができるかもしれないという魔術師の話を聞いた。
「もしかして、あなたが──」
「お、落ち着いてください」
医術師の焦った声で、セレスは一度言葉を飲み込んだ。
「僕はあなたに念の為魔力抑制剤を投入しただけで……
「あり得ない、わ」
「あぁ、やはり……聞いていた状態と違うと思ったよ」
医術師は再びカルテに目を落とし、何事かを走り書く。
セレスは、今の一連の会話が問診の1種であったのだとわかった。
「聞いていた異常魔力、数が多いものの大きさは小さく、流れる魔力は一般的な人間程度なら問題なく循環している」
医術師は確認することを全て終えたのか、目に込めていた魔力を解いた。
「ともあれ君は病人だ。急いでいるのは分かるし、
「ありがとう、そうさせてもらうわ」
医術師が部屋から出たのを確認すると、セレスは病室を見渡した。
「……」
セレスに与えられた病室は、セレス以外誰もいない個室だった。
それだけではなく、明らかに急遽用意されたであろうドレッサーや荷物置きなどが配置されている。
「……はぁ、また圧力をかけたのね」
ガレンという街は小さくない。
紫の森という資源と、街から街へと移動する際の通行経由地点になっていることから多くの人が生活している。
だというのにいきなり患者が来て、個室が空いているわけがない。
前にも同じようなことがあったゆえに、セレスはそう確信した。
「十中八九、傭兵組合を通して無理を言ったのでしょう……私が、悪いわね」
セレスは確認を終えた。
この病室に監視がないことを。
セレスはシーツをめくり上げ、ゆっくりとベッドから足を降ろして靴を履く。
服を着替え、ドレッサーについている鏡の前に立った。
黒と白が入り混じる長髪。
病的なまでに白い肌に、目の下の隈がよく目立つ。
額から後頭部に伸びる灰色の角には赤いヒビが入っていた。
そんな死人のような自分の姿をフードで覆い隠し、左腕に着けた質素な腕輪を撫でた。
それは貴重な魔道具である
これを持っているおかげで、セレスは最低限の荷物のまま旅をすることができている。
セレスはボックスバングルから、真っ黒な指輪を一つ取り出した。
「どうして魔力が使えるまで回復したのかは分からないけれど……僅かにでも使えるのなら」
心当たりはセレスの脳裏によぎる一人の傭兵。
しかし、直後に首を振る。
ノーバットはレゾナンスや生態系の知識はあるように見えたが、襲ってきたアンダーリーフやアンプスパイダーに対し驚愕しているように見えた。
それはつまり、
「“メイクアップ”」
黒の指輪を指にはめ、決められた呪言を唱える。
指輪から溢れた黒い影がセレスの全身を包み込む。
次の瞬間、角は消え、褐色の肌を持った女性がそこに立っていた。
「これならバレないわね」
姿を変えたセレスは窓の外を見る。
窓は特に固定などはされておらず、中庭らしい広間の先に街道が続いている。
「書き置きと……ノーバットさんへの依頼料、あと治療費を置いて……」
ドレッサーの上に書き置きを2枚、硬貨の入った大きな袋を置いて窓を開けた。
中庭には人の胸ほどの高さの植木が植えられ、身を隠すにはちょうど良い環境だった。
日は高く昇り、昼前の時間帯になっていたが、周囲に人の気配はなかった。
「……」
これを幸運と感じたセレスは、一瞬の間を置き外へ飛び出した。
音が出ないように芝生に着地し、一息に街道へ駆け出した。
「……?」
セレスは、誰かに見られているような気配を感じた。
敵意などはない。
しかし、振り返ってもセレスの目には誰も映らない。
セレスは違和感を感じながらも、中庭と街道を隔てる植木を超える。
そしてそのまま街の中心へと走り去っていった。
〜
医療所の中庭。
セレスが走り去った数秒後。
ガイアが植木の影から顔を覗かせた。
この中庭は中に入れないレゾナンスたちの待機場でもあったのだ。
なのでノーバットの治療中、やることがないガイアはこの中庭で体を休めていた。
他の病人たちを驚かせないように体を隠し、気配を消しながら。
そんな中、ガイアはセレスの匂いをした女性が街へ走っていくのを、鼻と耳で感じていた。
止めることはできた。
だがしなかった。
ただその行き先をじっと見ていた。
やがてその姿が完全に見えなくなると、再び地面に寝転び気配を消した。