覚悟ガンギマリ系一逸転生者による幻想郷破壊録 作:フリッツⅩ
井深俊宏が三十歳を迎えた春、幻想郷を出るための準備は最終段階に入っていた。
人里で暮らすようになって二十三年、彼は親類の家で生活を送りながら、表向きはごく普通の人間として年齢を重ねてきた。
仕事を覚え、人付き合いを身につけ、日々の暮らしを維持するために必要なことも学んだ。
その一方で、胸の内に置いた計画を忘れたことはない。
外界へ出て生活の基盤を築き、いつか幻想郷の存在を外の人間に認識させる。
その目標へ向けた長い準備が、ようやく実行の直前までたどり着いていた。
いま整えなければならないのは、博麗神社へ向かう際の身なりと、そこで自分がどのような人間として振る舞うかという問題だった。
俊宏は、以前に霧雨店で手に入れた上着を参考に、仕立て直した衣服を広げていた。
襟や前合わせ、袖の形を確かめながら、こちらで調達できる布を使い、洋装に近い一式を整えてきたのである。色は目立ちにくいものを選び、華美な装飾品も避けていた。
目指したのは、外界の会社員が仕事の場で着るような、ありふれた服装だった。
鏡の前に立つと、普段の着物姿とは印象が大きく変わっていた。
上着とズボンの組み合わせは人里では見慣れないものの、外界から迷い込んだ人間が着ていても不自然ではない。
靴も、手に入る材料と職人の技術を使って形を整え、歩いたときに違和感が出ないよう調整してある。
完全な再現ではないが、外界の人間に近い姿を作るという目的は果たせそうだった。
しかし、俊宏は外見を整えただけで準備を終えるつもりはなかった。
服装が判断の手掛かりになるとしても、それだけで出自が決まるわけではない。
何を尋ねられ、どう答えるのか。相手の話をどのように受け止め、どんな態度を取るのか。
長年幻想郷で暮らしてきた自分の癖が、無意識のうちに表れる可能性もあった。
彼が必要としているのは、結界を越えるための力ではない。
博麗の巫女に外来人として認識され、外界へ帰還する手続きの対象として扱ってもらうことだった。
幻想郷で生まれ育った自分がその条件を満たせるかは分からないからこそ、相手の判断を不用意に誤らせるような振る舞いは避けなければならなかった。
俊宏は鏡に映る自分を見つめながら、外見の奥にある振る舞いまで整える必要があると考えていた。
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次に手を加えたのは、髪型と顔つきだった。
俊宏は髪を整え、幻想郷の人里でよく見られる髪型から、外界の会社員らしい形へ近づけていた。
長く伸ばしたままでは洋装との釣り合いが悪く、反対に整えすぎれば、初めから姿を作り込んでいたように見えるかもしれない。
前髪や襟足の長さを調整しながら、自然に見える範囲を探っていった。
眼鏡も用意してあった。外界では珍しい品ではなく、視力の補助という日常的な目的で使われるものだ。
俊宏自身は眼鏡が必要なほど目が悪いわけではなかったが、顔の印象を変える助けにはなる。
彼は度の強すぎないものを選び、かけた状態で物を見たときに違和感が出ないか、何度か着脱して確かめた。
眉毛についても手を加えた。
普段の顔つきのままでは、服装を変えても人里で暮らしてきた印象が残る。
眉の形を整え、余分な部分を剃ることで、顔全体の印象を変えようと考えたのである。
極端に不自然な顔つきになることは避けながら、鏡に映る姿が普段の自分とは違って見えるまで調整を重ねた。
身なりを整え終えた俊宏は、普段の姿と、眼鏡をかけて洋装に身を包んだ姿を見比べた。
外見を変えること自体は、思ったほど難しくなかった。
しかし、目の前にいる相手に自然な人間だと受け止めてもらうには、見た目だけでなく、会話や態度にも気を配る必要があった。
長年暮らした人里には、人との距離感や、相手の立場に応じた言葉遣いなど、日々の生活を通じて身についた作法がある。
幻想郷の住民同士なら意識せずに通じる感覚でも、外界から迷い込んできた人間として振る舞う際に、同じように使えるとは限らない。
前世の記憶を頼りに外界での会話を思い出し、それを現在の自分の動きに馴染ませる必要があった。
会社員といっても、性格や態度は人それぞれである。
よく話す者もいれば、必要なことしか口にしない者もいる。礼儀正しい人間もいれば、疲れを隠せず不愛想になる人間もいる。
俊宏が演じるべきなのは、誰もが想像する模範的な会社員ではなく、どこにでもいる一人の人間だった。
彼は、過剰に整った人物になろうとしないことを心がけた。
見知らぬ場所へ迷い込んだ人間なら、道が分からず戸惑うこともあるだろう。
相手の説明を理解できなければ尋ね、必要な情報を得られたなら礼を述べる。
特別な言い回しを暗記するより、相手の話を聞いてから自然に答える姿勢を身につける方が、不自然な矛盾を生みにくいと考えたのである。
俊宏は声の調子や話す速さを確かめ、短い受け答えを繰り返した。
人里で身につけた言い回しを避けることだけに気を取られると、今度は不自然に言葉を選んでいる様子が表に出てしまう。
必要以上に話さず、問われたことに落ち着いて答える。その基本を忘れなければ、作り込んだ台詞に頼らなくても対応できる場面は多いはずだった。
外界の会社員を完全に再現することはできないし、その必要もない。
俊宏が目指しているのは、細部まで設定された架空の人物として相手を欺くことではなく、目の前の巫女が、外から迷い込んできた人間として自然に受け止められる姿を整えることだった。
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俊宏は、自分の名前についても決めておく必要があった。
幻想郷で生まれ育った本名を名乗れば、人里での暮らしや出自について尋ねられる可能性がある。
名前だけで素性がすべて明らかになるわけではないが、最初から自分の正体につながる情報を与える必要もなかった。
そこで用意したのが、「田中誠治」という名前だった。
珍しい名でもなければ、特定の家柄や土地を強く連想させる名でもない。
外界で暮らす一人の会社員として名乗るには、目立たず覚えやすい名前だった。
俊宏は、外界へ出ることができたなら、この名を新しい人生に使うつもりでいた。
もっとも、名前を決めただけで外界の社会に受け入れられるわけではない。
身元を証明する書類も、それまでの経歴を裏付ける記録もない以上、名乗った先でどのような問題が生じるかは未知数だった。
それでも、外へ出たあとに何者として生きるのか、その問いに答えを用意しておく必要がある。
田中誠治は、外界の会社に勤める、ごく普通の会社員である。
仕事を終えれば帰宅し、翌日のために休み、休日には必要な買い物を済ませる。
特別な経歴も珍しい能力も持たず、日々の仕事と生活を繰り返している人物として、俊宏はその名を自分の中に定着させようとしていた。
ただし、勤務先や部署、上司の名前、これまで担当した仕事など、架空の経歴を細かく作り込むことは避けた。
設定を増やせば、質問に答えやすくなる場合もあるだろう。
しかし、細部まで決めた話を重ねれば、思いがけない質問によって矛盾が露呈する可能性も高まる。
そもそも、博麗霊夢がどこまで身の上を尋ねるのかは分からなかった。
詳しい経歴を語る必要がないなら、余計な情報を持ち出さず、聞かれたことにだけ答えればよい。
経験していない出来事を無理に語る必要も、知らないことを知っているように説明する必要もなかった。
外界へ帰りたいという気持ちは本物なのだから、その部分を飾り立てずに伝えればいい。
俊宏は、名前を心の中で何度か繰り返した。
田中誠治という言葉を聞いて、特別な人物を思い浮かべる人間は少ないだろう。
どこにでもいる人物として受け止められることこそ、彼にとって都合がよかった。
外界の会社員らしい経歴を誇示する必要はなく、外から迷い込んだ人間が帰還を望んでいるという説明が自然に通じるなら、それ以上は語らない方がよい。
田中誠治という名は、入口を通るためだけの偽名ではなかった。
外界へ出られたなら、その名で生活を立て直し、働き、必要な手続きを進めなければならない。
その先には、創作活動を通じて幻想郷の存在を外の世界へ広めるという長期の計画も待っている。
名前を変えたからといって、これまで生きてきた年月や、家族を失った記憶まで消えるわけではないが、その名のもとで新たな日常を築いていく覚悟は必要だった。
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それでも、俊宏の中には最後まで消えない不安が残っていた。
最大の問題は、博麗霊夢が自分を外来人だと判断してくれる保証がないことだった。
彼は、外界から迷い込んだ人間が博麗神社を通じて帰還できる事例を知っている。
しかし、それは外来人として幻想郷へ入ってきた人間についての話であり、幻想郷で生まれ育った自分が同じ扱いを受けられるかどうかは分からなかった。
服装や話し方を整えたとしても、霊夢が何を手掛かりに判断するのかまでは分からない。
外見や受け答えから見極めるのか、外界に関する知識を確かめるのか、あるいは別の何かを感じ取るのか。
判断の基準を知る手段がない以上、どれだけ考えても確かな答えにはたどり着けなかった。
もし霊夢に外来人として認められなければ、計画はそこで止まる可能性がある。
さらに、彼が幻想郷生まれだと疑われれば、紫や藍の耳に入るおそれもあった。
人里で目立たず暮らしてきた年月も、一度計画が露見すれば安全を保証してはくれない。
不安を感じるたび、俊宏は、身なりをもっと自然に整えたり、受け答えをさらに練習したりする必要があるのではないかと考えた。
だが、準備をどこまで重ねれば十分なのか、判断する基準はなかった。
どれほど服装を整えても、幻想郷で生まれたという事実は変わらず、どれほど受け答えを練習しても、霊夢から想定外の質問を受ける可能性は残る。
準備を増やせば、必ず成功に近づくとは限らなかった。
長年にわたって計画を積み重ねてきた俊宏にとって、外界への脱出は人生を賭けた目標だった。
失敗すれば、次に機会を得られる保証はなく、計画が露見すれば、以前と同じように人里で暮らすことさえ難しくなるかもしれない。
それでも、すべての不確実性がなくなるまで決断を先延ばしにしていては、いつまでも行動を起こせない。
今の自分にできる準備には、限界がある。
霊夢の判断も、紫たちに計画を知られるかどうかも、完全に予測することはできなかった。
しかし、外界へ出るための経路が存在する可能性がある以上、実際に試さなければ、その先へ進めないのである。
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夜、俊宏は用意した衣服を畳み、持っていく品物を一つずつ確かめていた。
上着とズボン、靴、眼鏡、身だしなみを整えるための道具、そして外へ持ち出す予定のわずかな荷物。
それらを並べると、三十年近く暮らしてきた幻想郷から出るために必要な物が、思いのほか少ないことに気づいた。
もっとも、本当に足りているかどうかは、外界へ出られたときに初めて分かるだろう。
翌朝になれば、俊宏はそれらを身につけ、田中誠治として博麗神社へ向かう。
到着してから霊夢が何を尋ね、どのような判断を下すのかは、まだ分からない。だからこそ、用意した答えをすべて暗記するのではなく、目の前の相手の言葉を聞き、その場で必要なことを伝えるつもりだった。
眼鏡をかけて鏡を見ると、そこには外界の会社員を思わせる姿が映っていた。
幻想郷の人里で暮らしてきた井深俊宏の面影は完全には消えていない。
しかし、これまでの生活とは異なる道へ踏み出そうとしていることは、鏡の中の姿からも伝わってきた。
彼は、家族を失った日から今日までの歩みを振り返った。
幻想郷の社会を変える方法を探し、正面から妖怪に挑むのではなく、外界へ出て自分にできる手段を見つける道を選んだ。
途中では他人の失踪に関わり、結果を確かめられないまま、その人生を自分の目的に結びつけてしまったことへの責任も抱えることになった。
それでも、ここまで準備を続けてきたのは、幻想郷の中でただ暮らしているだけでは、何も変えられないと考えたからだった。
いま、準備のためにできることは、ほぼやり尽くしていた。あと何日考え続けても、霊夢の判断を確実に予測できるようになるわけではない。
服装や話し方を変え続けても、帰還の手続きが自分に適用されるという保証は生まれなかった。
計画の成否を左右する要素の多くは、もともと彼の手の届かないところにある。
だからこそ、ここで決断する必要があった。
俊宏は、畳んだ衣服を荷物に収め、眼鏡を外して布で拭いた。
手入れを終えた眼鏡を上着のそばに置く。翌朝、それらを身につけて博麗神社へ向かう。
その一歩が外界につながるのか、それとも長年続けてきた計画の挫折につながるのか、今はまだ分からなかった。
鏡の中には、幻想郷の住民である井深俊宏と、外界へ出たあとに名乗る予定の田中誠治、その二つの姿が重なっていた。
別の名前を用意しても、それまでに生きてきた年月や、家族を失った記憶を消し去ることはできない。
すべてを切り離すのではなく、過去を抱えたまま進むしかなかった。
俊宏は、翌日に行動を起こすと決めた。外界へ出られる保証はなく、霊夢に見破られる可能性も、紫たちに計画を知られる危険も残っている。
それでも、準備を続けるだけでは何も確かめられない。必要なものを整えた今、実際に博麗神社へ向かうことが、彼に残された次の一歩だった。
井深俊宏は、田中誠治として外界へ出るための荷物をまとめ、部屋の灯りを落とした。
翌朝、自分がどこへたどり着くのかは分からない。
それでも、これ以上準備を理由に決断を先延ばしにするつもりはなかった。
翌朝、彼は幻想郷からの脱出を試みる。