覚悟ガンギマリ系一逸転生者による幻想郷破壊録 作:フリッツⅩ
夜明け前、井深俊宏は身支度を済ませ、親類の家を出た。家の中は静まり返っており、台所からも人の気配はしなかった。
彼は普段の外出と同じように戸を閉め、洋装の上着や靴、眼鏡などを収めた荷物を肩にかけた。
人里の外れまで来ると、俊宏は道を外れ、木々に囲まれた小さな休み場へ入った。
以前は通行人が雨宿りに使っていたらしく、朽ちかけた板壁と屋根が残っている。
人が頻繁に立ち寄る場所ではなかったが、身支度を整えるには十分だった。
彼は荷物を開き、上着とズボンを身につけて、靴の具合を確かめた。最後に眼鏡をかけ、髪を手櫛で整えてから、小さな鏡を覗き込む。
そこに映る顔は、普段の井深俊宏とはかなり違った印象を持っていた。
無理に別人へ変わる必要はない。
外界から迷い込んできた人間として、相手に自然に受け止めてもらえる姿を整えることが目的だった。
余計な持ち物を置き、外へ出たあとに必要になりそうなものだけを残して、荷物をまとめ直した。
準備が整ったことを確かめると、俊宏は博麗神社へ続く道を歩き始めた。
歩みを進めるにつれ、人里で暮らした三十年近い時間が、これまでとは違った重みを持って感じられた。
幼いころに家族と歩いた川辺の道、親類の家で囲んだ食卓、仕事を覚えていった日々、三人の失踪に関わったことへの後悔、霧雨店で手に入れた上着の手触り。
それらすべてが、今の自分を形作っていた。
それでも、俊宏は過去を振り返るために足を止めなかった。
これまで生きてきた時間を背負ったまま、彼は新たな道へ進もうとしていたのである。
やがて、山の中に建つ博麗神社が見えてきた。
前世の知識を通じて知っていた場所であり、幻想郷と外の世界の境目に位置する神社だった。外来人を帰還させることがある博麗の巫女に、自分もその一人として扱われること。
それが、俊宏の脱出計画の最後の一手だった。
鳥居をくぐって境内へ入ると、参拝客の姿は見当たらなかった。
社殿の前では、紅白の巫女服を着た少女が掃除道具を片づけ、空を見上げている。
博麗霊夢、その人だった。
俊宏は、呼吸を整えてから彼女へ近づいた。
これからどのような会話を交わし、どんな判断を下されるのかは分からない。
それでも、ここまで来て引き返すことだけは考えていなかった。
――
―
――
霊夢が男の存在に気づいたのは、境内の掃除を終え、縁側で一息つこうとしていたときだった。
朝早くから参拝に来る人間は少なく、見慣れない格好をした男が一人で現れるのは珍しい。
男は黒っぽい上着とズボンを身につけ、顔には眼鏡をかけていた。
人里の住民が普段着ている服とは明らかに違い、立ち方や周囲を確かめる仕草にも、こちらで暮らしている人間とは異なる雰囲気があった。
霊夢は、男が境内を見回しているのを見て、自分から声をかけた。
「参拝に来たのかしら。それとも道に迷ったのなら、ここまで来た事情を聞いておきたいのだけれど」
男は少し困ったような表情を浮かべ、落ち着いた調子で答えた。
「裏山のジョギングコースを歩いていたはずなのですが、気づいたら見知らぬ場所に出ていました。どうしたらいいのか分からず、道なりに歩いていたら鳥居が見えたので、もしかすると人がいるのではと思ってここにやってきました」
霊夢は、男の服装をもう一度眺めた。
言葉遣いも、人里の者が使うものとは少し違っている。外の世界から流れ着いた人間なら、こうした違いがあっても不思議ではなかった。
幻想郷に迷い込んだ外来人が、運よく博麗神社までたどり着き、帰る方法を探すことは実際にある。
目の前の男も、その一人なのかもしれない。
「その格好は、人里じゃあまり見ないわね。外の世界から来た人間なのかしら」
男は、すぐに肯定も否定もしなかった。
少し考えるように目を伏せてから、自分がここへ来るまでの事情をうまく説明できないという態度を保ったまま答えた。
「……そうなのかもしれません。でもそしたら、どうすれば元いた場所へ戻れるのですか……?!」
霊夢は、男が自分から外来人だと言い張ろうとしていないことに気づいた。
身分を強く主張するのではなく、何が起きたのか説明しきれないまま、帰りたいという希望を伝えている。
その態度に、彼女は特別な不審を抱かなかった。
外来人の事情は一人ひとり異なる。
突然見知らぬ土地へ迷い込み、何が起きたのか分からなくなった人間もいるだろう。
目の前の男が本当に外から来た人間で、元の世界へ帰りたいと望んでいるのなら、巫女としてできることを試してみればよかった。
霊夢は縁側を指し示し、まずは腰を落ち着けるよう勧めた。
「外来人なら、ここから帰る方法を試せるかもしれないわ。ただ、必ずうまくいくと約束できるわけではないから、そのつもりでいてちょうだい」
男は静かに腰を下ろした。動作は丁寧で、言葉も必要以上に多くない。外の世界で働いていた人間なのかもしれないと、霊夢は考えた。
しばらくして、彼女は男の名前を尋ねた。
「名前を聞いておきたいのだけれど、あなたは何と呼ばれているのかしら」
俊宏は、用意してきた名前を口にした。
「田中誠治といいます」
霊夢は、その名前に特別な反応を示さなかった。外の世界の人間が名乗るものとして、不自然なところはない。
彼女は身の上を細かく問いただすよりも、本人がどうしたいのかを確かめることにした。
「うん、そしたら田中さんは、外の世界に戻りたいのね。"ここ"で暮らすつもりではなく、元いた場所へ帰りたいということでいいのかしら」
俊宏は、霊夢の目を見て答えた。
「帰れるのなら、元いた場所へ戻りたいです。明後日までに終わらせないといけない仕事があるので、出来ることなら早急に」
それは、彼が用意していた言葉の中でも、最も偽りのない部分だった。
外界へ出ることは、三十年近く追い続けてきた目標である。
親類から受けた親切も、仕事を通じて知り合った人々との関係も、実際に過ごしてきた時間も、なかったことにはできない。それでも、俊宏は外の世界へ出たいと望んでいた。
霊夢は、彼の返答に迷いがないことを確かめると、帰還の手続きを試してみることにした。
霊夢にとって、外来人を外の世界へ帰すことは、特別な秘密の仕事というわけではなかった。
博麗神社は幻想郷と外の世界の境にあり、外来人が帰還する際に関わることもある。
迷い込んできた人間が必ず帰れるとは限らないものの、帰還を望む者が目の前にいるなら、試してみる価値はあった。
霊夢は立ち上がり、境内の端へ向かって歩き始めた。
俊宏も、その後に続く。
境内の東側へ進んでも、見た目には特別な扉や目印があるわけではなかった。
しかし、霊夢は周囲の様子を確かめるように足を止め、俊宏に向き直った。
「ここから先は私に任せて。何か変だと思っても、勝手に走り出したりせず、私の指示に従ってちょうだい」
俊宏は余計な質問をせず、彼女の言葉に従うことにした。
仕組みを詳しく理解することよりも、帰還が実際に可能なのかどうかを確かめる方が、今の彼には重要だった。
霊夢は、境内の端で周囲の空気を探るように視線を動かした。俊宏には、結界がどこにあり、どのように作用しているのかを見通すことはできない。
ただ、彼女がいつもの気軽な表情を少し引き締め、普段とは異なる集中を見せたことで、これから行われることが単なる道案内ではないと分かった。
やがて、霊夢は男の方へ振り返った。
「準備はいいかしら。外の世界へ戻りたいという気持ちに変わりがないなら、今から試してみるわ」
俊宏の胸の奥で、心臓が強く脈打った。三十年近く考え、待ち、準備してきた瞬間が、目の前まで来ている。霊夢の指示に従えば、外界へ出られる可能性がある。うまくいかなければ、計画そのものを見直さなければならないだろう。
彼は、緊張を押し隠しながら答えた。
「お願いします。帰れるのなら、ぜひ」
霊夢は男の様子を一度確かめてから、境界へ向けて歩き始めた。
俊宏も、彼女から離れないように歩みを合わせた。
その瞬間、俊宏の周囲で風景の見え方がわずかに変わった。
山の稜線も境内の木々も、その姿を保っている。けれども、目の前に広がる空間の奥行きが、一瞬だけ別のものになったように感じられた。
足元の感触が変わり、頬に触れる空気の冷たさも薄れていく。
俊宏は反射的に目を閉じそうになったが、霊夢の指示を思い出し、立ち止まることなく一歩を踏み出した。
――
―
――
視界の揺らぎは長く続かなかった。
次に目を開いたとき、目の前には見慣れた山林とは異なる景色が広がっていた。
道の先には舗装された道路が伸び、道沿いには電柱が並んでいた。
少し離れた場所から自動車の走る音が聞こえ、遠くに見える建物の形も、幻想郷の人里で見慣れてきたものとは違っている。
俊宏は、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。
そこは、彼が前世で暮らしていた外の世界だった。
車が通り過ぎ、遠くでは人の声が聞こえる。
看板には現代の文字が並び、見慣れた形式の標識が道端に立っていた。
幻想郷に転生してから一度も目にすることのなかった景色が、いま彼の目の前に現実として広がっている。
三十年近く離れていた世界へ、本当に戻ってきたのだった。
振り返っても、博麗神社は見えなかった。
霊夢の姿も境界らしきものもなく、山道と舗装路がつながる場所に、俊宏だけが立っていた。
脱出のために用意した荷物は手元にあり、身につけた洋装も無事に残っていた。
俊宏は手のひらを握りしめ、ゆっくりと開いた。
夢ではないことを確かめるように靴底で地面を踏み、外の空気を深く吸い込む。
その感覚は、幻想郷で暮らしてきた年月の中で覚えたものとは異なり、前世の記憶に残っていた外界の現実そのものだった。
彼はようやく息を吐き、三十年かけて追い続けた最初の目標を、確かに果たせたのだと受け止めた。
もちろん、外界へ出られたからといって、すべてが解決したわけではない。
身分を証明するものはなく、ここで生活を始めるためには乗り越えるべき問題がいくつもある。
それでも、幻想郷の外へ出るという目的は達成できたのである。
俊宏は、自分が名乗る予定の名前を心の中で確かめた。
これからは田中誠治として、この世界で暮らしていく。
そして、どのような事情があろうとも、幻想郷へ戻るつもりはなかった。
その決意を胸に、彼は舗装路の先へ向かって歩き始めた。