覚悟ガンギマリ系一逸転生者による幻想郷破壊録 作:フリッツⅩ
最後の生徒が教科書を閉じるのを見届けてから、私は筆を置いた。
窓の向こうでは、傾き始めた陽射しが人里の屋根を赤く染め、往来の声も夕餉の支度へと移り変わっていた。
生徒たちは鞄を抱えて家路につき、教室には片付けを終えた俊宏だけが残っている。
彼は帰り支度を済ませているのに、机の端を見つめたまま、何かを言い出しかねている様子だった。
「俊宏、帰り支度も済んだようだが、何か私に聞いておきたいことでもあるのか?」
私に声をかけられると、彼の肩がわずかに揺れ、それから遠慮がちに顔が上がった。
以前よりも教室で話すことは増えたものの、彼は今でも、予期しない物音に身構えることがある。
私は返事を急かさず、俊宏が自分の言葉で話し始めるのを待った。
「先生は、妖怪の中にも人間に親切な者がいると言っていたよね。それなら、どうして村の外れにある道は通ってはいけないの? あそこを使えば、遠回りせずに家へ帰れるのに」
彼の問いには、単に決まりを破りたいという気配はなかった。
人間に親切な妖怪がいると教えられた一方で、特定の道を通ることは禁じられているのだから、そこに疑問を感じるのも無理はない。
私は子供たちに、妖怪というだけですべてを恐れる必要はないと教えてきたが、その言葉だけでは、実際に危険を避ける方法まで伝えきれていなかったのだろう。
「確かに、妖怪の中には人間を助ける者もいるし、村の人々と親しく付き合っている者もいる。ただ、あの道を自由に通ってよいかどうかは、それとは別に考えなければならないんだ」
私は窓の外へ目を向け、村の外れへ続く道がある方角を思い浮かべた。
あの辺りは人通りが少なく、何か起きても、近くにいる人間へすぐ助けを求められるとは限らない。
道を避けるように教えているのは、そこにいる妖怪を一人残らず悪者だと決めつけたいからではなく、子供たちだけでは対応できない事態を防ぐためだった。
「でも、悪いことをしない妖怪なら、そんなに怖がらなくてもいいんじゃないの?」
俊宏は私の言葉を否定したいのではなく、どうすれば矛盾なく理解できるのかを確かめているようだった。
私はその真剣な眼差しを受け止めながら、子供に分かりやすく伝えようとするあまり、現実を都合よく単純化してしまわないように気をつけた。
人間に親切な妖怪がいることも、善意だけでは防げない危険があることも、どちらも教えなければならない。
「相手のことを知って、安心して付き合えるようになるのは大切だよ。けれど、初めて会った相手がどんな者なのか、ひと目で見抜くことはできないだろう。それに、親切な相手であっても、こちらが知らない事情を抱えている場合はある。だから、妖怪だからという理由だけで憎む必要はないけれど、優しそうだからと何も確かめずについていくのも危ないんだ」
「それじゃあ、先生は妖怪を信用していないの?」
その問いを聞いたとき、私はすぐには答えられなかった。
人間と妖怪が互いに関わりながら暮らすこの場所で、相手の正体だけを理由に信用するかどうかを決めてしまえば、築けるはずの関係まで失われてしまう。
かといって、信じたいという気持ちを優先して身を守る手立てを手放せば、取り返しのつかない事態を招くこともあるのだった。
「信用するかどうかは、相手が何者なのかだけで決めるものではないんだ。付き合いながら、その人がどんな振る舞いをするのか、少しずつ知っていけばいい。ただし、よく知っている相手であっても、予定にない場所へ誘われたときや、いつもと違うことを頼まれたときは、家族や先生に相談してほしい。誰かを信じることと、自分の身を守ることは、どちらか一方を諦めなければ両立できないものではないからね」
できるだけ穏やかな口調で伝えると、俊宏は机の上に視線を落として考え込んだ。
彼がすべてに納得したのか、それとも今は答えを決められずにいるのか、私には分からない。
それでも、彼はやがて教科書を鞄にしまうと、帰り際にこちらを振り返り、先ほどよりも落ち着いた声で礼を言った。
私は挨拶を返し、彼が戸口を出て、ほかの生徒たちが歩いていった道へ向かうのを見送った。
――
―
――
翌日、寺子屋にはいつもと変わらぬ子供たちの声が戻ってきた。
私は授業を始める前に黒板へ二本の道を描き、一方には人通りが多い道、もう一方には村の外れを通る近道を示した。
昨日の俊宏との会話を、同じ言葉で皆に繰り返すつもりはなかった。
代わりに、子供たち自身に道を選ぶ立場になってもらい、何を考えて判断すればよいのかを一緒に確かめることにした。
「この二つの道から帰り道を選ぶなら、何を確かめてから決めるべきだと思う? 距離だけではなく、通る時間や途中で助けを求められる場所も考えてみてほしい」
子供たちは黒板を見比べ、互いの考えを口にし始めた。
近道を選べば早く帰れるという意見もあれば、人通りの多い道の方が安心だという声もあり、理由を尋ねると、それぞれが自分なりに考えた事情を挙げていた。
私はすぐに正解を告げるのではなく、道の途中で困ったときにはどうするのか、日が暮れるまでに家へ着けるのかと問いを重ね、子供たちが選んだ理由を自分で確かめられるようにした。
「先生、いつも村で挨拶してくれる妖怪に道で会ったら、普通に話してもいいんだよね?」
生徒の一人が尋ねると、ほかの子供たちも答えを聞こうとこちらを向いた。
私は、その問いを昨日の俊宏との会話を思い返すきっかけとして受け止めたが、今度は彼らが自分で考えられるように、すぐに結論を示すことはしなかった。
顔を知っていることと、相手の行動をすべて理解していることは違うのだと、具体的な場面を通して考えてもらいたかった。
「挨拶を返したり、村の中で立ち話をしたりすることまで、怖がる必要はないよ。けれど、その相手から行き先の分からない場所へ誘われたら、どうすればいいと思う? 相手との関係だけで決めず、自分がどこへ行こうとしているのかも考えてみよう」
教室のあちこちから、家族に行き先を伝えるべきだという声や、分からないことは大人に尋ねた方がよいという意見が上がった。
俊宏も皆の考えを聞きながらノートに何かを書き留めていたが、しばらくすると顔を上げ、自分の考えを口にした。
昨日は私に答えを求めていた彼が、今はほかの子供たちと一緒に、どうすれば安全に行動できるかを考えている。
その変化が、私には少し頼もしく感じられた。
「行き先や帰る時間を家の人に伝えて、必要なら先生にも相談してから決めればいいんだね。そうすれば、相手のことを疑うだけで断らなくても済む場合があると思う」
「そうだね。相手を大切に思うことと、自分で確かめてから行動することは、どちらも忘れないでほしい。もし断るのが難しいと感じたら、家族に相談してから返事をすると伝えてもいいし、困ったときには一人で抱え込まず、助けを求めてくれて構わないんだ」
私の言葉に、子供たちはそれぞれ考え込んだり、近くの友達と意見を交わしたりしていた。
全員が同じ答えにたどり着く必要はないし、今日の授業だけですべての危険を見抜けるようになるわけでもない。
大切なのは、覚えた決まりを機械的に守るだけでなく、目の前の状況を確かめ、自分では判断できないときに誰かを頼るという選択肢を持つことだった。
授業が終わると、子供たちはいつものように挨拶をして、連れ立って家路についた。
私は教室を片付けながら、彼らが今日の話をどこまで覚えているのかではなく、いつか迷ったときに立ち止まって考えるきっかけにしてくれればいいと思った。
人里の外には、寺子屋で教えた知識だけでは対処できない危険がある一方、まだ彼らの知らない出会いや関係も待っている。
危険を理由に世界から遠ざけるのではなく、自分の足で歩くための判断を教えることも、ここで子供たちを預かる私の役目なのだろう。
戸口の向こうでは、俊宏がほかの生徒たちと並び、いつも使う道へ歩き出していた。
昨日と今日の話が、彼の中でどんな形に残るのかを、今の私が知ることはできない。
それでも、誰かを信じたいと思ったときにも、危険を感じたときにも、自分の考えを捨てずに立ち止まれるようになってほしい。
私は黒板に残った二本の道を消しながら、いつか彼らが自分で道を選ぶ日にも、今日の学びが小さな手掛かりになることを願っていた。