かつて一度だけ、ディープインパクトを負かしたウマ娘がいた。
その名はハーツクライ。
現役を退いた二人が、ある日の喫茶店で交わした会話。
2005年の有馬記念、敗北の意味、ライバルという存在。そして、次の世代へ託したいもの。
※史実の競馬を題材とした、独自解釈によるウマ娘二次創作です。未実装キャラクターの性格・設定には創作を含みます。
---
午後の喫茶店には、穏やかな時間が流れていた。
窓から差し込む柔らかな日差し。小さく響く食器の音。コーヒーの香り。
そんな店の片隅で、二人のウマ娘が向かい合っていた。
一人はディープインパクト。
無敗の三冠ウマ娘。数々の記録を打ち立て、その圧倒的な走りで日本中を熱狂させた、競馬史に残る天才。
そして、もう一人はハーツクライ。
その天才を、ただ一度、正面から打ち破ったウマ娘だった。
「……しかし、変なもんだな」
コーヒーカップを手にしたハーツが、ふと口を開く。
「まさかお前と、こんなところでのんびり茶を飲む日が来るとはな」
「そうですね」
ディープは静かに微笑んだ。
「レース場では、いつも追いかけるばかりでしたから」
「おいおい。追いかけてたのは、どっちかっていうと俺の方だろ」
「ふふっ。そうかもしれません」
ハーツは肩をすくめた。
二人の間に、しばし沈黙が流れる。
だが、それは決して居心地の悪いものではなかった。
かつて同じターフで戦った者同士にしか分からない、奇妙な親しさがあった。
やがてディープが口を開いた。
「ハーツ先輩」
「ん?」
「私、ずっと言いたかったことがあるんです」
「何だよ。改まって」
ディープは一度、カップに視線を落とした。
そして、ゆっくりと言った。
「あの有馬記念で、私を負かしてくれて、ありがとうございました」
ハーツの手が止まった。
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「お前、何言ってんだ?」
「そのままの意味です」
ディープは真剣だった。
「あの時、私は初めて、普通のウマ娘になれたんです」
「普通の……?」
「はい」
ディープは窓の外に目を向けた。
「私はずっと、特別なウマ娘でした」
デビューから無敗。
皐月賞、日本ダービー、菊花賞。
走るたびに勝ち、勝つたびに期待が大きくなっていった。
いつしか人々は、勝利を喜ぶより先に、勝つことを当然と思うようになっていた。
「私が勝つと、みんな喜んでくれました。でも、次のレースでは、もっとすごい勝ち方を期待されるんです」
ディープは少しだけ寂しそうに笑った。
「負けるなんて、誰も考えていなかった。私自身も、考えてはいけないような気がしていました」
「……」
「だから、怖かったんです。特別であり続けることが」
ハーツは何も言わなかった。
「でも、あの有馬記念で、私は負けました」
ディープの声は穏やかだった。
「初めて、私の前に誰かがいたんです」
その言葉に、ハーツは顔を上げた。
「最後の直線、私は必死に走りました。勝ちたいと思いました。前にいるウマ娘を、どうしても抜きたいと思ったんです」
ディープは目を閉じた。
今でも鮮明に思い出せる。
中山の直線。
歓声。
必死に伸ばした脚。
そして、どうしても届かなかった、一人のウマ娘の背中。
「もし、あの時、前に誰もいなかったら……私は、きっと解放されなかったと思います」
「解放、ねえ……」
「はい」
ディープはハーツを見つめた。
「前に誰かがいた。私はその背中を追いかけていた。あの時の私は、勝つことを義務にされた特別なウマ娘じゃなかった」
少しだけ声が弾む。
「ただ勝ちたいと願う、一人のウマ娘だったんです」
ハーツは黙って話を聞いていた。
「だから、ありがとうございました。ハーツ先輩」
長い沈黙が落ちた。
やがてハーツは、小さく息を吐いた。
「……まいったな」
「どうしました?」
「いや。俺はな、お前に謝ろうかと思ったことがあるんだよ」
今度はディープが驚く番だった。
「謝る……? どうしてですか?」
「お前を負かしたからさ」
「え?」
「俺は、あのレースでお前をぶっ倒した。日本中が勝つと信じてたお前をな」
ハーツは苦笑した。
「あの後、ちょっと怖くなったんだよ」
「ハーツ先輩が……?」
「ああ」
ハーツは窓の外に視線を向けた。
「強い奴が負けるのは、別に珍しい話じゃねえ。シンボリルドルフだって負けた。トウカイテイオーだって負けた」
ハーツは一拍置いた。
「でも、あいつらは負けた後だって、目が死んでなかった。もう一度立ち上がって、走って、勝った」
「はい」
「俺はな……お前がそうならなかったら、どうしようかと思ってたんだ」
ディープは黙っていた。
「俺が倒したせいで、お前が走れなくなったら。あの目から光が消えちまったら」
ハーツは自嘲するように笑った。
「俺だけ仲間はずれになるのが怖かったんだよ」
「仲間はずれ……」
「ああ。強い奴と戦って、勝って、負けて、それでも走り続ける。そういう連中の中で、俺だけが相手を壊しちまった奴になるのが、怖かった」
ハーツはカップを置いた。
「だから、一度は謝ろうかとも思った」
「……」
「でも、やめた」
「どうしてですか?」
「謝っちまったら、俺がお前に勝ったことを悪いと思ってるみてえじゃねえか」
ハーツは、はっきりと言った。
「俺は、お前に勝ちたかったんだ。それだけは嘘じゃねえ。あの有馬記念でやったことを、間違いだったなんて思いたくなかった」
ディープはしばらくハーツを見つめていた。
やがて、その顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
「謝らなくてよかったですよ」
「……そうか?」
「はい。もし謝られていたら、私、困ってしまいました」
「何でだよ」
「私が、あのレースで負けてよかったと思っていることまで、悪いことになってしまいますから」
ハーツは目を丸くした。
そして、とうとう声を上げて笑った。
「ははっ! そりゃそうだ!」
ディープもつられて笑った。
二人の間にあった、長い年月を隔てたわだかまりが、少しずつほどけていくようだった。
やがて笑いが収まると、ディープはぽつりと言った。
「でも……私には、まだ届かなかったものがあります」
「凱旋門賞か」
「はい」
ディープは静かに頷いた。
「私は、リボーのようにはなれませんでした」
「リボー?」
「ええ。あの伝説のウマ娘です」
遠い昔、ヨーロッパのターフに君臨した無敗の王者。
世界最高峰の舞台で、圧倒的な強さを見せつけた存在。
「リボーは、レース中に後ろを振り返ったと聞きました」
「……ああ」
「でも、私は後ろを振り返りませんから」
ディープは少し寂しそうに微笑んだ。
「だから、リボーのようにはなれなかったんでしょうね。凱旋門賞も、勝てなかった」
ハーツは眉をひそめた。
「お前なあ……」
「はい?」
「何でそんなところでリボーと張り合ってんだよ」
「え?」
「リボーが振り返ったのはな、後ろの奴らをバカにするためだぜ」
ディープはきょとんとした。
「お前がレース中に後ろを振り返ってみろ。他の奴らをバカにしてることになるだろうが」
「……あ」
「お前はそんなことしたいのか?」
「い、いえ! そんなつもりは……」
「だろ?」
ハーツは呆れたように笑った。
「それにな、お前は逃げウマ娘じゃねえだろ」
「はい」
「レースのたびに、何人もの背中を見てるじゃねえか」
ディープは目を見開いた。
「他の奴らの背中を見て、追いかけて、追い抜いてきたんだろ?」
「……はい」
「だったら、それで十分だ」
ハーツはきっぱりと言った。
「わざわざ振り返って、他の奴らがどこにいるか確かめる必要なんかねえ。お前はずっと、他のウマ娘を見て走ってたんだからよ」
ディープは何も言えなかった。
ただ、目の前のハーツを見つめていた。
「……ハーツ先輩」
「何だよ」
「私、ずっと勘違いしていたのかもしれません」
「何を?」
「私だけが、誰も見ずに走っていたんだと思っていました」
ディープは膝の上で手を重ねた。
「でも、本当は……ずっと見ていたんですね」
あの有馬記念だけではない。
皐月賞でも。
日本ダービーでも。
菊花賞でも。
自分の前には、いつも他のウマ娘たちがいた。
それぞれが勝利を目指して走っていた。
自分はその背中を追いかけていた。
そして、追い抜いてきた。
「私は、一人で走っていたわけじゃなかったんですね」
「当たり前だろ」
ハーツは鼻を鳴らした。
「競馬は一人じゃできねえんだよ」
再び沈黙が訪れた。
今度は、ディープの方から口を開いた。
「ハーツ先輩」
「ん?」
「先輩は、私のことをライバルだと思っていましたか?」
ハーツは少し考えた。
「……ライバル、ねえ」
カップの底に残ったコーヒーを見つめる。
「ライバルってのはな、自分で見つけるもんじゃねえんだよ」
「え?」
「他人が見つけるんだ」
ハーツは顔を上げた。
「俺は、ただお前に勝ちたかった。あのレースではお前を倒すために、自分の走り方まで変えた」
「……」
「それを周りの連中がどう呼ぶかなんて、俺には関係なかった」
「それでも……」
ディープは小さく言った。
「私にとって、ハーツ先輩は特別な存在でした」
ハーツは苦笑した。
「お前に特別扱いされるとはな」
「だって、私に初めて、追いつけない背中を見せてくれたウマ娘ですから」
「……ったく」
ハーツは照れくさそうに頭をかいた。
「そういうこと、さらっと言うんじゃねえよ」
ディープは楽しそうに笑った。
窓の外では、夕暮れが近づいていた。
ハーツはふと、遠い未来に思いを馳せた。
自分たちがターフを去った後も、競馬は続いていく。
新しいウマ娘たちが現れ、走り、勝ち、負ける。
誰かが天才と呼ばれ、誰かがその天才に挑む。
誰かが初めて敗北し、誰かが初めて勝利する。
そして、また新しい物語が生まれる。
「なあ、ディープ」
「はい」
「お前、これから先も競馬を好きでいられるか?」
ディープは少しだけ考えた。
「……はい」
そして、まっすぐに答えた。
「私は競馬が好きです」
「ほう」
「勝つことも、負けることも。誰かを追いかけることも、誰かに追いかけられることも」
ディープは窓の外を見つめた。
「きっと、これから先も、ずっと」
ハーツは満足そうに頷いた。
「そうか」
そして、立ち上がった。
「その気持ち、忘れるなよ」
「はい」
「次世代に繋いでいけ」
ディープも立ち上がった。
「……はい!」
ハーツはいつもの不敵な笑みを浮かべた。
「俺も次世代に繋いでいくからよ」
二人は店を出た。
外には、夕日に照らされた街並みが広がっていた。
かつて、同じターフを駆け抜けた二人。
一人は、誰よりも速く走ることを期待された天才。
もう一人は、その天才に挑み、ただ一度、その前を走ったウマ娘。
二人の競走人生は違っていた。
見てきた景色も、抱えてきたものも違っていた。
それでも、二人が愛したものは同じだった。
競馬。
勝つ者がいて、負ける者がいる。
先頭を走る者がいて、その背中を追いかける者がいる。
そして、誰かが走り続ける限り、その物語が終わることはない。
いつか、新しい世代のウマ娘たちが、同じターフに立つだろう。
彼女たちは、まだ知らない。
自分たちの母が、何を恐れ、何を願い、何を次の世代へ託したのかを。
そして、母たちもまだ知らない。
娘たちが、どんな勝利を手にし、どんな敗北に苦しむことになるのかを。
ただ一つ、確かなことがある。
いつの時代も、前には誰かがいる。
その背中を追いかけたいと願う者がいる。
だから、ウマ娘たちは走り続ける。
Fin.