焼け付くような肺の痛み。
視界の端に瞬く、金属様の粒子。
水没した旧文明遺跡の残骸が視界の端を流れ、蹴りだすごとに足首まで浸かった海水が飛沫を上げる。
激しい音を立てるそれを上回るような、重い振動が背後から伝わってくる。
洋上遺跡群調査の露払い。
隠れ家に戻るついでの、簡単な任務のはずだった。
それなのに、ここまで身体を酷使することになるとは。
不意に
背中に共生する存在──ノアの声。
お互いの命を握る存在であり、唯一の味方だ。
『演算通り。ここなら霧があるよ。ノアの誘導、完璧』
「ええ、助かります」
はためく外套の音を聞きながら、肩越しの異様な気配を見遣る。
かつて海獣だったものの口から、粘液に濡れた触手が蠢いていた。
──世界の脅威、【尖兵】。
人類の都市を滅ぼした記録のある寄生生命体。
それが私を追跡してきている異形、そして背中に息づく相棒の正体だ。
猛然と追ってくる尖兵は身体をあちこちにぶつけていた。片方のヒレが触手に変質しているせいで、バランスが取れないのだろう。
振動で付近の結晶がくずれる。崩れた遺跡に付着していたそれの断面からは、生物であったと思われる腐肉が覗き、すぐに毒々しい紫色の砂となって水に溶けていく。
腐臭を纏った突進は、角を曲がるだけで避ける。
異形たちは曲がりきれずに霧に突っ込んだ。
強引に軌道を変えたせいか、軍靴に歪みが増えた気がする。
残骸を駆け上がり振り返る。
尖兵たちが激しくのたうち、海水と濁った血液を撒き散らしている。
局所的に濃くなった紫色の霧。
それに触れた身体が、傷ついているのだ。
────【魔素】。
やつらの傷と、私が抱える症状の原因だ。
『表皮損傷。傷から分解が始まってる。……ノア、すごい?』
「ええ。演算どおりですね、ノア」
背中の奥で、嬉しそうに脈動が跳ねた。
戦場だというのに、つい頬が緩んでしまう。
すぐに気を引き締め、状況を見る。
魔素の濃霧という、天然の罠にかかった三体の異形。
魔素は全ての生き物を平等に蝕む。
息を吸うたびに肺の内側が湿り、裂けるような感覚が走った。
私も例外ではないのだ。
それでも――躊躇なく息を吸い込む。
「……すぅっ」
視界が緋色に染まり、髪の内側に仄かな熱が篭もる。
黒髪の奥に隠れた緋の髪が、呼吸に合わせて淡く脈打った。
黒灰の外套に、血管のような緋の光が走った。
柔らかな炎のような風が立ち上がり、外套と髪が浮き上がる。
世界の音が、鼓動だけになった。
呼吸と演算。
魔素を媒介にして、【魔法】を構築する。
『吸収効率良好。……でも負荷が高いよ』
「問題ありません」
体勢を立て直した尖兵が、触手に塗れた口を開く。
吐瀉物のような塊が投射された。
瓦礫を踏み砕きながら、跳ねて躱す。
建造物の側面を蹴ると同時に、緋色の風が身体を加速させた。
視界に脈動する光──ノアの演算による的確な攻撃経路の提示をなぞる。
音の壁を破り、霧から逃れていた一体を踏み抜いて飛び去る。
水面が爆発し、肉片と飛沫が遅れて舞った。
外套が翻り、緋色の光が翼のように広がる。
ノアが提示してくれた緋色の線に沿って、踵を落とす。
こちらを見失っていた尖兵が、なすすべもなく潰れていく。
衝撃が水を叩き潰し、巨体が沈んだ。
声帯が切り裂かれたような絶叫と共に、最後の一体が突進してくる。
視界に最短経路が描かれる。
踏み込み角度。回転速度。破壊点。
一瞬の静止と共に、緋色の風が強く脈打った。
世界がわずかに遅れる。
回し蹴り。
風圧を纏った脚が弧を描き、寄生した頭部を丸ごと吹き飛ばした。
振り抜いた脚をゆっくりと下ろし、周囲を窺う。
静かにはなった。
しかし、鋭敏になった感覚はまだ敵が残っていると喚いている。
「ノア、生き残りを出したくありません。索敵を、……っ!!」
──突然、視界の端が歪んだ。
金属の粒子がちらつく。
『負荷上昇。騎士様、やっぱり無理してる』
「続行可能です。心配ありませんよ」
異形を踏み越え、足を止める。
死体から血の混じった波紋が広がった。
私だけでは、敵の正確な位置が特定できない。
「ノア、周囲を探ってください。あなたの魔法が必要です」
『……了解』
少しの沈黙。
『捕捉。空にいるよ』
霧の隙間に海鳥に寄生した尖兵が見えた。突撃の機会を窺っているのだろう。
『確認。魔法で落とす?』
「ええ。演算をお願いします」
『わかった。……少し演算ずれた。やり直す』
背中の熱が不規則にうごめく。
『修正完了。今度は大丈夫なはず……』
わずかに不安げな気配が混じった音。
「大丈夫です。私達なら問題ありません。そうでしょう?」
『……えへへ。うん!』
ノアの返事に呼応するように視界の緋色が再び燃え上がる。
視界に敵を追尾する光が描かれていく。
光が海鳥擬きに到達したのを確認して、手をかざす。
外套の血管のような光が増していくに連れて、風が腕に巻き付くように収束していく。
『偏差ゼロ。撃って』
構築された魔法が速やかに起動する。
暴風が掌から迸った。外套が激しくはためくが、身体は凪いだように安定していた。
緋色の奔流が霧を裂き、不規則に飛び去ろうとする異形を執拗に追いかけ、飲み込む。
嵐のような魔法が過ぎ去ったあとには、再び静寂が戻ってきていた。
ゆっくりと腕を下ろす。
「さすがですね、ノア」
背中の鼓動が、わずかに強くなる。
『肯定。ノアは優秀。……もっと褒めてもいいよ』
「えらいです。助かりました」
『やった』
静かに喜ぶ相棒に微笑みながら、装備を確認する。
軍靴に尖兵と寄生された生物の血肉が惨たらしく付着し、水を汚していた。
眉を顰め、整備をしようとしたその瞬間。
──背中の皮膚が裂けた。
外套を押しのけ、翼の骨組みを思わせる赤黒い触手が躍り出る。
死角から奇襲してきた尖兵が貫かれていた。
何度も叩きつけられ、水柱があがる。
水の中に魔素の分解による紫と体液の赤黒さが広がっていく。
「……ノア、もう動いていません」
触手は一瞬止まり、それでも何度か叩きつけた。
潰れた肉が水気を伴った不快な音を立てる。
『だめ。騎士様に触ろうとした』
無機質な声が、幼い響きに変わる。
叩きつける触手の動きだけが、無機質なままだった。
私が危険に晒されると、ノアはいつもこうだ。
戻ってきた触手が、装備を包み込む。
それらが離れると、汚らしい血肉は全て拭い去られていた。
眉尻が少し下がる。
排除も整備も、ノアが私を思い遣った結果だ。
……やや念入りすぎる気もするが。
暴虐を振るっていたとは思えない綺麗な触手が、甘えるように巻き付いてくる。触れた箇所から、ざらついた違和感が静かに抜けていく。それだけで呼吸が楽になった。
「……ありがとうございます。ノア。油断していたようです」
背中が、わずかに強く脈打つ。
『信頼の証拠。栄養補給もできた。
騎士様、ノアは偉い?』
「ええ、もちろんです」
その言葉に、脈動が一瞬跳ねる。
ほんのわずかに、強く。
巻き付いた触手を撫でる。
熱く脈打ったあと、名残惜しげに
背へと吸い込まれていく。
外套の下、大きくスリットが入る背部。
頸椎から腰まで刻まれた緋色が脈動した。
肺に残る魔素を吐き出す。
だが呼吸が浅い。胸の奥が削れるように痛む。
視界の端に金属粒子が残った。
──耳鳴り。
身体の軋みが大きくなる。
『金属残渣量、閾値接近。騎士様、怖い』
「しかし、念のためにもう一度だけ索敵を……」
そもそも、尖兵は洋上で確認されることは少ないのだ。
例外は故郷を滅ぼした一度だけ。
悲劇を繰り返させてはいけない。
多少の無理をしてでも、確認したほうがいい。
──背中が強く脈打ち、触手が弾けるように伸びる。
腰へ、腕へ、逃がさぬよう絡みつき、残った触手で身体が少しだけ強く引かれる。
僅かな傷でも避けるように、慎重な力加減で。
たたらを踏んだとき、限界を迎えた軍靴が裂けてしまった。
海水が染み込んでくる。
『だめ。靴も壊れた。……ノアのせいかもだけど』
幼い声が遠慮がちに響き、触手が肌を撫でていく。
「んっ、ノア……」
その感触に思わず声が漏れ出てしまう。
過敏になった感覚に、優しい温かさが広がった。
ざらついた違和感が、触手に触れた箇所から吸い取られていく。
肺の痛みもすこしだけ和らいだ。
『騎士様、帰ろう?今すぐ。靴はあとで見てもらわないと』
ぐずるような声音に、力が抜ける。
ここまで引き止めるなら、もう尖兵はいないのだろう。
そう決断できるくらいには、私はノアを信用している。
「……きっと怒られますね。わかりました。帰りましょう」
『……確認。ほんとに?──騎士様がいなくなるの、ノアは嫌』
私に語りかける幼い声が、騎士様と呼ぶときにほんの少しだけ詰まる。
気づかないふりをすることにした。
どうしてそうするかも、考えないことにする。
(私のフィオ……。きっと、私があなたと共に歩ける世界をつくるわ……)
世界の雑音の中に、不意に懐かしい風を感じた。
懐に伸びかけた手が、静かに下ろされる。
今の私は、ノアの騎士だ。
それだけ考えていればいい。
『騎士様?』
「何でもありませんよ。隠れ家に帰りましょうか」
心配そうに腕に巻き付く触手に誤魔化すように笑いかける。
いつの間にか、風は凪いでいた。
静寂の中を、ゆっくりと進む。
今の私に聞こえるのは、背中に宿るノアの脈動だけだった。
読んでくださってありがとうございます。
2話以降は、全年齢版に合わせて調整してから掲載します。