薄暗い空間には血の匂いが充満し、その壁や床、果てには天井にも蟲のような何かが蠢き這いまわっている。
昏い密室の中、枯れ木の如き男と幽鬼のような老人が二人、中央の召喚陣の前で立っている。
間桐雁夜と間桐臓硯は今まさに今回の聖杯戦争を優勝するにあたって最重要の存在である、過去の英雄の影法師《サーヴァント》の召喚に着手し始めた。
「雁夜よ、召喚の呪文はしっかり覚えていような?」
「馬鹿にするなよ、ジジイ。そのくらい覚えてる」
「蟲に身体もろとも記憶も食われたかと思うて心配したが、どうやら儂の心配が過ぎたようじゃな」
「チッ、ふざけやがって。 ゲホッ! ゲホっ」
間桐雁夜は臓硯の家系に名を連ねる男であったが、その魔術的才能や適性は全くない。これはひとえに間桐という魔術師の血統が枯れた事に起因する。
聖杯戦争は七人の魔術師の戦いであり、間桐雁夜は本来スタートラインにも立てない落伍者のハズだった。
それが聖杯戦争のマスターたる令呪を宿す境地にまで至ったのは、臓硯の蟲を使った身体改造に他ならない。
端的に言って外道の術である。
体内に蟲を寄生させ、己の生命を貪らせて魔力を生産させる。これを一年、間桐雁夜は間断なくやり続けた。
魔力の代償は、雁夜の身体から頭髪の色素、左半身の神経のほとんど、左目の視力、寿命の大半だった。
もはや死んでいないのが不可解な容態。これが現在における間桐雁夜の状態である。
「雁夜、お主には今回、召喚の呪文に二節の詠唱を差し挟んでバーサーカーを呼んでもらう。いいな?」
雁夜は唐突な臓硯の提案に当然ながら訝しんだ。
外道に堕ちた怪物が己の嗜虐心を満たすために当初の予定にはなかった詠唱をさせるつもりなのか?
ありえる話だ。なんせ間桐臓硯は己に聖杯戦争を勝ち抜くだけの期待なんて端からしていないだろう。一年そこいらの間、蟲に嬲られただけで勝てる戦争ならこの不死身の怪物が自身の力でとっくに聖杯を掴んでいる。
「そう睨むでない。孫を思う祖父の気遣いじゃよ。お主はマスターに選ばれるほど力を得たが、所詮即席の魔術師にすぎん。他のマスターと比べれば魔力の量で負け、故にサーヴァントの力も十全に引き出せない事態が大いにありえる」
そのような懸念に対しての保険として、バーサーカーというクラスでサーヴァントを召喚し、《狂化》のスキルでサーヴァントの性能に少しでも下駄を履かせる。
己の力不足を補う苦肉の策。
「いいだろう、やってやる」
「では召喚の儀礼を始めよ、雁夜」
憎い臓硯の提案だが承服せざるを得ない。
己の力が及ばないのは最初から知っているし、聖杯戦争には必ずあの男、いつでも己の上をいった遠坂時臣が参加するのだ。
例え罠だろうと、力を手に入れる策はなんでも使わなければいけない。
それが外法の策でもだ。
雁夜は召喚の呪文を諳んじ、例の二節の詠唱を差し込む。
「 されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者 」
中央に描かれた召喚陣は青白い光を帯び、呪文の詠唱が進むごとにその光量と巡る魔力が増していく。
最後の呪文を唱え終わると同時に、光は部屋の闇を全て照らし、また急速にもとの暗さを部屋は取り戻す。
「こい、つ、は?」
「ん? これは一体どういうことだ?」
雁夜と臓硯の内心が今この場に置いてのみ一致する。
困惑。
その原因は召喚陣の中央に立つサーヴァントだった。
短く青白い髪に琥珀色の眼、服装は西洋式の貴族のような衣装、そして女性だった。
とてもじゃないが「騎士」には見えない。
サーヴァントの召喚には触媒を用いている方法があり、今回は間桐臓硯が円卓の騎士達が使った《円卓の欠片》を用いたのだ。
だから、男の騎士が呼び出されるものと思い込んでいた。そんな中、女性でなおかつ騎士の要素が全く見当たらないサーヴァントが姿を現したので面を喰らった。
女性ならばまだよい。円卓の騎士にも女性はいた。しかし、鎧や剣など騎士らしき物品あるいは戦いに習熟した者特有の雰囲気などが一切合切ないのには違和感を抱かざるを得ない。
「……、どうやら召喚も転移も無事に行われたみたいね」
「なぁ!」
「ほう……」
女のサーヴァントがそう独白する。
召喚が無事に行われた? 己は円卓の騎士を誰かを呼び出したハズなのに。
……、いや、そこは問題ではない。問題ではあるけれどもそれよりももっと重大な問題が発生している。
「喋っただと……!」
バーサーカーのクラスは《狂化》のスキルで理性や言葉が蒸発するのが常である。……そのはずである。
「喋っただけで大げさな反応ね。それともサーヴァントって会話の機能がそもそも備わらない存在なのかしら? ……ああ、そうか。確かあなた達はバーサーカーのクラスのサーヴァントを呼んでいたのね。呼んだ存在が会話可能だなんて考えていなかったってわけかしら?」
なのにどうだ、今このサーヴァントはなんら理性を失った風でもなく、思考を十全に巡らせて、こちらに喋っているじゃないか!
「どういう事だ! ジジイ! 出鱈目を俺に教えたのかッ! ぐふぅ! ゲフっ!」
「いいや、嘘などついとらん。正しい詠唱を教えたぞ」
「じゃあ、ゴホッ! 一体これはどういう事なんだ!」
「お主は力不足に加えて運にも見放されたというこだろうよ、雁夜。ハハ、精々そこなサーヴァントと足掻くだけ足掻いてみせろ」
臓硯は身体は闇に溶けるようにしてその場から消え去ってしまう。
雁夜は臓硯に待ったをかけるものの、ただ部屋に声が虚しく反響するだけで、臓硯を呼び止める事はできなかった。
「ちょっと、あまり私の事を無視しないでくれる? まるでいないみたいに扱われるのは私にとってとても不愉快な事なのだけれど。そこの今にも死にそうなあなたが聖杯戦争のマスターなのかしら?」
女のサーヴァントから腹立たしげな声を受けて、雁夜は改めて顔を向かい合わせる。
視野が狭窄して身体の力も抜けていく。無論、声もろくに出す余裕がない。
どうやら召喚の儀式を行った消耗と目論見が外れた召喚による失望感が雁夜のなけなしの活力を奪ってしまったらしい。
「……ああ」
膝から崩れ落ちた雁夜はそのまま意識を手放した。
「……」
残された女は大きくため息をして、これからの展開を考えて憂鬱になった。
聖杯戦争は厳しいにもかかわらず、初っ端から話をする事さえ苦労する羽目になろうとは。
「全く頭が痛くなるわ……」
雁夜の鼻腔が酒特有のアルコール臭によって刺激されて、意識が闇からゆっくり浮上する。
ついに瞼を開けたときには知らない天井が目一杯に広がった。
落ち着いた緑を基調とした天井だ。
気怠い身体を起こして周囲の様子を確認する。本が地面に無造作に散らばり、壁には本棚が配列されているが中の本は本棚同様に配列されていない。
そして、乱雑な図書室のような空間でとりわけ目を引いたのは、地べたで本を枕にし酒の空き瓶らしき物をその近辺でまき散らして寝ている、緑髪の男だった。
「誰だこいつ、というか、そもそもここはどこなんだ?」
そう疑問を持ったのも束の間、雁夜は己の身体の異変に気が付いた。
視界が広く、全身の痛みもないどころか麻痺したはずの左半身の感覚が蘇っているではないか。
「治ってる。一体なにが……」
「おっ、思った早く起きたみたいだな、あんた。死人みたい状態から随分回復したじゃないか」
後ろから黒スーツ姿の地味な壮年の男がこちらに妙に馴れ馴れしい態度で話かけた来た。
次から次へと知らないものや状況が目の前に現れたり起ったりする。もうとっくに雁夜の頭では把握しきれない状況になってしまって、もはやただ困惑するしかない。
そうして、困惑する雁夜を余所に事態はまた急転する。
シックで緑を基調とした空間から急に開けた空間へ己の周囲の環境が変貌した。
天井が存在せず、本と本棚が天をつくように並ぶ異空間。
すっかり雁夜は茫然としてしまって驚くこともままならない。
「目を覚ましたようね、あなた。今度こそ私と話をしてもらうわよ。もちろん、聖杯戦争の話についてね」
聞き覚えある声が雁夜の耳朶を叩き、視界良好となった両目は声の主をハッキリ捉えた。
短髪で青白い髪色をもつ、琥珀色の瞳ろをした女。
「お前は、俺のサーヴァントなのか?」
「サーヴァントって私を呼ぶのはやめて。私はあなたと聖杯戦争に挑む関係にあるけれど上下関係はないし、私はあなたの駒ではないわ。あとあなたが自分の命令や言い分を通すために私に令呪を使うようなら私は聖杯戦争を辞退するわよ。自由になるためにまた誰かの言いなりになったら本末転倒だから」
「!」
雁夜は目を白黒させた。
なんなのだ一体! 異空間にいると思ったらまた次の異空間へと飛ばされて、知らない物や人を沢山目にして。
何も状況を呑み込めない。
でも、少なくとも今分かる事は目の前の女はどうやら己の呼んだサーヴァントで、呼び方一つのせいでそのサーヴァントとの関係に亀裂が入ろうとしている。
サーヴァントとの関係は聖杯戦争を優勝する上で必須事項だ。己のサーヴァントに謀反を起こされましたではお話にならない。
予定通りにバーサーカーを呼べばこのような苦労はしなかっただろうが、四の五の言っていられない。
当座、この状況では女の言うことに従順でいるのが最善だろう。
「わかった! 悪かったよ。君を不愉快にする意図はなかったんだ、許してほしい。君の言う事も最大限尊重するし守りもする」
「アンジェラ。分かってると思うけど、こいつ、今起きたばっかりなんだ。まずはそう、状況説明と自己紹介から始めよう、な。焦る気持ちもわかるけど時間をかけるべき事もあるだろ?」
さきほどの黒くて地味な男がそういうとアンジェラと呼ばれた女はいくらか落ち着きをみせる。
というか、さっきの場所から転移してきたのは俺だけじゃないのか。
「……そうね、ローラン。……、起きたばかりのあなたにろくな説明もなしに言いたい事だけ言って悪かったわ」
「あ、ああ、構わない。俺は気にしないよ」
「あなたは今、私の図書館にいるわ。あなたにも分かるように言うと私の宝具の中にいる。そして、あなたの身体が治っているのもこの図書館の力を私が利用したからよ。
私はアンジェラ。この図書館の館長をやっているわ」
「そう、なのか。俺は間桐雁夜。聖杯戦争のマ、いや、参加者だ。それでアンジェラ、君はその、俺が召喚で呼んだパートナーなのか?」
「ええ、そうよ。これから一緒に戦いましょう、雁夜」
そういってアンジェラは右手を差し出した。
合わせて己も右手を差し出し、固く握手をする。
「よろしく頼む。アンジェラ」
当初の予定から完全に狂ったけれども、己が桜を救い出す事に変わりないと、間桐雁夜は思い直す。
最序盤から波乱に満ちた展開になった雁夜の聖杯戦争はここから本格的に始まる。