ローランの提案によってお互いの紹介と状況説明が終わったのち、雁夜とアンジェラは聖杯戦争での最初の課題にブチあたった。
「まずお互いに聖杯へ何を望むのか、開示しましょう」
アンジェラは単刀直入に本題を切り出し雁夜の全身に緊張が走る。
バーサーカーならば考慮する必要のなかった重大な問題である、願いの方向性の違いだ。これがもし自身の願いと相反していたり、例えば《この世全ての悪の誕生》といった叶えてはいけない願いだったりすれば、実質的に戦わずして敗退が決まるとはいわずとも令呪を必ず一画は最後まで保持する必要がある。
こういったマスターとサーヴァントの致命的な齟齬を解決するためにも令呪が存在するのだが、アンジェラを令呪で一方的に拘束すればその時点で関係は破綻し、最悪の場合はこちらを裏切る可能性が高い。
幸いにも今の身体はアンジェラの力で修復され、思考の余裕がある。
……、待てよ、身体を治したという事はもう己はアンジェラの支配下に置かれていて、もはや逆らえないのではないのではないか?
回復した思考から猜疑心が生まれる。もう苦痛から解放されたのに頭と胃が鈍く痛みだす。
「……、じゃあ、アンジェラ、まず君の願いを聞きたい。聖杯に君は何を叶えてもらうつもりなんだ?」
最初に相手の願いを聞いておけば、少なくともこちらから関係に罅を入れてしまう事態は避けれるし、仮にあちらがろくでもない願いを言い出したとしても表面上肯定するフリをする事が可能だ。
果たして、このアンジェラは聖杯戦争に参加してまで何を叶えたいのか。
触媒から召喚されるうるサーヴァントどころか、全く未知のサーヴァント。
その願いを考察する手掛かりすらない。
どんな願いだってあり得る。
「別に大した願いじゃないわ。私は完全に自由の身になりたいの、より厳密にいうと呪縛から解き放たれたい」
「呪縛?」
「あなたは呪われているのよ。今はこうして例外的に外へ出る事が出来ているけれど本来は図書館、そっちにいうところの宝具の中から出られない身の上なの。だから自由になりたいというわけ」
「……そう、か」
詳しい話は分からないけれども、邪悪な願いでもなければ己の願いとも矛盾する内容でもない。
緊張が抜けて、自然と安堵の吐息が漏れる。
同時に思考にも冷静さがもたらされる。
よく考えてみれば、マスターを支配下に置くなら身体を修復するついでに洗脳でも拘束でもできただろうし、そもそもこうして話し合いなどやっていないだろう。
アンジェラはこちらと共闘する気があり、つまり聖杯戦争のパートナーとして捉えてくれている事だ。
「それであなたの方はどうなの? 私は答えたわ、雁夜。今度はあなたの番よ。どうしてあなたはあんな身体でも聖杯戦争に参加したのかしら?」
「桜ちゃんを救うためだ」
間を置かず即答した。
隠す理由も偽る理由もありはしない。この願い、この動機は今日まで己があらゆる苦痛を耐え抜いてきた気力の源であり、これがもし人から隠したり偽ったりするような後ろ暗い代物ならば雁夜はもうとっく蟲の餌食になっていた。
雁夜は詳しい背景や現状をアンジェラに語ってみせた。
「大体の事情は把握したわ。要するに桜をあの臓硯という気味の悪い男から解放したいってことね」
「ああ」
「……シンプルな願いね。あなたの話を聞く限り桜が臓硯から解放されるならどんな手段でもいいのよね? たとえ聖杯でなくとも」
「聖杯をあのジジイに渡す以外に方法があるならそれで構わない」
「あなた自身は聖杯に託す願いはないのね」
「桜ちゃんが幸せに暮らせるなら、俺はなんでもいい」
「……、そう」
雁夜に嘘を吐いた様子はない。しかし、語った事が全てではあるまい。
これがアンジェラが抱いた雁夜の話に対する感想であり、加えて、嫌な既視感がアンジェラの脳内を占める。
こいつはねじれて大泣きした奴と自身を忌まわしい任務を課した管理人Aに似た所がある。
図書館でのゲスト達やあのL社の管理人に接してきた経験から、雁夜の利他的で一見献身的な自己犠牲の裏には醜い利己的な願望が結びついていると、アンジェラは看破した。
しかも、他者を巻き込んで破滅を招く最も醜悪なタイプの利他的願望である。
そして、雁夜は質の悪い事に己のお綺麗な願望が汚い利己心に繋がっている自覚が全くない。
綺麗な理想に溺れた者によく見られる視野狭窄に陥っている。
かといって、アンジェラはその雁夜の歪みをその場で指摘するつもりない。
如何なる動機であれ、戦う動機に罅を入れる真似は出来ないからだ。迷いを抱えたマスターなど聖杯戦争では勝ち抜くどころか満足に戦うことさえ許されないだろう。
さらに言えば、遠坂時臣が敵マスターとして今回の聖杯戦争に参加しているのもアンジェラに雁夜への指摘を控えさせた。
間桐桜の実父であるという事実は雁夜に遠坂時臣への戦意を鈍らせる可能性が濃厚である。雁夜の話からして桜の惨状を作った一人であるからこの事実を指摘をしただけでは時臣への戦意を衰えないだろうが、何かやむを得ない事情があったとか臓硯の仕打ちについて知らなかったとか。
こうした疑問から一度時臣と話をした方がいいとの考えに至る可能性は十分にあり得る。
基本的に雁夜は聖杯戦争での重要なパートナーではあるけれども、あくまでも個人的な事情に肩入れするほどの関係性ではないし、なるつもりはない。
戦争の邪魔にならない限りは肩入れ無用である。
「ならその間桐桜って子はこの図書館に保護した方がいいわね。臓硯が桜を人質に使うと厄介だし、そもそも聖杯戦争に巻き込まれて自分達の知らない所で死んでしまったら目も当てられないから」
「ああ、そうだな! 出来たらでいいんだが一つお願いしてもいいか?」
「……、受け入れるかどうかは聞いてからしましょうか」
「桜ちゃんは俺と同じように蟲に身体を酷く傷つけられてる。可能な限りでいいから治療をしてやってほしい」
「まあ、いいわ。でもあまり期待はしないで、治療はこれでも専門外だから」
「ありがとう! アンジェラ」
「……」
雁夜からの純粋な感謝はアンジェラの心を波立たせる。
感謝を受け取るのは初めてではないのだが久しくなかった事だ。裏のない感謝ともなるとなおさら受け取ったのはいつの話になるのだろうか?
L社での業務を始めて間もない頃にまで遡るやもしれない。
アンジェラの胸中に少し罪悪感の芽がふいて、迂闊な言葉が口からこぼれる。
「あなたは桜に、普通の人生を望んでいるのよね?」
「? ああ、さっき言った通りだぞ」
「その普通の人生って、桜が家族と「アンジェラ、指定司書の皆が待ってるぞ。時間が惜しいんだとさ」
会話を離れた場所から聞いていたローランが割って入り、強引にアンジェラの発言を遮る。
その上で間髪入れずにローランはアンジェラに対して言葉を続けた。
「それはそれ、これはこれだ。アンジェラ」
ローランの言葉の意味をアンジェラは即座に過不足なく理解した。
《あまり肩入れするな、己の目的を見失うな》
「……、ええ、そうね。ローラン、聖杯戦争をやるにあたって皆で打ち合わせする予定だったわね。雁夜にも参加してもらうわ、今後どういう戦略で聖杯戦争を勝ち抜くかを話し合いましょう」
「分かった。……それで指定司書ってのなんなんだ?」
「打ち合わせのときに説明するわ」
アンジェラ、雁夜、指定司書達による十分な話し合いによって大まかな戦略と戦術が定まった。
雁夜とアンジェラの存在を敵から隠蔽しつつ、表舞台ではビナーとゲブラーに戦闘を行ってもらい、あたかもマスターとサーヴァントように振る舞う偽装工作を実行する。
これが最良の戦略との結論に達した。
戦略が決まった後のアンジェラ達の動きは迅速であり、桜の保護、拠点の確保と冬木市の地理の把握、偵察部隊の編制と監視網の構築等を一日が終わるまでに済ませた。
「桜ちゃん、身体の調子は大丈夫?」
「……うん」
深山町の郊外近くの空き家の拠点で雁夜と桜は朝食をとる。
束の間でも桜と穏やかな時間を得た事に雁夜は感慨深い気持ちで一杯になる。聖杯戦争が一度始まってしまえば桜と顔を合わせる機会はほとんどなくなると思っていたし、ましてやこうして日常を共に過ごすなぞ考えもしなかった。
以前の己の身体を思えば一人で固形物を食べるのだって不可能だったのだ。治療は専門外とアンジェラは言っていたが、行き過ぎた謙虚さにしか思えない。
本当にアンジェラには感謝の念が絶えない。
今はそれはさておき、イチゴジャムを塗った食パンに紅茶。
シンプルな献立で子供にとっては物足りさを感じるかもしないので何か甘いデザートを追加したいと思ったが、真のマスターとサーヴァントを隠蔽する方針を決めた以上はコンビニなどへ行って自ら食事を調達するわけにいかない。
ではアンジェラ除いた司書達に頼むのはどうか?
これも出来ない相談だ。聖杯戦争の下準備で忙しい司書達にそのような暇はない。少なくとも司書達の仕事が一段落つくまでは生活は必要最低限の水準で桜ちゃんには申し訳ないけれども我慢してもらうしかない。
しかし、このまま何もしないわけじゃない。
「ねえ、桜ちゃん」
「……何?」
「何か欲しい物とかしてほしい事はある? 遠慮しないでなんでも言って欲しいんだ」
「……、……」
少し俯いて桜ちゃんは黙り込んでしまう。
そんな、何もいらないとも言わない様子を目の当たりにして悲しみが心から滲んでしまう。
普通、このくらい年の子であれば何か我が儘の一つくらいあるものだ。
これが食べたいとか、あれがみたいとか、それをしたいとか、そういう欲求があって然るべきなのに遠慮すらできない程に蟲どもが少女の心を貪り喰ってしまっている。
一応外傷についてはアンジェラが一通り治してくれたけれど、心に負った傷はあのアンジェラにも手の施しようがなかったらしい。
もしも聖杯を勝ち取り桜ちゃんを自由の身にできたとして、果たして桜ちゃんの心は元の形を取り戻せるのだろうか? 元には戻らなくても正常な状態まで心は治癒されるのだろうか?
おそらく、いや、確実に心が治癒されるのは困難を極める。
勝った後の事など考えようのない雁夜だったが、アンジェラによって身体が人並みまで回復したために勝った後も生き残れる希望がでてきた。
となると、自然と聖杯戦争後の事も考えるようになるわけで、今の雁夜には桜のその後を慮る事が出来た。
心を大きく壊してしまった桜のその後。
桜ちゃんには家族が必要だ。葵さんや凛ちゃんという彼女を大切にしてくれる真の家族との時間が要る。
そうした家族とのかけがえのない日常がきっと心を癒してくれる。もしかしら己も桜ちゃんの支えとして存在できるやもしれない。
そう、間違ってもあのジジイやあの生粋の魔術師である遠坂時臣がいてはいけない。
今回の聖杯戦争で排除しなければ桜ちゃんには未来永劫、安寧は訪れないだろう。
「なれければないで無理に言わなくても構わないよ」
「……うん」
間桐雁夜は気付かない。己の歪みに自覚を持てない。
聖杯戦争で遠坂時臣を破った場合、遠坂凛やかつて想い人であった遠坂葵がいかなる事態に、いかなる心情になるのか。苦痛から解放された頭脳をもってしても、全く想像がつかないどころか、そんな発想さえ抱くことさえ不可能だった。
当然ながら、自身の心に根付く遠坂時臣に対する昏い情熱にも無自覚のまま。
自身の歩む道が理想に続いていない事に間桐雁夜は気付けない。
雁夜と桜が朝食をとる一方で、アンジェラは拠点の空き家に備え付けられた小さい庭に一人、仮初ではあるが与えられた自由の身を堪能していた。
生まれ初めての外は刺激的とは言い難いけれども、アンジェラに十二分な体験を与えてくれた。
青草の生えた地面を踏みしめる感触、夜の冷たい空気、暗い夜空にほんの少し見える星や煌々と輝く月、次第に明るさを増す空模様と昇る朝日。
そのどれもがアンジェラにとって初めて見て、触れて、感じる物ばかり。
体感時間が常人より極端に遅い体質をこのときに限っては非常に有難く感じる。自身の見たい物や感じたい物を存分に味わう際にこれほど有用な体質は他に存在しえないだろう。
「初めて外へする事がただ立って景色眺めるだけのいいのか? 聖杯戦争っての人目を憚ってやるものらしいから朝から昼の間なら散歩するくらい許されると思うぞ」
「……偵察任務は終わったの? ローラン」
「おおよそな。この辺の地理は把握できたし、橋渡った先はゲブラーとビナーが直に現地調査に出向いてるよ。あと本屋で町の地図の手に入れたんで地理把握は大方片付いた。ついでにここにも図書館ってところがあって誰でも入場できるらしいから、歴史のコーナーでサーヴァントの手掛かり集めようってイェソドから提案があったぞ」
「そう、ならビナーとゲブラーが現地調査から帰ってきたらこの町の図書館にイェソドとホドを向かわせましょう、雁夜に利用方法を教えてもらってからね
……散歩の提案だけど流石に今はダメね。雁夜によれば町には使い魔が放たれて監視網を敷かれるのが定石らしい上にアサシンのサーヴァントが私達より先に召喚されている可能性があるから出歩くのは無理ね。私や雁夜が動くのはアサシンの脱落が確認できてから。動かざるを得ないときは下水道を利用するわ」
「了解。あとゾウケンって爺さんから過去の聖杯戦争とか魔力の補給なんかについて聞くって案はどうする?」
「ゲブラーとビナーに聞き出してもらうわ、もちろん撤退用の招待状を持たせてね。……あと念のため聞いておくけど私や司書達は霊体化できない。尾行対策の帰りの招待状を外回りの人員に漏れなく持たせたわね?」
「そりゃ、もちろん。俺達全員、背中をざっくり刺されたくないからな。ちゃんと持っていったぞ」
初日の動きは順調そのもの、アンジェラ達の聖杯戦争はつつがなく進行している。
しかし、それで安心というわけではない。戦いは始まったばかりであり聖杯戦争には数十年単位で準備してきた陣営がいくらでもいる。
そういう意味ではもう既にアンジェラ達は遅れをとっている。半ば飛び入りに近い形での参加なのだったからこの準備段階の遅れは嘆いても仕方ない。
だが、その遅れをいくら取り戻す方策をアンジェラは用意していた。
「戦術を増やすために試したい事があるから、雁夜を呼んできてくれるかしら?」
「ああ、ちょっと待っといてくれ」