名前を呼ばれたくない珍名ウマ娘 作:Lagavulin
直線へ向いた瞬間、銀色の髪が後ろへ流れた。
上体を沈め、芝を蹴る。前を走る3人の外へ並び、そのまま抜き去った。脚が地面を捉えるたびに差が開く。最後まで姿勢は崩れず、白線を越えてから、ゆっくりと体を起こした。
見学していた後輩が、息を呑んだ。
長い銀髪。涼しげな目元。汗を拭う指まで綺麗だった。少女がこちらへ歩いてくると、後輩は抱えていた映像再生用のタブレットを胸へ引き寄せ、道を空けた。
「さっき、聞きたいことがあるって言ってたよね」
穏やかな声だった。後輩は慌ててタブレットを開く。
「はい、ニョ先輩!」
銀色の耳が、わずかに伏せた。
ニョ。
あだ名ではない。これで名前の全部だった。
幼いころ、ある日ふと、それが自分の名前だと分かった。どこかから降りてきた2文字が、すとんと胸に収まった。誰かに尋ねるまでもなく、これが自分だという確信があった。
そのころは、呼びやすい名前だと思っていた。
後輩のタブレットを近くで覗き込むと、彼女の姿勢が固くなり、耳と尻尾が跳ね上がった。その様子を見たニョは少し離れ、走行フォームの再生映像を指した。
「ここの足、もう少し体の下に着くと次を踏み出しやすくなると思う」
「あ、はい! ありがとうございます!」
後輩は何度も頭を下げてから走っていった。入れ替わりに、友人のヴェルティナがボトルを持ってくる。
「また近づいて緊張されてたわね」
「普通に話してるつもりなんだけど」
「立ち振る舞いが綺麗すぎるのよ」
ニョは水を飲んだ。遠巻きに憧れのような目で見られるのは珍しくない。何もしていなくても、後輩は声をかける前に背筋を伸ばすし、廊下で目が合うと会釈だけして去っていく。
「それで名前がニョって、釣り合ってなくない?」
「そうかしら?」
「そうって言って」
「私は普通にニョと呼んでるもの」
ニョはボトルの蓋を閉めた。友人の声なら平気だった。困るのは、もっと大勢の声だ。
*
ジュニア級の夏になっても、デビュー戦には出たくなかった。
走るのは好きだ。競り合えば負けたくない。だからこそ、実況で名前を呼ばれる場面が容易に想像できてしまう。
トレーナーは出走を急かさなかった。それでも練習だけでは、自分がどこまで走れるのか分からない。ニョは日程表を眺めた末に、芝1600mのレースを指した。
「一度だけ、出てみる」
「分かった」
「名前を呼ばれたあとのことは、帰ってから考える」
実際に走り始めると、スタンドの視線や声援は頭から消えた。
最終コーナーで外へ出る。前を走るウマ娘が振り返ったときには、もう隣にいた。ニョは腕を引き、直線の先へ視線を置いた。
追い抜いても、後ろの足音がついてこない。
まだ行ける。
脚を回すたびに景色が速く流れ、声援が膨らんだ。
『ニョが抜け出した! これは速い! 後続は懸命に追うが、差が開いていく!』
銀髪をなびかせ、白線へ飛び込む。
『衝撃のデビュー! 勝ったのは、ニョー!』
7バ身差だった。
ニョは掲示板を見て、拳を握った。勝った。自分の走りが、ちゃんと通用した。胸の奥から笑いが込み上げ、口元を押さえても収まらなかった。
場内の大きな画面に、ゴールの映像がもう一度流れる。
『勝ったのは、ニョー!』
握っていた拳から、力が抜けた。
*
「もう人前では走りたくない」
学園へ帰ったニョは、トレーナー室の椅子に座り、紙コップを両手で包んでいた。
トレーナーは向かいに座った。ヴェルティナもニョの隣へ椅子を引く。お祝いに来た後輩は、入口で持っていた花を下ろした。
「最後、聞いた?」
「聞いた。すごい走りだったね」
「走りじゃなくて、その後」
ニョは少し俯いた。前へ垂れた銀髪がカーテンのように顔を隠す。
「ニョ、ならまだいいの。最後の、ニョー、って」
「興奮してたんでしょうね」
「分かる。分かるけど、私のほうが困るの」
声を張った実況者の顔まで見えるようだった。
ヴェルティナは頷いて、隣に座ったまま水を飲んだ。後輩も花を机へ置き、空いていた椅子に腰を下ろす。
「ニョ先輩が勝って、嬉しかったです」
ニョは顔を上げた。
「ありがとう」
「でも、嫌だったことも聞きます」
後輩はタブレットを取り出しかけ、やめた。ニョは少し笑って、紙コップを机へ置いた。
「相談を記録しようとした?」
「いつもの癖で……」
「これは残さなくていい」
その日は、ゴールの少し前まで映像を見ることになった。進路を選ぶところ、体を沈めるところ、加速して後続を離すところ。後輩は画面へ身を乗り出し、ヴェルティナは最後の脚の回転に目を細めた。
ニョも、自分の走りを初めて横から見た。
思っていたより、ずっと速い。
「ここ、もう1回見たい」
トレーナーが少し巻き戻した。再生位置を間違えて、白線が近づいてくる。
『勝ったのは、ニ』
「止めて」
「止めた」
画面の中のニョが、胸を張ったまま静止した。
それからも、トレーナーやヴェルティナ、後輩はよく話を聞いてくれた。
取材を受ける前には、ヴェルティナが質問役になった。ニョが考え込んだら、そのまま待つ。レースのあとには、トレーナーが人の少ないところで飲み物を渡して付き添った。後輩は声援が気になると聞いて、拍手で迎えてくれるようになった。
名前が格好よくなるわけではない。けれど、帰ったあとに何を言ってもいい相手がいると、出走表を前にして固まる時間は少し短くなった。
次の出走も、ニョが決めた。
「次のレース、強い相手が出るんだって」
「走りたい?」
「……勝ちたい」
トレーナーが日程表を引き寄せると、ニョはその端へ手を置いた。
「それと、帰ったらまた話を聞いて」
「分かった」
翌年、距離を延ばしても、最後の加速は鈍らなかった。重賞を勝ち、春には皐月賞でも先頭で白線を越えた。人前では静かに受け答えをし、寮へ戻るとヴェルティナのベッドに腰かけて文句を言った。
ある日は表彰式の呼び方について。ある日は、観客席で見た特大の『ニョ』について。それでも翌朝には、次に対戦するウマ娘の走りを見ていた。
秋には、雑誌で『白銀の閃光』と呼ばれるようになった。ニョはそのページを切り抜き、机に置いた。後輩が部屋へ来たとき、さりげなく紙をそちらへ向ける。
「応援するとき、こういう呼び方もいいと思う」
「格好いいです!」
「そう。だから、こういうのを」
「横断幕にしますね!」
今までで一番、話が早かった。
*
12月、有馬記念のファン投票の結果が届いた。
ニョの名前は、上のほうにあった。
トレーナーが紙を渡し、ヴェルティナが隣から覗き込む。後輩は自分も投票したと言ってから、声が大きくなりかけたのを抑えた。
「有馬、出るよ」
ニョは日程表へ目を移した。昨年の覇者も、秋の天皇賞を勝ったウマ娘も出走を予定している。練習で見たことのある、同じ学年のG1勝者もいた。
「終わったあと、また迎えに来て」
「もちろん。今度は何を用意する?」
「座れるところ」
ヴェルティナは頷いた。後輩は銀色の横断幕を出して、端のほつれを確かめ始めた。
トレーナーも応援用のカードを作ってくれていた。春の優勝写真に、雑誌で付いた呼び名を添えたものだった。
皐月賞優勝。
白銀の閃光。
ニョ。
最後の2文字が、一番大きかった。
「私、真ん中に写ってるよね」
「うん。よく撮れてる」
「呼び名も読めるよね」
「ちゃんと読める」
「じゃあ、名前をそんなに大きくしなくても」
トレーナーはスマートフォンでも同じ画像を開いた。後輩は、写真とニョの顔を交互に見て、嬉しそうに頷く。
「でも、ニョ先輩がG1を勝った写真ですから!」
ニョは口を閉じた。そこは、強く頷きたかった。
ヴェルティナが隣から画面を覗く。
「今日はこの写真について話を聞けばいいのね」
「……あとでね」
ニョはもう一度、優勝の文字を見た。
「この写真、スマホにも送って」
一部を切り取ればいつでも見られる気がした。