名前を呼ばれたくない珍名ウマ娘   作:Lagavulin

2 / 6
セカイイチカワイイは名前です

『セカイイチカワイイ、後続を突き放す!』

「止めてください」

 

 イチカは、映像を止めて机の上のタブレットを伏せた。

 

 画面には、彼女自身の練習映像が流れていた。最後の直線で前のウマ娘に並び、そこから2バ身離している。動きについては、褒められてもいいと思う。

 

 ただ、その映像にはトレーナーの仮実況が入っていた。

 

「実況に慣れておきたいと言ったのは君だけど」

「あんなに堂々と言うとは思いませんでした」

「名前だからね」

 

 セカイイチカワイイ。

 

 まだ幼かったころ、ある日ふと、その名前が頭に浮かんだ。誰かに教わったわけではない。それなのに、自分の名前だとはっきり分かった。口にしてみると、不思議なくらいしっくりきた。

 

 夕食の席で両親に伝えると、母は嬉しそうに両手を合わせた。

 

「まあ、ぴったり!」

「そうだな。ぴったりだ」

 

 父も大きく頷いた。そのころのイチカには、2人が喜んでくれたことも、自分にぴったりの名前が分かったことも、ただ嬉しかった。

 

 困り始めたのは、もう少し成長してからだ。

 

 名前そのものには、今でも違和感がない。呼ばれれば自然に自分のことだと分かる。ただ、自分自身を世界で一番可愛いと思っているかは、別の話だった。

 

 普段はイチカと呼んでもらっている。短くて言いやすいし、聞いた相手も余計なことを考えずに済む。入学直後の自己紹介で正式な名前を言った際には、続けて「名前です」と説明する羽目になった。

 

 そのとき隣の席にいた子は、イチカの顔を見てから「うん」と頷いた。

 

「ゼッケンの番号だけで呼んでもらうことは」

「君だけ?」

「はい」

「かえって注目されないかな」

「それも困ります……」

 

 イチカは伏せたタブレットへ指を置いた。ジュニア級の秋、来週のデビュー戦には、もう出るつもりでいる。準備もしてきた。調子もいい。

 

 観客席から名前を叫ばれる自分を想像するたび、出走を取りやめる理由がないか考えてしまう。けれど、脚にも体調にも不安はない。名前だけが引っかかっている。

 

「レースには出たいんだよね」

「勝ちたいです」

「そこは即答なんだ」

「走る方には、何の問題もないので」

 

 タブレットを表へ返す。止まっていた映像を、少しだけ戻した。

 前のウマ娘に並ぶ直前。自分がもう一段加速するところだ。

 

 イチカはそこを再生し、最後まで見て、また戻した。

 

「いい動きだ」

「はい」

 

 今度は素直に頷いた。

 

「実況はしなくていいですから」

 

  *

 

 レース当日、控室で隣になったウマ娘が声をかけてきた。

 

「セカイイチカワイイさん、ですよね」

 

 イチカは、靴紐を結ぶ手を止めた。

 呼んでいるだけだ。確認しているだけ。相手も別に、自分の容姿について何か言いたいわけではない。

 

「……はい」

「レイニーノートです。今日はよろしくお願いします」

 

 差し出された手を握り返す。

 レイニーノートは長い髪を高い位置で束ねた、クールな印象のウマ娘だった。姿勢がよく、近くに立つと脚の長さがよく分かる。

 

 こういう子の前で、自分から名前を言わなくて済んだのは助かった。

 

「先週、練習を見ました。直線で外へ出してから、一気に離してましたよね」

「見ていただいてたんですね」

「今日は、セカイイチカワイイに勝つつもりで来ました」

 

 そんな大きな目標を。

 

 イチカは一瞬、返事に詰まった。

 しかしレイニーノートは真剣だった。相手が見ていたのは、顔ではなく走りだ。

 

「……こちらこそ。負けません、レイニーノートさん」

 

 言い終えてから、握っていた手に少し力を込めた。

 

 その後の準備では、名前のことを何度か忘れられた。自分の仕上がりを確かめ、靴の感触を確かめ、ゲートへ入る。

 隣のレーンに、レイニーノートがいた。目が合うと、相手は小さく頷いた。イチカも同じように返した。

 

 場内放送が出走者を紹介している。

 

『5番、セカイイチカワイイ』

 

 やめて。

 できれば、その整った発音で、広く行き渡らせないでほしい。

 

 イチカは一度目を閉じた。開けたときには、まっすぐ前を見た。

 名前はもう伝わってしまった。ここで縮こまって負けたところで、なかったことにはならない。

 

 勝つしかない。

 

 ゲートが開いた。

 

 最初の数歩で、周囲の足音が重なった。

 イチカは前へ出すぎないように位置を取り、レイニーノートの斜め後ろについた。近くで見る相手の走りは大きかった。少し気を緩めるだけで、背中が遠くなりそうになる。

 

 前を行く2人が競り合っている。その後ろでレイニーノートが外を窺い、イチカも進路を探した。

 

 先に動いたのは、レイニーノートだった。

 

 コーナーを抜ける手前で外へ出る。イチカもついていこうとしたが、前のウマ娘が少し膨らみ、一度足を抑えた。

 そのわずかな間に、差がついた。

 

『レイニーノートが先頭に立った!』

 

 前が開く。

 イチカは腕を振り、地面を強く蹴った。追いつかなければならない。相手も、もう速度を上げている。

 

 残りの距離を示す標識が近づいてきた。まだ届かない。もう一度、脚を伸ばす。レイニーノートの肩が、少し近くなった。

 

『外からセカイイチカワイイ! セカイイチカワイイが追ってくる!』

 

 イチカは前だけを見ていた。

 レイニーノートが歯を食いしばっている。並ばせないつもりだ。それが分かって、こちらも奥歯を噛み合わせた。

 

 勝ちたい。この子に、勝ちたい。

 

『並んだ! セカイイチカワイイ、ここで並びました!』

 

 肩が揃った。

 次の一歩で前へ出る。しかし、離れない。視界の端に相手の腕が残っていた。

 

 イチカはもう一度地面を蹴り、ゴールへ体を運んだ。

 

『セカイイチカワイイ! 差し切った! セカイイチカワイイ、デビュー戦を勝利で飾りました!』

 

 走り抜けてから、何度か息を吸った。

 少し遅れて、レイニーノートも速度を落とす。イチカが振り返ると、相手は息を切らしながら片手を上げた。

 

 勝った。

 

 胸の奥が熱くなった。トレーナーを探すと、向こうで大きく手を振っている。

 イチカは両手を握り、思わずその場で小さく跳び跳ねた。

 

「やった!」

 

 口に出すと、さらに嬉しくなった。もう一度、トレーナーへ向かって手を振る。

 

 観客席から声が飛んだ。

 

「セカイイチカワイイー!」

 

 上げた手が、途中で止まった。

 

「セカイイチカワイイ、おめでとう!」

 

 今勝ったウマ娘を、名前で祝っているだけだ。それは分かる。それでも、自分がその呼びかけに応じるのは少しためらわれる。

 

 イチカは迷った末、小さく手を振った。

 

 歓声が大歓声に変わった。

 

  *

 

「最後、よく届きましたね」

 

 戻ってきたレイニーノートが、タオルで汗を拭きながら言った。

 イチカもまだ、呼吸を整えているところだった。先ほどまであれほど抜きたかった相手と並んでいるのが、少し不思議だった。

 

「先に行かれたときは、届かないかと思いました」

「こっちも、あそこで勝ったと思ったんですけど」

 

 悔しそうに言ってから、レイニーノートはイチカを見た。

 

「強かったです」

 

 そのひと言で、口元が緩んだ。

 イチカは頷き、礼を言おうとした。

 

「セカイイチカワイイ、次は負けません」

「そこは省略しても大丈夫です」

「えっ」

「イチカで。普段は、そう呼んでもらっているので」

 

 レイニーノートが少し驚いた顔をして、それから笑った。

 

「じゃあ、イチカ。次は負けません」

「私も」

 

 言い返したときには、また少し笑っていた。

 

 レイニーノートと手を離し、トレーナーへ向き直ったところで、取材のスタッフがやってきた。

 

「セカイイチカワイイさん、お時間よろしいですか」

 

 いい時間は短かった。

 

 トレーナーへ目を向けると、彼はタオルを預かりながら、小さく頷いた。

 

「走ったときのことを話せばいい。今、話していたみたいに」

「……分かりました」

 

 カメラの前へ立つ。

 スタッフが位置を調整し、マイクが用意される。その間に、イチカは思い切って声をかけた。

 

「あの。名前なんですけど、イチカと略して呼んでいただいても大丈夫です」

「いえいえ。初めてお話を伺うのに、こちらがお名前を略すのも失礼ですから」

 

 スタッフはにこやかに答えた。

 

「きちんとお呼びしますね」

「……ありがとうございます」

 

 名前を大切に扱ってくれている。

 言い間違えないよう、手元の資料まで確認してくれている。

 

 イチカはそれ以上言えず、カメラへ向き直った。

 

「では、最初にお名前からお願いします」

 

 自分で言わされるのか。

 

「……セカイイチカワイイ、です」

 

 カメラへ向かって、自分で言ってしまった。さっきから何度も紹介されている名前なのに、顔が熱くなる。

 

「セカイイチカワイイさん、デビュー戦での勝利、おめでとうございます。今のお気持ちは」

「嬉しいです。最後、届くか分からなかったので」

 

 ここからは話せた。

 コーナーで少し遅れたこと。先に抜け出した相手が強かったこと。並んでからも、なかなか離せなかったこと。

 

 質問に答えているうちに、カメラの存在が気にならなくなった。

 

「ゴールの後、とてもいい笑顔でしたね」

「……はい。本当に、嬉しかったので」

 

 思い出すと、また口元が緩んだ。

 

 トレーナーが両手を上げていた。レイニーノートがこちらへ手を上げてくれた。勝ったのだと分かった瞬間、体が勝手に跳ねていた。

 

「今後は、どんなところに注目してほしいですか」

「走りを見てほしいです」

 

 そこだけは、迷わず答えた。

 

「最後まで諦めずに走るので。また、応援してもらえたら嬉しいです」

「ありがとうございます。セカイイチカワイイさんの、これからの活躍にも期待しています」

 

 カメラが止まる。

 イチカは深く息を吐いた。何度か名前を聞いた気がするが、競走の話はできた。

 

 戻ってきたタオルへ顔を埋めると、トレーナーが言った。

 

「よかったよ」

「略してもらえませんでした」

「丁寧な人だったね」

「はい。とても」

 

 最後まで、一度も噛まずに呼んでくれた。

 

  *

 

 翌日、トレーナー室で待ち時間ができたとき、イチカはスマートフォンを開いた。

 いつものタイムラインを眺める。友人の朝食。気になっていた店の新商品。小さな箱へ入ろうとしている猫。

 

 その次に、自分がいた。

 

『セカイイチカワイイ1着デビュー』

 

 見出しの下で、両手を握ったイチカが宙に浮いていた。

 

 丸い目を細め、口を大きく開けて笑っている。いつも整えている前髪も乱れ、尻尾まで跳ね上がっていた。全身を使って、嬉しいと知らせている写真だった。

 

 イチカは指を止めた。

 

 こんな顔をしていたのか。

 

 自分では、少し跳ねただけのつもりだった。もう少し落ち着いて、勝ったことを喜んでいるつもりだった。

 

 見出しをもう一度読む。

 

『セカイイチカワイイ1着デビュー』

 

 誰が何着でデビューしたか。それしか書かれていない。競走の記事として、何もおかしくない。

 

「どうしたの」

 

 トレーナーが顔を上げた。

 イチカは無言で画面を見せる。彼は写真を見て、すぐに頷いた。

 

「いい写真だね」

「走っているところは」

「記事の中にはあるんじゃないかな」

 

 開いてみると、確かにあった。

 レイニーノートと競り合い、腕を振り、前を睨んでいる。最後の直線だ。こっちの方が、競走記事らしいと思う。

 

 しかし、タイムラインへ戻ると、また跳んでいる写真になった。

 

「どうしてこっちを大きくするんですか」

「勝った喜びが伝わるからだと思う」

「走りを見てほしいって言ったのに……」

 

 画面を送る。

 次の投稿も、自分だった。同じ記事を引用した、別のアカウントだった。

 

『名前の話かと思ったら写真もそうだった』

 

 イチカは眉を寄せた。

 少し下へ送ると、その下にもいた。

 

『直線ではあんなに格好よかったのにこの笑顔』

 

 記事の横に並んだ数字を、ようやく見た。

 共有された回数が、思っていたよりずっと多い。見ている間にも数字が増える。普段はゲームの話しかしていない友人まで、同じ写真を流していた。

 

「……これ、レース関係のアカウントだけじゃないです」

「広まってるみたいだね」

「名前を検索してないんですけど」

「おすすめにも出るから」

 

 イチカは画面を下へ送った。

 今度は動画だった。

 

 小さな画面の中で、自分がゴールを駆け抜ける。振り返り、トレーナーを見つけ、両手を握る。

 

『やった!』

 

 跳んだ。

 

 動画が最初に戻った。

 ゴールを駆け抜け、振り返り、また跳んだ。

 

 イチカは再生を止めた。止まった自分は、両足が地面から離れたところで、これ以上ないほど嬉しそうに笑っていた。

 

「……次は、跳びません」

「次も勝つつもりなんだ」

「それは勝ちます」

 

 そこは、譲るつもりがなかった。

 トレーナーは笑いながら頷き、練習記録へ目を戻した。イチカも動画を閉じ、もう一度画面を送る。

 

 新しく読み込まれた投稿に、また同じ笑顔があった。

 

『セカイイチカワイイが本当に世界一可愛い』

 

 イチカはスマートフォンを伏せた。

 

「どうしたの」

「助けてください」

 

  *

 

 レイニーノートとは、そのあともよく併走した。

 

 距離を延ばすと、先に前へ出られる日が増えた。最後の直線だけ速くても、そこまでに離されれば届かない。イチカは練習の映像を戻し、コーナーへ入る前の位置から見直すようになった。

 

 翌年のオークスでは、直線に入っても脚が残っていた。

 

 先に抜け出した相手へ並び、追いついてきたもう1人を振り切る。白線を越え、掲示板に1着が出たとき、両手を握ってしまった。

 

 両足も、地面を離れた。

 

 その写真は母からすぐに届いた。イチカはお礼を返してから、デビュー戦の翌日に言ったことを思い出した。

 

 次は、跳びません。

 

 保存するだけにして、トレーナーには何も言わなかった。

 

 秋にはシニア級のウマ娘を相手にした重賞も勝った。デビュー戦のときだけ見ていた人が、今のレースも見てくれるようになった。名前を覚えてもらいやすいのは、確かに助かっていた。

 

 12月、ファン投票の結果を見たトレーナーが、有馬記念の予定を確かめた。

 

「2500m。今なら、十分勝負できる」

「はい」

「この前併走した、ニョとミテテも出るそうだ」

 

 イチカは頷いた。ニョの最後の加速も、ミテテが疲れてから踏ん張る強さも、隣で見ていた。

 

 今度は、あの2人を抜かなければならない。

 

 スマートフォンが震えた。両親から、投票したと連絡が来ていた。

 

『今年、一番応援したウマ娘に入れました』

 

 続けて、投票画面の写真が送られてくる。

 

 セカイイチカワイイ。

 

 父からも届いた。母と同じ名前に、同じように丸が付いていた。

 

 イチカは2枚の写真を保存し、会場へ来るのか尋ねた。返信を待っている間に、今年のオークスの動画を開く。

 

 ゴールを過ぎた自分が、笑顔で跳んだ。

 

「有馬では、跳びません」

「そうだね」

 

 トレーナーは否定しなかった。笑いをこらえている真顔だ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。