名前を呼ばれたくない珍名ウマ娘 作:Lagavulin
『セカイイチカワイイ、後続を突き放す!』
「止めてください」
イチカは、映像を止めて机の上のタブレットを伏せた。
画面には、彼女自身の練習映像が流れていた。最後の直線で前のウマ娘に並び、そこから2バ身離している。動きについては、褒められてもいいと思う。
ただ、その映像にはトレーナーの仮実況が入っていた。
「実況に慣れておきたいと言ったのは君だけど」
「あんなに堂々と言うとは思いませんでした」
「名前だからね」
セカイイチカワイイ。
まだ幼かったころ、ある日ふと、その名前が頭に浮かんだ。誰かに教わったわけではない。それなのに、自分の名前だとはっきり分かった。口にしてみると、不思議なくらいしっくりきた。
夕食の席で両親に伝えると、母は嬉しそうに両手を合わせた。
「まあ、ぴったり!」
「そうだな。ぴったりだ」
父も大きく頷いた。そのころのイチカには、2人が喜んでくれたことも、自分にぴったりの名前が分かったことも、ただ嬉しかった。
困り始めたのは、もう少し成長してからだ。
名前そのものには、今でも違和感がない。呼ばれれば自然に自分のことだと分かる。ただ、自分自身を世界で一番可愛いと思っているかは、別の話だった。
普段はイチカと呼んでもらっている。短くて言いやすいし、聞いた相手も余計なことを考えずに済む。入学直後の自己紹介で正式な名前を言った際には、続けて「名前です」と説明する羽目になった。
そのとき隣の席にいた子は、イチカの顔を見てから「うん」と頷いた。
「ゼッケンの番号だけで呼んでもらうことは」
「君だけ?」
「はい」
「かえって注目されないかな」
「それも困ります……」
イチカは伏せたタブレットへ指を置いた。ジュニア級の秋、来週のデビュー戦には、もう出るつもりでいる。準備もしてきた。調子もいい。
観客席から名前を叫ばれる自分を想像するたび、出走を取りやめる理由がないか考えてしまう。けれど、脚にも体調にも不安はない。名前だけが引っかかっている。
「レースには出たいんだよね」
「勝ちたいです」
「そこは即答なんだ」
「走る方には、何の問題もないので」
タブレットを表へ返す。止まっていた映像を、少しだけ戻した。
前のウマ娘に並ぶ直前。自分がもう一段加速するところだ。
イチカはそこを再生し、最後まで見て、また戻した。
「いい動きだ」
「はい」
今度は素直に頷いた。
「実況はしなくていいですから」
*
レース当日、控室で隣になったウマ娘が声をかけてきた。
「セカイイチカワイイさん、ですよね」
イチカは、靴紐を結ぶ手を止めた。
呼んでいるだけだ。確認しているだけ。相手も別に、自分の容姿について何か言いたいわけではない。
「……はい」
「レイニーノートです。今日はよろしくお願いします」
差し出された手を握り返す。
レイニーノートは長い髪を高い位置で束ねた、クールな印象のウマ娘だった。姿勢がよく、近くに立つと脚の長さがよく分かる。
こういう子の前で、自分から名前を言わなくて済んだのは助かった。
「先週、練習を見ました。直線で外へ出してから、一気に離してましたよね」
「見ていただいてたんですね」
「今日は、セカイイチカワイイに勝つつもりで来ました」
そんな大きな目標を。
イチカは一瞬、返事に詰まった。
しかしレイニーノートは真剣だった。相手が見ていたのは、顔ではなく走りだ。
「……こちらこそ。負けません、レイニーノートさん」
言い終えてから、握っていた手に少し力を込めた。
その後の準備では、名前のことを何度か忘れられた。自分の仕上がりを確かめ、靴の感触を確かめ、ゲートへ入る。
隣のレーンに、レイニーノートがいた。目が合うと、相手は小さく頷いた。イチカも同じように返した。
場内放送が出走者を紹介している。
『5番、セカイイチカワイイ』
やめて。
できれば、その整った発音で、広く行き渡らせないでほしい。
イチカは一度目を閉じた。開けたときには、まっすぐ前を見た。
名前はもう伝わってしまった。ここで縮こまって負けたところで、なかったことにはならない。
勝つしかない。
ゲートが開いた。
最初の数歩で、周囲の足音が重なった。
イチカは前へ出すぎないように位置を取り、レイニーノートの斜め後ろについた。近くで見る相手の走りは大きかった。少し気を緩めるだけで、背中が遠くなりそうになる。
前を行く2人が競り合っている。その後ろでレイニーノートが外を窺い、イチカも進路を探した。
先に動いたのは、レイニーノートだった。
コーナーを抜ける手前で外へ出る。イチカもついていこうとしたが、前のウマ娘が少し膨らみ、一度足を抑えた。
そのわずかな間に、差がついた。
『レイニーノートが先頭に立った!』
前が開く。
イチカは腕を振り、地面を強く蹴った。追いつかなければならない。相手も、もう速度を上げている。
残りの距離を示す標識が近づいてきた。まだ届かない。もう一度、脚を伸ばす。レイニーノートの肩が、少し近くなった。
『外からセカイイチカワイイ! セカイイチカワイイが追ってくる!』
イチカは前だけを見ていた。
レイニーノートが歯を食いしばっている。並ばせないつもりだ。それが分かって、こちらも奥歯を噛み合わせた。
勝ちたい。この子に、勝ちたい。
『並んだ! セカイイチカワイイ、ここで並びました!』
肩が揃った。
次の一歩で前へ出る。しかし、離れない。視界の端に相手の腕が残っていた。
イチカはもう一度地面を蹴り、ゴールへ体を運んだ。
『セカイイチカワイイ! 差し切った! セカイイチカワイイ、デビュー戦を勝利で飾りました!』
走り抜けてから、何度か息を吸った。
少し遅れて、レイニーノートも速度を落とす。イチカが振り返ると、相手は息を切らしながら片手を上げた。
勝った。
胸の奥が熱くなった。トレーナーを探すと、向こうで大きく手を振っている。
イチカは両手を握り、思わずその場で小さく跳び跳ねた。
「やった!」
口に出すと、さらに嬉しくなった。もう一度、トレーナーへ向かって手を振る。
観客席から声が飛んだ。
「セカイイチカワイイー!」
上げた手が、途中で止まった。
「セカイイチカワイイ、おめでとう!」
今勝ったウマ娘を、名前で祝っているだけだ。それは分かる。それでも、自分がその呼びかけに応じるのは少しためらわれる。
イチカは迷った末、小さく手を振った。
歓声が大歓声に変わった。
*
「最後、よく届きましたね」
戻ってきたレイニーノートが、タオルで汗を拭きながら言った。
イチカもまだ、呼吸を整えているところだった。先ほどまであれほど抜きたかった相手と並んでいるのが、少し不思議だった。
「先に行かれたときは、届かないかと思いました」
「こっちも、あそこで勝ったと思ったんですけど」
悔しそうに言ってから、レイニーノートはイチカを見た。
「強かったです」
そのひと言で、口元が緩んだ。
イチカは頷き、礼を言おうとした。
「セカイイチカワイイ、次は負けません」
「そこは省略しても大丈夫です」
「えっ」
「イチカで。普段は、そう呼んでもらっているので」
レイニーノートが少し驚いた顔をして、それから笑った。
「じゃあ、イチカ。次は負けません」
「私も」
言い返したときには、また少し笑っていた。
レイニーノートと手を離し、トレーナーへ向き直ったところで、取材のスタッフがやってきた。
「セカイイチカワイイさん、お時間よろしいですか」
いい時間は短かった。
トレーナーへ目を向けると、彼はタオルを預かりながら、小さく頷いた。
「走ったときのことを話せばいい。今、話していたみたいに」
「……分かりました」
カメラの前へ立つ。
スタッフが位置を調整し、マイクが用意される。その間に、イチカは思い切って声をかけた。
「あの。名前なんですけど、イチカと略して呼んでいただいても大丈夫です」
「いえいえ。初めてお話を伺うのに、こちらがお名前を略すのも失礼ですから」
スタッフはにこやかに答えた。
「きちんとお呼びしますね」
「……ありがとうございます」
名前を大切に扱ってくれている。
言い間違えないよう、手元の資料まで確認してくれている。
イチカはそれ以上言えず、カメラへ向き直った。
「では、最初にお名前からお願いします」
自分で言わされるのか。
「……セカイイチカワイイ、です」
カメラへ向かって、自分で言ってしまった。さっきから何度も紹介されている名前なのに、顔が熱くなる。
「セカイイチカワイイさん、デビュー戦での勝利、おめでとうございます。今のお気持ちは」
「嬉しいです。最後、届くか分からなかったので」
ここからは話せた。
コーナーで少し遅れたこと。先に抜け出した相手が強かったこと。並んでからも、なかなか離せなかったこと。
質問に答えているうちに、カメラの存在が気にならなくなった。
「ゴールの後、とてもいい笑顔でしたね」
「……はい。本当に、嬉しかったので」
思い出すと、また口元が緩んだ。
トレーナーが両手を上げていた。レイニーノートがこちらへ手を上げてくれた。勝ったのだと分かった瞬間、体が勝手に跳ねていた。
「今後は、どんなところに注目してほしいですか」
「走りを見てほしいです」
そこだけは、迷わず答えた。
「最後まで諦めずに走るので。また、応援してもらえたら嬉しいです」
「ありがとうございます。セカイイチカワイイさんの、これからの活躍にも期待しています」
カメラが止まる。
イチカは深く息を吐いた。何度か名前を聞いた気がするが、競走の話はできた。
戻ってきたタオルへ顔を埋めると、トレーナーが言った。
「よかったよ」
「略してもらえませんでした」
「丁寧な人だったね」
「はい。とても」
最後まで、一度も噛まずに呼んでくれた。
*
翌日、トレーナー室で待ち時間ができたとき、イチカはスマートフォンを開いた。
いつものタイムラインを眺める。友人の朝食。気になっていた店の新商品。小さな箱へ入ろうとしている猫。
その次に、自分がいた。
『セカイイチカワイイ1着デビュー』
見出しの下で、両手を握ったイチカが宙に浮いていた。
丸い目を細め、口を大きく開けて笑っている。いつも整えている前髪も乱れ、尻尾まで跳ね上がっていた。全身を使って、嬉しいと知らせている写真だった。
イチカは指を止めた。
こんな顔をしていたのか。
自分では、少し跳ねただけのつもりだった。もう少し落ち着いて、勝ったことを喜んでいるつもりだった。
見出しをもう一度読む。
『セカイイチカワイイ1着デビュー』
誰が何着でデビューしたか。それしか書かれていない。競走の記事として、何もおかしくない。
「どうしたの」
トレーナーが顔を上げた。
イチカは無言で画面を見せる。彼は写真を見て、すぐに頷いた。
「いい写真だね」
「走っているところは」
「記事の中にはあるんじゃないかな」
開いてみると、確かにあった。
レイニーノートと競り合い、腕を振り、前を睨んでいる。最後の直線だ。こっちの方が、競走記事らしいと思う。
しかし、タイムラインへ戻ると、また跳んでいる写真になった。
「どうしてこっちを大きくするんですか」
「勝った喜びが伝わるからだと思う」
「走りを見てほしいって言ったのに……」
画面を送る。
次の投稿も、自分だった。同じ記事を引用した、別のアカウントだった。
『名前の話かと思ったら写真もそうだった』
イチカは眉を寄せた。
少し下へ送ると、その下にもいた。
『直線ではあんなに格好よかったのにこの笑顔』
記事の横に並んだ数字を、ようやく見た。
共有された回数が、思っていたよりずっと多い。見ている間にも数字が増える。普段はゲームの話しかしていない友人まで、同じ写真を流していた。
「……これ、レース関係のアカウントだけじゃないです」
「広まってるみたいだね」
「名前を検索してないんですけど」
「おすすめにも出るから」
イチカは画面を下へ送った。
今度は動画だった。
小さな画面の中で、自分がゴールを駆け抜ける。振り返り、トレーナーを見つけ、両手を握る。
『やった!』
跳んだ。
動画が最初に戻った。
ゴールを駆け抜け、振り返り、また跳んだ。
イチカは再生を止めた。止まった自分は、両足が地面から離れたところで、これ以上ないほど嬉しそうに笑っていた。
「……次は、跳びません」
「次も勝つつもりなんだ」
「それは勝ちます」
そこは、譲るつもりがなかった。
トレーナーは笑いながら頷き、練習記録へ目を戻した。イチカも動画を閉じ、もう一度画面を送る。
新しく読み込まれた投稿に、また同じ笑顔があった。
『セカイイチカワイイが本当に世界一可愛い』
イチカはスマートフォンを伏せた。
「どうしたの」
「助けてください」
*
レイニーノートとは、そのあともよく併走した。
距離を延ばすと、先に前へ出られる日が増えた。最後の直線だけ速くても、そこまでに離されれば届かない。イチカは練習の映像を戻し、コーナーへ入る前の位置から見直すようになった。
翌年のオークスでは、直線に入っても脚が残っていた。
先に抜け出した相手へ並び、追いついてきたもう1人を振り切る。白線を越え、掲示板に1着が出たとき、両手を握ってしまった。
両足も、地面を離れた。
その写真は母からすぐに届いた。イチカはお礼を返してから、デビュー戦の翌日に言ったことを思い出した。
次は、跳びません。
保存するだけにして、トレーナーには何も言わなかった。
秋にはシニア級のウマ娘を相手にした重賞も勝った。デビュー戦のときだけ見ていた人が、今のレースも見てくれるようになった。名前を覚えてもらいやすいのは、確かに助かっていた。
12月、ファン投票の結果を見たトレーナーが、有馬記念の予定を確かめた。
「2500m。今なら、十分勝負できる」
「はい」
「この前併走した、ニョとミテテも出るそうだ」
イチカは頷いた。ニョの最後の加速も、ミテテが疲れてから踏ん張る強さも、隣で見ていた。
今度は、あの2人を抜かなければならない。
スマートフォンが震えた。両親から、投票したと連絡が来ていた。
『今年、一番応援したウマ娘に入れました』
続けて、投票画面の写真が送られてくる。
セカイイチカワイイ。
父からも届いた。母と同じ名前に、同じように丸が付いていた。
イチカは2枚の写真を保存し、会場へ来るのか尋ねた。返信を待っている間に、今年のオークスの動画を開く。
ゴールを過ぎた自分が、笑顔で跳んだ。
「有馬では、跳びません」
「そうだね」
トレーナーは否定しなかった。笑いをこらえている真顔だ。