名前を呼ばれたくない珍名ウマ娘 作:Lagavulin
ジュニア級の秋。練習を終えてトレーナー室へ戻ると、後輩が段ボール箱を抱えたまま、扉の前で困っていた。
「開けるね」
低めの声で言って、ミテテは扉を開けた。短く揃えた濃い栗毛。鼻筋の通った顔立ちに、凛々しい目元。長身の彼女が扉を押さえて笑いかけると、後輩は箱を抱え直した。
「ありがとうございます。……先輩、王子様みたいですね」
「扉を開けただけだよ」
後輩が机の端に箱を置いて出ていくと、ミテテは扉を閉め、トレーナーの向かいに腰を下ろした。机には、デビュー戦の候補が並んだ紙が置かれている。
「実況って、ゼッケン番号だけでやってもらえないかな」
練習の記録を見ていたトレーナーが顔を上げた。
パパママミテテは候補の紙を指で押さえた。さっきの1600mでは、最後の直線に入ってからもう一段速度を上げられた。出走を見送る理由が、名前のほかに浮かばない。
「名前を呼ばれるのが嫌なんだな」
「1回ならいいよ。出席確認とか。でもレースって、速く走るほど呼ばれるでしょ」
トレーナーは何か言いかけ、机のタブレットに目を落とした。画面には昨日見たレースの映像が止まっている。先頭のウマ娘の名前は、残り200mからゴールまでに5回出てきた。
「勝ったあとも呼ばれる」
「うん。そこまで考えた」
ミテテは候補の紙を裏返した。白い面を指でなぞっているうちに、初めてこの部屋を訪れた日のことを思い出した。
姿勢を正して、はっきり名乗った。パパママミテテです、と。
トレーナーは少し戸惑ったあと、彼女の後ろの扉を見た。
『ご両親も来ているのか?』
『名前です』
幼いころ、ふと自分の名前が分かったときには、呼びかけと間違えられるとは思わなかった。口にするとしっくりきたし、両親もすぐに覚えてくれた。
あれ以来、トレーナーは普段、彼女をミテテと呼ぶ。本人から頼んだわけではないが、態度を察して気遣いをしてくれる人だった。
「走るのは好きなんだけどね」
「走っても、勝たなければ呼ばれないぞ」
「勝ちたい」
ミテテが言うと、トレーナーは頷いた。
*
翌日の併走で、ミテテはヴァルトレイヴに半バ身遅れた。
直線の入り口では並んでいた。そこからレイヴが速度を上げ、ミテテが合わせて加速したときには、もう肩1つ分前へ出られていた。その差を詰めきれず、練習を終えた。
「今日は私の勝ち」
レイヴは息を整えながら、額の汗をタオルで押さえた。ミテテも両手を腰に当てて呼吸を落ち着け、直線を振り返る。目印のコーンは、少しだけぼやけて見えた。
「加速する場所、変えた?」
「うん。同じところで仕掛けたら、また差されると思って」
先週はミテテが勝った。その前はレイヴ。記録用紙の数字を見るだけでは分からないことが、隣を走るとよく分かる。
今日は負けた。もう少し早く反応していれば、どうなっただろう。
「ところで、デビューは決めたの?」
「まだ」
「来月、東京の1600mに出るんだ」
ミテテはレイヴを見た。
昨日、紙の一番上に載っていたレースだった。
「ミテテにも合うと思う」
「うん」
「あの直線で決着つけようよ。パパママミテテには負けたくない」
レイヴはまっすぐな目で言った。
ミテテはタオルで口元を押さえた。負けたくない相手の名前が、なぜこんなに頼りない響きになるのか。言っている本人は胸を張っている。
「どうしたの?」
「今の呼び方、ミテテにしてくれない?」
「名前、間違えた?」
「合ってる。合ってるんだけど」
レイヴは首を傾げ、ミテテがタオルを下ろすのを待った。ミテテは学園の直線を見渡した。来月は、これより広いコースでレイヴと競り合う。今日の半バ身を、そこで取り返したい。
「出る。東京」
「うん。楽しみにしてる」
レイヴが差し出した手を握った。握り返す力は強かった。
ミテテはもう一度コーンを見た。次にレイヴが仕掛けたときは、あの背中を追いかけるだけでは終わらせない。
*
出走を決めた週末、両親とビデオ通話をした。
母は会場への行き方を確認し、父は帰りに何か食べたいものがあるか聞いた。ミテテが寿司と答えると、父は手元にメモを取った。勝っても負けても寿司だというので、それは助かると伝えた。
「応援のとき、これを持とうと思って」
母が画面から離れ、父と一緒に布を広げた。
白い布に、青い大きな文字。
パパママミテテ。
ミテテはスマホを持ち直した。父は右端を、母は左端を持っている。2人とも文字が隠れないように指をずらし、娘の返事を待っていた。
「それ、パパとママが持つの?」
「ええ。よく見えるでしょう」
「もう来てくれてるのに、私がまだ見てって言ってるみたいなんだけど」
両親は布を自分たちのほうへ裏返した。父が読み上げかけて、途中で口を閉じる。母は布の端を畳みながら、少し考えた。
「名前の前に、がんばれって付けようか」
「ううん。普通に見てくれればいい。応援は聞こえたら嬉しいけど、幕はちょっと」
「分かった。これは家に置いておくね」
ミテテは礼を言い、寿司は回転するほうがいいと付け足した。父がメモを直している横で、母は青い文字に折り目がつかないよう、布を丸めていた。
*
レース当日、ミテテは受け取った出走表に目を通した。
名前は当然載っている。それは知っていた。ただ、脚質や練習時計についての小さな記事までついているとは思わなかった。
トレーナーが受け取って読み、指で1行を示した。
「ここ、よく見てくれているな」
「どこ?」
ミテテは紙をのぞき込んだ。
パパママミテテ 甘えを見せないレース運び。
紙を返してもらい、4つに折った。ポケットの一番奥に入れ、ファスナーを閉める。トレーナーは咳払いをして、コースの話に移った。
序盤は無理に前へ出ない。直線が長いからといって、仕掛けを遅らせすぎない。何度も確かめたことを短く確認し、ミテテは頷いた。
客席を見ると、父が片手を上げていた。母はその隣で、小さく両手を振っている。幕はない。ミテテも手を上げ、すぐに下ろした。
スタート位置へ向かう途中、レイヴと並んだ。
レイヴは客席を一度見渡してから、前へ向き直った。ミテテの視線に気づき、口元を上げる。
「準備はいい?」
「走るほうは」
「なら、十分」
ミテテは芝を踏み、靴の収まりを確かめた。呼ばれる覚悟はまだできていない。けれど、ここからレイヴに負けるつもりはなかった。
ゲートが開いた。
前へ飛び出した3人を見送り、ミテテは中団につけた。右斜め前にレイヴがいる。序盤から位置を取りにいく相手を行かせ、互いに進路を確保したままコーナーへ入った。
前のウマ娘がわずかに減速する。ミテテはその背中へ近づきすぎないよう、歩幅を小さく調整した。外から1人が上がってきても追わない。レイヴの耳が動き、その脚も一定のリズムを保っている。
直線に入る前、前方の2人の間が狭くなった。
レイヴは迷わず外へ進路を取った。ミテテもその後ろへ続く。ここで置かれたら、練習と同じだ。
レイヴの腕の振りが変わった。ミテテも間を置かず、芝を強く蹴った。
『ヴァルトレイヴが外へ! ここで一気に上がってきた!』
コーナーを抜けた。
目の前の背中が横へずれる。ミテテはレイヴのさらに外へ出て、腕を振った。風が頬を押す。胸の奥が熱い。前を走っていた3人のうち、1人の肩を抜き、もう1人が視界の端から消えた。
『その外からパパママミテテ! パパママミテテが伸びてきた!』
レイヴが先頭へ出た。
ミテテはその横まで上がった。息を吸うたびに喉が乾く。レイヴの腕が視界の端で動き、2人の足音がほとんど重なった。
残り200m。レイヴの足音は、まだすぐ後ろにある。ここから最後まで、速度を落とさずに行く。
ミテテは肩に入った力を抜き、肘を後ろへ引いた。踏み込んだ足で芝を押し、もう一歩、前へ出る。並んでいたレイヴの顔が見えなくなった。半バ身。けれど、足音はすぐ後ろにある。
『パパママミテテが先頭! ヴァルトレイヴも食い下がる!』
ミテテは前だけを見た。
後ろの位置を確かめるために首を動かす余裕があるなら、その分だけ腕を振りたかった。最後の100mで脚は重くなった。それでも体を起こさず、腕の振りを止めなかった。
『パパママミテテ! 後続を突き放す! パパママミテテ、1着でゴールイン!』
ゴールを過ぎても、すぐには止まれなかった。
速度を落として振り返ると、レイヴが両手を膝についていた。着差は2バ身。ミテテは電光掲示板を見上げ、1着の欄に自分の番号を見つけた。
息が苦しい。脚も苦しい。口元だけ、どうしても緩む。
「勝った」
声に出したら、もう一度言いたくなった。
レイヴが顔を上げた。汗で髪が頬に張りついている。ミテテが駆け寄ると、レイヴは体を起こして手を差し出した。
「おめでとう。最後の加速、止められなかった」
「ありがとう。最後まで足音が聞こえた」
「最後まで、届くつもりで走ってたからね」
ミテテはその手を握った。
今度は自分のほうから、強く握り返した。
*
「パパママミテテさん、見事な末脚でした」
マイクを向けられて、ミテテの血の気が引いた。
客席の拍手がまだ続いている。大型ビジョンに、口を開きかけた自分が映っていた。さっきのゴールまで、あそこに名前も出ていたはずだ。
手に持たされたタオルを握り直し、ありがとうございます、と答えた。
「とても冷静なレース運びでしたが、ご自身ではいかがでしたか」
「前が狭くなったときに、ヴァルトレイヴさんが外へ動くのが見えたので。ついていけば、直線で勝負できると思いました」
話し始めると、答えはすぐ出てきた。仕掛けを合わせられたことも、最後まで走りきれたことも嬉しい。
インタビュアーは頷き、もう一度マイクを近づけた。
「ご家族も、今日は会場へ?」
「はい。父と母が来ています」
「では、お2人へ一言お願いします」
ミテテは客席を見た。父がまた手を上げ、母が隣で頷いている。ずっと応援しててくれたんだ。幕を持たずに来てくれた2人へ、ミテテはマイクを寄せて笑いかけた。
「パパ、ママ、見てた? 勝ったよ!」
父が両手を上げ、母が大きく頷いた。ミテテはもう一度手を振り、顔を戻した。
インタビュアーが、マイクを持ったまま笑顔で待っていた。
インタビュアーの顔を見てから、ここは家ではないことに気づいた。
家で話すような声を、そのまま会場へ流してしまった。
「お2人も、喜んでいらっしゃいますね」
ミテテはタオルを口元まで持ち上げた。大型ビジョンの中の自分も、まったく同じことをした。
*
両親と合流したとき、父はもう、直線で外へ出た場面を話し始めていた。母はミテテの肩を抱いてから、疲れていないか確かめた。
「走ってる間は、全然気にならなかったんだけど」
母はミテテの肩から手を離さず、頷いた。父もレースの話を止め、スマートフォンをしまった。
トレーナーが少し遅れて近づいてきた。スマートフォンに届いた短い競走記事を見せる手つきが、妙に慎重だった。
パパママミテテ 堂々の旅立ち。
「寿司食べに行こう」
ミテテは画面から目をそらした。父と母を先に歩かせ、トレーナーの袖を軽く引く。あの記事を父に見せたら、たぶん保存される。
「インタビュー、いい返事だったと思うぞ」
「録画されてる?」
「されてる」
「そっか」
ミテテは歩きながら、両手で顔を覆った。
少し先で父が振り返った。
「おめでとう」
「……ありがとう」
ミテテは顔から手を下ろし、両親の間へ戻った。
*
翌年、走る距離が延びても、ミテテは最後までペースが落ちなかった。
レイヴとの併走では、先に動かれても慌てなくなった。並んでから相手がもう一段速度を上げることも知った。最後の100mまで勝負がつかない日が、何度もあった。
秋、菊花賞の3000mでも、ミテテはその最後の100mで前へ出た。
両親が来ていた。父はゴールのあと両手を上げ、母はその隣で何度も頷いていた。インタビューで家族への言葉を求められ、ミテテは一拍置いて答えた。
「応援、ありがとう」
家に帰ってからなら、いつものように話せる。あのマイクの前で呼びかけるのだけは、もうやめたかった。
*
11月、トレーナー同士で予定を合わせた併走に、ニョとイチカが来た。
3人が一緒に走るのは、初めてだった。
ミテテは先にいる2人へ手を上げた。ニョは銀髪を結び直し、イチカは靴を履いたまま足首を動かしている。ニョへ話しかけると、顔が整いすぎていて、少し声を張りにくかった。
「ニョ、今日、よろしく」
「うん。ミテテって呼んでいい?」
「いいよ。ぜひ」
「私も、イチカでお願いします」
挨拶が、それだけで済んだ。
ミテテはタオルをベンチへ置いた。ニョが隣へボトルを置き、イチカも荷物を寄せる。ミテテのトレーナーが、2000mを走り、残り400mから速度を上げると伝えた。
仕掛けたところで、2人が同時についてきた。
ミテテは離せると思っていた。けれど、内側のイチカが肩を揃え、外側のニョも遅れない。最後の目印まで、3人の足音が重なっていた。
練習を終えても、ミテテはすぐに次の走り方を考えていた。もう少し早く動けば、あの2人の加速を待たずに先へ行けるだろうか。
ニョも、息を整えながら直線を見ていた。
「もう1回、同じところから走りたい」
「今日はここまでですって」
イチカが自分のトレーナーを示した。ミテテも頷く。
「続きは、本番でやろうよ」
ニョは少し考えてから、ボトルを取った。
「……うん。有馬なら、もっと長く走れる」
その顔を見て、ミテテは笑った。自分も今、たぶん同じ顔をしている。
3人でベンチへ戻ると、イチカが尋ねた。
「ニョさんは、普段も、名前で困ることがありますか」
「大きな声で呼ばれると、ちょっと」
「私は、普通の声でもあります」
ミテテは頷いた。
「私も。最初に名乗ったとき、後ろの扉を見られた」
ニョは一瞬だけ首をかしげ、すぐに口元を押さえた。イチカも俯く。
「ご両親を……」
「うん。いなかったんだけど」
ミテテは水を飲んだ。レイヴに話したときは、そんな間違いがあるのかと驚かれた。今は2人とも、何度も頷いてくれている。
ニョが、結んでいた銀髪をほどいた。
「私、ゴールのあと、伸びるんだ」
「髪が?」
「名前」
イチカが小さく息を漏らした。ニョは笑わず、水を飲んでいる。
「ニョー、って」
「ああ……」
ミテテも、テレビで見た皐月賞のゴールを思い出した。何を言われたか、確かに覚えている。
イチカがボトルを両手で包んだ。
「あれ、勝って嬉しいときに来るんですよね」
「うん。すごく嬉しいときに」
ニョは少し笑った。ミテテもベンチへ座り直し、話の続きを聞いた。