名前を呼ばれたくない珍名ウマ娘 作:Lagavulin
有馬記念の出走表を、ミテテは上から読んだ。
昨年の覇者、グランアステール。天皇賞・秋を勝ったレーヴクラシオン。海外の大きなレースから帰ってきた、ヴァルゼリオン。
どの名前も、強そうだった。
その間に、自分たちがいる。
パパママミテテ。
セカイイチカワイイ。
ニョ。
「こうして見ると、ニョは短くていいね」
控室の椅子で、ミテテは隣へ紙を向けた。
「場所も取らないし」
「短いから、最後に伸ばされるの」
ニョは自分の欄へ指を置いた。紙の上では、本当に少ししか場所を取っていない。
「伸ばすと丁度いいんだと思う」
「私の名前は、逆に全部言うのが大変だと思ってたんですけど」
向かいのイチカが口を開いた。
「みなさん、最後まで名前を言ってくれるんですよね」
「ちゃんと覚えてくれるよね」
ミテテは頷いた。名前を間違われたことは、ほとんどない。
ニョが紙を畳み、上着のポケットへしまった。
「今日は、もっと何度も呼ばれると思う」
「どうして?」
「勝つから」
イチカが、靴紐から顔を上げた。
「それは、まだ分かりませんよ」
「うん。だから、勝ってから言う」
「今、言ったけどね」
ミテテが笑って立ち上がった。ここから先は、それぞれのトレーナーと最後の確認をする。3人で荷物を寄せていた椅子の周りが、少しずつ空いた。
ニョが扉の前で振り返る。
「終わったあとも、会おうね」
「うん」
「はい。今度はレースの話ができますね」
イチカが言うと、ニョは頷いた。
「……名前の話も、少し聞いて」
*
コースへ出ると、スタンドの歓声が大きくなった。
ミテテは両親を見つけ、片手を上げた。父も母も、厚い上着を着ている。名前の幕は持っていなかった。代わりに、父が青いマフラーを肩へ掛け、母が同じ色の手袋で拍手していた。
少し離れたところでは、イチカが観客へ会釈している。応援のボードを見て、口元を押さえかけた。それから手を振った。
ニョの前では、銀色の横断幕が揺れていた。
白銀の閃光。
ニョは背筋を伸ばしたまま、小さく手を振った。長い銀髪が背中へ流れ、近くの観客が見とれて声を止める。すぐ後ろから、別の歓声が上がった。
ミテテはコースへ目を戻した。
2500m。今日は、11月に3人で走ったときよりも遠い。
グランアステールが芝を踏み、足元の感触を確かめていた。レーヴクラシオンは外の出走者へ短く挨拶し、前を向く。ミテテが近づくと、グランアステールが顔を上げた。
「菊花賞、見ていたよ」
「ありがとうございます」
「あの最後の脚を、今日は前から見るつもりだ」
ミテテは笑って、肩の力を抜いた。
「後ろから見てもらいます」
相手も口元を上げた。握手をしたあと、2人は別々のゲートへ向かった。
*
ニョは中団の外につけた。
スタート直後にコーナーへ入る。前へ出ようとする相手を追わず、少しずつ内へ寄った。イチカは斜め前にいる。ミテテはそこからさらに前で、グランアステールのすぐ後ろを走っていた。
最初にスタンドの前を通ったとき、名前が聞こえた。
誰のものかを確かめる前に、ニョは視線を戻した。前のイチカが歩幅を少し詰める。その先で集団が固まり、外から上がろうとしたウマ娘が、進路を変えていた。
まだ、ここでは動かない。
ニョは呼吸を揃え、イチカとの間を保った。ここで余計に脚を使うと、最後の坂で置かれる。前の2人とは、練習で同じところまで速度を上げても離れなかった。
今日は、その先まで走る。
向正面へ入って、ヴァルゼリオンが外から上がった。グランアステールがすぐに反応する。ミテテも動き、前の2人を追う。ニョの前で、イチカの腕の振りが大きくなった。
ニョも脚を回した。前の集団が伸び、足音の間隔が変わる。さっきまで同じ場所にいた背中が、1歩ごとに遠くなる。
『グランアステールが上がってきた! 外にはヴァルゼリオン! パパママミテテも続いている!』
残り800mを切っていた。
ミテテは、もう前の2人へ届こうとしている。けれど、グランアステールも速度を上げた。ミテテが外へ出た分だけ、内を通って先へ行く。
イチカはその後ろを追った。ニョもついていく。レーヴクラシオンが内から上がり、肩のすぐ横へ来た。
足音が近い。
ニョは少しだけ外へ出た。前のイチカが進路を取るのを待ち、最終コーナーで、そのさらに外へ体を向ける。
直線の先が見えた。
まだ、先頭まで遠い。
*
ミテテは、グランアステールの肩を追っていた。
直線へ向いても抜けなかった。コーナーで外を走った分だけ、脚が重い。グランアステールは前を見たまま、歩幅を保っている。
ミテテは奥歯を噛み、肘を引いた。
先に前へ出る。坂を上りきってからでは、間に合わない。
1歩ずつ、差を詰めた。グランアステールの背中が肩になり、視界の端へ移る。
『パパママミテテが並んだ! グランアステール、まだ譲らない!』
並んでからも離れなかった。
ミテテは上体を起こさず、腕を振った。あと少し。ここで苦しくなるのは、何度も経験していた。レイヴが隣にいた日も、菊花賞の最後も、それでも脚を止めなかった。
視界の端にあったグランアステールの顔が、ミテテの肩より後ろへ下がった。
先頭へ出た。
その瞬間、外で足音が大きくなった。
『セカイイチカワイイ! 外から伸びてきた!』
イチカの肩が、すぐ隣にあった。
ミテテは前だけを見た。イチカが横に来ても、腕を振る速さを落とさない。白線はまだ先にある。
隣のイチカも歯を食いしばり、上り坂で腕を強く引いた。相手の肩がわずかに前へ出るたび、ミテテも踏み込む足に力を込めた。
坂の上で、ミテテがもう一度伸びた。
イチカも合わせる。
その外へ、銀色の髪が来た。
『白銀の閃光! ニョが迫ってきた!』
ニョは上体を低く保ち、坂の上でも加速を続けた。内側のイチカへ肩を並べる。ミテテは腕を振る幅を広げ、前へ出ようとしたが、外の2人も離れなかった。
3人の足音が重なった。
『パパママミテテ、セカイイチカワイイ、ニョが並んでいる!!』
スタンドから、大きな声が押し寄せた。
3人の誰も、スタンドへ顔を向けなかった。
ミテテが前へ出る。イチカが追いつく。ニョがその外で腕を振り、白線へ迫る。
『パパママミテテ! セカイイチカワイイ! ニョ! まだ分からない!』
あと数歩。
ニョは最後の1歩へ、上体をわずかに乗せた。
『ニョが僅かに前に出た! ニョーーーー!!』
3人が、ほとんど同時に白線を越えた。
*
ニョは速度を落としながら、横を見た。
イチカは口を開けて息を吸い、ミテテは少し前へ出てから振り返った。誰も、まだ何も言えない。
グランアステールが追いついてきた。息を整え、ニョの肩へ軽く手を置く。
「最後、来たな」
ニョは頷いた。返事をする息が、まだ足りなかった。
掲示板に、着順が出た。
1着、ニョ。
2着、パパママミテテ。
3着、セカイイチカワイイ。
4着、グランアステール。
ニョからミテテまでは、ハナ。その次も、クビしか離れていなかった。
「……勝った」
ニョは両手を握った。
もう一度掲示板を見た。見間違いではなかった。あの2人を抜いた。昨年の覇者も、秋の天皇賞の勝者もいたレースで、先頭へ出た。
「勝った!」
笑ってしまった。ミテテが、まだ悔しそうな顔のまま手を差し出す。ニョはその手を握った。
「最後、横に来たのは分かったんだけど、抜かせるつもりはなかったよ」
「うん。イチカも、全然下がらなくて」
「ミテテさんもですよ」
イチカが片手を腰へ当てた。もう片方で、ニョの手を握る。
「おめでとうございます。……次は、追い抜きます」
「私も」
ミテテが言った。ニョは強く頷いた。
「うん。次も、勝つ」
スタンドの前へ戻ると、銀色の横断幕が揺れた。
ニョはそちらへ手を振った。
「ニョー!」
後輩の声だった。
その隣からも声が上がった。
「ニョー!」
「ニョー! おめでとう!」
拍手が大きくなる。横断幕のないところでも、観客が両手を上げていた。
ニョは、上げた手をゆっくり下ろした。
「ニョー!」
広いスタンドの端から、また端へ。声が重なり、伸び、戻ってきた。
「ニョーーー!」
ニョはコースの脇へ寄った。
両手で顔を覆い、そのまましゃがみ込んだ。
*
「ニョ?」
ミテテが、隣へしゃがんだ。
ニョは顔を覆ったまま首を振る。銀髪が膝へ流れ、赤くなった顔が髪の隙間から見えた。
「脚は?」
「大丈夫」
「なら、ここにいよう」
イチカも、反対側へしゃがんだ。近くの係員から水を受け取り、蓋を緩める。
スタンドでは、まだ名前が呼ばれていた。
ミテテは前へ目を向けた。両親がこちらを見ている。ニョが立てるようになってから手を振ろうと思い、片手を自分の膝へ戻した。
「……勝ったのは、すごく嬉しい」
ニョが、指の隙間から言った。
「うん」
「2人とも速かった。最後、もう間に合わないかと思った」
「こっちも、届かせるつもりはなかったよ」
ミテテが答えると、ニョの肩が少し揺れた。
「でも、こんなに」
スタンドで、また声が伸びた。
「……伸びるとは、思わなかった」
「最後の伸び、凄かったよ」
「そういうことじゃないと思う」
イチカがボトルを差し出す。ニョは片手を下ろし、受け取った。
「応援だって分かってるの。嬉しいのも、本当」
「はい」
「でも、こんなに名前だけ聞いてると……」
最後まで言わず、もう片方の手も下ろした。顔は赤かった。目が合うと、イチカも小さく頷いた。
「私は、デビューした日に、自分で世界一可愛いって名乗りました」
ニョが顔を上げた。
「カメラの前で」
「そうでしたね」
ミテテは膝に肘を置いた。
「私も、マイクの前で『パパ、ママ、見てた? 勝ったよ!』って言っちゃった」
ニョの口元が緩んだ。
「あれ、動画で見た」
「うん。あのとき、家で話してるつもりだった」
ミテテも少し笑った。イチカが視線を落とし、ボトルを持つニョの手を確かめる。
「帰ってから、また聞きます。今は、水を飲んでください」
「……ありがとう」
ニョは一口飲んだ。
すぐには立たなかった。ミテテも急かさず、同じ高さで座っていた。イチカは自分のタオルをニョの膝へ掛け、銀髪が地面へ触れないようにした。
拍手が、しばらく続いた。
ニョは、もう一度掲示板を見た。
「ハナだったんだ」
「そこだけ、縮まらなかった」
ミテテが答える。イチカも、2着と3着の欄へ目を移した。
「私も、あと少しだったのに」
ニョは笑った。ボトルを膝に置き、2人を交互に見た。
「……本当に、勝ったんだ」
ミテテが、そっと背中を叩いた。
「うん。今日、一番速かった」
*
立ち上がるとき、2人が片手ずつ貸してくれた。
ニョは水をイチカへ預け、両方の手を取った。立ってからも少しだけ握っていた。ヴェルティナと後輩が待つ引き揚げ口へ向かうと、先に3人のトレーナーが来た。
ニョのトレーナーは顔を見てから、通路脇の椅子を指した。ヴェルティナが隣の席を空け、後輩は声を出さずに拍手する。
「ありがとう」
ニョはそちらへ向かおうとして、イチカの手をもう一度握った。
「タオル、洗って返すね」
「今は、そのまま使ってください」
ミテテのトレーナーが、3人へ声をかけた。
「落ち着いたら、写真を1枚撮ってもいいかな」
ミテテがニョを見る。ニョは頷き、後輩の持つ横断幕を指した。
「あれの前がいい」
少し休んでから、3人で並んだ。
ニョが中央に立ち、ミテテとイチカが左右へ寄る。銀色の布は、ヴェルティナと後輩が持ってくれた。
「撮るよ。3、2、1」
ニョは後輩から受け取った花束を抱え、笑った。
撮れた画面を覗くと、ミテテもイチカも笑っていた。ニョは写真を送ってもらい、保存した。
「この写真、学園のレース記事にも使っていい?」
ニョのトレーナーが尋ねた。
「うん。走ってる写真も、一緒なら」
イチカが隣で頷いた。ミテテも画面を見直して、そうしてほしいと言った。ニョのトレーナーが記事の見出しを打ち込み、3人へ見せた。
ニョ 有馬記念制覇。
ニョは、その下の写真を見た。
「……これ、2人の名前も入る?」
「もちろん。誰が写っているか、分かるようにするよ」
ニョのトレーナーが写真の下へ文字を足した。
左から、パパママミテテ、ニョ、セカイイチカワイイ。
ニョはその行を読んでから、画面を2人へ向けた。今度は、ミテテとイチカが顔を覆った。