黒猫とチョコレート ~のびのびストーリーテリング~ スチームパンクと不思議なアイテムとダイスの悪戯 作:へべれけ斉藤
異世界に放り出された渚千代子は、混乱を抑えて冷静に現状を把握し、情報を得るために路地裏から通りへと足を踏み出す。
目の前に広がっていたのは、壁を這う無数のパイプや歯車、噴き出す蒸気、多層の鉄橋、そして空を行く飛行船で構築された壮大な「積層都市」だった。街には歩行型の荷運び機械や真鍮の機械馬が行き交い、義手を自在に操る店主、自律動作する機械人、パワードスーツを纏った冒険者など、蒸気技術が異様な発展を遂げた独自の社会が形成されていた。
日本の制制服姿で目立ってしまうリスクや治安の脆さを観察しつつも、千代子は持ち前の好奇心を刺激され、新たな世界へと前向きに一歩を踏み出していく。
千代子は、いつの間にか夢中になっていた。
だって、仕方ない。千代子は昔から、仕組みのあるものを見るのが好きだった。どうしてこれが動くのか、あれはどこに繋がっているのか。気がつくと、歯車の噛み合いを目で追ってしまう。
実演販売の卵割り機の前では、気がつけば三分も立ち止まっていた。ころん、と殻が割れ、ぽとん、と黄身が落ちる。その横で、店主が誇らしげに胸を張っている。
「お嬢ちゃん、買っていくかい?」
「あ、いえ、見てるだけで……すみません」
千代子はぺこりと頭を下げて、その場を離れた。
歩きながら、頭の中の「ここはどういう世界か」というメモを更新していく。
千代子の足が、掲示板の前で止まった。
通りの角に立つ鉄の板。そこに、紙がびっしりと貼られている。何枚も、何十枚も重なって、古いものの上に新しいものが貼られ、さらにその上に、また新しいものが貼られていた。
どれにも、似顔絵が描かれている。
悪人顔の男。目つきの鋭い女。仮面をつけた誰か。顔の半分が歯車がむき出しになっている老人。下には大きな太い字で、名前と、罪状と、そして……
「生死問わず……」
千代子は、小さく声に出して読んだ。
ぞくり、と背中が冷えた。
(指名手配書、それもこの枚数。ここ、犯罪が多すぎて、手配書を貼る場所が足りなくなってるんだ)
改めて見回すと、通りの様子が違って見えてきた。
誰も彼もが、腰に何かを提げている。
歩く人の視線は、前を向いているようで、ときどき周囲をさっと確かめている。露店の主人は釣り銭を渡しながら、片手を台の下から離さない。
平和に見える街は、平和なのではなく、みんながそれぞれ警戒して成り立たせているだけなのだ。
(交番とか役所とか、探しても見つからないわけだ。そういう仕組みじゃないのかも。自分の身は、自分で守る世界)
千代子は、スクールバッグの肩紐をぎゅっと握りしめた。
中身は教科書と筆箱とリップクリーム。それから、分厚い数学の参考書。
(盾にはなる。たぶん。いや、ならないか)
そのとき、お腹がきゅう、と鳴った。
こんな状況でもお腹は空く。人間の体は、案外図太いようだ。
(メンチカツ……苺大福)
揚げたての衣の匂い。ふわふわの生クリーム。思い出した途端、切なさが胸いっぱいに広がった。
千代子は慌てて首を振った。
(だめだめ。今はそれどころじゃない。情報、情報。まずは人に話を聞ける場所。宿とか、案内所とか、そういうところ)
*
それから千代子は、通りを少し進んでは立ち止まり、少し進んでは立ち止まった。
高いところを走る蒸気管から、ぷしゅう、と白い息が降ってくる。
足元の格子の下では、大きな歯車がごろん、ごろんと回っている。
壁を這う太い配管に手を添えると、ぬるい熱が、じんわりと掌に伝わった。
(この管、脈打ってる。ポンプで圧をかけて、街じゅうに蒸気を回してるんだ。ってことは、どこかに大きなボイラー施設があって、そこから枝分かれしてる。管が太いほうが、本流に近はず)
なるほど、と一人で頷いて、千代子は管の続く先を目で追った。
細い管が、路地のほうへ折れていく。
(あっちの枝はどこに繋がってるんだろう。ちょっとだけ。ほんの、ちょっとだけ)
それが、悪い癖だった。
千代子は、気になるものを見つけると、つい確かめずにはいられない。
小さな橋を渡って、階段を降りて、角を曲がる。管の続きを追って、また曲がる。そこにある小さな弁の形に見とれて、屈み込んで、立ち上がって、また曲がる。
そうしているうちに、足音が、減っていることに気がついた。
「……あれ」
立ち止まって、辺りを見回す。
さっきまで賑やかだった通りの喧騒が、遠い。
道幅が、狭い。
両側の建物はどれも窓を板で塞がれていて、頭上には何層もの橋が覆いかぶさっている。光がほとんど届かない。道沿いの街灯は、数本おきに消えていた。
壁を這う管から、ぽたり、ぽたり、と水滴の落ちる音だけが響いている。
千代子は、ゆっくりと振り返った。
来た道が、分からない。
曲がったのは三回か四回。左、右、左……いや、右だったか。どの路地も似たような灰色で、確信が持てない。
(……やらかした。完全に迷子だ)
ネット小説の知識が正しければ、こういうときのこういう場所には、だいたいロクでもないトラブルが湧いて出る。
人気のない薄暗い路地。治安の悪い街。見慣れない服を着た、世間知らずの少女。
並べてみると、フラグが揃いすぎていて、笑えてくる。
(いやいや、まだ何も起きてない。落ち着け。明るいほうに戻ればいいだけ。管の太いほうへ戻れば、広い通りに出られるはず)
千代子は管に手を添え、太くなっていく向きを確かめて、踵を返そうとした。
そのときだった。
「よお、嬢ちゃん」
ほら、来た。
*
背後から聞こえた声に、千代子はゆっくりと振り返った。
薄暗い路地の奥から、三人の男が姿を現す。煤で汚れた革のジャンパー。腰には、歯車の飾りがじゃらじゃらと揺れるベルト。先頭の男の片目は、カチリ、カチリと小さな音を立てて焦点を合わせる、機械の義眼だった。
「こんなとこで、何してんだい。迷子かい?」
「え、っと、ちょっと、道に」
「迷ったんだろ?いいぜ、俺たちが案内してやるよ」
二人目の男が、にたにたと笑いながら千代子の左へ回り込んだ。片腕が、蒸気を漏らす義手になっている。肘の継ぎ目から、しゅっ、しゅっ、と小刻みに白い息が上がっていた。
三人目は、顔の半分に鉄板を貼りつけた大男だった。無言のまま、出口のほうの路地をふさぐように立っている。
「なあ、ちょいと俺たちとお茶でもしようぜ。いい店、知ってんだ」
「いえ、あの、結構です。お断りします」
「ああ?聞こえなかったなあ」
断り方が丁寧すぎたのか、義眼の男は聞く耳を持たなかった。
千代子は一歩、後ずさった。背中が、冷たい煉瓦の壁に触れる。
行き止まりだった。
「見ねえ服だなあ」
義眼の男が、千代子の制服を頭のてっぺんからつま先まで、舐めるように見た。
「どっかの貴族様のお忍びか?それとも、他所から来たばっかりか。どっちでも構やしねえが、その服は上等そうだ。それに」
小さくキュルキュルとピントを合わせる音が義眼から鳴る。
「本人も、なかなかの上玉じゃねえか。いい値がつきそうだ」
「……っ」
喉が、ひゅっと鳴った。声が出ない。
足が、膝が、言うことを聞かない。
体は正直だ。怖いものは、怖い。頭の中でいくら状況を整理しても、目の前の暴力の気配までは整理できない。
(どうしよう。走る?無理、囲まれてる。叫ぶ?誰か来る?こんな場所に?)
バッグの肩紐を、両手で握りしめる。
義手の男が、一歩、距離を詰めた。ごつごつした鉄の指が、千代子の腕へと伸びてくる。蒸気の熱が、かすかに頬を撫でた。
「さあ、おとなしく……」
「あ、あのっ!」
路地の入口から、声が響いた。
男たちの動きが、ぴたりと止まる。
千代子も、思わず声のほうを見た。
逆光の中に、人影がひとつ立っている。
背は、それほど高くない。細い、女の人の声だった。少しだけ上ずっていて、必死に腹から絞り出したような声。
「その子、嫌がってる、じゃないですか。その、……手を、離してあげてください!」
路地の空気が、凍りついた。
男たちが、鬱陶しそうに振り返る。
逆光の輪郭の中で、肩の上で揺れる黒髪だけが、はっきりと見えた。