タコピーの原罪 もしあの「人間の胃の中を見る道具」が本当に出ていたら? 作:低品質くろわあ
そしてタコピーのしずかちゃんはチャッピーのため必死に人の胃の中まで探そうとする
これは、そんなしずかちゃんの命懸けの冒険タコピー版「例え胃の中、水の中」の始まりの話。
3・妖精の決死圏
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お風呂場は、思ったより広かった。さつきがお湯を張っている間、しずかは脱衣所で服を脱いだ。鏡に映る自分の体は、少しやせていた。最近、ちゃんと食べていなかったから。
「入って入って」
さつきがバスタオルを渡してくれた。しずかはおずおずと浴槽に浸かる。お湯が体の芯まで温めていく。久しぶりの、誰かの家のお風呂だった。
「髪も洗ってあげる」
「え、いいよ、自分で……」
「じっとしてて」
さつきはしずかの髪にお湯をかけた。それからシャンプーを手に取って、泡立て始めた。その手つきは少し雑だったけど、優しかった。
「しずかちゃんの髪、細いね」
「……そう?」
「うん。きれい」
しずかは何も言えなかった。誰かに髪を洗ってもらうのは、いつ以来だろう。母親はもう何年も、そんなことをしてくれていない。
「パパ、しずかちゃんのこと、ちゃんと見てあげればいいのに」
さつきがぽつりと言った。
「……お父さんは、忙しいから」
「忙しくても、娘は放っとかないでしょ。うちのパパも、人のこと言えないけどさ」
さつきは少しだけ笑った。しずかはその笑い方が、少しだけ羨ましかった。この子は怒るべき時に怒れる。甘えるべき時に甘えられる。自分には、それができない。
「……さつきちゃんは、強いね」
「そう? 普通だよ」
「普通じゃないよ」
しずかは小さく言った。さつきは何も聞かなかった。ただ、しずかの髪を丁寧に流してくれた。
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お風呂から上がると、さつきがタオルでしずかの髪を拭きながら言った。
「服、どうする? パジャマ借りる?」
「あ、ううん。パジャマは、その……身体の中に入るんだし、汚れるかもしれないから」
「あー、そっか。じゃあ、体操服の方が良いか」
「うん。できれば、体操服の方が」
「体操服ね。ちょっと待ってて」
さつきは自分の部屋から体操服を持ってきた。白い半袖シャツと、紺色のハーフパンツ。少しだけ色あせている。
「これ、学校の体操着だけど夏休みだからしばらく使わないし、汚れたら洗えば大丈夫だから使って」
しずかはそれを受け取った。少しだけ躊躇した。
「でも、私、さつきちゃんの服のサイズに合うはずないよ。私の方が四つも上なのに」
「そう? 身体の大きさは同じくらいに見えるけど? いいから、着てみて」
しずかは仕方なく体操服に着替えた。鏡の前で、自分の姿を見る。すると——
「……え」
驚いたことに、体操服はしずかにぴったりだった。シャツの肩幅も、ハーフパンツの胴回りも、まるでオーダーメイドのように。さつきの方が年下なのに、この体操服がしずかに合うということは。
「あれ、ぴったりじゃん」
さつきが後ろから覗き込んだ。
「……うん」
しずかは鏡の中の自分を見た。白い体操服が、自分の体の線をはっきりと映し出している。胸のふくらみはほとんどない。腰も細すぎる。この体操服がしずかにぴったり合うのは——つまり、四年生のしずかが、一年生のさつきとほとんど背丈が同じくらい発育が悪いということだった。
「……っ」
しずかは言葉を失った。自分の体が、惨めに思えた。ちゃんと食べていないから。ちゃんと眠れていないから。ちゃんと、誰にも愛されていないから。
「しずかちゃん、ちゃんとご飯食べてる?」
さつきが静かに聞いた。
「……食べてる」
「嘘つき」
さつきはしずかの肩に手を置いた。その手は温かかった。
「パパが知らんぷりしてるのが悪いんだから。お姉ちゃんが自分を責めることじゃない」
しずかは俯いた。涙がこぼれそうになった。でも堪えた。この子の前で泣いたら、負けた気がしたから。
その時、脱衣所の扉が、少しだけ開いた。
「あら」
さつきの母親だった。洗濯物を抱えている。
母親は、しずかの体操服姿を一瞬見て、それから、さつきの方を向いた。
「さつき。あんたの体操服、しずかちゃんに貸してあげたの?」
「うん。だって、しずかちゃん、服がないんだもん」
「……そう。よく気がついたわね」
母親は、もう一度、しずかを見た。
(……あら。よく見たら、美人さん。)
でも、同時に、思った。
(……体操服が、ぴったりね。)
四年生が、一年生の体操服を着ている。普通は、小さい。
でも、ぴったり。
(……ちゃんと、食べてないんだろうな。)
それが、少しだけ、気になった。
しずかは、母親の視線を感じて、俯いた。
(……この人、ママを見てる。)
自分じゃない。自分を通して、ママを。
そして——
(でも、パパが最初に選んだのは、ママだ。)
ほんの一瞬、そう思った。でも、すぐに、虚しくなった。
(……選んだのに、捨てたのは、パパだ。)
それなのに——
(……この人は、私を放っておかなかった。)
しずかのためじゃない。さつきのために。
でも、結果として。
(……悔しい。)
でも、ほんの少しだけ——
(……ありがとう。)
(……今のパパが、この人を選ぶのも、分かる気がする。)
(……ママ、ごめん。)
しずかは、俯いた。
「……ありがとう、ございます」
ようやく出た声は、少しだけ、震えていた。
母親は、しずかの沈黙を、照れているのだと思った。
でも、違った。
しずかは、ママのことを、思い出していた。
そして、目の前の女のことを、少しだけ、認め始めていた。
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さつきが、小さな瓶を手に取った。
「これ、塗って」
しずかは、それを受け取った。瓶の中には、透明な油が入っている。匂いは、少し甘い。でも、どこか薬品っぽい。
「全身に塗るの?」
「うん。胃酸で溶けないためだって」
タコピーが続けて説明する。
「まず、体をきれいにするッピ」
「次に、この油を全身に塗るッピ。胃酸で溶けないためッピ」
「それから、このシュノーケルを咥えるッピ。息ができるッピ」
「最後に、さつきちゃんに飲み込んでもらうッピ」
「ぜんぶ、安全ッピ」
なんかどこかで聞いたような流れだと思ったが、しずかは従うしかなかった。でも全身に塗る、という行為が、妙に恥ずかしかった。
一方、さつきは、しずかを風呂に入れる前に、自分の歯を磨いていた。タコピーが、怪しい白い錠剤を見せながら説明する。さつきは、その手を止めた。
「……これ、何?」
「マグミットッピ。胃酸の分泌を抑える薬ッピ」
「……普通の薬じゃん」
「普通ッピ。でも、大事ッピ。胃酸が強すぎると、しずかちゃんが危ないッピ」
さつきは、錠剤をじっと見た。しずかも、それを見た。
(……マグミット。)
聞いたことのある名前だった。母親が胃薬として飲んでいたような気がする。そんな普通の薬で、自分の安全が守られる。それが、なんだか妙に安心できた。でも、同時に——
(……こんな普通の薬で、私は、さつきちゃんの中に入るんだ。)
その事実が、少しだけ、しずかを不安にさせた。
(……そういうものなのか。)
しずかは、思い直して袖をまくった。油を手に取り、腕に塗る。ベタベタする。冷たい。でも、すぐに体温で温かくなる。体操服の中に手を入れて、胸やお腹にも塗る。誰にも触れられていない自分の体に、自分で触れる。久しぶりに、ちゃんと自分の体に触れた気がした。
(……あ。)
しずかは、少しだけ、手を止めた。自分の体が、他人の体のように感じられた。
さつきが、後ろから声をかけた。
「背中、塗ってあげようか?」
「……ううん。自分でできる」
「届かないでしょ。ほら」
さつきは、しずかの体操服の裾を捲り上げた。しずかは、少しだけ身を硬くした。でも、さつきの手は、何でもないように油を塗っていく。冷たい油が、背中に広がる。さつきの手のひらが、温かい。
(……この子は、何も知らない。)
しずかは、目を閉じた。
一方でさつきは、タコピーの説明を聞きながら、どこで聞いたような話かはきちんと理解していた。
(これって、あれだよね。注文の多い料理店。)
国語の授業でやった。山奥の料理店で、扉に書かれた注文に従っていくうちに、実は自分が料理される側だった、っていう話。
(まあ、お姉ちゃんをこれから飲んじゃうんだから、必要な準備なんだろうね。)
さつきは、少しだけ笑った。自分が「料理する側」だなんて、変なの。でも、そういうことなんだろうな、と思った。お姉ちゃんが小さくなって、油を塗って、シュノーケルを咥えて。それって、まるで料理の下ごしらえみたいで。
(……いや、違うか。)
さつきは、首を振った。お姉ちゃんは、料理じゃない。チャッピーを探すんだ。でも、なんだか、そういう流れに見えてしまう。
(……まあ、いいか。)
さつきは、もう一度、歯を磨く手を動かし始めた。
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「じゃあ、そろそろ本番ね」
さつきはカプセルを手に取った。しずかは体操服のまま、こくりと頷いた。
「本当に、良いの?」
さつきがもう一度聞いた。
「うん。良いよ」
しずかは覚悟を決めて言った。
しずかはスリッパを履こうとした。でも、足を止めた。
「……ちょっと待って」
さつきが振り返る。
「どうしたの?」
しずかは黙ってスリッパを脱いだ。裸足の裏に、冷たい床の感触が広がる。
「こっちの方が、歩きやすいから」
少し間を置いて、
「さつきちゃんにとっても、安全だと思う」
さつきはしずかの足元を見た。それから、少しだけ笑った。
「……そっか」
「でも、噛まないでね」
「噛まないって。水で流すから」
それからカプセルのボタンを、そっと押した。
ふわっと、しずかの体が光に包まれた。次の瞬間、しずかは指先ほどの大きさになっていた。さつきの手のひらの上で、小さな小さなしずかが、白い体操服姿で立っている。
「……すごい。体操服で正解だったね」
さつきは、しずかをコップの上に座らせた。コップを逆さにして、椅子代わりに。しずかは、そこにちょこんと座った。白い体操着。半ズボンから伸びた長い素足。裸足。
さつきは、ペットボトルを取りに行こうとして——ふと、足を止めた。
窓から、午後の日差しが入ってくる。その光が、しずかに当たっていた。白い体操着が、光を反射している。半ズボンから伸びた素足が、光の中で、ほんのりと白く浮かんでいる。
しずかは、所在なさげに、両足を擦り合わせたり、組んだりしていた。退屈なのか、不安なのか、緊張しているのか——さつきには、わからなかった。
でも——その仕草が、なぜか、神秘的に見えた。
(……綺麗。)
さつきは、思った。
(……なんか、妖精みたい。)
でも、さつきは、口に出さなかった。さっき、体操着がぴったりだと言った時、しずかは不機嫌そうだった。小さいと言われるのが、嫌なんだ——さつきは、そう察した。
だから、黙っていようと思った。
でも——ポツリと、漏れた。
「……妖精みたい。」
しずかの足の動きが、止まった。
しずかは、顔を上げた。さつきを見ている。その目は、怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、空洞だった。
「……私は、妖精なんかじゃない。」
しずかの声は、小さかった。でも、確かに届いた。
さつきは、はっとした。
「……ごめんなさい。」
さつきは、素直に謝った。
「……でも。」
さつきは、しずかを見た。窓から入る光の中で、白い体操着が、素足が、黒い髪が——神秘的に輝いていた。
「……お姉ちゃんが、あんまり綺麗だから。つい。」
しずかは、何も言わなかった。
でも——その足先が、さっきより少しだけ、ゆっくりと、擦り合わされた。
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さつきは、しずかをそっと手のひらに乗せた。指先ほどの大きさの、白い体操服姿。半ズボンから伸びた素足が、さつきの手のひらの線の上に、ちょこんと乗っている。
さつきは、しずかをじっと見た。さっきまでのどこか面白半分だった軽快な笑みは、もうどこにもない。真剣な目だった。
「お姉ちゃん、大丈夫? 怖くない?」
しずかは、その目を見た。自分を疑った相手が、自分の心配をしている。そのことが、まだうまく飲み込めなかった。でも、首を縦に振った。小さく、でも、確かに。
さつきは、少しだけ迷って、それからタコピーの方を向いた。
「タコピー。これ、本当に安全なの?」
タコピーは、いつもの能天気な顔で、こくんと頷いた。
「大丈夫ッピ。タコピー、何回も使ったことあるッピ」
さつきは、しばらくタコピーを見ていた。それから、しずかに戻した。目が、決心した色に変わっていた。
「じゃあ、行くよ。……飲み込みやすいように、足を下に向けて、仰向けで寝ててね」
しずかは、首をかしげた。
「……どうして?」
その一言が、自分でも意外だった。誰かに「どうして」と聞くなんて、いつ以来だろう。さつきは、少しだけ笑った。
「ウォータースライダーの要領だよ。頭から入ると、途中で引っかかっちゃうから。足から入ると、するって抜けるんだよ」
しずかは、戸惑った。
(……ウォータースライダー。)
プールに行ったことが、なかった。母親は、そんな場所に連れて行ってくれなかった。小学校の友達が「プール楽しかった」と話しているのを、教室の隅で聞いていた。だから、さつきの言葉が、すっと頭に入ってこない。
さつきは、そんなしずかの様子に気づいたのか、少し考えた後で、
「そっか、寒いもんね」
と呟いて、身振り手振りで説明し始めた。
「えっとね、こう、滑り台みたいなやつで、水と一緒に流れるの。頭から入ると、首が変な方向に曲がっちゃうでしょ? 足から入ると、すーって。それと同じ」
さつきの説明は、少し雑だった。でも、一生懸命だった。その一生懸命さが、しずかには伝わった。
(……北海道って、プールないのかな。寒いもんね。だから知らないんだ。)
さつきは、勝手にそう納得しているようだった。しずかが黙っているのは、寒い地方の子だから。それだけのことだと思った。
(……違うのに。)
しずかは、心の中で思った。でも、言えなかった。言ったら、さつきが困るから。
(……よく分からなかったけど。)
しずかは、もう一度、頷いた。
(さつきちゃんが言うなら。)
それだけだった。理屈じゃない。さつきを、信じようと思った。
しずかは、さつきの手のひらから、そっと立ち上がった。手のひらの端まで歩いて、そこから、さつきの口元を見上げた。
口が、開いている。白い歯が、並んでいる。しずかは、一歩、踏み出した。
歯の上に、飛び乗った。
足の裏に、硬い感触が伝わってくる。つるつるしている。でも、冷たくはない。温かい。さつきの体温だ。
(……硬い。)
しずかは、歯の上で、少しだけ立ち止まった。次は、柔らかい場所だ。舌。そこで、寝る。
(……大丈夫。)
しずかは、次のステップに足を踏み出した。
舌の上は、想像よりずっと柔らかかった。そして、想像よりずっと乾いていた。
(……乾いてる。)
さつきちゃんが、唾を飲み込んでくれたのか。それとも、緊張しているのか。しずかには、分からなかった。
口の中は、さすがに唾液の匂いがするだろうと思っていた。
でも、広がったのは、イチゴの柔らかな香りだった。
それに包まれて、しずかの緊張は、少しだけ和らいだ。
でも、どちらにしても。
(……この子は、私のために。)
その事実が、しずかの胸に、じんわりと沁みた。
私に疑われたのに。何も悪くないのに。それなのに、私のために、口を開けて、待ってくれている。
(……ごめん。)
しずかは、心の中で、そう言った。声には、出さなかった。出したら、さつきに届いてしまうから。きっと、困った顔をする。そんなの、嫌だった。
しずかは、舌の上で、仰向けに寝た。足を、さつきの喉の方に向けて。
上から、さつきの声が聞こえる。
「……行くよ。」
しずかは、小さく、目を閉じた。
さつきが、水を一口含んだ。ひんやりとした水が、舌の上に流れてくる。しずかの体を、ゆっくりと包んでいく。
(……温かい。)
水は、冷たかった。でも、しずかを包むさつきの口の中は、温かかった。
ごくり、と喉が鳴った。
しずかは、水と一緒に、さつきの喉へと流れ込んでいった。
ウォータースライダーのように、一気に。
(……あ。)
しずかは、一瞬だけ、思った。
(……私、ウォータースライダー、初めてだ。)
目が回る。速い。でも、怖くはなかった。
私をお姉ちゃんと呼んでくれたあの子が大丈夫って言ったから。
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(……これが、体内。)
しずかは、まだ「冒険」の気分だった。
そして——胃の中に、着地した。
ドサッ、という衝撃とともに、尻餅をつく。
「……っ」
生温かい。ぬるりとしている。胃酸の匂いが、鼻を刺す。
(……気持ち悪い。)
ふと気付くと、滑り落ちたせいか、体操服がおへそまでめくれていた。
(……やれやれ。)
しずかは、服を直した。誰も見てない。助かった。
その時だった。
上から、声が聞こえた。
「しずかちゃん、おへそ見えてたけど、大丈夫?」
さつきの声だった。
しずかは、手を止めた。
(……見えてたの?)
顔が、一気に熱くなった。
(……最悪。)
冒険の気分は、一瞬で消えた。
息苦しくなって、慌ててシュノーケルを咥える。何度か口で息をして、呼吸に慣れた。何とか楽になった。少なくとも、窒息する心配はないようだ。
しずかは、顔を上げた。ベットライトを付ける。
薄暗い肉壁。泡立つ胃酸。溶けかけの食べ物。
そして——
目の前に、巨大な白い固まりがあった。
それは、激しく泡立っていた。ジュワッ、ジュワッという音とともに、白い泡が噴き出している。固まりは、見る間に溶けていく。
(……なに、あれ。)
しずかは、しばらく見ていた。
その時、タコピーの声が、頭の中に甦った。
「マグミットッピ。胃酸の分泌を抑える薬ッピ」
(……あれが、マグミット。)
しずかは、理解した。
さつきが飲んだ薬。胃酸を抑えるための薬。それが、胃の中で、あんなに激しく泡立っている。
(……大変なところに、来たんだ。)
しずかは、痛感した。
オイルを塗っているから、大丈夫。タコピーが「安全ッピ」と言ったから、大丈夫。
でも——
目の前で、薬が溶けている。
(……本当に、大丈夫なのかな。)
しずかは、自分の体を見た。オイルでコーティングされている。でも、それが本当に胃酸を防げるのか——確かめる術はない。
(……タコピー。)
しずかは、上を見上げた。もちろん、何も見えない。
(……「安全ッピ」って、言ったよね。)
その言葉が、急に頼りなく思えた。
そして——
目が合った。
魚。
小さな、白い魚。
しずかは、ギョッとした。
(……魚?)
まさか。本当に、お腹の中が異世界に繋がってる?
さつきちゃんが言ってた。「お腹の中が広い世界に繋がってるかもしれないじゃん」。あの時は、無理があると思った。
でも——
しずかは、周りを見た。
白い切れ端。緑の切れ端。茶色の切れ端。
素麺。ネギ。油揚げ。
しずかは、しばらくそれを見ていた。
(……なんだ。)
素麺だ。さつきちゃんの、昼ごはん。あまり噛まずに飲み込んだから、形がしっかり残っている。
しずかは、少しだけ笑った。
(……私、疲れてるんだ。)
でも、笑えなかった。
さつきは、ちゃんと食べている。素麺に、ネギと、シラスと、油揚げ。
しずかは、食べていない。
しずかは、その中に、自分の知らないさつきの時間を見た。
(……この子は、ちゃんと食べてる。)
その時——上から、声が降ってきた。
「……あれ?」
さつきの声だった。
「なんか……お腹の中、動いてる?」
しずかは、顔を上げた。もちろん、何も見えない。でも、さつきが自分のお腹に手を当てているのが、なんとなくわかった。
「……ごめん、お姉ちゃん。痛かった?」
さつきの声は、本気で心配しているように聞こえた。
「……大丈夫。」
しずかは、小さく答えた。でも、その声は、さつきには届かない。
「歩きやすいように、横になるね。」
さつきが、そう言った。そして——本当に、横になった。
しずかの体が、わずかに傾く。胃の中の胃酸が、ゆっくりと移動する。
(……横になった。)
しずかは、さつきの体が動いたのを、自分の体で感じた。
(……この子は、私のために、体を動かしてくれた。)
その事実が、しずかの胸に、じんわりと沁みた。
(……なんで、そんなことするんだろう。)
しずかは、さつきの「お姉ちゃん」という言葉を、もう一度思い出した。
(……私は、誰かに「お姉ちゃん」と呼ばれたことが、あっただろうか。)
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さつきはソファに横になった。タコピーが用意したモニターを横に置いて、画面を横から見る格好になる。
「これで少しは楽?」
「……うん。ありがとう」
さつきは黙ってモニターを見ていた。時々、お腹に手を当てる。しずかが動くたびに、内側から伝わる小さな振動。それが不思議で、さつきは少しだけ笑った。
しずかは胃酸の水たまりの前に立った。ぬるりとした液体が、薄暗い光を反射している。
恐る恐る、足先を浸けてみる。
生温かい。でも、痛みはない。溶ける感じもない。
タコピーの「安全ッピ」は、本当だったんだ。
しずかは小さく息を吐いて、一歩を踏み出した。
ベットライトを付けると、目の前には、薄暗い肉壁が映っていた。泡立つ胃酸。溶けかけの食べ物。しずかはその中を歩いていた。体操服のおかげで体は多少守られている。でも、体温と湿気と匂いは、直接肌にまとわりついてくる。
「すごい……本当に、中にいる」
さつきは自分の体の中を見ながら、少しだけ笑った。
「なんか、中で誰かが動いてるみたいで、不思議な感じ」
しずかは何も言えなかった。どこにも、チャッピーはいなかった。当たり前だった。さつきは何も食べていない。ただの、普通の女の子だった。
(やっぱり、いない)
しずかはモニターの中の自分を見た。薄暗い胃の中を、体操服姿の自分が歩いている。その姿は、なんだか間抜けに見えた。自分は何をしているんだろう。大事な犬が心配で、こんなことをしている。でも、どこにもいない。当然だ。さつきは何も悪くない。
なのに自分は、こんなことをしてしまった。
「しずかちゃん、大丈夫?」
さつきの声が上から降ってくる。
「……うん」
しずかは小さく答えた。その声は、もう自分でも聞こえないくらい小さかった。