タコピーの原罪 もしあの「人間の胃の中を見る道具」が本当に出ていたら? 作:低品質くろわあ
冒険の興奮が覚めたらしばらくはまともに顔も合わせられないくらい恥ずかしいけど2人が普通の姉妹として再会するのはいつの日やら。
4・内宇宙と星空の天井
さつきは、ソファに横になっていた。
お腹の中に、しずかがいる。時々、内側から小さな振動が伝わってくる。トコトコ、トコトコと歩くような、規則的なリズム。くすぐったいような、不思議な感覚。
モニターを見ると、しずかが胃の出口を見上げていた。ぬるりとした壁。手をかけても、滑る。何度目か分からない挑戦。息が上がる。
「しずかちゃん、大変そうッピ」
タコピーの声が、上から聞こえた。さつきが、モニターを覗き込む。
「え? どうしたの?」
「胃の出口が、高いッピ。しずかちゃん、登れないでいるッピ」
「あ、ほんとだ。なんか、必死」
さつきは、少しだけ笑った。
「さつきちゃん、ちょっと起き上がってみてッピ」
「え? なんで?」
「起き上がると、出口が下に来るッピ。しずかちゃん、楽になるッピ」
「そっか」
さつきは、素直に起き上がった。ソファに座り直す。しずかの体が、傾く。胃の出口が、下に来る。しずかは、そのまま滑り込んだ。
「あ」
思わず、声が出た。
「しずかちゃん、どうしたッピ?」
「……うん。楽になった」
モニターの向こうのしずかは、小さく答えた。
「よかったッピ!」
タコピーは、得意げに胸を張った。さつきは、モニターを眺めながら、
「なんか、私、役に立った?」
と聞いた。
「うん。さつきちゃんのおかげッピ」
「そっか。よかった」
さつきは、少しだけ嬉しそうだった。
---
「……ねえ、タコピー。」
「なにッピ?」
「タコピーは、どうやってしずかお姉ちゃんと知り合ったの?」
タコピーは、しばらく考えた。
「……タコピーが地球に来た時、しずかちゃんがいたッピ。しずかちゃんが、お腹をすかせてた僕にパンとタコピーって名前をくれて家に連れて行ってくれたッピ。」
「家に?」
「うん。でも、しずかちゃんの家、ゴミがいっぱいだったッピ。タコピー、びっくりしたッピ。」
胃の中のしずかは、その言葉を聞いて、体を硬くした。
(……やめて。)
でも、声は届かない。
「ゴミ?」
さつきが、首をかしげる。
「うん。ペットボトルとか、容器とか、いっぱいッピ。しずかちゃん、一人で住んでるみたいだったッピ。」
「……一人で?」
「うん。お母さんもお父さんも、いないみたいだったッピ。」
しずかは、胃酸の中で、拳を握りしめた。
(……なんで、そんなこと。)
でも、タコピーは止まらない。
「でも、チャッピーがいたッピ。しずかちゃんの大事なワンちゃんッピ。」
「チャッピー?」
さつきの声が、少しだけ明るくなる。
「うん。大きくて優しくて、かわいいワンちゃんッピ。しずかちゃんが、いつも『チャッピー、チャッピー』って言ってるッピ。」
「へえ。……どんなワンちゃん?」
「タコピー、犬のことよくわからないッピ。でも、しずかちゃんが笑う時は、いつもチャッピーがそばにいるッピ。」
しずかは、胃の中で、目を閉じた。
(……チャッピー。)
涙が、出そうになった。でも、胃酸の中で、涙は意味をなさない。
「……しずかお姉ちゃん、笑うんだ。」
さつきが、ぽつりと言った。
「うん。あんまり笑わないッピ。でも、チャッピーの前では、笑うッピ。」
「……そっか。」
さつきは、しばらく黙った。そして、いつの間にかしずかの足音が止まってたのを感じて、お腹に手を当てた。
「……しずかお姉ちゃん、聞こえる?」
しずかは、どきっとした。
(……聞こえてる。)
でも、答えられない。
「……ごめん。なんか、勝手に話しちゃって。」
さつきの声は、少しだけ優しかった。
「でも、しずかお姉ちゃんのこと、ちょっとだけわかった気がする。」
しずかは、胃の中で、小さく震えた。
(……わかった気になるな。)
でも、その言葉が、なぜか、温かかった。
---
胃を抜けた。
ほんの数分のことだったはずなのに、しずかにはとても長く感じられた。胃酸の海を歩き、壁を攀じ登り、窄まる出口を抜けた。服はところどころ湿っていて、それが胃液なのか汗なのか、もう分からなかった。
「……抜けた」
しずかは膝に手をついて、息を吐いた。目の前には、柔らかそうな薄いオレンジ色のトンネルが続いている。胃の中よりも明るい。壁が血管の透けたピンクがかっていて、光を反射しているように見えた。
「ここから先は溶ける心配ないッピ」
バイザーの画面に、タコピーの顔が映った。相変わらずのんきな声。しずかは少しだけ安堵して、それから、はっと自分の腕を見た。
「……汗、すごい」
お風呂に入れてもらった。さつきがタオルを貸してくれて、シャンプーも貸してくれて、しずかは久しぶりにちゃんと体を洗った。なのに、胃の中を歩くだけで、もう汗だくだった。額から首筋へ、汗が伝う。腕も、脚も、びっしょりだった。
(……さつきちゃんに、悪い)
しずかは俯いた。せっかくお風呂に入れて貰ったのに。服も洗ってもらったのに。それなのに、体の中に入った途端にこれだ。自分は、いつもそうだ。何をやっても、うまくいかない。
「しずかちゃん、どうしたッピ?」
「……なんでもない」
しずかは顔を上げて、歩き出した。小腸は長い。バイザーに「残り、約六メートル」と表示されている。六メートル。大したことない。そう思って歩き始めた。
壁は柔らかかった。押すと少しへこむ。絨毛——さっきバイザーに表示された文字を思い出す。栄養を吸収するための、小さな突起。びっしりと壁を覆っている。触れるとざらざらしていて、でも痛くはない。猫の舌みたいだ、と思った。
歩けども歩けども、小腸は続いた。
しずかは無言で歩いた。タコピーも、時々バイザーの中から「大丈夫ッピ?」と聞いてくるだけで、基本的には黙っていた。しずかはそれがありがたかった。今、声を出して欲しくなかった。
(……広い)
思った。さつきの体の中は、広かった。しずかは自分の体の中を想像してみた。こんなに広いんだろうか。こんなに長いんだろうか。自分の体の中なのに、知らない。誰かの体の中も、知らない。知らないまま、今、歩いている。
ふと、足元が震えた。
ドクン。
しずかは足を止めた。
(……何?)
ドクン。もう一度。今度ははっきりと聞こえた。いや、聞こえた、というより、感じた。足の裏から、太ももから、お腹から、体中に響いてくる。振動。一定のリズム。
(……これ、さつきちゃんの)
心臓の音だ。さつきの心臓が、すぐそこにある。いや、ここは小腸で、心臓はずっと上だ。でも、体の中を伝って、振動が届いている。ドクン、ドクン。ゆっくりで、穏やかで、あったかい。
しずかは思わず、自分の胸に手を当てた。自分の心臓は、少し速かった。さつきの心臓は、ゆっくりだった。比べて、しずかは少しだけ恥ずかしくなった。自分だけ、緊張している。さつきは、普通にしている。それが、なんだか悔しかった。
「しずかちゃん、さつきちゃんの心臓、聞こえるッピ?」
バイザーからタコピーの声。
「……うん」
「さつきちゃん、生きてるッピ」
「……当たり前でしょ」
しずかは少し笑った。でも、その笑みはすぐに消えた。さつきは生きている。その体の中に、自分はいる。それが、急に重く感じられた。
歩き続けた。しばらくすると、バイザーに「小腸中部」と表示された。まだ半分。しずかは疲れを感じ始めていた。足が重い。汗が止まらない。喉も渇いてきた。
(……水、飲みたい)
でも、ここには水なんてない。しずかは唇を舐めた。塩辛い味がした。自分の汗だ。
【不意に、何かが腕に触れた。】
「……え?」
しずかは腕を見た。壁から、細い糸のようなものが伸びている。いや、糸じゃない。もっと柔らかくて、もっと太い。触手みたいだ、と思った。それが、しずかの腕に、そっと吸い付いた。
「……何?」
しずかは腕を振った。でも、触手は離れない。それどころか、もっと伸びてきた。一本、また一本。しずかの腕に、肩に、首に。壁中の絨毛が、しずかに向かって伸びている。
「……っ、くすぐったい!」
しずかは身をよじった。絨毛は、しずかの肌に吸い付いて、汗を吸っている。汚れを取っている。一つ一つは小さな動きなのに、無数にあるから、全身がくすぐったい。
「タコピー! これ、何!?」
バイザーに顔を出したタコピーが、あっさりと言った。
「絨毛ッピ。汗や汚れを吸ってるッピ」
しずかは、その言葉に、ふと我に返った。汗。吸ってる。この触手みたいなのが。自分の汗を。
「……汗に吸い付くって、ばっちくないの?」
しずかは、自分でも意外なほど、素直な声が出た。感傷的になるよりも、先に、そう思った。湿った、ぬるい、自分の汗。それを、無数の突起がちゅうちゅう吸っている。正直、気持ち悪い。いくらさつきの体の中でも、これはない。
タコピーは、首をかしげた。
「そうだッピ? ボクも時々吸盤で吸うけど、しょっぱくて美味しいッピ?」
「タコピーには聞いてない!」
しずかは、声を張った。
「というか、タコピー、そんなことしてたの!? 人の汗、吸ってたの!?」
「あ、えっと、その……」
タコピーが、珍しく言葉に詰まった。バイザーの中で、触手を縮こまらせている。図星らしい。
「……最悪」
しずかは、小さく呟いた。でも、なぜか、少しだけ笑えた。タコピーの間抜けな顔を見ていたら、さっきまでの重い気持ちが、少しだけ軽くなった。
【その瞬間、バイザーの画面が切り替わった。】
さつきの顔が映った。リビングのソファに座って、膝の上にモニターを置いている。ツインテールの毛先が、少し揺れていた。
『まあまあ、私もちょうどお姉ちゃんの汗拭いてあげたいと思ってたから、ちょうど良いよ』
さつきの声が、バイザーから聞こえた。それと同時に、体中の絨毛が、微かに震えた。さつきの声が、体内に振動として伝わってくる。バイザー越しの声と、体内の振動。二つが重なる。
『それに、しずかお姉ちゃん、汗かくの気にしすぎ。私なんて、部活のあととか、もっとすごいよ』
さつきは、あっけらかんと言った。画面の中のさつきは、本当に何でもないことのように笑っている。しずかは、少しだけ拍子抜けした。
(……部活)
さつきは、部活をやっているのか。しずかは知らなかった。当たり前だ。今日初めて、ちゃんと話したんだから。
「……さつきちゃん、部活、何やってるの?」
しずかは、聞いていた。バイザー越しに。さつきは、少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。
『バスケ。でも、あんまり上手くないんだ』
「……そう」
『しずかお姉ちゃんは? 何かやってた?』
しずかは、少し考えた。
「……何も」
『そっか。じゃあ、今度一緒に何かやろうよ。バスケは無理でも、卓球とか』
「……私、運動、苦手」
『私もだよ。でも、楽しいよ』
さつきの声が、体内に響く。振動が、しずかの胸の奥まで届く。しずかは、泣きそうになった。でも、泣かなかった。ここで泣いたら、さつきに申し訳ない。そう思った。
(……この子は、ずるい)
しずかは思った。さつきはずるい。こんなに優しくされたら、怒れない。疑えない。嫌いになれない。自分が、どんどん小さくなっていくみたいだ。
絨毛は、そんなしずかを包みながら、汗を吸い続けた。少しずつ、しずかの肌が乾いていく。汚れが落ちていく。さっぱりしていく。体中の絨毛が、無数の小さな手みたいに、しずかを拭いていく。
【そんな時、タコピーが思い出したように言った。】
「そういえば、しずかちゃんの汗、しょっぱくて美味しいッピ」
「……は?」
しずかは、足を止めた。
「ボクの吸盤、しずかちゃんの顔に貼りついちゃった時があったッピ。その時に、ちょっと味がしたッピ」
「……いつ」
「しずかちゃんが寝てる時ッピ。吸盤、くっついちゃって。取れなくて、困ったッピ」
「……最悪」
しずかは、声を震わせた。
(……寝てる間に、吸盤が。)
(……顔に。)
(……しかも、味まで。)
しずかの顔が、一気に熱くなる。
バイザーの向こうで、さつきが首をかしげた。
「え、どうしたの?」
「……なんでもない」
「タコピー、なんか言った?」
「……別に」
「ふーん」
さつきは、少し考えた。
(……そういえば。)
(お姉ちゃんが、私の舌の上に乗った時。)
(手足に、少し汗ばんでた。)
(……緊張してたのかな。)
(あんなに「私が入る」って言ってたのに。)
(……言ったら、お姉ちゃん、泣いちゃうかな。)
(……うん。泣いちゃう。)
(……秘密にしよう。)
さつきは、心の中で、そう決めた。
それから、何でもないことのように言った。
「私も、汗、舐めたことあるよ」
「……え」
しずかは、声を上げた。
「走ったあととか、しょっぱいんだよね。お姉ちゃんの汗は、どんな味だった?」
「……っ」
しずかは、言葉に詰まった。
(……なんで、そんなこと。)
(……なんで、そんなこと、平気で聞くんだろう。)
しずかの沈黙を、さつきはどう受け取ったか。
バイザーの向こうで、さつきは、少しだけ首をかしげた。
「……お姉ちゃん?」
「……やめて」
しずかは、ようやく声を出した。
「そういうの、やめて」
「え? なんで?」
「……だって」
しずかは、俯いた。
「……他人の汗の味、想像するの、恥ずかしいから」
「……あ」
さつきは、ようやく気づいた。
「……ごめん」
さつきは、素直に謝った。
「私、子供だから、そういうの、平気で言っちゃうんだ。気をつける」
その言葉に、しずかは、少しだけ顔を上げた。
(……この子は。)
(……悪くない。)
(……私が、変なだけ。)
でも、しずかは、そう思えなかった。
汗を舐められるのが恥ずかしい。
それを、さつきは「私も舐めたことある」と平気で言う。
その違いが、しずかを、余計に恥ずかしくさせる。
(……気持ちいい)
しずかは、思ってしまった。気持ちいい。さつきの体の中は、あったかくて、優しくて、気持ちいい。外は、ずっと大変だった。学校では無視されて、家では一人で、誰も話を聞いてくれなくて。北海道から東京まで、一人で歩いて。ずっと、我慢して。ずっと、頑張って。
(……ここにいたら)
しずかは、目を閉じた。絨毛が、優しく全身を撫でる。さつきの心臓の音が、子守唄みたいに響く。ドクン、ドクン。ゆっくりで、穏やかで、あったかい。
(……ずっと、ここにいたい)
外に出たくない。外は、寒い。外は、痛い。外は、一人だ。ここは、あったかい。ここは、優しい。ここは、誰かがいる。さつきがいる。タコピーもいる。ここにいたら、寂しくない。
しずかは、膝を抱えた。絨毛が、そんなしずかを包み込む。もう、歩きたくない。このまま、ここにいたい。さつきの体の中に、ずっと。そうすれば、もう、傷つかなくて済む。
(……でも)
その時、バイザーから、タコピーの声がした。
「しずかちゃん、チャッピーは?」
しずかは、はっとした。
(……チャッピー)
チャッピー。そうだ。チャッピーを探しに来たんだ。さつきの体の中に、チャッピーがいるかもしれないと思って。食べられてないか確かめたくて。それなのに、自分は何をしていたんだろう。
(……違う)
しずかは、目を開けた。さつきの心臓の音が、少しだけ速くなっている。ドクン、ドクン。さっきより、少しだけ強い。心配している。しずかが動かないから。
(……私が、ここにいたら)
さつきが、困る。しずかがさつきの体の中にいたら、さつきは歩けない。ご飯も食べられない。学校にも行けない。さつきの生活が、止まってしまう。
(……それじゃ、いけない)
しずかは、ゆっくりと立ち上がった。絨毛が、名残惜しそうに離れていく。でも、しずかは歩き出した。
「……行かなきゃ」
「どこにッピ?」
「出口。さつきちゃんの、外」
タコピーは、何も言わなかった。バイザーの中のタコピーは、ただ、しずかを見ていた。しずかは、一歩ずつ、出口に向かって歩き始めた。
さつきの心臓の音が、背中を押すように響いていた。ドクン、ドクン。ゆっくりで、穏やかで、あったかい。
(……カレー)
さつきが、カレーを作っている。自分の体の中に、しずかがいるのに。それでも、さつきは普通に生活している。それが、なんだかおかしかった。
(……私も、帰ったら)
カレー、食べよう。さつきの家のカレーじゃないけど。どこかで。一人で。それでも、食べよう。
しずかは、歩き出した。大腸に向かって。まだ、迷宮は続いている。
その前に、バイザーに向かって、小さく言った。
「……タコピー」
『なにッピ?』
「さつきちゃんに、ありがとうって、伝えといて」
タコピーは、少しだけ間を置いて、
『自分で言うッピ。出口、もうすぐそこッピ』
「……そうだね」
しずかは、少しだけ笑った。さつきの心臓の音が、まだ聞こえている。ドクン、ドクン。そのリズムに合わせて、しずかは歩いた。
小腸の迷宮を、抜けるために。
---
リビングでは、さつきがモニターを覗き込んでいた。
「しずかお姉ちゃん、歩き出したね」
『うん……。でも、なんか、タコピーに怒ってたッピ』
「怒ってた?」
『ボクが、汗を吸うと美味しいって言ったら、最悪って』
さつきは、少しだけ笑った。
「しずかお姉ちゃん、真面目なんだね」
『そうッピ? ボクは、しょっぱいもの好きッピ』
「タコピー、それ、今度しずかお姉ちゃんに言わない方がいいよ」
『なんでッピ?』
「……怒られるから」
さつきは、モニターの横に置いたタオルを見た。お風呂で使った、ゾウさん柄のバスタオル。しずかが返したやつ。まだ、少し湿っていた。
「……お姉ちゃん、頑張ってるんだね」
さつきは、ぽつりと言った。タコピーは、何も言わなかった。ただ、モニターの中で、しずかの歩く姿を見ていた。
(……緊張してたんだ。)
(……お姉ちゃん。)
(……言わないけど。)
さつきは、小さく息を吐いた。
キッチンから、母親の声がした。
「さつきー、えりかー、夕飯の準備手伝ってー」
「はーい」
さつきは立ち上がった。モニターをテーブルの隅に置いて、キッチンに向かう。えりかは、まだソファで漫画を読んでいた。
「えりか、手伝うよ」
「……今、面白いところ」
「あとで読めばいいでしょ」
さつきは、えりかの手を引いた。えりかは、少しだけしずかの方をチラリと見た。モニターに映る、小さな点。それから、また漫画に戻った。
さつきはキッチンに向かいながら、モニターをちらりと振り返った。小さな画面の中で、しずかが歩いている。小腸の迷路を、一人で。
(……頑張れ、お姉ちゃん)
さつきは、心の中でそう呟いて、それから母親の隣に立った。
「今日、カレー?」
「そうよ。しずかちゃんも食べるかしら」
「……食べるよ、きっと」
さつきは、そう言って、玉ねぎを手に取った。モニターの中では、しずかがまだ歩いていた。出口に向かって。さつきの体の、外に向かって。
---
しずかが大腸に到達したのは、それから間もなくだった。
小腸を抜けると、そこは薄暗いトンネルだった。壁は小腸よりも固く、ひだひだになっている。水分を吸収する場所、とバイザーに表示された。しずかは、そこを歩いた。もう、汗もかかなかった。絨毛も、もうなかった。
(……あと少し)
しずかは、歩いた。大腸は、小腸より短い。でも、しずかには長く感じられた。さつきの体の中にいる時間が、長ければ長いほど、罪悪感が増していく。
(……早く、出なきゃ)
突然、ずきん、とお腹が痛んだ。
いや、しずかのじゃない。さつきのだ。
「……っ」
さつきの声が、上から聞こえた。しずかは、足を止めた。
(……さつきちゃん?)
さつきの体が、動いている。しずかの体が、傾く。胃の中の胃酸が、移動する。さつきが、トイレに駆け込んでいる。
(……私のせいだ)
しずかは、走り出した。大腸の出口。肛門。そこを目指して。
ぬるりとした壁を、必死に蹴った。さつきちゃんを、これ以上、巻き込んじゃいけない。私が、ここにいるせいで、さつきちゃんが痛がってる。私のせいだ。早く、出なきゃ。
大腸の入り口が見えた。ぬるりとした闇の奥に、出口がある。
しずかは、飛び込んだ。
そして——
水の音がした。
しずかは、床に落ちた。冷たいタイル。白い光。トイレの匂い。
体が、元の大きさに戻っていく。
「……っ」
しずかは、便器の横で、体育座りをしていた。体操服は、胃液と粘液でドロドロだった。
さつきが、便器から立ち上がった。二人の目が、合った。
「もうっ、急にお腹が痛くなってちょっとびっくりしたよ。だけどお姉ちゃんが無事に出て来れて良かった。でも、どうしたの? 急に慌てて走り出して、何か怖いことでもあった?」
しずかはさつきの問いに何も言えなかった。
---
えりかは、姉がお腹を押さえて、急にトイレに駆け込んだ様子を呆れて見てたが、しばらくして、トイレからさつきと何故かしずかが出てきた。二人は、どちらも顔が赤かった。しずかは借りた体操服のまま。体は、胃液と粘液でドロドロになっていた。
「お姉ちゃんたち、何してたの?」
リビングから、えりかが顔を出した。
さつきは答えなかった。しずかも答えなかった。
「お姉ちゃん、さっき急にトイレ行ったけどお腹壊したの?」
「……違う」
「じゃあ何?」
「……別に」
えりかはじっとさつきを見た。それから、後ろから出てきたしずかを見た。しずかは体操服姿で、顔が赤い。
「……あ」
えりかの目が、少しだけ細くなった。
「お姉ちゃんたち、なんか、変」
「変じゃない」
「変だよ。しかも、なんか、匂う」
しずかは俯いた。さつきは答えなかった。
「え、何? なんで黙ってるの? ていうか、しずかちゃん、なんで体操服?」
さつきがようやく口を開いた。その声は、少し弾んでいた。
「……えりか」
「何?」
「……赤ちゃんできたら、こんな感じなのかなって」
「……は?」
「お腹の中に誰かがいるって、こんな感じなのかなって。えりかがママのお腹にいた時、ずっとそう思ってたのよ」
えりかは、一瞬、言葉を失った。
そして——
「うへぇ、お姉キモい」
そう言って、えりかはリビングに戻っていった。
しずかは、その背中を見送った。
(……この子、私の妹のはずなのに)
しずかは、さつきのことを思った。
天然で、無邪気で、悪気がなくて、でも——どこか「お姉ちゃん」なんだ。
「えりかもやってみなよ。面白いよ。体操服、貸してあげる」
さつきはリビングに向かって言った。
「お姉ちゃんたち、さっきトイレから出てきたでしょ」
リビングの方からえりかの声が聞こえた。
「そういうことでしょ? やだよ」
一瞬、静かになった。
「……バレたか」
さつきが小さく舌を出した。
しずかは二人を交互に見た。さつきはケロッとしている。えりかはもう向こうで漫画を読み直しているようで笑い声が聞こえる。誰も、何も、深刻に受け止めていない。
「……この子には、敵わない」
しずかは小さく呟いた。誰に言うでもなく、そう言って玄関の方へ歩き出した。
「え? しずかちゃん、もう帰るの? 脱いだ服、返さなくていいの?」
「……あげる」
「え?」
「もう、いらないから」
しずかは靴を履こうとした。でも、体がドロドロで、靴を履く気になれなかった。
「ちょっと、そんな格好でそこに立たないでよ」
さつきが後ろから言った。怒っているわけではない。むしろ、少し困ったような声。
「もう一回、お風呂入りなよ。そのままじゃ、服着られないでしょ」
「……うん」
しずかは抵抗しなかった。抵抗する気力も、もう残っていなかった。
しずかは、脱衣所のバケツを覗き込んだ。中には薄い消毒液が張ってある。
「それ、体操服つけといて。えりかが小さい頃、お漏らしした時、ママがこうしてたの。そのまま洗濯機に入れると、匂いが取れないから」
さつきは何でもないことのように言った。
しずかは体操服をバケツに入れた。白い布が、薄い水の上にゆっくりと沈んでいく。消毒液の匂いが、胃酸の匂いを少しずつ消していく。
(……お漏らし。)
しずかは、その言葉を心の中で繰り返した。自分は、さつきの体内で何も見つけられなかった。ただ汚れて、帰ってきた。それは、子どもがお漏らしをしてしまった後の気持ちに、どこか似ていた。
(それにしても、お漏らしのお世話かぁ。何でこの子が、汗だくで来た私のことを臭いと言わないでいてくれた理由が、何となく分かった気がする)
「……ごめん」
しずかは、小さく言った。
「何が?」
さつきは、本当に分からないという顔をしていた。
(……この子は、何も知らない。)
しずかは、バケツの中の体操服を見つめた。白い布は、もうほとんど沈んでいた。
リビングから、えりかの声が聞こえた。
「お姉ちゃん、お漏らしなんかしてないし!」
「嘘おっしゃい。去年までしてたでしょ。しずかちゃんに聞かれたら恥ずかしいよ?」
「うるさい! お姉ちゃんこそ、この前、階段で転んで泣いてたくせに!」
「それは関係ないでしょ!」
二人の声が、重なり合う。言い争う声。笑い声。どちらも、本気で怒っているわけではない。
しずかは、その声を聞いていた。
(……喧嘩、してる。)
しずかの家では、誰も喧嘩をしない。母親は帰ってこない。父親はもういない。自分も、誰かと言い争うことなんて、もう何年もしていない。
(……いいな。)
しずかは、心の中で思った。いいな、と思ってしまった。自分がやろうとしていたことを考えれば、こんなことを思う資格はない。でも、思ってしまった。
「しずかちゃん、ごめん、うるさくて」
さつきが、脱衣所の扉から顔を出した。その顔は、少しだけ赤くなっていた。本気で怒っていたわけではない証拠だった。
「……ううん」
しずかは、小さく首を振った。
(……この子は、こんなに普通なんだ。)
普通に怒って、普通に笑って、普通に謝る。自分には、それができない。
しずかは、バケツの中の体操服を、もう一度見つめた。消毒液の匂いが、鼻の奥に残っていた。
---
お風呂場はさっきと同じだった。でも、しずかの感じ方は、全然違っていた。
お湯を掛けても、温かさが沁みてこない。胃酸の匂いが鼻から離れない。さつきの体温が、まだ肌にまとわりついているような気がする。しずかは石鹸で体を何度も洗った。髪も何度も洗った。でも、落ちない気がした。
放心状態で、しずかは浴槽の縁に座っていた。湯船に浸かる気力もなかった。ただ、シャワーのお湯を自分の体にかけ続けていた。
「しずかちゃん、入ってる?」
脱衣所から、さつきの声がした。
「……うん」
「服、乾いたよ。置いとくね」
「……ありがとう」
さつきの足音が遠ざかっていく。しずかはしばらくその場を動かなかった。シャワーの音だけが、浴室に響いていた。
ようやく浴室を出ると、脱衣所の籠の上に、しずかの服が畳んで置かれていた。さつきが洗って、乾かしてくれたのだろう。いつも着ている、少し色あせた白シャツと半ズボン。見慣れた自分の服なのに、なんだか遠いもののように見えた。
「しずかちゃん、もう上がったの?」
リビングから、さつきが顔を出した。えりかも隣にいる。二人とも普通の顔をしている。さっきのことが、なかったかのように。
「……うん。じゃあ、帰るね」
「送ろうか?」
「大丈夫」
しずかは靴を履いた。手がまだ少し震えていた。でも、さっきよりはマシだった。靴は、さつきが洗って乾かしてくれたのだろう。綺麗になっていた。
「しずかちゃん」
母親が、キッチンから出てきた。手に、小さな包みを持っている。
「これ、お菓子。良かったら、持って行って」
「……そんな、悪いです」
「いいのいいの。たいしたものじゃないから」
母親は、しずかの手に包みを握らせた。
「……ありがとう、ございます」
しずかは、頭を下げた。
「パパに、会わなくていいの?」
母親が、静かに聞いた。
しずかは、一瞬、詰まった。
「……はい。今日は、さつきちゃんに会えたから」
「……そっか」
母親は、それ以上聞かなかった。でも、その目は、少しだけ曇っていた。
(……前も、こんなことがあったのかな。)
(パパに会って、傷ついたんだろうな。)
(今日は、さつきに会いに来たけど、待ってるうちに……。)
母親は、何も言わなかった。でも、しずかの手を、そっと握った。
「……また、おいで」
「……はい」
「気持ちが整理できたら、でいいから」
しずかは、顔を上げた。母親の目は、優しかった。でも、どこか、諦めているようでもあった。
「……はい」
しずかは、小さく頷いた。
「しずかちゃん!」
さつきが、後ろから追いかけてきた。
「これ、連絡先。私の携帯」
さつきは、小さなメモをしずかの手に握らせた。
「……携帯、持ってる?」
「……うん」
「じゃあ、いつでも連絡して。電話でも、メールでも」
「……うん」
「絶対だよ」
さつきは、しずかの目をまっすぐ見た。
しずかは、少しだけ笑った。
「……うん。ありがとう」
それは、今日、しずかが初めて見せた、心からの笑顔だった。
さつきも、笑った。
「またね、お姉ちゃん」
「……うん。またね」
しずかは、玄関のドアを開けた。外は、もう暗くなり始めていた。ドアが閉まる直前、しずかは、もう一度だけ振り返った。さつきが手を振っていた。母親も、その後ろに立っていた。しずかは、小さく手を振り返した。
「しずかちゃん、またね」
見送りに来たえりかが手を振った。無邪気に。何も知らずに。
「……うん」
しずかは小さく手を振り返した。それから玄関のドアを開けた。
---
外はもう夕方だった。空がオレンジ色に染まっている。しずかは一人で歩き出した。さつきの家の明かりが、背中で小さくなっていく。
「しずかちゃん、今日はどうだったッピ? 楽しかったッピ?」
タコピーが後ろからついてくる。しずかは答えない。
「しずかちゃん?」
「……最悪」
それだけ言って、しずかは歩き続けた。
でも、さっきのお風呂のことを思い出していた。さつきの手つき。温かいお湯。柔軟剤の匂い。そして、乾いた自分の服。さつきは怒らなかった。それどころか、しずかを風呂に入れて、髪を洗って、体操服を貸して、服を洗って乾かしてくれた。自分がしようとしていたことを、知らないまま。
自分が何をしようとしたのか、誰にも言えないまま。誰にも怒られないまま。ただ一人で、その重さを抱えて。
タコピーはそんなしずかの後ろを、何も分からずについて行く。
それが、一番残酷だった。
しずかはポケットの中で、まだ小さく光っているカプセルを握りしめた。もう使うことはない。でも捨てることもできない。これは、自分が何をしようとしたかの証拠だった。そして、誰にも気づかれなかった、自分の闇の証拠でもあった。
「……チャッピー」
しずかは小さく呟いた。その声は、もう誰にも届かなかった。
そして、あの小さく見えた体操服のぴったり感が、自分の体の惨めさを、はっきりと映し出していた。さつきは何も言わなかった。でも、あの一瞬の沈黙が、すべてを物語っていた。
しずかは歩きながら、少しだけ泣いた。誰にも見えないように。タコピーにも気づかれないように。乾いた自分の服の下で、自分の体が、ますます惨めに思えた。
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橋の下は、思ったより冷えた。
しずかは、持って来たランドセルを枕にして、仰向けに寝転がった。タコピーから借りたお花ピンで姿を消しているから、誰にも見つからない。雨が降っても、この橋の下なら大丈夫。
天井は、星空だった。
北海道の星空より、ずっとくすんでいる。東京の光が、星を隠している。それでも——しずかの目には、満天に見えた。満天の星空だけを天井にして。
タコピーが、しずかの横に寝転がった。
「星空、凄いッピね。」
「……そう?」
「うん。タコピーのハッピー星は、このりゅうこつ座の辺りッピ。」
タコピーが、空の一点を指さした。東京の光で、その星はよく見えない。
「……それ、前も聞いた。」
「あれ? そうッピ?」
「うん。」
しずかは、小さく息を吐いた。でも、嫌な感じではなかった。
「……大昔の旅人も、こういう光景、見てたのかな。」
「え?」
「大昔の旅人も。……こういう星空を、見てたのかなって。」
しずかは、空を見上げたまま言った。
タコピーは、しばらく考えた。
「……そうかも知れないッピね。」
しずかの声は、小さかった。でも、確かに届いた。
タコピーは、しずかの方を向いて、にっこり笑った。
「しずかちゃんも、旅人ッピね。」
「……そうかもね。」
しずかは、もう一度、そう言った。
星空は、まだくすんでいた。
でも、しずかの目には、満天だった。
さつきの言葉が、頭から離れない。
「パパが知らんぷりしてるのが悪いんだから。しずかちゃんが自分を責めることじゃない」
そう言われても、しずかは自分を責めることしかできなかった。
だって、誰も、しずかを責めてくれないから。誰も、しずかを止めてくれないから。誰も、しずかの闇に気づいてくれないから。
しずかは、ポケットからカプセルを取り出した。
銀色のそれは、まだ小さく光っている。星空の下で、その光は、とても儚く見えた。
しずかは、それをじっと見つめた。
そして——ゆっくりと、ランドセルの中に隠した。
いつか、また使うかもしれない。そう思った。
でも本当は分かっていた。これはもう使わない。使えない。これは、自分が何をしようとしたかの、重すぎる証拠だったから。
しずかは目を閉じた。
さつきの体温が、まだ肌に残っている気がした。胃酸の匂いが、まだ鼻から離れない。
でもそれ以上に、さつきの「お姉ちゃんなんだから」という言葉が、心に残っていた。
自分は、誰かの姉や妹でいられたことが、あっただろうか。
しずかは、答えの出ない問いを抱えたまま、ランドセルを抱きしめて、ゆっくりと眠りに落ちていった。
星空は、まだくすんでいた。
でも、しずかの目には、満天だった。
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(……やばい)
ベッドに入ったさつきの頭に最初に浮かんだのは、それだった。
昼間のことを順番に思い出していた。しずかが来た。宇宙人がいた。胃の中を見る道具。小さくなるしずか。飲み込む。体内。トイレ。えりかにバレて。お風呂。体操服。乾いた服。
(……やばい)
もう一度、思った。
あの時は、なんか、ノリでいけた。宇宙人を見て、まず「本物だ」と思った。しずかが「体の中に入る」と言って、その道具を見せられて、「え、すご」と思った。だって、体の中に入るんだよ? そんなの、漫画とかゲームの中だけの話で。それが目の前でできるって言われて、しかも安全だって言うから。
(だって、面白そうだったんだもん)
そう。面白そうだった。それだけ。しずかの事情とか、チャッピーがどうとか、そんなの二の次だった。ただ、非日常が目の前に転がってきたから、拾った。それだけ。
小学生のさつきにとって、「体の中に入る」は冒険だった。探検だった。ワクワクするものだった。恥ずかしいとか、気持ち悪いとか、そういう感覚は、その時はなかった。だって、実際に見てないんだもん。自分の体の中なんて。見えない場所だから、実感がなかった。
(でも……)
さつきは布団の中で、自分のお腹に手を当てた。今はもう、しずかはいない。でも昼間、確かにそこにいた。誰かが、自分の内側にいた。
(私、あれ、とんでもないことだったんじゃない?)
だんだん、実感が湧いてきた。自分の体の中に、人が入った。しかも、それをえりかに「面白いよ」とか言って勧めた。えりかは「お姉ちゃんたち、さっきトイレから出てきたでしょ」って引いてた。あの時は「バレたか」とか言って笑ってたけど。
(えりか、ドン引きしてたよな……)
さつきは布団の中で、小さく唸った。あの時は平気だった。でも夜になって、一人になって、冷静になって、いろいろ思い出すと、どんどん恥ずかしくなってくる。自分の体の中を、しずかに見られた。胃酸とか、粘液とか、全部。しかも、自分はそれをモニターで見ていた。タコピーも見ていた。
(うわ……)
さつきは布団を頭まで被った。顔が熱い。昼間はあんなに平気だったのに。えりかに「何してたの?」と聞かれて、しずかと一緒に黙り込んだ時も、まだ平気だった。でも今、一人で思い返すと、【変なことをしてしまった気がしてくる】。
(私、しずかお姉ちゃんに体の中、見せたんだ……)
しかも、しずかはそのために来た。チャッピーを探すために。でもチャッピーはいなかった。当たり前だ。うちにチャッピーなんていない。しずかは無駄なことをした。そのために、自分の体の中に入った。自分はそれを「面白い」とか言って、受け入れた。
(なんか、私、すごいことをしてる)
さつきは布団の中で、ごろごろと転がった。眠れない。昼間の光景が頭から離れない。しずかが小さくなって、体操服姿で、自分の手のひらに乗っていた。それを自分が水で流し込んだ。ごっくん、て。自分の喉を、しずかが通っていった。
(……恥ずかしい。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい)
さつきは布団を蹴った。足をばたつかせた。誰も見ていないけど、顔が赤いのが分かる。昼間の自分は、なんであんなに平気だったんだろう。非日常に興奮して、テンションが上がって、なんでも「いいよ」って言っちゃって。しずかの事情とか、ちゃんと考えないで。
(私、しずかちゃんに「お姉ちゃんなんだから」とか言っちゃった……)
あれも今思うと恥ずかしい。しずかのこと、何も知らないのに。ただなんとなく、お姉さんぽく振る舞いたくて。パパが知らんぷりしてるのが悪い、とか。そんなの、勝手に決めつけて。しずかが何を抱えてるか、知らないくせに。
(バカだ、私)
さつきは布団の中で、小さく呟いた。
「……今度会ったら、お姉ちゃんに謝ろう」
何に対して謝るのかは分からない。体の中を見せたこと? しずかに無理させたこと? それとも、あの場を「面白い」で済ませてしまったこと?
(でも、謝ったら、余計に変かも)
さつきはまたごろごろと転がった。どうしたらいいか分からない。昼間はあんなに堂々としてたのに。今は、どうしていいか分からない。これが、恥ずかしいって感覚なんだ、とさつきは思った。小学生になって、初めて味わう種類の恥ずかしさだった。
(もう、絶対、誰にも言わない)
さつきは心に決めた。えりかにバレたのはもう仕方ない。でもそれ以上は、絶対に誰にも言わない。しずかにも、タコピーにも、友達にも、先生にも、ママにも。この出来事は、自分の中だけにしまっておく。
でも、しまっておけるのかな、とも思った。だって忘れられない。自分の体の中に、確かに誰かがいた。その感覚は、今もうっすらと残っている。温かくて、柔らかくて、時々動く。それは不思議で、ちょっと面白くて、そしてものすごく、恥ずかしい。
(……しずかお姉ちゃん、どうしてるかな)
さつきはふと思った。しずかは今、何をしているんだろう。ちゃんと家に帰れただろうか。ちゃんとご飯を食べただろうか。ちゃんと眠れているだろうか。
(今度、会ったら、普通に話しかけよう)
体内探検のことは、なかったことにして。ただ遠く離れている家族として。しずかがちゃんとご飯を食べているか、確かめたいから。それが、今のさつきにできる精一杯のことだった。
(しずかお姉ちゃんの家、ゴミだらけなんだ……)
(私には、どうすることもできない)
(でも、チャッピーを探すことくらいなら)
(それくらいしか、できないけど)
さつきは布団の中で、小さくため息をついた。それから目を閉じた。昼間のことを思い出して、また顔が熱くなったけど、もう寝ることにした。
(……今度会う時は、絶対、変な顔でしずかちゃんに会わないようにしよう)
それが、さつきのその夜の最後の決意だった。
そしてさつきは、しばらくの間、布団の中で、もぞもぞと動き続けた。昼間の光景が頭から離れなかったから。自分の体の中に、しずかがいたこと。そのしずかが今、どこで何をしているのか。そして自分が、あんなに気軽に、とんでもないことを受け入れてしまったこと。
(……私、バカだ)
何度目か分からないその言葉を、心の中で繰り返しながら、さつきはようやく眠りに落ちていった。
おわり