古畑任三子   作:沈香亭沈香

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EPISODE 1「消えた同好会」

「皆さん、余計なことをして失敗した経験はありませんか。私、よくあるんです」

 

「例えばですね、例えば、テスト。ありますよね。私、あれが苦手でして」

 

「いえ、勉強はするんです。ですが、どういうわけか点数が良くない」

 

「しかしですね、こないだ珍しく、半分も解けたことがあったんです。そこで時間が余ったものですから、見直しをしました」

 

「そしたら、どうも答えが違うような気がしてきまして。直しました」

 

「……最初の方が合ってました」

 

「こういうことって、たまにやっちゃいます。もっとも、テストなら取り返しがつきますが……」

 

*

 

「しず子! それ、捨てないでっ!」

 

 中須かすみの声に、桜坂しずくは段ボール箱へ伸ばしかけていた手を止めた。抱えていたうさぎのぬいぐるみと、慌てて駆け寄ってくるかすみを交互に見る。

 

「捨てないよ。かすみさんの荷物と一緒にしておこうと思っただけ」

 

「だったら先に言ってよ! 大事なものなんだから!」

 

「はいはい。じゃあ、こっちの箱に入れておくね」

 

「もう……。あっ、ちょっと待って! その下にある本はこっち!」

 

 かすみが取り上げたのは、可愛らしい装丁の雑誌だった。表紙には人気スクールアイドルの写真が大きく載り、何枚もの付箋が挟まれている。しずくはそれを受け取ると、ほかの雑誌と重ねて丁寧に箱へ収めた。

 

 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の旧部室では、朝から続いていた片付けがようやく終わりに近づいていた。まだ一度もライブを開いていない、小さな同好会である。それでも、活動を始めてから少しずつ持ち込まれた私物は案外多い。かすみのお気に入りのぬいぐるみに、しずくの演劇関係の本、練習に使っていたトレーニング器具。机の引き出しからは使いかけのノートや筆記用具が次々と見つかり、窓際には誰が持ってきたのか分からないクッションまで置かれている。

 

「こうしてみると、けっこう色々あったんだね」

 

 エマ・ヴェルデは段ボール箱の中身を確かめながら、のんびりとした口調で言った。手には、練習の合間に使っていた小さなタオルを持っている。

 

「まだ始まったばかりだったのにね」

 

「これからだったんですよ! かすみんの可愛さを、世界中のみんなに知ってもらう予定だったのに!」

 

「うん。かすみちゃん、ずっと楽しみにしてたもんね」

 

「もちろんです! だから、こんなところで終わるわけにはいかないんです!」

 

 かすみは力強く宣言してから、雑誌の詰まった箱を持ち上げようとした。ところが、思っていたよりも重かったらしく、膝を曲げた姿勢のまましばらく頑張っても、なかなか持ち上がらない。結局、エマに半分ほど中身を取り出してもらうことになった。

 

 部室の一番奥では、近江彼方がクッションをまとめている。いつもの眠そうな顔で一つずつ重ねていたものの、途中から自分の膝の上にも一つ置き、すっかりくつろいでしまった。

 

「彼方先輩、寝ないでくださいよ!」

 

「寝てないよぉ。ちょっと座ってるだけだよ〜」

 

「さっきからずっと座ってるじゃないですか!」

 

「だって、片付けって疲れるんだもん」

 

 そう答えながらも、彼方は膝のクッションを抱えて立ち上がった。眠そうな足取りで残りの荷物を集めに行くと、机の横には、ほかの部員たちとは少し趣の違う二人の少女がいる。

 

 一人は、真っ直ぐな黒髪を腰近くまで伸ばした、華奢な少女。前髪と両頬の髪を綺麗に切り揃えた、いわゆる姫カットで、鼻筋が高く、妙にはっきりした目鼻立ちをしている。冬服のブレザーを正しく着込み、短いスカートの裾を気にする様子もなく、運び出された机の上に腰をかけて、脚を組んだまま何もせずにいる。古畑任三子(みつこ)。普通科二年生で、この同好会のマネージャーを務める少女だ。

 

 もう一人は、ボリュームのある茶髪を肩のあたりでふんわりと揺らした、愛嬌のある顔立ちの少女だった。任三子と同じ二年生の今泉真知子で、こちらは床に置かれた箱へ本を詰めながら、任三子の手元をしきりに気にしている。

 

「任三子ちゃん、それ、もう見た?」

 

「何が?」

 

「その書類。捨てちゃっていいやつ?」

 

「さあ」

 

「さあ、じゃないよ! ちゃんと確認してから入れてよ!」

 

「確認したよ。去年の備品購入申請書」

 

「じゃあ、保管する方に入れておこうよ。学校の書類なんだから」

 

「あ、そう。じゃあお願い」

 

 任三子は真知子に書類を渡すと、今度は机の引き出しを覗き込んだ。受け取った書類を所定の箱へ収めた真知子は、空になった机の上を布巾で拭き始める。幼馴染の真知子にとっては、これもいつものことだ。

 

「任三子先輩も、もうちょっと真面目にやってください!」

 

 かすみの文句に、任三子が引き出しから顔を上げた。

 

「やってるよ。朝からずっと」

 

「だったら、もっとテキパキしてください!」

 

「中須ちゃん、私、今日だけで段ボールを三箱も運んだんだよ」

 

「三箱くらい、かすみんだって運んでます!」

 

「四箱?」

 

「五箱です!」

 

「素晴らしい。じゃあ、あと一箱お願い」

 

「なんでそうなるんですか!」

 

 任三子は机の下にあった小さな箱をかすみへ押し出した。抗議の声が上がる横で、真知子は笑いながら残りの書類を片付けている。

 

 旧部室は、校舎の大廊下から枝分かれした、短い廊下の突き当たりにある。途中にもいくつか部屋はあるものの、現在はどれも使われておらず、扉には鍵が掛かっている。廊下の一番奥が同好会の部室で、外へ出るには、大廊下との境に設けられた防火扉を通るしかない。普段から人通りの少ない場所ではあるが、荷物が運び出され、部室の中まで空っぽになっていくにつれ、いよいよ寂しい感じがしてきた。

 

 もっとも、この廊下には片付けをするうえで、少々厄介な問題がある。大廊下との境にある防火扉が、開けても数秒で勝手に閉まってしまうのだ。重い箱を抱えて往復するたびに扉を開け直さなければならず、何度か行き来したところで、とうとうエマが手を止めた。

 

「これ、何かで押さえておいた方がよさそうだね」

 

 エマは中身の詰まった大きな段ボール箱を一つ運んできて、防火扉の前に置いた。少し位置を調整すると、扉は箱に当たったところで止まり、開いたままになる。扉の上部には小さな緑色のランプがついており、先ほどまで扉が動くたびに点いたり消えたりしていた光が、今度は点灯したままだ。

 

「わあ、助かります!」

 

「これなら運びやすいね。じゃあ、みんな、もう少し頑張ろう!」

 

 エマの呼びかけに応じて、全員が再び作業に取りかかった。部室の中で荷物をまとめる者と、箱を大廊下へ運ぶ者に分かれたことで、片付けはそれまでよりずっと早く進んでいく。

 

 彼方もクッションを抱えて大廊下まで往復し、戻ってくると、書類の入った箱を運ぼうとしていた任三子に声をかけた。

 

「任三子ちゃ〜ん」

 

「はい?」

 

「ごめんねぇ。せっかく彼方ちゃんが誘ったのに、こんなことになっちゃって」

 

 任三子は抱えていた箱を一度机に戻し、彼方の方を向く。

 

「何がですか?」

 

「同好会のこと。任三子ちゃん、彼方ちゃんが誘って入ってくれたでしょ? まだほとんど何もしてないのに、なくなっちゃったから」

 

「ああ。いえ、謝ることじゃないですよ。別に彼方先輩が潰したわけじゃありませんし」

 

「うん。でもねぇ、せっかくマネージャーになってもらったのになぁって」

 

 彼方がすまなそうに笑う一方、任三子は箱の中身を確かめ、何事もなかったように抱え直した。

 

「私は構いませんよ。もともと課外活動を何かやれって言われてただけですから。ちょうどよかったんです」

 

「任三子ちゃん、同好会に入ってくれたときも、そんなこと言ってたねぇ」

 

「ええ。マネージャーなら、それほど仕事もないだろうと思いまして」

 

「実際はけっこうあったけどね〜」

 

「そうなんですよ。おかしいなぁ」

 

 二人のやり取りを聞いていた真知子が、書類を入れた箱を抱えながら笑う。

 

「でも、新しい同好会として作り直すんでしょ? かすみちゃん、ずっとそう言ってるじゃない」

 

「そうです! 今度こそ、ちゃんとしたスクールアイドル同好会を作るんです!」

 

 かすみはさらに、意地悪生徒会長をギャフンと言わせてやる、と付け足した。

 

「だったら、任三子ちゃんもまたマネージャーになればいいじゃない。ね?」

 

「そうですね」

 

 任三子は曖昧に頷いて廊下へ向かいかけたが、かすみに呼び止められた。

 

「ちょっと待ってください! また、ってことは、真知子先輩も入るんですよね?」

 

「え? 私?」

 

「はい! 今だってこうして手伝ってくれてますし、次も一緒に……」

 

「中須ちゃん、今泉は部員じゃないよ」

 

 あまりにあっさりした指摘に、かすみは口を開けたまま固まった。

 

「……あっ。そういえば、そうでした!」

 

「ええっ!? かすみちゃんまで!? 私、そんなに自然に混ざってた?」

 

「いや、だって、いっつも部室にいるじゃないですか!」

 

「それはそうだけど!」

 

「真知子ちゃん、もうすっかり同好会の仲間だもんね」

 

 エマの言葉に真知子が頷いたところへ、任三子が余計な口を挟んだ。

 

「君ね、入部届も出してないのに、よくこんなに居座れるね」

 

「任三子ちゃんがいるから、心配なの。それに、片付けだってちゃんと手伝ってるじゃない!」

 

「うん。助かってるよ」

 

「だったら最初からそう言ってよぅ」

 

 真知子が頬を膨らませると、彼方が楽しそうに笑った。かすみもつられて笑いかけたが、すぐに思い直したように両手を握り締める。

 

「とにかく! 新しい同好会になっても、みんな一緒ですからね! 今度は絶対、可愛いライブをやるんです!」

 

「うん。そうだね」

 

 エマが頷く一方、しずくは返事をせず、片付けを終えた本棚の前で演劇の台本を眺めていた。もともと演劇部にも所属するしずくにとって、スクールアイドルの活動を続けるかどうかは、簡単に決められることではない。

 

「……しず子?」

 

 かすみに呼ばれ、しずくは顔を上げる。

 

「あ、ごめんね。ちょっと考え事をしてたの」

 

「考え事?」

 

「うん。私、演劇部の方もあるから……。この機会に、演劇の活動をもう少し増やしてみてもいいのかなって」

 

「えっ」

 

「もちろん、スクールアイドルが嫌になったわけじゃないよ。ただ、どっちも中途半端になっちゃうのは、よくないと思うから」

 

 しずくは台本を胸元に寄せ、少し困ったように微笑んだ。かすみは何か言いかけたが、すぐには言葉が出てこない。しずくが演劇を大切にしていることはよく知っているし、無理に引き留めるのも違う気がする。それでも、せっかく一緒に始めた同好会を、このまま終わらせたくはなかった。

 

「だから、届出を出すのは木曜日にしたんだよね」

 

 エマが二人の間に入るように言った。

 

「今日みんなで相談して、予定を変えたでしょ? 今日中に全部決めるのは無理だと思うし、しずくちゃんにも、もう少し考える時間があった方がいいかなって」

 

「そうですよね。私も、まだ迷ってますから」

 

「うん。木曜日までに決めればいいんだよ。慌てなくても大丈夫」

 

 エマの言葉に、しずくの表情が和らいだ。

 

「ありがとうございます。演劇部の部長にも、申請が木曜日に変わったことはお話ししておきました」

 

「そうなんだ。部長さん、何か言ってた?」

 

「いえ、特には。ただ、私のことを気にかけてくださっているので、ちゃんと考えてからお返事しようと思います」

 

「そっか。うん、それがいいと思うよ」

 

 エマはそれ以上尋ねず、かすみもしばらく考え込んでから、しずくへ向き直った。

 

「……分かった。でも、かすみんは待ってるからね。しず子と一緒にライブするの、諦めてないんだから!」

 

「……うん。ありがとう、かすみさん」

 

「ふんっ。かすみんが可愛すぎるからって、後で後悔しても知らないんだからね!」

 

「ふふっ。じゃあ、後悔しないように、よく考えておくね」

 

 かすみもようやく表情を緩め、しずくと一緒に残った本を箱へ詰め始めた。エマは荷物の数を確かめようと廊下へ出ていく。そのとき、大廊下の方から教員の声が飛んできた。

 

「ちょっと、あなたたち」

 

 声の主は、腕に何枚かの書類を抱えた教師だった。少し早足で防火扉までやってくると、扉の下に置かれた大きな段ボール箱を見つけ、眉をひそめる。

 

「これ、誰が置いたんですか?」

 

「あっ、すみません。私です」

 

 エマがすぐに名乗り出ると、教師は扉を指差した。

 

「防火扉をこんなふうに開けっ放しにしてはいけません。危ないでしょう」

 

「ごめんなさい。荷物を運ぶのに、何度も閉まっちゃうから……」

 

「事情は分かりますけど、そういうための扉じゃありませんからね。すぐにどけてください」

 

「はい。すみませんでした」

 

 エマと真知子が二人がかりで箱を動かすと、防火扉はゆっくり元の位置へ戻っていった。数秒後、がちゃんと音を立てて閉まり、上部に点いていた緑色のランプも消える。教師はそれを確認して、ようやく表情を和らげた。

 

「もう片付けは終わりそうですか?」

 

「はい、あと少しです」

 

「じゃあ、終わるまで私もここにいます。最後に鍵を確認しなければなりませんし、荷物を運ぶときは、その都度ちゃんと扉を開けてください」

 

「はーい」

 

 エマが返事をすると、教師は大廊下に置かれた荷物を一通り見回し、邪魔にならないよう壁際へ寄せ始めた。その後ろ姿を見送りながら、真知子が首を傾げる。

 

「でも、先生、よく分かりましたね。ここ、廊下の奥なのに」

 

「遠くからでも分かりますからね。とにかく、もう開けっ放しにしないように」

 

 教師はそう答えて、箱の置き場所を確かめる作業へ戻った。

 

「へえ〜、警備室で分かったりするんだ」

 

「さっすが私立の虹ヶ咲!」

 

 かすみが感心したように言うと、しずくも防火扉を見上げた。

 

「設備が立派なんですね。私、全然知りませんでした」

 

「かすみんもです! というか、こんなところまでハイテクにする必要あるんですかね?」

 

「火事のときには大事なんじゃないかな」

 

 エマが答えると、かすみは「あ、そっか」と納得した。防火扉の前では、真知子が箱を抱えて通ろうとしており、扉が閉まらないように任三子が片手で押さえている。

 

「今泉、早く」

 

「ちょっと待って、これ重いんだから!」

 

「閉まっちゃうよ」

 

「だったら、ちゃんと押さえててよ!」

 

「押さえてるじゃない」

 

「もうちょっと大きく開けて!」

 

 真知子がどうにか通り抜けると、任三子は扉から手を離した。ところが、続いて通ろうとした彼方の姿を見つけ、慌ててもう一度押し開ける。

 

「あ、彼方先輩。どうぞ」

 

「ありがと〜、任三子ちゃん」

 

「いえいえ」

 

「任三子ちゃん、彼方ちゃんには優しいよねぇ」

 

 彼方が嬉しそうに笑うと、任三子は「そうですか?」と首を傾げた。その横から真知子が呆れた顔を覗かせる。

 

「私にも優しくしてよね!」

 

「君にもしてるよ。さっきも押さえてたでしょ」

 

「そういうことじゃなくて!」

 

 やり取りを聞いていたかすみは、また始まったという顔でため息をついた。もっとも、任三子はその後もきちんと荷物を運び、彼方やしずくが通るときには扉を押さえてやっている。真知子だけが何かと文句を言っていたものの、片付けそのものは順調に進んだ。

 

 午後四時を数分回る頃には、最後の段ボール箱も部室から運び出されていた。机の上には何も残っておらず、本棚もすっかり空になっている。窓際にあったクッションや練習器具も片付けられ、さっきまであれほど騒がしかった部室が、見違えるほど広く感じられる。教師が室内を一通り確認して施錠すると、かすみたちは荷物の置かれた大廊下へ向かい始めた。

 

「それじゃあ、行こっか」

 

 エマに促され、彼方としずくが先に防火扉を通った。真知子も残りの荷物を抱えて後に続き、任三子は教師と一緒に室内を見回してから廊下へ出てくる。

 

「あっ、ちょっと待ってください!」

 

 最後に出ようとしていたかすみが、ふと思い出したようにスマートフォンを取り出した。

 

「どうしたの、かすみちゃん?」

 

「せっかくだから、写真撮っておこうと思って! ここ、もう使えなくなっちゃうんですよね」

 

 かすみは旧部室の前から少し離れ、スマートフォンを構えた。画面の中には、閉じられた部室の扉と、その両脇に続く何も書かれていない壁が収まっている。大した飾りもない、少し古びた廊下だが、かすみにとっては初めてスクールアイドルとして活動を始めた場所でもあった。

 

「かすみん、今度はもっと可愛い部室にしてみせますからね!」

 

 小さくそう言って、かすみはシャッターを切った。スマートフォンの時計は、午後四時二分を示している。

 

「かすみちゃーん、置いてっちゃうよ〜」

 

 防火扉の向こうから彼方が呼んでいた。

 

「はーい! 今行きまーす!」

 

 かすみはスマートフォンをしまい、最後にもう一度だけ部室を振り返った。それから小走りに防火扉へ向かい、扉を押さえて待っていた教師に礼を言って、大廊下へ出る。教師が最後に廊下を確認して扉から手を離すと、数秒後には自動的に閉まり、短い枝廊下から人の姿が消えた。

 

「さあ、みんな。荷物を忘れないようにね」

 

 エマの声に促され、一同はそれぞれの箱を持ち直した。かすみは自分のぬいぐるみがちゃんと入っていることを確かめ、しずくは演劇の台本を抱え直す。彼方は隣を歩く任三子に何やら楽しそうに話しかけており、少し後ろでは真知子が二人に向かって早く行こうと手を振っていた。こうして、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の最初の部室は、ひとまずその役目を終えた。

 

 その、彼女たちが大廊下を歩き去るのを、少し離れた曲がり角の陰から見ている人影があった。女の目は、荷物を抱えて友人たちと話している桜坂しずくを追っている。しずくは何か言われて笑い、隣を歩くかすみに返事をしていた。あの子には才能がある。舞台に立たせれば、まだまだ伸びるはずなのだ。それをスクールアイドルなどというものに費やしてしまうのは、あまりにも惜しい。

 

 せっかく同好会が廃部になったのだから、今なら、しずくも演劇に専念することを考えてくれるかもしれない。もっとも、昼に聞いた話では、彼女たちは木曜日に新しい同好会の結成を申請するつもりらしい。それまでに、もう少し考えてもらう必要がありそうだった。

 

「……考えるチャンスをやろう」

 

 女は小さく呟き、しずくたちが廊下の向こうへ消えるまで、その場を動かなかった。先ほどまで彼女たちと一緒にいた教師も、荷物の運搬を見届けると別の方へ歩いていく。やがて話し声がすっかり聞こえなくなったところで、女は曲がり角から顔を出し、大廊下の左右を見渡した。近くに人影はない。

 

 念のため、もう少し待つことにした。すると、廊下の途中にある女子トイレから生徒が一人出てきて、女の前を通り過ぎていった。顔を合わせたので軽く会釈を返し、その生徒が階段の方へ姿を消すと、今度は自分がトイレへ向かう。中を覗くと洗面台の前には誰もおらず、奥の個室もすべて扉が開いていた。女は一つずつ確かめてから、一番奥の個室に入った。

 

 制服の内側に手を入れ、一本の太いインクペンを取り出す。演劇部の部室から持ってきた、業務用の備品である。舞台で使う看板や小道具に文字を書くためのもので、普通の文具店ではなかなか手に入らない。キャップを外してみると、幅の広いペン先には長年の使用による傷がついていた。随分使い込んだものだが、まだ十分に書けるはずだった。

 

 女はトイレットペーパーを少し引き出し、その端に短い線を引いてみた。独特な、ピンクがかった赤色のインクが紙に染み込んでいく。もう一本線を引くと、今度は途中がわずかにかすれたものの、色の出方には問題がない。女はペン先を確かめ、試し書きに使った紙を便器に流した。それからキャップを閉め、トイレの外に誰もいないことを確認して廊下へ戻る。

 

 大廊下には相変わらず人の姿がなかった。女は旧部室へ続く防火扉の前まで歩き、取っ手に手をかける。少し力を入れて押すと、重い扉が開き、上部の小さなランプが緑色に点灯した。彼女が通り抜けて手を離すと、扉はゆっくりと元の位置へ戻っていく。数秒後、背後でがちゃんと音がして、緑色の光も消えた。

 

 旧部室へ続く短い廊下には、もう誰もいない。途中の部屋はすべて施錠されており、突き当たりにあるスクールアイドル同好会の部室も、先ほど片付けを終えたばかりだ。女はその扉の前まで進み、左右の壁を見比べた。どちらも何の飾りもない、明るい色の壁である。大きな文字を書くには申し分なかった。

 

 女は再びインクペンを取り出し、キャップを外した。壁の前に立ち、手を伸ばしてペン先を押し当てる。太い線が一本、白っぽい壁面に引かれる。最初に書いたのは、あらかじめ考えておいた一行だった。

 

『モクヨウビ ケッセイ トリサゲロ』

 

 大きなカタカナを、横一列に書いていく。使い込まれたペン先はところどころで引っかかり、線の端がわずかにかすれた。女は一度ペンを離して文字を確認し、その下へ二行目を書き加えた。

 

『スクールアイドルドウコウカイ テンチュウクダル』

 

 最後の一文字を書き終えると、女は腕を下ろし、二、三歩後ろへ下がった。ピンクがかった赤色の文字は思った以上に目立ち、何もなかった廊下の壁が、見るからに物騒なものへ変わっている。二行目は特に大仰な文句だが、その方が嫌がらせとしては効果があるだろう。女は少し首を傾げて全体のバランスを確かめ、満足そうに頷いた。

 

 もっとも、近くで見ると文字のところどころに線の乱れがある。ペン先が傷んでいるせいで、払いの部分が少し欠けてしまったらしい。新しいものを発注しなくては、と女は思った。次に舞台の看板を作るときまでに、もう一本用意しておいた方がよさそうだ。

 

 女はキャップを閉め、ペンを懐へしまった。壁をもう一度見て、インクが下へ垂れていないことを確かめる。これなら上出来だろう。木曜日までまだ時間はあるが、こんなものを見せられれば、少なくともしずくは新しい同好会へ入ることをためらうはずだ。演劇部に専念するという選択肢を、もう少し真剣に考えてもらえればそれでよかった。

 

 さて、長居は無用である。女は防火扉へ向かって小走りになった。人の出入りがほとんどない場所とはいえ、いつ誰が来るか分からない。早く大廊下へ戻ってしまえば、あとは何食わぬ顔で帰るだけだ。ところが、扉の前まで来たところで、女は足を止めた。

 

 取っ手に伸ばしかけた手を引っ込め、少し考え込む。それから、もう一度背後の廊下を振り返った。壁には先ほど書いたばかりの二行の文字が、はっきりと残っている。女はしばらくその場に立っていたが、やがて懐からスマートフォンを取り出した。画面を操作して校内の連絡先を呼び出し、耳に当てる。何度か呼び出し音が鳴ったあと、相手が電話に出た。

 

「ああ、すみません。今、よろしいですか?」

 

 女はいつもと変わらない口調でそう切り出し、廊下の奥へ目を向けた。

 

「部室棟の廊下に、少し不味いことが……」

 

*

 

 旧部室へ続く廊下の入口には、何人もの生徒が集まっていた。例外的に開け放しにされた防火扉の向こうを覗こうと背伸びする者、友人同士で何かを囁き合う者、スマートフォンを取り出して教師に注意される者までいる。廊下の壁に妙な落書きが見つかったという噂は、短い間に近くの教室へ広まったらしい。教師が何度も通路を空けるよう呼びかけているが、集まってくる生徒の方が多く、五時を過ぎた頃から集まり始めた野次馬騒ぎはなかなか収まらなかった。人垣の隙間から見える壁には、大きな赤い文字が二行にわたって書かれている。

 

『モクヨウビ ケッセイ トリサゲロ』

 

『スクールアイドルドウコウカイ テンチュウクダル』

 

 ピンクがかった奇妙な赤色のインクは、白っぽい壁の上でひどく目立った。何とも大仰な文面だが、悪戯として笑い飛ばすには、対象があまりにはっきりしている。口元を押さえて驚く生徒もいれば、何か面白い事件でも起きたように、興奮した顔で友人に話しかける生徒もいた。しかし、最も深刻に受け止めているのは、当然ながら急いで駆けつけたスクールアイドル同好会の面々である。

 

「なんてこと……。ひどいよ、こんなの」

 

 エマは口元に手を当てたまま、壁の文字を見つめていた。隣の彼方は何も言わず、任三子のブレザーの裾をそっと掴んでいる。普段なら眠そうに笑っている彼女も、今はさすがに表情が硬い。任三子はというと、引っ張られた裾を一度見下ろしたあと、壁に目を戻していた。

 

「どうして……」

 

 かすみは俯き、両手をぎゅっと握り締めた。目には涙が浮かんでいる。

 

「せっかく、歩夢先輩と侑先輩が入ってくれるところだったのに……。これじゃあ、まるで……」

 

「かすみさん……」

 

 しずくが隣からそっと肩に手を添える。かすみは首を振り、もう一度壁を見上げようとしたが、途中で顔を伏せてしまった。

 

 その少し後ろでは、上原歩夢と高咲侑が、二人揃って呆気にとられていた。二人はほんの少し前まで、新しい同好会でどんなことができるだろうかと話していたのである。目の前の光景が、その明るい話題とあまりにもかけ離れていて、すぐには言葉が出てこない。

 

「……ひどいね」

 

 ようやく歩夢が呟くと、侑も頷いた。

 

「うん。こんなことする人がいるなんて……」

 

「だあれ、こんなことしたの!」

 

 今泉真知子だけは、驚きよりも怒りが先に立ったらしい。普段のふんわりした雰囲気はどこへやら、腰に両手を当てて壁を睨んでいる。

 

「まったく、もう! 人が一生懸命やろうとしてることに、何でこんな水を差すのかなぁ! しかも天誅って何、天誅って!」

 

「今泉、声が大きい」

 

「大きくもなるでしょ! 任三子ちゃんは腹が立たないの?」

 

「腹は立つより減ってる」

 

 腹をさする任三子に、真知子は何か言い返しかけたものの、周囲の騒ぎに気を取られ、それ以上追及できなかった。そのとき、しずくが人垣の向こうに一人の女子生徒を見つけた。

 

「あっ、部長……」

 

 声をかけられた女が振り返る。三年生らしい落ち着いた物腰で、傍らに立つ教師と何か話していたところだった。彼女はしずくを見ると軽く頷き、集まっている少女たちの方へ歩いてきた。

 

「しずく、君も来たのか」

 

「はい。あの、部長、これは……」

 

「私が見つけたんだ。さっき、ここを通りかかったら、こんなものが書かれていてね。すぐに先生を呼んだんだが……まさかこんな、酷いな」

 

 女は困ったように壁へ目を向けた。しずくは何か言いかけて口を閉じ、申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「わざわざ知らせてくださって、ありがとうございます」

 

「いや、当然のことをしただけだよ。それより、しずく。大丈夫かい?」

 

「私は……大丈夫です。でも、みんなが……」

 

 しずくがかすみの方を振り返ると、女もそちらに目を向けた。その視線が、かすみの隣に立つ黒髪の少女に留まる。

 

「君は?」

 

「古畑と申します」

 

 任三子は小さく会釈した。

 

「失礼、同好会のマネージャーをしています。いえ、していました、が正確ですね」

 

「ああ、そうなのか。私は三年の中森。演劇部で部長をやらせてもらってる」

 

「中森先輩、どうも」

 

 任三子がもう一度頭を下げると、中森は軽く頷いた。しずくが普段から話しているせいか、彼女は同好会の事情をある程度知っているらしい。廃部になったばかりであることも、再結成を考えていることも承知していた。

 

「それにしても、悪質だな。先生にも話したが、私が来た時はもちろん、五時少し前頃に先生が来たときにも、もう誰もいなかったんだ。壁の文字も、まだ乾いてない、書かれてすぐだと思ったんだが……」

 

「なるほど」

 

 任三子は短く相槌を打った。中森は教師へ伝えた発見時の状況や学校側の対応について話を続けたが、任三子の目は壁の文字に向いたままだった。彼方がブレザーの裾を少し引いた。

 

「任三子ちゃん……」

 

「あ、はい」

 

「大丈夫?」

 

「ええ。彼方先輩こそ」

 

「彼方ちゃんは大丈夫だよ。でも、かすみちゃんがねぇ……」

 

 二人が振り返ると、しずくに慰められていたかすみが、ようやく顔を上げたところだった。涙を拭い、もう一度壁の文字を見つめている。「ちょっといいかな」と、エマが静かに声をかけた。

 

「こんなことがあったばかりだし、新しい同好会の届出は、もう少し延期した方がいいかもしれないね。先生たちも調べてると思うし、今は無理に進めない方が……」

 

「嫌です!」

 

 かすみは即座に答えた。

 

「こんな嫌がらせに屈するわけにはいきません! かすみんたち、何にも悪いことしてないじゃないですか!」

 

「うん。もちろん、そうだよ。ただ、みんなのことが心配で……」

 

「分かってます。でも、こんなことされたからって、諦めるなんて絶対に嫌です!」

 

 かすみは目元を拭うと、エマを真っ直ぐ見据えた。

 

「歩夢先輩も侑先輩も、せっかく一緒にやろうって言ってくれたんです。かすみん、絶対に同好会を作り直します!」

 

「かすみちゃん……」

 

 歩夢は一瞬驚いたものの、すぐに微笑んだ。隣の侑も大きく頷く。

 

「うん。私も、こんなことでやめたくないよ」

 

「私も! かすみちゃん、一緒に頑張ろう!」

 

「歩夢先輩、侑先輩……!」

 

 かすみが顔を輝かせると、エマも二人の言葉に頷いた。

 

「そっか。そうだね。じゃあ、みんなで頑張らなくちゃ」

 

「そうそう。それがいい」

 

 不意に任三子が口を挟んだ。少し楽しそうな顔で、かすみたちを見ている。

 

「……任三子先輩も、そう思います?」

 

「もちろん」

 

「ですよね!」

 

 かすみが嬉しそうに頷くと、任三子も笑った。ただ、彼女の視線はすぐに壁の方へ移り、さらにその傍らに立つ中森へと向けられる。中森が気づいて顔を上げると、任三子はにこやかに声をかけた。

 

「あの、中森先輩。ちょっとよろしいですか?」

 

「何だい?」

 

「これを、最初に見つけたのは中森先輩でしたよね」

 

「ああ。さっきも言ったとおりだよ」

 

「ええ、そうでした」

 

 任三子は軽く詫び、そのまま別の質問を続けた。

 

「ところで、どうしてこちらへいらしたんですか?」

 

「どうして?」

 

「ええ。この廊下、行き止まりでしょう。ほかの部屋も閉まってますし、用事がなければ、あまり来るところじゃありませんから」

 

「ああ、そういうことか」

 

 中森は質問の意味を理解したらしい。

 

「大廊下を歩いていたら、誰かがここから出てくるのを見たんだ。こんな時間に妙だと思って、少し気になってね。それで覗いてみたら、これがあった」

 

「ほう。誰かが出てきた?」

 

「ああ」

 

「それは、それは。どんな方だったか、覚えていらっしゃいます?」

 

「そうだな……」

 

 中森はすぐには答えなかった。

 

「金髪の、背が低い子だった気がするな。顔まではよく見ていない。すれ違っただけだから」

 

「金髪で、背の低い女の子」

 

「そう。もっとも、うちの学校には色々な生徒がいるからね。それだけでは誰だか分からないだろう」

 

「ええ。おっしゃるとおりです」

 

 任三子はしばらく壁を眺め、それから思い出したように中森へ向き直った。

 

「その子は、どちらへ?」

 

「大廊下の方へ行ったよ。そのあとどうしたかまでは見ていない」

 

「なるほど。ありがとうございます」

 

 礼を言われた中森は、少し拍子抜けしたような顔をした。任三子はそれきり質問をやめたかと思うと、今度は防火扉の方を見ている。

 

「任三子ちゃん」

 

 彼方がそっと声をかけ、またブレザーの裾を引いた。

 

「ん?」

 

「あのねぇ、任三子ちゃんが怒ってくれるのは嬉しいけど……彼方ちゃんたち、犯人探しをしたいわけじゃないから……」

 

「ああ、はい」

 

「先生たちもいるし、あんまり色々聞いちゃうと、部長さんも困っちゃうよ」

 

「そうですね。分かりました」

 

 任三子はすんなり頷いた。彼方はようやく掴んでいた裾を離した。

 

「でも、変ですよね」

 

「……任三子ちゃん?」

 

「いえ、これを書いた人のことなんですけど」

 

 任三子は壁の一行目を指差した。

 

「『モクヨウビ』。これ、今朝決まったばかりなんです。もともとは別の日に申請する予定だったんですけど、話し合いで木曜日に変更したんです」

 

「うん、そうだね」

 

 エマが頷くと、任三子は嬉しそうに続けた。

 

「ということはですね、書いた人はその変更を知っていたということになります。少なくとも、木曜日に申請することを知る機会があった人です。全然関係ない人が、たまたま木曜日と書いたとは考えにくい」

 

「……確かに」

 

 侑が壁を見上げた。

 

「そういえば、木曜日って決めたの、今日だったよね」

 

「そうです! じゃあ、誰かがかすみんたちの話を聞いてたってことですか!?」

 

「それは分かりません。誰かから聞いたのかもしれないし」

 

 任三子は中森へ目を向けた。

 

「あ、中森先輩はご存じでした? 木曜日の件」

 

「ああ。しずくから聞いていたよ」

 

「そうですか。桜坂ちゃんから」

 

「はい」

 

 しずくが答えた。

 

「お昼頃、部長にもお話ししました。演劇部の活動についても考えたかったので、予定が変わったことをお伝えしたんです」

 

「なるほど、なるほど」

 

 中森は腕を組んだまま任三子を見ていた。

 

「それが何か?」

 

「あ、いえ。ちょっと気になりまして」

 

 任三子はそう答えてから、別のことを尋ねた。

 

「そういえば中森先輩、さっき、まだ乾いていないとおっしゃいました」

 

「ああ。それが?」

 

「いえ、よくお分かりになりましたね。触ってみたんですか?」

 

「……触る?」

 

「ええ。インクが乾いてるかどうかって、触れば分かるじゃないですか。指に付けば、まだ乾いてないってことですから」

 

「いや、そんなことはしていないよ。見て分からないか?」

 

「んー、どうでしょう」

 

 任三子は壁へ近づき、文字を少し離れたところから眺めた。

 

「インクが垂れてるわけでもありませんし、滲んでるようにも見えないんですよね。私にはどうも、乾いてるのか、乾いてないのか……」

 

「見た感じで分かるだろう。書かれて間もないと思ったんだ」

 

「ああ、なるほど。そういうことでしたか」

 

 任三子はひとまず納得したようだったが、すぐに横を向き、近くで見物していた女子生徒に声をかけた。

 

「あの、すみません。ちょっといいですか?」

 

「えっ、私?」

 

「はい。これ、乾いてるかどうか分かります?」

 

「ええ……?」

 

 突然質問された女子生徒は、困惑しながら壁を見た。

 

「いや、分かんないですけど……」

 

「そうですよね。ありがとうございます」

 

 任三子は礼を言い、隣の生徒にも尋ねた。

 

「あなたは?」

 

「えっ?」

 

「乾いてると思います?」

 

「さあ……。触っちゃ駄目ですよね?」

 

「ええ。触らない方がいいでしょうね」

 

 それから、さらにもう一人。任三子は相手を変えて同じ質問を繰り返し始めた。呼び止められた生徒たちは戸惑い、誰も乾いているかどうか分からないと答えた。最後には、たまたま近くを通りかかった生徒まで呼び止めようとして、彼方にブレザーを引っ張られた。

 

「任三子ちゃん、もうそのくらいにしようよぉ」

 

「あ、はい。そうですね」

 

 任三子は素直に引き下がり、中森の方へ戻ってきた。何を確かめたかったのか、周囲の生徒たちにはさっぱり分からず、真知子は額を押さえていた。

 

「もう、任三子ちゃん。知らない人にまでそんなこと聞かないの!」

 

「でも今泉、みんな分からないって」

 

「だから何!」

 

「いや、別に」

 

「別にって!」

 

 そんな二人のやり取りを聞きながら、中森は腕を組み直した。先ほどまでの落ち着いた態度は変わらないが、任三子を見る目が少し厳しくなっている。

 

「古畑さん、といったね」

 

「あ、はい」

 

「君は、私を疑っているのか?」

 

 その言葉に、しずくがはっと顔を上げた。任三子は目を丸くし、慌てて両手を振った。

 

「あっ、いえいえいえ、とんでもない! そんな、滅相もありません」

 

「そうかい?」

 

「ええ、もちろんです。私、そんなつもりは全く」

 

「でも、随分と私の話を気にしているようだからね」

 

「いやぁ、申し訳ありません。どうも気になることがあると、つい聞いてしまいまして」

 

 任三子が愛想よく笑っても、中森の表情は変わらなかった。

 

「任三子先輩」

 

 しずくが二人の間へ進み出た。

 

「さっきから何なんですか? 部長が犯人みたいな聞き方をして」

 

「えっ、そう聞こえた?」

 

「聞こえました。部長はわざわざ先生を呼んで、私たちにも知らせてくださったんですよ。それなのに、そんなふうに疑うなんて失礼です」

 

「ああ、いや。ごめん、ごめん。別に疑ってるわけじゃ……」

 

「本当ですか?」

 

「もちろん」

 

 しずくはなおも不満げだったが、それ以上は言わなかった。中森も一度しずくを見てから、任三子に向き直る。

 

「まあ、いい。だが、君の言い分を聞いていると、少しおかしい気がするね」

 

「はい?」

 

「木曜日に申請することを知っていた者が怪しいというんだろう?」

 

「ええ。そうですね」

 

「だったら、疑うとしたら、君たち自身が先じゃないか?」

 

 中森はやや不機嫌そうに言った。

 

「今日その話を決めたのは君たちなんだから、一番詳しく知っていたのも君たちだろう。もし私がそれを知っていたから怪しいというなら、君たちだって同じことじゃないか」

 

「……ああ!」

 

 任三子は手を打った。

 

「なるほど、おっしゃるとおりです」

 

「そうだろう?」

 

 あまりにも素直な返答に、中森はかえって言葉を失った。

 

「……分かってくれたならいいんだが」

 

「ええ。大変参考になりました」

 

「任三子ちゃん……」

 

 彼方が任三子の袖をもう一度引いた。

 

「ほら、もういいでしょ?」

 

「あ、はい。もう結構です。ありがとうございました」

 

 任三子が丁寧に頭を下げても、中森は話が終わった気になれず、しばらくその姿を見ていた。

 

 その頃には、集まっていた生徒たちの声もいっそう大きくなっていた。壁の文字を見ようとする生徒が防火扉の近くまで押し寄せ、通路を塞いでしまっている。教師たちは相談を終えると、そのうちの一人が手を叩いて注意を促した。

 

「はい、皆さん! もう十分見たでしょう。ここは通路ですから、いつまでも集まっていないでください!」

 

 生徒たちから不満そうな声が上がったが、教師は構わず続ける。

 

「写真も撮らない! この件については学校で対応します。関係のない人は教室へ戻るか、下校してください。ほら、解散、解散!」

 

 何人かは名残惜しそうに壁を振り返っていたものの、教師に促されるうちに人垣は少しずつ崩れていった。現場を確認していた教師も、壁の文字を記録したあと、関係する生徒たちに改めて話を聞くことになると告げた。

 

「今日はもう帰りなさい。明日以降、必要があればこちらから声をかけますから」

 

 かすみはまだ何か言いたそうだったが、エマに肩を抱かれて頷いた。歩夢と侑も、これからどうするかは明日また相談しようと話し、ひとまず帰ることになる。しずくは中森に改めて礼を述べ、帰り道を気遣った。中森は彼女を穏やかに見送った。任三子も皆と一緒に帰ろうとしたが、途中で何かを思い出したように真知子を振り返る。

 

「あ、今泉」

 

「なあに?」

 

「一応、写真撮っといて」

 

「写真?」

 

「壁のあれ」

 

 任三子は背後の怪文書を指差した。

 

「ええ? さっき先生が撮るなって言ってたじゃない」

 

「そうだね」

 

 真知子は呆れながらも、近くの教師に事情を尋ねにいった。教師は最初こそ渋い顔をしたが、被害を受けた同好会の関係者が記録として残したいのだと説明すると、周囲に見せびらかしたり、勝手に公開したりしないことを条件に許可してくれた。

 

 真知子は文句を言いながらスマートフォンを取り出し、壁に書かれた二行の文字を画面に収めた。任三子はその横から写真を覗き込み、文字が全部入っていることを確かめる。

 

「うん、いいね」

 

「はいはい。じゃあ帰ろうよ。みんな待ってるよ」

 

 真知子がスマートフォンをしまうと、任三子もようやく防火扉へ向かった。少し先では、彼方がかすみたちと一緒に待っている。任三子が姿を見せると、彼方は小さく手を振った。

 

「任三子ちゃ〜ん、終わった?」

 

「はい。お待たせしました」

 

「ん〜。じゃあ、帰ろっか」

 

 彼方はそう言って任三子の隣へ並んだ。かすみは最後にもう一度だけ壁を振り返ったものの、今度は何も言わず、歩夢や侑と一緒に歩き始める。エマとしずくもそれに続き、一行は教師たちに挨拶して、五時も回った頃、その場を後にした。

 

*

 

 翌日の放課後、古畑任三子は演劇部の部室を訪れていた。部室といっても、そこは教室を一つ借りた程度のものではない。小さなホールに近い広さがあり、正面には舞台として使える一段高い床が設けられている。壁の一面には大きな鏡が並び、反対側には衣装や小道具を収めた棚がずらりと続いていた。これだけでも相当な設備だが、演劇部はほかにも練習室や衣装部屋など、いくつかの専用室を持っているらしい。

 

 その一角で、任三子は折り畳み椅子に腰掛けていた。背もたれにゆったりと体を預け、脚を軽く組んで、練習中の部員たちを眺めている。長い黒髪を姫カットにした独特な顔立ちに、季節に関係なく着込んでいる冬服のブレザー。かなり短いスカートから伸びる脚は、華奢な体つきの割に太腿のあたりがふっくらしており、近くにいた女子部員たちは時折ちらちらと彼女に目を向けていた。

 

 もっとも、当の任三子はまるで気にしていない。見学者らしい遠慮もなく、時には大きく足を組み直しながら、目の前で行われている発声練習を見物していた。

 

「随分とくつろいでいるようだね」

 

 声をかけたのは、演劇部部長の中森だった。手にしていた台本を脇へ抱え直し、任三子の前に立つ。任三子は彼女に気づくと、すぐに椅子から立ち上がった。

 

「ああ、中森先輩。どうも、昨日はお世話になりました」

 

「いや。私は何もしていないよ」

 

「それにしても、素晴らしいですね。これだけの設備があるとは思いませんでした。さすが演劇部です」

 

 任三子が部屋を見回す先では、鏡を使った練習や二人組の台詞合わせが続いている。中森は自慢げだった。

 

「まあ、それなりに歴史のある部だからね。ぽっと出の部活とは違うから。いや、君のところは同好会だったか」

 

「"旧"同好会です」

 

 任三子は顔色一つ変えずに頷いた。中森の言い方には少々嫌味が含まれていたが、それを気にした様子はまるでない。

 

 一方、すぐ近くで二人の会話を聞いていたしずくは、わずかに眉を寄せた。部長が演劇部に誇りを持っていることはよく知っているし、その活動の充実ぶりも事実である。しかし、だからといって同好会を軽んじるような言い方をされるのは、あまり気持ちのよいものではなかった。

 

「部長……」

 

「ん?」

 

「いえ……」

 

 しずくは小さく首を振った。中森は彼女を一瞥したあと、再び任三子へ向き直る。

 

「それより古畑さん。君も、同好会の雑用係にかまけている暇はないんじゃないか?」

 

「と、おっしゃいますと?」

 

「成績不良者らしいじゃないか。しずくに聞いたよ。勉強の方は大丈夫なのかい?」

 

「それは耳が痛いことです」

 

 任三子は眉間のあたりを片手で押さえた。

 

「いえ、勉強はしてるんですけどね。どういうわけか、点数が良くないんです。数学は赤点でした」

 

「それなら、なおさら本分を大切にした方がいい。留年したいわけでもないんだろう?」

 

「ごもっともです。おっしゃるとおりで」

 

 任三子は何度か頷いたが、そこでふと顔を上げた。

 

「……ところで、中森先輩」

 

「何だい?」

 

「今、『君も』とおっしゃいました?」

 

「……ああ」

 

「私のほかにも、何かにかまけている人が?」

 

 中森は一瞬言葉を止め、傍らのしずくは二人を見比べた。

 

「別に、そういう意味で言ったわけじゃないよ」

 

「あ、そうでしたか」

 

「何だい。今日は私の揚げ足を取りに来たのか?」

 

 中森は冗談めかして笑い、片手を広げて部屋の奥を示した。

 

「せっかく見学に来たんだろう。こんなところで立ち話をしていても仕方ない。中を案内してあげよう」

 

「ああ、ありがとうございます。ぜひお願いします」

 

 任三子は素直に礼を言い、椅子の上に置いていた鞄を肩へ掛けた。

 

「いや、実はですね、同好会が本当に復活するのか、まだ分からないものですから。私もそろそろ、次の仕事を探しておこうかと思いまして」

 

「次の仕事?」

 

「ええ。雑用係としてのセカンドキャリアを」

 

「……セカンドキャリア?」

 

「演劇部も、雑用は多そうでしょう? 私、舞台に立つのはちょっと自信がないんですが、裏方ならお役に立つかもしれません」

 

 任三子は大真面目な顔でそう言った。中森は呆れたように笑った。しずくには、任三子が演劇部へ入るつもりなのか、単に見学したいだけなのか、さっぱり分からない。もっとも、本人の飄々とした態度を見る限り、これが全部でたらめだったとして少しも不思議ではなかった。

 

「裏方だって立派な仕事だよ。もっとも、君に務まるかどうかは別だがね」

 

「そうですね、私も心配です」

 

 中森が歩き始めると、任三子もその後についていった。しずくは一度練習へ戻ろうとしたものの、二人がどこへ行くのか少し気になり、結局そのまま同行することにした。

 

 部室のあちこちで練習と公演準備が並行していた。鏡の前では台詞に合わせた動きを確認し、舞台では立ち位置を示すテープを貼る。奥からは読み合わせの声が聞こえ、隅の長机では何人かが書類に向かっている。

 

「へえ、賑やかなことです」

 

「公演が近いからね。しばらくはこんな調子だよ」

 

「皆さん、よく働かれています。あちらの方たちは?」

 

「事務方だよ。公演の準備には、会場の手配も、予算の管理も、備品の注文も必要だからね。役者だけでは芝居はできないんだ」

 

「なるほど。ということは、雑用係にも出番がある」

 

「まあ、そういうことになるかな」

 

「いい事を聞きました。私向きかもしれません」

 

 中森は任三子へ向き直った。

 

「事務仕事は得意なのかい?」

 

「いえ、あんまり。活字をずうっと読んでいると、どうも目が滑るんです」

 

「……だったら、どうして向いていると思うんだ?」

 

「募集してらっしゃるんでしょう?」

 

「人手はいつでも足りないよ。特に事務方はね。ただ、誰でもいいというわけじゃない」

 

「ああ、そうですか。残念」

 

 任三子が少しも残念そうに見えないので、中森は苦笑した。

 

「古畑さん、君はなかなか面白い人だね」

 

「ありがとうございます。よく言われます」

 

「褒めたつもりではなかったんだが」

 

「そうでしたか、失礼」

 

 そんなやり取りをしながら、三人は部屋の奥へ進んだ。中森は衣装の保管場所や小道具の製作スペースを順に見せ、公演に使う道具がどのように管理されているかを簡単に説明した。任三子は熱心に聞いているかと思えば、途中で練習中の部員の台詞に気を取られたり、舞台袖に積まれた木箱を覗き込んだりしている。中森も次第に彼女の扱いに慣れてきたらしく、細かな脱線には構わず案内を続けていた。

 

 小道具の保管場所には、大小さまざまな段ボール箱が積まれていた。中身の分かるものもあれば、蓋を開けなければ何が入っているのか見当もつかない箱もある。近くでは一人の女子部員が、新しく整理した箱の側面に太いペンで文字を書き込んでいた。

 

「……あれは?」

 

 任三子が足を止めた。

 

「ん? 何だい?」

 

「あの方。何を書いてらっしゃるんですか?」

 

「ああ、収納箱の整理だよ。小道具は数が多いから、何が入っているか分かるようにしておかないと、必要なときに困るんだ」

 

「ほう。なるほど」

 

 任三子はしばらく作業を眺め、それから段ボール箱の前にしゃがみ込んだ。箱の側面には、ピンクがかった赤い文字で『舞台小道具』と書かれている。太く、はっきりした線で、少し離れたところからでも読み取れる。

 

「あの、ちょっと失礼」

 

 任三子が声をかけると、作業中の部員が顔を上げた。

 

「はい?」

 

「それ、少し見せていただいても?」

 

「ペンですか? どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 任三子は差し出されたインクペンを受け取り、手の中でくるりと回してみた。一般的な油性マーカーよりもかなり太く、胴体には見慣れないメーカーの名前が印刷されている。キャップを外してペン先を覗き込むと、幅の広い先端には細かな傷がついていた。

 

「へえ。面白いペンですね。私、このメーカー、初めて見ました」

 

「あ、それ、普通の文房具屋さんにはあまり置いてないと思います」

 

 作業中の部員が答えると、しずくも任三子の隣へしゃがみ込んだ。

 

「演劇の界隈では有名なんですよ。どこにでも書けますし、インクが垂れないので、舞台の小道具を作るときにも便利なんです」

 

「どこにでも?」

 

「はい。紙はもちろん、木材やプラスチックにも書けます。普通のペンだとうまく色が乗らないものにも使えるので」

 

「ああ、そういうことですか」

 

 任三子はペンの胴体をもう一度眺めた。

 

「業務用なんだ」

 

 中森が補足した。

 

「その辺の文具屋にはまず売ってないよ。うちではまとめて注文しているんだ。便利なんだが、すぐ乾かないのが難点でね。書いたあとは少し気をつけないといけない」

 

「なるほど。垂れないけど、乾きにくい」

 

「そういうことだね」

 

「ほう。これは勉強になります」

 

 任三子がペン先を見ている間に、中森は段ボール箱の文字を確かめ、作業中の部員に声をかけた。

 

「そういえば、そろそろ替え時かな」

 

「あ、そうですね。最近ちょっとかすれるんです」

 

「じゃあ、十五本くらい注文しておいてくれるかい? ほかの部屋の分もあるから」

 

「分かりました。いつものやつでいいですか?」

 

「ああ、それで頼むよ」

 

 部員は頷き、机の上に置いてあった発注用のメモへ書き込んだ。任三子は手元のペンと段ボール箱の文字を見比べ、少し考えてから顔を上げる。

 

「中森先輩、これ、赤なんですよね?」

 

「そうだよ」

 

「赤というより、ピンクに見えます」

 

「まあ、安いからな。でも、ほかの色と混ざらないだろう?」

 

「ええ、確かに。よく目立ちますよ」

 

「大道具や小道具には、いろんな色を使うからね。こういう色の方が、かえって都合がいいこともあるんだ」

 

「なるほど、なるほど」

 

 今度は箱の文字の端に目を留めた。線の一部が細くかすれ、角のところではインクがうまく乗らなかったのか、わずかに白い部分が残っている。

 

「これ、少し欠けてますね」

 

「え?」

 

「ほら、ここ。ペン先が傷んでいるんでしょうか」

 

「ああ、そうですね」

 

 作業中の部員は自分の書いた文字を覗き込んだ。

 

「もうだいぶ使ってますから。さっきも部長が言ってたとおり、そろそろ交換しようと思ってたんです」

 

「そうですか。ちょっと試しても?」

 

「はい。そこの切れ端なら大丈夫です」

 

 部員が余った段ボール片を差し出したので、任三子はその上に短い線を引いてみた。ピンクがかった赤いインクが太く乗り、最後の方で少しだけかすれる。

 

「ああ、なるほど。こうなるんですね」

 

 任三子はペンを持ち替え、もう一本線を引いた。今度は先端がわずかに引っかかり、途中の線が細く欠けた。彼女は二本の線を見比べると、ペンにキャップを戻して部員へ返した。

 

「どうもありがとうございました。お仕事中にすみません」

 

「いえ、大丈夫です」

 

 任三子は立ち上がり、改めて段ボール箱を眺めた。中森はその隣に立ち、何か質問があるのかと待っている。

 

「……似てませんか?」

 

「何に?」

 

「昨日の、あれです」

 

「あれ?」

 

「ほら、旧部室の壁に書かれていた、あの怪文書」

 

 中森の表情がわずかに変わった。任三子はそれに構わず、箱に書かれた文字を指差す。

 

「赤い文字です。いや、赤というよりピンクがかった赤。線の太さも、よく似てますよね」

 

「……そうかな」

 

「ええ。それに、ここ」

 

 任三子は文字の一部を示した。

 

「ちょっとかすれてるでしょう? 昨日の文字も、ところどころこうなってました。ペン先が傷んでいたような、ああいう感じです」

 

 しずくも段ボール箱を覗き込み、しばらく考えてから小さく頷いた。

 

「……そう言われてみれば、確かに似ていますね」

 

「でしょう?」

 

 任三子は嬉しそうに笑った。

 

「いやぁ、驚きました。こんなところに、よく似たペンがあるなんて」

 

 中森は箱の文字を一瞥したあと、任三子へ顔を向けた。

 

「なるほど。見学の目的は私か」

 

「あ、いえいえ」

 

 任三子は慌てて片手を振った。

 

「そんな、滅相もない。私はただ、ちょっと見せていただこうと思いまして」

 

「そうかい?」

 

「ええ。こんな立派な設備、滅多に見られませんから」

 

「昨日はずいぶん私に質問していたからね。今日も何か聞きに来たんじゃないかと思ったよ」

 

「いやぁ、参りました。本当にそんなつもりは無いんですよ?」

 

 任三子は頭を掻き、申し訳なさそうに笑った。中森も口元を緩めたが、その目は任三子から離れない。

 

「まあ、確かに似ていることは認めるよ。色も太さも、よく似ている」

 

 中森は少し間を置いた。

 

「生徒会の業務用品カタログには載っていないものだからね。この部でわざわざ取り寄せているんだ。ほかの部活では、あまり使っていないと思うよ」

 

「なるほど。では、少なくとも虹ヶ咲では珍しいペンなんですね」

 

「そういうことになるかな。だが、仮にあの落書きがこのペンで書かれたとしても、私が書いたとは言えないだろう?」

 

「はい、もちろん」

 

 任三子はあっさり認めた。

 

「うちには大勢の部員がいるし、この部屋へ出入りする生徒なら、誰でも備品を使うことができる。小道具の製作に使うものだから、持ち出すこと自体も珍しくない。そうだろう?」

 

 中森が尋ねると、作業中の部員も頷いた。

 

「はい。必要なら、ほかの部屋でも使ってます」

 

「ということだよ、古畑さん。君の言うとおり、色や線の太さが似ているのは事実だ。でも、ここに同じものがあるというだけで、私を疑うのは少々無理があるんじゃないか?」

 

「そうですねぇ。いや、まったく、おっしゃるとおりです」

 

 中森の警戒がいくらか緩み、しずくもほっと息をついた。

 

「そもそも、誰かがこのペンを使ったという証拠もないんだ。似ているものなら、ほかにもあるかもしれない」

 

「ええ。もちろん、そうです」

 

「だったら、これ以上この話をしても仕方がないだろう?」

 

「そうですね。ただ……」

 

 任三子はそこで一度言葉を切った。中森が続きを待っていると、彼女は段ボール箱を見ながら、ごく自然な調子で話し始める。

 

「昨日、私、申請の日付のことを申し上げましたよね」

 

「ああ。木曜日の件かい?」

 

「ええ。あれは当日の朝に決めたことなんです。ですから、あの落書きをした人は、少なくとも予定が変わったことを知っていたはずです」

 

「それは昨日も聞いたよ」

 

「はい。それでですね、今度はこのペンです」

 

 任三子は作業台の上に置かれたインクペンを指差した。

 

「もちろん、これと同じペンだと決まったわけではありません。ただ、色がよく似ている。線の太さも、かすれ方も似ている。しかも、普通のお店では買えない業務用で、こちらの演劇部でまとめて取り寄せていると」

 

「……そうだね」

 

「となると、木曜日への予定変更を知っていて、なおかつ、すぐにこのペンを持ち出せる立場にあった人。そういう人が書いた可能性は、かなり高いんじゃないでしょうか」

 

 中森は任三子を見据えた。

 

「もちろん、それだけでは誰だか分かりません。先輩のおっしゃるとおり、演劇部にはたくさんの方がいらっしゃいますし、ペンを使える人も多い。ですから、特定の誰かを疑うことはできません」

 

「……分かっているなら、それでいいじゃないか」

 

「ええ。ただ、候補はかなり絞れますよね。何しろ、日付を知っているだけじゃ駄目なんです。このペンも使えなければいけませんから」

 

「古畑さん」

 

「はい?」

 

「君は、結局何が言いたいんだい?」

 

 中森の声から先ほどまでの軽さが消えていたが、任三子はきょとんと顔を見上げた。

 

「いえ、ですから、よく似たペンが見つかって面白いなぁ、と」

 

「……それだけ?」

 

「ええ。……ほかに何か?」

 

 中森は返事をせず、腕を組み直した。任三子は気にする様子もなく、また作業台の方へ目を向ける。

 

「しかし、十五本も注文なさるとは、随分たくさん使うんですね」

 

「部員が多いからね」

 

「ああ、そうですね。これだけいらっしゃれば、十五本くらい、すぐになくなっちゃうのかもしれません」

 

「そういうことだよ」

 

「ちなみに、昨日は何本くらい……」

 

「任三子先輩!」

 

 鋭い声が二人の間に割って入った。しずくが一歩前へ進み、任三子を真っ直ぐ見つめている。

 

「いい加減にしてください!」

 

「……えっ?」

 

 任三子は驚いて口を閉じた。しずくは任三子を真っ直ぐに見据えた。

 

「昨日からずっと、部長のことばかり。今日だって、見学に来たとおっしゃっていたのに、結局またあの話をして……」

 

「ああ、いや。桜坂ちゃん、ちょっと待って。私は別に……」

 

「部長は、私たちが嫌がらせを受けたとき、真っ先に先生を呼んでくださったんですよ。それなのに、どうしてそんなふうに嫌がらせばかりなさるんですか?」

 

「いやぁ、嫌がらせというほどのものでも……」

 

「十分嫌がらせしてます!」

 

「……はい」

 

 任三子は小さく頷いた。いつもの愛想笑いも少し引っ込み、怒ったしずくを前に、珍しく返事に困っている。

 

「それに、ここは演劇部の部室です。みんな公演に向けて一生懸命準備してるんです。こんなことで作業を邪魔するのは、やめてください」

 

「ああ、はい。ごめん、ごめん」

 

「本当に反省してますか?」

 

「してるしてる」

 

 任三子は作業中の部員にも頭を下げた。突然の口論に驚いていた部員は、曖昧に笑って作業を再開する。しずくはまだ不満そうだったが、それ以上言葉を続ける前に、中森が片手を上げた。

 

「まあまあ、しずく。そのくらいにしておきなよ」

 

「でも、部長……」

 

「いいんだよ。古畑さんは好奇心旺盛なんだ。別に悪気があって言っているわけじゃないんだろう」

 

「あ、はい。そうなんです。悪気は無いんです。いや、お恥ずかしい」

 

 任三子が申し訳なさそうに笑うと、中森も笑みを返した。

 

「私も、少し大人げなかったかもしれないね。せっかく見学に来てくれたんだから、もう少しゆっくり見ていくといい」

 

「ありがとうございます。そうさせていただきます」

 

 任三子が丁寧に頭を下げると、しずくも部長にそう言われては、それ以上抗議できなかった。小さく息をついてから、任三子へ向き直る。

 

「……任三子先輩。もう変な質問はしないでくださいね」

 

「気をつけるよ」

 

「本当ですよ?」

 

「私を信用しなさい」

 

 任三子はにっこり笑い、今度は部屋の反対側で進められている練習へ目を向けた。大きな鏡の前では、部員たちが台詞に合わせて動きを確認している。彼女は何事もなかったかのようにそちらへ歩き始め、しずくも仕方なく後についていった。

 

 中森は二人を見送ったあと、作業台に置かれたインクペンへ目を落とした。さっきまでと同じように口元には微笑みを浮かべているが、腕を組んだまま、しばらくその場を動こうとしない。部員に呼ばれてようやく顔を上げると、いつもの調子で返事をし、発注の手配について二、三の指示を出した。しかし、その表情からは、任三子を迎えたときの余裕が少しずつ失われ始めている。

 

「もし、お時間宜しければ――」

 

 演劇部の見学を終えようとしていた中森は、任三子の突然の申し出に足を止めた。

 

「あの廊下へ行ってみませんか」

 

 部員たちは相変わらず公演の準備に追われており、先ほどまで二人について回っていたしずくも、ようやく自分の練習へ戻っている。任三子は一通りの設備を見せてもらったことに礼を述べたあと、帰り際にでも旧同好会の部室を見ておきたいと言い出したのである。

 

「……昨日の廊下かい?」

 

「ええ。少し気になっていることがありまして。よろしければ、ご一緒に」

 

「何が気になるんだ?」

 

「いやぁ、それが私にもよく分からないんです。どうも、すっきりしないもので」

 

 任三子は困ったように笑った。中森は彼女の顔をしばらく眺めていたが、やがて小さく息をつき、抱えていた台本を近くの部員に預けた。

 

「まあ、いいだろう。今日は少し時間もあるしね」

 

「ああ、ありがとうございます。助かります」

 

「ただし、古畑さん。あまり長くは付き合えないよ。私にも練習があるんだから」

 

「ええ、もちろんです。すぐに済みます」

 

 任三子がにっこり笑うと、中森は何か言いかけたものの、口を閉じて任三子と部室を出た。

 

 旧同好会の部室があるのは、演劇部の活動場所から少し離れた校舎の一角にある。二人は大廊下を歩きながら、途中ですれ違う生徒たちと挨拶を交わした。中森は顔が広いらしく、何人もの生徒が彼女に声をかけてくる。そのたびに任三子は少し離れて待ち、話が終わると何事もなかったように隣へ戻ってきた。

 

「それにしても、中森先輩はお忙しいんですねぇ」

 

「まあ、部長だからね。公演が近づけば、どうしても仕事は増えるよ」

 

「大変ですね。十五本もペンを注文しなくちゃいけませんし」

 

「……それは別に、私が直接やるわけじゃないさ」

 

「事務方の方がいらっしゃるんでしたね。失礼しました」

 

 中森が黙って歩調を速めると、任三子もそれに合わせ、二人はやがて例の防火扉に着いた。

 

「こちらですね」

 

「ああ。昨日も来ただろう?」

 

「そうでしたね。あ、先輩、気をつけてください。あまり開けっ放しにしてると、警備の方が飛んできます」

 

「……警備?」

 

「この間、同好会の荷物を運んでいるとき、段ボールで扉を押さえてたんです。そしたら、遠くから先生が飛んできまして。随分と怒られました」

 

「それはそうだろう。防火扉なんだから」

 

「ええ。ですから、ちゃんと閉めましょう」

 

 任三子はそう言って扉を押し開け、中森を先に通した。二人が中へ入ると、重い扉は数秒かけてゆっくり閉まり、背後でがちゃんと音を立てる。

 

 廊下には、昨日の騒ぎが嘘のように人の姿がなかった。壁に書かれていた怪文書も、学校側の対応によって既に消されている。ただ、近くで見ると、文字のあったあたりには薄い赤色の跡が残っており、完全に元どおりになったわけではない。突き当たりには旧同好会の部室があり、その途中に並ぶいくつかの扉は、いずれも閉じられていた。

 

 任三子は廊下を見渡しながら、ゆっくりと奥へ進む。中森はその後ろを歩いていたが、彼女が途中の扉に手をかけたのを見て足を止める。

 

「何をしているんだい?」

 

「鍵が掛かってるんです」

 

 任三子が取っ手を回してみると、扉は動かなかった。

 

「ほら、開きません」

 

「そりゃそうだろう。使われていない部屋なんだから」

 

「ええ。ほかもなんです」

 

 任三子は隣の扉へ移り、同じように取っ手を回した。こちらも施錠されている。さらに奥の部屋を確かめると、やはり開かなかった。中森は腕を組んで見守った。

 

「古畑さん、昨日も言ったと思うが、ここは今、使われていない場所だよ」

 

「そうですね。あ、先輩、ちょっとこちらを」

 

「……何だい?」

 

「この扉、確かめてみていただけませんか」

 

 任三子が指差したのは、廊下の途中にある最後の扉だった。中森は少し眉を寄せたが、言われたとおり取っ手を回してみせる。がちゃがちゃと金属音がするだけで、扉はびくともしない。

 

「ほら。鍵が掛かっているだろう?」

 

「ええ。間違いありませんね」

 

 任三子は満足そうに頷いた。

 

「となると、こちらの廊下には、外へ通じる出口があの防火扉しかないわけですね」

 

「ああ。そうだよ」

 

「窓もありませんし、どこかに隠れようにも、このとおり、全部鍵が掛かっている」

 

「それがどうしたんだい?」

 

「いえ、ちょっと確認を」

 

 任三子は廊下の奥まで歩き、旧部室の扉を眺めてから戻ってきた。中森はその場で待っていたが、何度も同じことを確認させられているうちに、次第に苛立ちを覚え始めていた。そもそも、任三子は同好会の部員だったのだから、ここへは何度も出入りしていたのに、態とらしく確認するのは何のためなのか、分からないのである。

 

「あの、中森先輩」

 

「今度は何だい?」

 

「昨日、こちらへ入っていらしたときのことなんですが」

 

「ああ」

 

「そのとき、廊下には誰かいました?」

 

「……誰か?」

 

「ええ。生徒さんでも、先生でも。どなたかいらっしゃいました?」

 

「いや。誰もいなかったよ。昨日もそう言ったはずだ」

 

「誰もいなかった」

 

 任三子は何度か頷き、消された怪文書の跡へ目を向けた。

 

「しかし、おかしいですね」

 

「何が?」

 

「その、書いた人です」

 

「……書いた人?」

 

「ええ。ここへ入った人が壁に文字を書いたわけでしょう。でも、中森先輩がいらしたときには、もう誰もいなかった。となると、その人、どこへ行っちゃったんでしょう?」

 

 中森は返事に窮した。昨日から妙な質問ばかりする少女だが、今度の問いはとりわけ頓珍漢に聞こえる。

 

「……古畑さん」

 

「はい?」

 

「君は昨日、私の話を聞いていなかったのかい?」

 

「いえ、聞いてましたよ」

 

「だったら、分かるだろう。私は、ここから出てくる生徒を見たと言ったじゃないか」

 

「そうでした。金髪の、背の低い女の子」

 

「そう。それで気になって、中を覗いてみたら、あの落書きがあったんだ。だったら、何も考えることは無いじゃないか」

 

 中森は廊下の入口を指差した。

 

「逃げたに決まっているだろう。ほら、見てのとおり、隠れる場所なんてないんだ。出口だって、あの扉しかない。私が来る前にそこから出ていった、それだけの話だよ」

 

「ああ……」

 

 任三子は口を半ば開けたまま、中森の顔を見つめた。

 

「逃げた」

 

「そうだよ」

 

「先輩が来る前に」

 

「ああ」

 

「なるほど……」

 

 任三子は額に人差し指と親指を添え、廊下の方を振り返った。

 

「そうですよね、逃げたんですよね」

 

「ほかにどう考えられるんだい?」

 

「いえ、ありません。ありませんよ」

 

 口ではそう答えたものの、任三子はどうにも納得できない様子だった。消された文字の跡を見たり、防火扉の方へ目を向けたりしているが、反論らしい反論は出てこない。

 

 中森の説明は、至極もっともなものだった。仮に第三者が犯人だったとして、その人物が中森の到着する前に立ち去っていれば、廊下に誰もいなかったことと何も矛盾しない。金髪の生徒が犯人だったかどうかは別として、少なくとも逃走することは十分に可能である。

 

「……古畑さん、もういいかな?」

 

 中森が腕時計に目を落とした。

 

「そろそろ部に戻らないといけないんだが」

 

「あ、はい。申し訳ありません。お忙しいところを」

 

「いや、構わないよ。ただ、君の疑問が解決したのかは、どうも分からないがね」

 

「ええ。私も分かりません」

 

「……そうか」

 

 中森は呆れたように笑った。

 

「まあ、あまり考えすぎないことだよ。学校の方でも調べているんだから、私たちがいつまでも気にしていても仕方がない」

 

「そうですね。おっしゃるとおりです」

 

 任三子は丁寧に頭を下げ、中森に続いて防火扉へ向かった。中森が扉を押し開けると、任三子はその向こうの大廊下を覗き、もう一度だけ背後を振り返る。

 

「……しかし、どこへ行ったんでしょうか」

 

「だから、逃げたんだよ」

 

「ああ、そうでした、そうでした」

 

 任三子は笑って扉を通り抜けた。中森は小さくため息をつき、後ろからついてくる彼女を見ながら、もう一度念を押す。

 

「古畑さん、これで納得してくれたかな?」

 

「ええ、もちろんです。ありがとうございました」

 

 そう言う任三子の表情は、どう見てもすっきりしていなかった。

 

*

 

「みなさ〜ん! 世界で一番可愛い、かすみんです!」

 

 東京湾を望む公園に、中須かすみの元気な声が響いた。海沿いに整備された広い園内には、散歩を楽しむ人やベンチで休む人の姿がちらほら見える。晴れた午後で、海から吹く風も心地よい。かすみたちは人通りの少ない場所を選び、スクールアイドル同好会の紹介動画を撮影していた。

 

 スマートフォンを構えているのは今泉真知子で、その正面では、かすみが両手を頬に添えたり、小さく首を傾げたりしながら、次々と可愛らしいポーズを決めている。

 

「かすみんのチャームポイントは、もちろん、この可愛さ! でもでも、それだけじゃないんですよ? みんなのハートをきゅんきゅんさせちゃう、最高のスクールアイドルになるんですっ!」

 

 かすみは最後に片目を閉じ、カメラへ向かって両手でハートを作った。真知子が撮影を止めると、満足そうな笑顔で駆け寄ってくる。

 

「どうでした!? 今の、すっごく可愛かったですよね!」

 

「うん、すごく可愛かったよ〜。かすみちゃん、こういうの得意なんだねぇ」

 

「えへへ〜。まあ、かすみんですから!」

 

 褒められたかすみは得意げに胸を張り、撮影した動画を確認しようと真知子の隣へ回った。画面の中では、つい先ほどの自分が満面の笑みを浮かべている。少し風の音が入っているものの、表情も台詞もよく撮れており、かすみは何度も満足そうに頷いた。

 

 その様子を少し離れたところから見ていた歩夢と侑は、顔を見合わせた。侑は面白そうに笑っているが、歩夢の方はどうにも落ち着かない。先ほどからかすみの撮影を熱心に見守っていたものの、あれと同じことを自分もするのだろうかと考えると、急に不安になってきたらしい。

 

「それじゃあ、次は歩夢先輩ですね!」

 

「……えっ?」

 

 かすみが振り返ると、歩夢は思わず一歩後ずさった。

 

「わ、私もやるの?」

 

「もちろんです! 同好会の紹介動画なんですから、歩夢先輩にも自己紹介してもらわなくちゃ!」

 

「で、でも、私、まだスクールアイドルのこと、全然分からないし……」

 

「大丈夫ですよ! かすみんがちゃーんと教えてあげますから!」

 

 かすみは自信満々に答え、歩夢の両肩を掴んでカメラの前へ連れていった。真知子は一旦撮影した動画を保存し、再びスマートフォンを構える。侑もすぐ近くへ移動し、期待に満ちた顔で歩夢を見つめていた。

 

「頑張って、歩夢!」

 

「侑ちゃんまで……」

 

「大丈夫だよ。いつもの歩夢でいいんじゃない?」

 

「そう言われても……」

 

 歩夢は困ったように笑い、それでも一度深呼吸してカメラへ向き直った。真知子が撮影を始めると、ぎこちなく両手を前で揃える。

 

「え、えっと……上原歩夢です。これからスクールアイドルとして、みんなと一緒に頑張っていきたいと思います。よろしくお願いします……」

 

 最後に小さく頭を下げると、かすみはすぐに両手で大きなバツを作った。

 

「だめですっ!」

 

「ええっ!?」

 

「歩夢先輩、全然だめです! もっと可愛くしないと!」

 

「か、可愛く……?」

 

「そうです! せっかく自己紹介するんですから、見てくれる人のハートを一発で掴まなくちゃ!」

 

「でも、どうすれば……」

 

「まず、表情が硬いです。もっとにっこり笑ってください!」

 

 歩夢は言われたとおりに笑おうとしたが、意識するほど顔が引きつってしまう。かすみは難しい顔でしばらくそれを眺め、やがて何か思いついたように手を打った。

 

「あっ、そうだ! 歩夢先輩、両手を頭の上に乗せてください!」

 

「こ、こう?」

 

「もっと上です! そうそう、そのまま指を立てて!」

 

 かすみの指示に従い、歩夢は両手を頭の上へ持ち上げた。指を少し曲げると、うさぎの耳のような形になる。

 

「はい! それで自己紹介してみてください!」

 

「こ、この格好で……?」

 

「もちろんです! あっ、語尾には『ぴょん』をつけてくださいね!」

 

「ぴょん!?」

 

「はい! 可愛いじゃないですか!」

 

 歩夢は耳まで赤くなった。真知子はスマートフォンを構えながら笑いを堪えており、侑に至っては、先ほどよりもずっと目を輝かせている。

 

「あっ、あゆぴょんだ!」

 

「ゆ、侑ちゃん!?」

 

「可愛い! すっごく可愛いよ、歩夢!」

 

「そ、そんなこと言わないでよぉ……!」

 

「歩夢先輩、照れてないで! ほら、もう一回いきますよ!」

 

 かすみは両手でうさぎの耳を作り、自ら見本を見せた。

 

「こんにちはっ! みんなのアイドル、かすみんだぴょん!」

 

「おお〜!」

 

 真知子が楽しそうに拍手を送る。かすみは得意げに笑い、そのまま歩夢へ向き直った。

 

「さあ、歩夢先輩も!」

 

「わ、分かった……」

 

 歩夢は覚悟を決めたように頷いた。両手を頭の上に乗せ、目を閉じて大きく息を吸う。侑も真知子も、期待に満ちた顔で彼女が口を開くのを待っている。

 

「こ、こんにちは……。上原歩夢、だ……ぴょ……」

 

 そこまで言ったところで、歩夢はとうとう両手を下ろしてしまった。

 

「む、無理ぃ……!」

 

 真っ赤な顔を両手で覆い、その場にしゃがみ込む。侑が慌てて駆け寄り、かすみも少し驚いたように屈み込んだ。

 

「あ、歩夢先輩!? あとちょっとだったのに!」

 

「だって、こんなの恥ずかしいよぉ……!」

 

「ええ〜? すっごく可愛かったですよ?」

 

「そうだよ、歩夢! あゆぴょん、最高だった!」

 

「侑ちゃんはもう言わないで!」

 

 歩夢の必死な訴えに、侑と真知子はとうとう声を上げて笑ってしまった。かすみは不満そうに頬を膨らませたものの、歩夢が本当に困っていると分かると、ひとまず撮影を中断することにした。

 

「うーん。どうしたらいいんでしょう……」

 

「じゃあ、私がお手本を見せてあげようか?」

 

 真知子がそう言ってスマートフォンを下ろした。

 

「真知子先輩が?」

 

「うん。こういうの、ちょっとやってみたかったんだよね」

 

「えっ、真知子ちゃんもしてくれるの?」

 

「まあまあ、見てて!」

 

 真知子は侑にスマートフォンを渡し、かすみが先ほど立っていた場所へ移動した。肩のあたりでふんわりと広がる茶髪を整え、スカートの裾を軽く払ってから、両手を胸の前で揃える。

 

「じゃあ、侑ちゃん、お願い!」

 

「うん! いくよ〜!」

 

 侑が撮影を開始すると、真知子はそれまでの気さくな笑顔から一転して、いかにもアイドルらしい、愛嬌たっぷりの表情を作った。

 

「はぁ〜い! みんなのハートに、ふわふわ幸せをお届けっ! いつでもにこにこ、新人スクールアイドルの真知子ちゃんで〜す!」

 

 片目を閉じて頬の横で小さくピースサインを作り、くるりと一回転してから、今度は両手でハートを描く。

 

「今日もみんなに会えて、真知子、と〜っても嬉しいなっ! これからも、いーっぱい応援してね? 約束だよっ!」

 

 最後に小さく投げキッスを送り、満面の笑みでポーズを決めた。侑が撮影を止めるまで、その姿勢も笑顔も崩さない。

 

「……どう?」

 

 真知子がいつもの調子に戻って尋ねると、三人は揃って拍手した。

 

「すごーいっ!」

 

 侑が真っ先に声を上げた。

 

「真知子ちゃん、すっごくアイドルっぽかった! 可愛い!」

 

「えへへ〜。そう?」

 

「完璧じゃないですか!」

 

 かすみも感心したように目を丸くしている。

 

「真知子先輩、今の、どこで練習したんですか!?」

 

「え? 別に練習なんかしてないよ? それっぽくやってみただけ!」

 

 練習もなしにあれほど堂々と振る舞えることが信じられないらしく、かすみは何度も感心していたが、やがて真知子の手を取った。

 

「真知子先輩! 今度かすみんと一緒に、可愛いポーズの研究をしましょう!」

 

「いいよ〜。楽しそうだね!」

 

「真知子ちゃん、すごいね……」

 

 歩夢もようやく顔を上げたが、真知子の見事な自己紹介を目の当たりにして、かえって自信をなくしてしまったらしい。自分よりずっと自然に可愛らしい仕草をこなしてしまう相手を前に、もう一度挑戦する勇気が出てこない。

 

「私、あんなふうにできるかな……」

 

「大丈夫だよ、歩夢。歩夢には歩夢の良さがあるんだから!」

 

 侑は励ますように言ったが、歩夢は曖昧に笑うばかりだった。かすみも腕を組んで考え込んでいる。

 

「うーん。歩夢先輩、もうちょっと思い切ってやってみませんか? 恥ずかしがってると、余計に難しくなっちゃいますよ」

 

「それは分かるんだけど……」

 

「じゃあ、今度はかすみんと一緒にやってみましょう! 最初は『あゆぴょん』から!」

 

「そ、それはもう勘弁してぇ……」

 

 そんな一同のやり取りには目もくれず、任三子は少し離れた木陰にいた。太い幹へ背中を預け、片手を腰に当てたまま、右手で口元を覆っている。先ほどからほとんど動かず、ときどき視線を落としたり、何かを数えるように指を動かしたりしている。

 

「そうだ! 任三子先輩もやってみてくださいよ!」

 

 かすみが突然、木陰の方へ声をかけた。

 

「え?」

 

「自己紹介です! 任三子先輩、まだ何もしてないじゃないですか!」

 

「そうだよ、任三子ちゃん。せっかく来たんだから、一回くらいやってみようよ〜」

 

 真知子も楽しそうに誘った。侑はスマートフォンを構え直し、歩夢も興味深そうに任三子の方を見る。任三子は口元に添えていた手を下ろし、何でもないことのように答えた。

 

「私はホワイトカラーなんだよ」

 

「……はい?」

 

 かすみが首を傾げる。

 

「雑用、裏方。マネージャーなんだから、そういうのはやらないの」

 

「いやいや、そんなこと言ったら、真知子先輩だって部外者ですよ! それに自己紹介くらい、別にいいじゃないですか!」

 

「いやぁ、それがね、中森先輩にも言われちゃったんだよ。『雑用にかまけている場合じゃない』って」

 

「中森先輩って、演劇部の部長さん?」

 

 真知子が尋ねると、任三子は小さく頷いた。

 

「そう。勉強しろって正論吐かれた」

 

「ええ〜? 任三子先輩、今そんなこと言っても、どうせ帰って勉強なんかしないじゃないですか!」

 

「失礼だな、するよ」

 

「本当ですか?」

 

「した上で、点が取れないの」

 

 かすみが呆れても、任三子は木にもたれたまま、どこか上の空だった。最後の返事など、ほとんど独り言に近い。真知子は幼馴染の顔をしばらく眺めていたが、どうせ無理に誘ってもろくなことにならないと判断したらしく、肩をすくめて皆の方へ戻った。

 

「ま、任三子ちゃんは放っておこっか。私たちはもう一回やってみようよ!」

 

「そうですね! 歩夢先輩、次こそは……!」

 

「ええっ、まだやるの!?」

 

 歩夢が悲鳴を上げた。かすみはやる気満々で、もう一度立ち位置を決めようとしているが、歩夢の方は先ほどよりもさらに困り果てている。侑は二人の間でどうしたものかと考え込み、真知子もその様子を見て小さく笑った。

 

「うーん……」

 

 真知子は少し考えてから、ぽんと手を打った。

 

「じゃあさ、発想を変えてみない?」

 

「発想を?」

 

 侑が顔を上げる。

 

「そう! こういうのって、考えすぎると余計に難しくなっちゃうでしょ? だから、いったん忘れちゃおうよ!」

 

「忘れるって……動画のことですか?」

 

 かすみが不思議そうに尋ねる。

 

「うん! 今日はもう撮影をやめて、どっか遊びに行こう!」

 

「……えっ?」

 

「ほら、せっかくみんなで集まってるんだし! おいしいものでも食べて、ちょっと遊んで、気分転換したら、またいいアイデアが浮かぶかもしれないよ?」

 

 真知子はにっこり笑った。いかにも彼女らしい提案である。

 

「それ、いいね!」

 

 侑がぱっと顔を輝かせた。

 

「名案だよ、真知子ちゃん! 私も、みんなで遊びに行きたい!」

 

「でしょ〜?」

 

「ええ〜!? でも、せっかく動画を撮りに来たのに……」

 

 かすみは少し不満そうだったが、その顔は既に綻んでいる。

 

「そんなこと言って、かすみちゃんも遊びたいんじゃない?」

 

「べ、別にそういうわけじゃありません! ただ、みんながどうしてもって言うなら、かすみんも付き合ってあげてもいいですけど!」

 

「じゃあ決まりだね!」

 

 真知子が笑うと、侑も嬉しそうに頷いた。歩夢はようやくほっとした顔になり、頭の上に乗せていた両手を下ろす。

 

「よかった……」

 

「あっ、歩夢先輩! 次に撮るときは、ちゃんと『ぴょん』って言ってもらいますからね!」

 

「まだそれやるの!?」

 

「もちろんです!」

 

「えへへ、あゆぴょん、楽しみだなぁ」

 

「侑ちゃんまで!」

 

 笑い声が上がり、撮影に使っていたスマートフォンも真知子の手元へ戻った。かすみはどこへ行くかについて早速いくつか候補を挙げ始め、侑もあれこれと意見を出している。歩夢はまだ少し恥ずかしそうだったが、先ほどまでの緊張はすっかり解けていた。

 

「任三子ちゃーん!」

 

 真知子が木陰へ向かって手を振った。

 

「私たち、これから遊びに行くから、任三子ちゃんも来て」

 

「ああ、うん。行く行く」

 

 任三子は幹から背中を離し、鞄を持ち直した。皆の方へ歩き出そうとしたところで、ふと足を止める。しばらくその場に立ち、先ほどまで口元を覆っていた右手を、今度は額のあたりへ持っていった。親指と人差し指を軽く合わせ、何かを確かめるように少し首を傾げる。

 

「任三子ちゃん?」

 

 真知子がもう一度呼んだが、返事はなかった。任三子が顔を上げると、少し離れたところでは皆が遊びに行く場所の相談に夢中で、彼女が立ち止まったことには気づいていない。

 

 任三子はその様子を眺め、額に添えた指をもう一度動かした。そこで周囲の景色が暗転し、スポットライトの下に任三子だけが残る。

 

「皆さん、人の話ってどれくらい信用なさいますか。先日、今泉が『昨日、宇宙人を見た』なんて言い出したので、私はどんな格好だったのか聞きました」

 

「銀色の服を着ていたそうです」

 

「はい、宇宙人です」

 

「――冗談です。つまり何が言いたいのかと申しますと、相手の言ってることが怪しいと思ったとき、私たちはつい、その人がどこで嘘をついているのかを探してしまいます」

 

「でも、もし、その人の言っていることが全部本当だとしたら。その方が案外、可笑しな事になります」

 

「古畑任三子でした」

 

*

 

「また君か」

 

 演劇部の部室へ入ってきた任三子を見つけると、中森は呆れたように笑った。放課後の演劇部は前に訪れたときと変わらず賑わっており、中森も部員たちに指示を出しながら台本を確認していた。

 

「どうも、中森先輩。お忙しいところ、申し訳ありません」

 

「いや、構わないよ。それで、今日は何の用だい? とうとう演劇部に入る気になったのかい?」

 

「ああ、いえ、それは……」

 

「悪いけど――」

 

 中森はそこで言葉を切り、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「募集は終わったよ」

 

「それは残念。せっかく事務方としての再就職を考えていたんですが」

 

「事務仕事は苦手なんだろう?」

 

「……ちょうどよかったですね」

 

 任三子はにっこり笑った。中森もつられて口元を緩めたが、彼女が帰る様子を見せないので、やがて台本を閉じた。

 

「それで、本当は何の用かな?」

 

「今日はそのことではないんです。ちょっと中森先輩にお付き合いいただきたいことがありまして」

 

「……またかい?」

 

「はい。すぐに済みますから」

 

 任三子は何でもないことのように言って、部室の出口を指差した。

 

「とりあえず、一緒に来ていただけませんか」

 

「どこへ?」

 

「例の、旧同好会の部室です」

 

 中森は眉を寄せた。またあの廊下か、と思ったが、任三子はすでに出口の方へ歩き始めている。ここ数日、彼女には散々振り回されてきた。おかしな質問を繰り返したかと思えば、今度は当たり前のことを確かめに現場へ連れていく。いくら説明しても満足した様子がなく、そのうち何か別の話を始めるのだから、付き合う方も大変である。

 

 もっとも、ここで断ったところで、また日を改めて訪ねてくるに違いない。いっそ最後まで付き合って、今度こそ納得させた方が早いだろう。中森は近くの部員に少し席を外すと伝え、任三子の後を追った。

 

「古畑さん、今度は何を確かめたいんだい?」

 

「いえ、ちょっとお見せしたいものがあるんです」

 

「見せたいもの?」

 

「ええ。写真なんですけどね」

 

 大廊下へ出たところで、任三子は鞄からスマートフォンを取り出した。画面を何度か操作してから、中森の方へ差し出す。

 

「これ、ご覧になってください」

 

 中森が覗き込むと、画面には旧同好会の部室が写っていた。廊下の突き当たりにある扉と、その両側の壁。特に変わったところのない、何の飾りもない風景である。

 

「これがどうしたんだい?」

 

「中須ちゃんが撮ったものです。ほら、あの、小さくて可愛らしい一年生の」

 

「ああ、あの子か」

 

「ええ。旧部室を引き払う記念に、撮っておいたそうなんです。それでですね、ここを見てください」

 

 任三子は写真の詳細情報を開き、撮影日時を指差した。

 

「午後四時二分」

 

「ああ、そう書いてあるね」

 

「ええ。事件のあった日の、午後四時二分です。この写真、壁には何も書かれていません」

 

「……そうだね」

 

「それから三分ほどして、私たちは全員、ここから出ました。午後四時五分です。そのときも、落書きなんかありませんでした」

 

 任三子はそう言って、今度は別の写真を表示した。こちらには、同じ壁にピンクがかった赤い文字が大きく書かれている。真知子に撮らせた、怪文書発見後の写真だった。

 

「これは今泉が撮ったものです。五時を少し回ってます」

 

「なるほど」

 

「ですから、少なくとも午後四時五分から、この写真が撮られるまでの間に、誰かが壁に文字を書いたということになります」

 

 中森はしばらく画面を眺めていたが、やがて任三子へ顔を向けた。

 

「……それが?」

 

「はい?」

 

「いや、だから、それがどうしたんだい?」

 

「どうした、とおっしゃいますと?」

 

「そんなことは、最初から分かっているじゃないか。君たちが部室を出たあとで、誰かが落書きをしたんだろう? それを今さら確かめて、何になるんだい?」

 

「ああ、ええっと、おっしゃるとおりです」

 

 任三子はあっさり頷き、スマートフォンをしまった。

 

「ただ、時間がはっきりしたのは、よかったと思いませんか?」

 

「……まあ、それはそうだが」

 

「ね。私、こういうのは大事だと思うんです。時間というのは、後から変えられませんから」

 

 中森は返事に困った。何か含みのある言い方にも聞こえるが、任三子の顔にはいつもの人懐っこい笑みが浮かんでいる。これ以上尋ねても話が長くなるだけだと思い、黙って廊下を歩き続けた。

 

 旧部室へ続く防火扉の前まで来ると、任三子は鞄から小さなドアストッパーを取り出した。中森が不思議そうに見ている前で扉を押し開け、二人が通り抜けたあと、足元にそれを差し込んで固定する。

 

「……何をしているんだい?」

 

「すぐに終わりますから、開けっ放しにしておきましょう」

 

「開けっ放し?」

 

「ええ。帰るときに、また開けるのが面倒でしょう」

 

「君、前に言っていなかったか? 開けっ放しにしていると、警備が飛んでくるとか何とか」

 

「そうでしたね」

 

 任三子は平然と頷き、扉の上部に点灯した緑色のランプを見上げた。それから廊下の奥へ歩き始める。

 

「しかし、演劇部って本当に大変ですね。中森先輩、昨日も遅くまで練習なさったんですか?」

 

「……ああ。公演が近いからね」

 

「そうですか。何時頃まで?」

 

「七時半くらいだったかな」

 

「遅いですね。皆さん、帰ってからお勉強もなさるんでしょう?」

 

「もちろん。部活動だけが学校生活じゃないからね」

 

「実に偉いです。私なんか、家へ帰るとすぐ眠くなっちゃって」

 

「だから成績が悪いんじゃないか?」

 

「そうかもしれません。いえ、参りました」

 

 任三子はおかしそうに笑った。廊下の途中にある部屋は相変わらず施錠されており、突き当たりの旧部室も閉まっている。彼女は先ほどの写真と実際の壁を見比べ、少し離れたところから眺めてみたり、消された文字の跡へ顔を近づけたりしていた。

 

「古畑さん」

 

「はい?」

 

「で、今日は何をするつもりなんだい?」

 

「ああ、すみません。ちょっと待ってください」

 

 そう言いながらも、任三子は別の話を始めた。演劇部の次の公演はいつなのか、一般の生徒も見に行けるのか、舞台で使う衣装はどこにしまっているのか。中森が一つ答えるたびに、そこからまた新しい質問が生まれる。

 

 中森は最初こそ丁寧に答えていたものの、次第に相槌も短くなっていった。部室ではまだ練習が続いているはずなのに、こんなところで立ち話をしている場合ではない。何より、任三子が事件の話をしたいのか、演劇部に興味があるのか、さっぱり分からなかった。

 

「いい加減にしてくれないか、古畑さん。私は忙しいんだ」

 

「あ、そうですよね。申し訳ありません」

 

「それに、扉も開けっ放しじゃないか。早く閉めた方が――」

 

「ちょっと、あなた!」

 

 大廊下の方から声が飛んできた。振り返ると、一人の教師が早足で防火扉の前までやってきていた。以前、荷物の片付けをしていた際にも注意した教師である。任三子の顔を見るなり、呆れたように眉をひそめた。

 

「また、あなた?」

 

「あ、先生。こんにちは」

 

「こんにちは、じゃありません。また防火扉を開けっ放しにしてるでしょう!」

 

「ああ、すみません。すぐに済むと思いまして」

 

「すぐでも駄目です。何度言えば分かるんですか」

 

 教師は二人が通るのを待ってから、足元のドアストッパーを外した。防火扉はゆっくりと閉まり、数秒後、金属音を立てて元の位置へ戻る。

 

「もう、どうしてこういうことをするんでしょうね。ここは防火設備なんですよ」

 

「いやぁ、申し訳ありません」

 

 任三子は素直に頭を下げたが、教師が立ち去ろうとすると、思い出したように呼び止めた。

 

「あ、先生。そういえば、一つよろしいですか?」

 

「今度は何ですか?」

 

「どうして分かったんです? 私たちが扉を開けっ放しにしてるって」

 

「どうしてって、説明したでしょう? 警備室から分かるんですよ」

 

「警備室?」

 

「そう。この扉は開いたままになっていると、向こうで確認できるんです。記録も残りますから、気をつけてください」

 

「記録まで?」

 

「そうです。いつ閉まったか、ちゃんと分かるようになっているんです。ですから、もうこんなことをしないように」

 

「ああ、なるほど。よく分かりました。ありがとうございます」

 

「お礼を言う前に、反省してください」

 

 教師はそれだけ言うと、大廊下の方へ戻っていった。任三子はその背中にもう一度頭を下げ、やがて中森へ向き直る。

 

「……だそうです」

 

「何が?」

 

「記録が残ってるんです」

 

「……何?」

 

「この防火扉です。開け閉めの記録が残ってるんですよ」

 

 任三子は嬉しそうに防火扉を指差した。

 

「いやぁ、ハイテクなものですね、私立の学校は」

 

 中森はしばらく彼女を見つめていたが、ようやく何が起こったのか理解すると、呆れたように額を押さえた。

 

「……まさか君、そのために?」

 

「はい?」

 

「その話をさせるために、わざと扉を開けっ放しにしていたのか?」

 

「ああ、いえいえ。そんな大したことじゃありませんよ」

 

「大したことじゃないって……わざわざ先生を呼びつけて、叱られるようなことをして」

 

「いや、私も叱られるのは苦手なんですけどね」

 

「だったら、最初から閉めておけばよかったじゃないか!」

 

「ごもっともです」

 

 任三子はにっこり笑った。中森はもう何も言わず、腕を組んで彼女を睨む。ところがしかし任三子は構わず、ブレザーの内側へ手を入れた。

 

「それでですね、中森先輩。実は、この記録なんですが」

 

 取り出したのは、何枚か重ねて折り畳まれた印刷用紙だった。任三子はそれを広げ、中森の方へ差し出す。

 

「学校の方から、ちょっと見せていただいたんです」

 

「……学校から?」

 

「ええ。中須ちゃんと今泉にお強請りしてもらいました。お二人ともお顔がよろしいですから」

 

「……お強請り?」

 

「いや、私がお願いするより、あの二人にお願いしてもらった方が、先生も聞いてくださるんじゃないかと思いまして。あくまで確認用です。ほら、同好会の関係者でしょう?」

 

「……君は本当に、何を考えているんだ」

 

「いやぁ、それが、よく分からないんですよ」

 

 任三子は笑いながら紙を持ち直した。中森は眉を寄せたまま、差し出された記録へ目を落とす。紙には日付と、いくつもの時刻が印刷されていた。防火扉の開放状況を記録したもので、開いていた時間と、再び閉じられた時刻が分かるようになっている。人物を識別するものではないが、いつ扉が使用されたかを調べるには十分だった。

 

「こちら、閉まった時刻が記録されるそうです。途中で開けっ放しにすると、その間は記録が残らない。今みたいに、扉を止めたりするとですね、警備室に警告が行くそうです。自動的に閉まるのが普通なので、開けた時間は記録されません」

 

「……それで?」

 

「ここ、見てください」

 

 任三子は紙の途中を指差した。

 

「午後四時五分。次が、四時十九分。それから、四時四十八分」

 

 中森は印刷された数字を確かめた。

 

「……確かに、そうなっているね」

 

「ええ。で、その次はずっと後の時刻になっています」

 

「それがどうかしたのかい?」

 

「この四時五分というのは、私たちが片付けを終えて、廊下から出たときの記録です。最後に先生が扉を閉めてくださいましたから、間違いありません」

 

 任三子は先ほど見せた写真の時刻にも触れた。午後四時二分には、まだ壁に何も書かれていない。三分後、全員が荷物を持って退出した際にも、怪文書はなかった。そこから先の記録を、彼女は指で一つずつ辿っていく。

 

「そして四時四十八分。こちらは、中森先輩が呼んだ先生が入っていらしたときのものですね」

 

「……どうしてそう思うんだい?」

 

「中森先輩、おっしゃいましたよね。先生が来たのは五時少し前だったって」

 

「ああ……。それは間違いないよ。呼んだ先生が来たのは、五時前だった」

 

「でしょう? ですから、四時四十八分でよろしいかと思うんです」

 

 任三子は満足そうに頷いた。中森はしばらく記録を見ていたが、やがて顔を上げる。

 

「……それで、結局何が言いたいんだい?」

 

「ああ、いえ。ここなんです」

 

 任三子は真ん中にある時刻を指差した。

 

「この、四時十九分。これは一体、何なんでしょう?」

 

「何って……」

 

 中森は紙を見つめ、少し考えてから答えた。

 

「だったら、それが私だったんじゃないか?」

 

「ああ、なるほど。中森先輩が、四時十九分にこちらへ入っていらした」

 

「そういうことになるね」

 

「それはおかしいですね」

 

「……何?」

 

「いえ、先輩が四時十九分に入ったのでしたら、落書きをした犯人は、どうやって入ったんでしょう?」

 

 中森は答えに詰まった。

 

「……だったら、四時十九分が犯人だったんだろう」

 

「ああ、そうですか。では中森先輩は、いつ入っていらしたんです?」

 

「それは……」

 

「四時四十八分?」

 

「……そうなるんじゃないか?」

 

「でも、四時四十八分は先生の記録でしょう?」

 

 任三子は紙を示した。

 

「ここで先生がいらしたんです。先輩も、来たのは五時前だったとおっしゃいました」

 

「だから、それは……」

 

 中森は一度言葉を切り、苛立たしそうに息を吐いた。

 

「古畑さん、君は何を言っているんだ? 扉の記録なんて、その場にいた人間の名前まで分かるわけじゃないんだろう?」

 

「ええ。分かりません」

 

「だったら、四時十九分が誰なのか、四時四十八分が誰なのか、そんなことは断定できないじゃないか」

 

「そのとおりです」

 

 任三子は認めた。

 

「それなら、何度も同じことを聞かないでくれないか!」

 

「あ、すみません。どうも気になってしまって」

 

 中森は腕を組み直し、紙から目を離した。

 

「四時十九分に犯人が入った。四時四十八分に私が入った。それでいいじゃないか。扉の開閉記録が名前を示さない以上、何もおかしくはないだろう?」

 

「でも、先生は?」

 

「そのあとだよ!」

 

 中森は防火扉を指差した。

 

「あの日、野次馬が入ってきた時に、先生は扉を開けっ放しにしていたんだ。君も見ていただろう! だから記録が残ってない!」

 

「ああ、そうでした。開けっ放しに」

 

「そうだよ!」

 

「しかしですね、それは少し……」

 

 中森はとうとう声を荒らげた。

 

「古畑さん、さっきから君は、私に何を言わせたいんだ? 私はあの落書きを見つけて、先生を呼んだ。それだけだよ! 誰かが出てくるのを見たから中へ入ったんだ。そこに誰もいなかったから、すぐに先生へ連絡した。全部、あの日から話しているとおりじゃないか!」

 

 任三子は黙って彼女の話を聞いていた。中森が言い終えると、手にしていた紙を一度折り畳み、改めて顔を上げる。

 

「……中森先輩」

 

「何だい?」

 

「では、はっきり答えてください。この四時四十八分は、誰の記録ですか?」

 

「だから、それは私だよ! 私が呼んだ先生は、その後の記録が飛んだ扉で入ってきたんだ!」

 

「ありえません」

 

「……どうして?」

 

「犯人が四時十九分に入ったとして、その犯人はどこへ行ったんです!」

 

「だから、それは――」

 

「中森先輩、あなた、私におっしゃいましたよね。ご自分がこちらへ入ったとき、廊下には誰もいなかったと」

 

「ああ……」

 

 中森も気がついたらしい。

 

「それから、確認もしました。途中の部屋は全部施錠されている。隠れる場所もない。出口は、あの防火扉一つしかない。これも、先輩がおっしゃったことです」

 

 任三子は少し離れた防火扉を指差した。中森は反論しようと口を開いたが、何も言わずに閉じる。

 

「犯人は逃げた、と。先輩はそうおっしゃいました」

 

「……ああ」

 

「そうです。逃げたんです。逃げるしかありません。ほかに出口がないんですから」

 

 任三子は一歩、中森へ近づいた。

 

「でしたら、犯人が入った記録のほかに、出ていった記録が必要でしょう。そのあとで、中森先輩が入る。少なくとも三度、扉が使われなくちゃいけません」

 

 中森は目を伏せ、手元の記録へ視線を落とした。

 

「……でも、ここには二つしかない」

 

「そうです。しかも、そのうち一つは、中森先輩か先生のどちらかが開けた記録のはずです。ですから、私たちが退出してから騒ぎになるまでに、誰の記録か分からないのは一つしかありません」

 

「……」

 

「分かりますか? 先輩以外の誰かが犯人だったなら、記録が少なくとも一つは足りないんです」

 

 任三子が返事を待っても、中森は黙ったままだ。

 

「ここへ入って、壁に文字を書いて、また外へ出る。それだけで、少なくとも二度、扉を使うことになります。そこへ先輩が四十八分に入っていらしたなら、もう一度。ところが、実際には一度しか開いていない」

 

「……」

 

「その一度で済むのは、入った人が、そのまま中で待っていた場合だけなんです」

 

 中森はゆっくりと顔を上げた。

 

「先輩は、先生が来るまでこちらにいらした。これはご自分でも認めていらっしゃいます。ですから、四時十九分に入ったのは、あなたなんです」

 

 任三子は中森を見据えた。

 

「あなたが犯人です」

 

 中森は唇を閉じ、任三子の手にある紙を見つめた。やがて大きく息を吐くと、壁へ背中を預け、肩を落とした。

 

「……参ったな」

 

 任三子は紙を折り畳んでブレザーの内側へしまった。顔を上げた中森に、先ほどまでの厳しさはなかった。

 

「まさか、そんなところに記録が残っているとはね」

 

「ええ。私も知りませんでした」

 

「……知らなかった?」

 

「はい。ここへ入るたび、あの扉が勝手に閉まるでしょう。何のためにあんなに急いで閉めるのか、不思議だったんですけど、まあ、防火扉ですからね」

 

 任三子は少し笑った。

 

「ただ、同好会の荷物を運んでたとき、段ボールで押さえておいたら、遠くから先生が飛んできたんです。どうして分かったんだろうと思いまして。それで、もしかしたら記録も分かるんじゃないかと」

 

「ずるいな」

 

 中森が苦笑すると、任三子もおかしそうに笑った。廊下には二人のほかに人の姿はなく、防火扉も今はきちんと閉じられている。

 

「しかし、あれだね……」

 

 中森は壁から背中を離し、ゆっくりと歩き始めた。怪文書が書かれていた場所へ近づき、薄く残った赤い跡を指で示す。

 

「こんな馬鹿なことをして、こんな馬鹿なところで失敗するとは思わなかったよ」

 

「いえ、よくできていたと思いますよ」

 

「……慰めているのかい?」

 

「とんでもない。本当にそう思います。ペンだって、演劇部の方なら誰でも使えましたし、木曜日の件を知っている人も、先輩だけではありません。ご自分のところの備品を使ったのは、少々不用心だったかもしれませんが、それだけでは誰が書いたかまでは分かりませんから」

 

「そうだね。君も、最初はそう言っていた」

 

「ええ。何しろ、私たちの方が先に疑われたっておかしくなかったんです。先輩のおっしゃるとおり」

 

 中森はかすかに笑ったが、やがて黙り込み、消された文字の跡へ目を向けた。

 

「……妬ましかったんだよ」

 

 任三子は顔を上げた。

 

「誰が、です?」

 

「しずくが」

 

 中森は少し言いにくそうに答えたが、一度口にしてしまうと、あとは静かな調子で話し始めた。

 

「あの子は本当に才能がある。演技をさせればすぐに分かるよ。台詞の読み方も、役の捉え方も、ほかの子とは違う。教えれば教えただけ吸収していくし、私が何日もかけて身につけたことを、あの子は少し練習しただけでできてしまう」

 

「……続けて」

 

「私はずっと演劇をやってきた。それなりに努力もしてきたつもりだよ。でも、あの子が何気なくやってみせることには、時々どうしても敵わないんだ」

 

 中森は息を吐いた。

 

「最初は嬉しかったよ。もっと教えて、いい役を演じさせてやりたい。将来は素晴らしい役者になるだろうって、今でも思っている」

 

「それはいいことじゃありませんか」

 

「ああ。そうだね」

 

 中森は頷いた。

 

「でも、あの子は演劇だけじゃ満足しなかった。スクールアイドルもやりたいって言い始めたんだ。私がずっと欲しかったものを、あの子は生まれつき持っている。それなのに、まだ別のものまで手に入れようとするのかと思ったら……どうしても、我慢できなかった」

 

 任三子は黙って聞いていた。中森は自分の言葉がおかしかったのか、少し自嘲するように笑った。

 

「ひどい話だろう? 別に、しずくは何も悪くないんだ。演劇もスクールアイドルもやりたいなら、両方やればいい。そんなことは分かってる。でも、私にはできなかった。あの子がほかのことに夢中になっていくのを、黙って見ていることがね」

 

「……それで、あれを書いたんですか」

 

「ああ。同好会が廃部になったと聞いたとき、正直に言えば、少し安心したんだ。これでしずくも演劇に専念してくれると思った。ところが、今度は新しい同好会を作るという。それも、木曜日に申請することに決まったと、わざわざ本人が嬉しそうに知らせに来てくれた」

 

 中森は首を振った。

 

「笑って送り出してやればよかったんだよ。でも、私にはできなかった。あの子に、もう一度考えてほしかった。どうしても、演劇の方を選んでほしくて……」

 

「……なるほど」

 

 任三子は何度か頷いた。中森はその顔をしばらく眺めていたが、やがて気を取り直したように姿勢を正した。

 

「しかし、古畑さん。君には随分と付きまとわれたな」

 

「すみません。どうも、気になることがあると放っておけないもので」

 

「昨日も一昨日も、質問ばかりだった。今日だって、またここへ連れてこられた。まったく、君はしつこいよ」

 

「ええ。よく言われます」

 

 任三子が素直に認めると、中森は呆れたように笑った。

 

「それで、いつから私だと思っていたんだい?」

 

「……初めからです」

 

「初めから?」

 

「ええ。最初にお会いしたときから」

 

 中森は意外そうに眉を上げた。

 

「そんなに分かりやすかったかな。自分では、うまくやったつもりだったんだが」

 

「ああ、いえ。最初から分かっていたわけではありません。何となく、気になったんです」

 

「何が?」

 

「あの、金髪の女の子です」

 

 任三子は少し笑った。

 

「先輩、ここから逃げていく子を見たとおっしゃいましたね。金髪で、背の低い女の子だったと」

 

「ああ。そうだったね」

 

「以前どこかで聞いたんですが、人って急に嘘をつこうとすると、咄嗟に自分とは正反対の特徴を挙げてしまうことがあるそうなんです」

 

 中森は目を瞬かせた。

 

「……正反対?」

 

「ええ。例えば、背の高い人なら低い人。黒髪なら金髪。もちろん、いつもそうなるわけじゃありません。そういうこともある、という話なんですけどね」

 

 中森は自分の黒髪を指で払った。背丈も、女子生徒の中では高い方である。任三子が何を言いたいのか分かると、とうとう声を上げて笑ってしまった。

 

「背の低い、金髪の女の子、ね。私と正反対だ」

 

「ええ。ですから、ちょっと面白いなと思いまして」

 

「君は、そんなことで私を疑い始めたのかい?」

 

「ああ、いえ。そういうお話を聞いたことがあったものですから。思い出しちゃったんです」

 

 任三子は曖昧に笑った。

 

「実際、金髪で背の低い方がいらしたって、少しもおかしくありませんからね。証拠にも何にもなりません。ただ、何となく覚えていたんです」

 

「……やれやれ」

 

 中森は額に手を当てた。そうしてしばらく笑っていたが、ふと思い出したように任三子へ尋ねる。

 

「それで、さっきの記録が決め手になったわけか」

 

「ええ。そういうことです」

 

「しかし、よくそんなところまで調べたね」

 

「いやぁ、たまたまですよ。中須ちゃんたちが強請ってくれたおかげです」

 

 任三子はそう答えると、少し表情を改めた。

 

「……しかしですね、中森先輩。一つ、どうしても気になることがあるんです」

 

「まだ何か?」

 

「ええ。最後のあれはいけません。あなた、逃げなくちゃいけなかった」

 

 中森の顔から笑みが消えた。

 

「壁にあれを書いたあと、そのまま出ていけばよかったんです。そうすれば、ほかの人が書いた可能性だって、いくらでも残ります」

 

「……そうだね」

 

「それなのに、先輩はここに残って、先生を呼んだ。わざわざ第一発見者になったんです。どうしてです?」

 

 任三子は首を傾げ、中森の顔を覗き込んだ。

 

「何か理由があったんでしょうか。ご自分で見つけたことにすれば、先生に褒めてもらえるとか」

 

 中森は考えた末、首を振った。

 

「……いや。そんなことじゃない」

 

「では、何でしょう?」

 

「私だって、逃げたかったさ」

 

 中森は小さく笑った。

 

「こんなことをして、見つかったら大変なことになる。下手をすれば停学どころじゃ済まないだろう。あろうことか、演劇部の部長が、学校の壁に脅迫まがいの落書きをしたんだからね。どう考えたって、まともなことじゃない」

 

「ええ。そうですね」

 

「だから、書き終わったらそのまま逃げるつもりだったんだ。最初はね」

 

 中森は防火扉の方を見た。

 

「でも、扉の前まで来たとき、ふと思ったんだよ」

 

「……何を?」

 

「今ここで、何も知らない第一発見者を演じたら、どうなるだろうって」

 

 任三子は顔を上げた。

 

「私はずっと演劇をやってきた。舞台ではいろんな人間を演じてきたし、自分でもそれなりの技術があると思っている。でも、舞台での演技って、結局は芝居だろう? 観客も、相手役も、全部が作り物だと分かっている」

 

 中森は壁から離れ、ゆっくりと廊下を歩き始めた。

 

「ところが、あのときは違った。見つかれば学校生活も部長の座も失いかねない。しずくにだって顔向けできなくなる。それほど危険な状況だった」

 

「……ええ」

 

「そんなときでも、私の演技は通用するんだろうか。誰にも怪しまれず、ただの第一発見者を演じ切れるんだろうか。そう思ったら、どうしても確かめたくなったんだ」

 

 中森は立ち止まり、任三子へ向き直った。

 

「馬鹿だろう?」

 

「……いやぁ」

 

「本当に馬鹿な話だよ。逃げればよかったんだ。何もせず、そのまま扉を開けて出ていけばよかった。それなのに私は、先生へ電話をかけた。自分が犯人だと知られないまま、あの壁を見つけた善良な生徒を演じようとしたんだ」

 

 任三子は少し間を置いてから笑った。

 

「……バレませんでしたね」

 

「何?」

 

「演技です。先生にも、同好会のみんなにも。誰も先輩を疑いませんでした」

 

 中森は目を丸くしたあと、苦笑した。

 

「ああ。そうだね」

 

 少し間を置いて、もう一度笑う。

 

「演技はね」

 

 二人はしばらく顔を見合わせていたが、やがて中森は諦めたように肩をすくめた。

 

「……君には完敗だよ」

 

「いや、とんでもありません」

 

「いいんだ。もう分かっている。君が何度も私のところへ来たのは、結局そういうことだったんだろう?」

 

「ええ、まあ……。どうも気になりまして」

 

「まったく、変わった子だね、君は」

 

 中森はおかしそうに笑い、もう一度壁を振り返った。薄く残った赤い跡を見ているうちに、表情から笑みが消えていく。

 

「……それで、どうするつもりだい?」

 

「何がです?」

 

「私のことだよ」

 

 中森は任三子へ向き直った。

 

「先生に報告するのかい? それとも、生徒会にでも話す?」

 

「ああ、そういうことですか」

 

「退学にでもしてもらうか?」

 

 中森は少し笑ったが、その声にはもう冗談めいた調子がなかった。

 

「私は抵抗しないよ。必要なら、自分から全部話そう。私が書いたんだ。あの落書きは、全部私がやったことだ。先生にも、ちゃんと認める」

 

 中森は背筋を伸ばした。演劇部の部長として、これまで何人もの部員を率いてきた少女である。見つかってしまった以上、これ以上言い逃れを続けるつもりはなかった。たとえ学校を去ることになったとしても、最後くらいは自分のしたことを認めようと思っていた。ところが、任三子は少し困ったような顔をした。

 

「……退学、ですか」

 

「ああ」

 

「いや、そこまでしていただくつもりはないんですけどね」

 

「……何?」

 

「先生に報告するのも、まあ、面倒ですし」

 

 任三子はブレザーの袖を整え、何でもないことのように続けた。

 

「もう、何が起こったのか分かりましたから。私としては、それで十分なんです」

 

 中森はしばらく任三子を見つめていた。

 

「……君は、本気で言っているのかい?」

 

「ええ」

 

「だって、私は君たちの同好会を妨害したんだよ。壁にあんなものを書いて、再結成を諦めさせようとしたんだ。それを、何もなかったことにするというのかい?」

 

「いや、何もなかったわけじゃありませんけどね」

 

 任三子は少し考え、やがて楽しそうに笑った。

 

「まあ、弱みでも握っておきましょう」

 

「……弱み?」

 

「ええ。何かあったときに使えるでしょう?」

 

 中森は呆気にとられた顔で、任三子を見つめた。

 

「……君ね」

 

「はい?」

 

「そういうことを、本人の前で言うものじゃないと思うんだが」

 

「そうですか、失礼しました」

 

 任三子は丁寧に頭を下げた。中森はとうとう呆れて笑い出した。

 

「まったく……。君は本当に、何を考えているのか分からない」

 

「よく言われます」

 

「そうだろうね」

 

 中森の表情が、少しだけ和らいだ。

 

「しかし、これで借りができてしまったな」

 

「ああ、いえいえ。そんなことはありません」

 

「いや、あるだろう。私がしたことを考えれば、君が黙っていてくれるというだけでも、十分すぎるくらいだよ」

 

「そうですか?」

 

「ああ。まったく、こんなことになるとは思わなかった」

 

 中森はもう一度ため息をつき、防火扉の方へ歩き始めた。任三子もその後に続く。廊下の突き当たりには、かつてスクールアイドル同好会が使っていた部室があり、消された怪文書の跡もまだ壁に残っている。中森は防火扉の前まで来ると、任三子の方へ振り返った。

 

「それじゃあ、古畑さん。私は部に戻るよ。そろそろ練習も再開しなくてはならないからね」

 

「あ、はい。お引き止めして申し訳ありませんでした」

 

「いや。こちらこそ、随分と迷惑をかけてしまった」

 

 中森は小さく頭を下げ、扉の取っ手へ手を伸ばした。そのとき、背後から任三子の声がした。

 

「……あ、やっぱり。中森先輩」

 

「ん?」

 

 中森が振り返ると、任三子は何か思い出したように顔を上げていた。

 

「まだ何かあるのかい?」

 

「――いえ、一つだけ。あなたの口から、桜坂ちゃんに言って頂きたいことがあります」

 

*

 

 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の新しい部室は、校舎の吹き抜けを囲む広場の正面にあった。以前のように、人気のない廊下を進み、防火扉を開けて突き当たりまで歩く必要はない。広場に面した廊下には大きな窓が並び、休み時間には多くの生徒が行き交う。部室そのものも以前より広く、窓から差し込む日差しのおかげで、昼間は照明をつけなくても十分に明るかった。

 

 もっとも、長い間使われていなかった部屋なので、まだまだ掃除が必要だった。床には薄く埃が積もり、窓の隅には蜘蛛の巣まで張っている。備え付けの棚もすっかり空になっており、部室らしいものといえば、運び込んだばかりの机と椅子、それに部員たちが持ち寄った荷物くらいしかない。それでも、集まった少女たちの顔は明るかった。

 

「みなさーん! ついに、ついに! スクールアイドル同好会、復活ですっ!」

 

 部屋の中央で、かすみが両手を高く掲げた。周囲から拍手が起こり、侑も嬉しそうに両手を叩いている。歩夢はその隣で微笑み、エマと彼方も顔を見合わせて頷いた。

 

「よかったね、かすみちゃん。ずっと頑張ってたもんね」

 

「本当にねぇ。彼方ちゃんも嬉しいよ〜」

 

「ふふん! 当然です! かすみんが本気を出せば、同好会の一つや二つ、あっという間に復活しちゃうんですから!」

 

「かすみちゃん、そんなに簡単じゃなかったと思うけど……」

 

 歩夢が控えめに指摘したが、かすみは聞こえなかったことにして胸を張った。

 

「何といっても、今回は新しい仲間まで増えたんです! 歩夢先輩に、侑先輩! それから――」

 

「私もいますよ!」

 

 かすみの言葉を引き取るように、優木せつ菜が勢いよく手を挙げた。彼女はいつにも増して晴れやかな顔をしており、久しぶりに仲間たちと同じ部屋へ集まれたことがよほど嬉しいらしい。

 

「皆さん、改めまして、よろしくお願いします! これからは私も、もう一度この同好会で、思いっきりスクールアイドルを楽しみたいと思います!」

 

「せつ菜ちゃん、おかえりなさい!」

 

 エマが微笑むと、せつ菜も大きく頷いた。

 

「はい! ただいま戻りました!」

 

「せつ菜先輩、今度はかすみんの可愛さをちゃーんと認めてもらいますからね!」

 

「もちろんです! かすみさんの可愛さも、歩夢さんの魅力も、しずくさんの演技力も、みんなの大好きなものを全部生かせる同好会にしましょう!」

 

「それはいいですけど、せつ菜先輩、ちょっと声が大きいです!」

 

「あっ、すみません!」

 

 慌てて声を落としたせつ菜に、侑が笑いながら近づいた。

 

「でも、本当によかった! せつ菜ちゃんが戻ってきてくれて、私、すっごく嬉しいよ」

 

「侑さん……。私もです。侑さんがあのとき声をかけてくださらなかったら、きっと、まだ迷っていたと思います」

 

「そんなことないよ。せつ菜ちゃんが自分で決めたことだもん」

 

 侑はそう言って、せつ菜の両手を取った。歩夢も二人の傍へ歩み寄り、少し照れくさそうに微笑む。

 

「私も、みんなと一緒に頑張りたいな。まだ分からないことばっかりだけど、よろしくお願いします」

 

「歩夢さん! こちらこそ、よろしくお願いします!」

 

「よーし! それじゃあ早速、かすみんたちの可愛いライブについて作戦会議を――」

 

「その前に、お掃除じゃないかな?」

 

 エマが部屋の隅を指差した。そこには使われていなかった机が何台か寄せられており、天板には埃が積もっている。かすみはそれを見て、一瞬だけ口を閉じた。

 

「……お掃除、ですか」

 

「うん。せっかく新しい部室をもらったんだから、綺麗にしなくちゃね」

 

「そうだね〜。彼方ちゃん、この窓際にクッションを置きたいなぁ」

 

「彼方先輩、それはお昼寝用ですよね!?」

 

「えへへ、ばれちゃった?」

 

 彼方が眠そうに笑うと、せつ菜は早くも部室の掃除について張り切り始めた。歩夢と侑が窓を開け、エマが雑巾や掃除道具の数を確認する。しずくは空いている棚に何を置くか考えながら、持ち込んだ荷物を整理していた。

 

 その一方で、今泉真知子は、いつの間にか箒を手にして部屋の奥を掃いている。机を動かすときには侑を手伝い、雑巾が足りなくなれば廊下へ取りに行き、ほかの面々と何ら変わらない調子で働いていた。

 

「真知子先輩、そっちの棚もお願いしていいですか?」

 

「うん、いいよ〜。かすみちゃんは窓の方、よろしくね!」

 

「はーい!」

 

 かすみは何の疑問も持たずに返事をし、歩夢と一緒に窓際へ向かった。真知子も楽しそうに棚の掃除を続けている。部屋の入口付近では、任三子が相変わらず冬服のブレザーを着込み、スカートの裾も気にせず、空いている机に軽く腰を預けている。そこへ、窓際の掃除を終えたかすみが歩いてきた。

 

「あっ、そういえば!」

 

「はい?」

 

「任三子先輩!」

 

 かすみは腰に両手を当て、任三子の前に立った。

 

「何、中須ちゃん」

 

「何、じゃありません! 任三子先輩、今回のことで何か役に立ちました!?」

 

「……役に?」

 

「そうです! かすみんたちが一生懸命、新しい同好会を作ろうとしてたとき、任三子先輩はずーっとどこかに行ってたじゃないですか!」

 

「そうだね」

 

「そうだね、じゃないです! かすみんたち、あんな嫌がらせまで受けたんですよ!? それなのに任三子先輩ったら、ちっとも手伝ってくれないんですから!」

 

 任三子は何とも返事に困ったらしく、曖昧に笑った。

 

「いや、ごめんて」

 

「しかも! せつ菜先輩が戻ってきてくれたのだって、侑先輩と果林先輩のおかげなんですよ! 任三子先輩、マネージャーなのに何にもしてないじゃないですか!」

 

「そうだね、おっしゃるとおり」

 

「だったら、もっと反省してください!」

 

「ごめんて」

 

 あまりにもあっさり謝るので、かすみは少々拍子抜けした。任三子がここまで素直に認めるとは思っていなかったらしい。それでも、すぐに気を取り直して指を一本立てる。

 

「だから、これからはちゃんと働いてもらいますからね! 新しい同好会には、やることがいっぱいあるんです! まずはこの部室をピカピカにしてください!」

 

「はいはい」

 

「はいは一回です!」

 

「はい」

 

 かすみは満足そうに頷き、窓際へ戻っていった。任三子は手にしていた雑巾を持ち直し、近くの机を拭き始める。そのやり取りを聞いていたしずくが、荷物を置いて近づいてきた。

 

「任三子先輩」

 

「あ、桜坂ちゃん」

 

「私も、一つ言っておきたいことがあります」

 

「……何」

 

 しずくは任三子の前に立つと、背筋を伸ばした。普段の穏やかな表情に戻ってはいるものの、何か言いたいことがあるのは明らかだった。

 

「私、演劇部もスクールアイドルも、両方頑張ることに決めました」

 

「ああ、そう。それは何より」

 

「はい。実は、部長にも相談したんです。そうしたら、すごく励ましてくださって」

 

 しずくは微笑んだ。

 

「『嫌がらせなんかに負けず、演劇とスクールアイドルを両立してみせろ』って。どちらかを諦める必要なんてないんだって、そう言ってくださったんです」

 

「それは、それは」

 

「私、すごく嬉しかったんです。部長はずっと演劇に真剣に取り組んでこられた方ですし、私も尊敬していますから。そんな部長に背中を押していただけたら、もう迷っている場合じゃありませんよね」

 

「いい部長さんだ」

 

「はい!」

 

 しずくは力強く頷いた。先日まで演劇部とスクールアイドルの間で迷っていた姿は、もうどこにもない。かすみと一緒にライブをしたいという気持ちも、演劇を続けたいという思いも、今の彼女には同じくらい大切だった。

 

「だから私、かすみさんたちと一緒に、精一杯頑張ります。演劇部の活動も、今まで以上に頑張るつもりです!」

 

「そう。いや、よかった」

 

 任三子が頷くと、しずくは少し頬を膨らませた。

 

「ただし、任三子先輩」

 

「へ?」

 

「部長のことを犯人扱いしたこと、私、まだちょっと怒ってますからね」

 

「ああ……」

 

「結局、部長は私のことを一番に考えてくださっていたんです。それなのに、任三子先輩は何度も何度も変な質問をして、見学にまで押しかけて……。本当に失礼だったと思います」

 

「まあ、そうだね」

 

「ですから、存分に反省してください」

 

 しずくは可愛らしく口を尖らせ、任三子を見上げた。任三子は雑巾を持ったまま、ほんの少し肩を落とす。

 

「……ごめんて」

 

「もう。それ、さっきもかすみさんに言ってましたよね?」

 

「いや、参った」

 

 任三子につられてしずくも笑いかけたが、慌てて真面目な表情に戻した。

 

「とにかく、今度部長に会ったら、ちゃんと謝ってくださいね」

 

「きっとね」

 

「約束ですよ?」

 

「きっと」

 

 それでようやく気が済んだのか、しずくは納得してかすみたちの方へ戻っていった。任三子はその背中を見送ってから、また机を拭き始める。

 

「ふふっ。任三子ちゃん、今日はみんなから怒られてるね」

 

 エマが隣で笑っていた。

 

「本当だね。かすみちゃんにもしずくちゃんにも、いっぱい怒られちゃった」

 

 侑も掃除の手を止めて、面白そうに笑う。

 

「普段はみんなをからかってばっかりだからねぇ。たまにはこういうのもいいんじゃないかな〜」

 

 彼方までそんなことを言い出したので、任三子は少々不満そうな顔をした。

 

「彼方先輩まで。私は別に、からかってばっかりじゃありませんよ」

 

「そうかなぁ?」

 

「ええ。たまには真面目なことも言います」

 

「たまになんだ……」

 

 侑が思わず呟くと、エマが吹き出した。近くで聞いていた歩夢も笑いを堪えきれず、せつ菜まで楽しそうに笑い始める。

 

「任三子さん! もちろん、これからはマネージャーとしても、よろしくお願いします!」

 

「ええ。こちらこそ」

 

「でも、まずはお掃除ですね!」

 

「……はい」

 

「ほらほら、任三子先輩! そっちの机、まだ汚れてますよ!」

 

 かすみから追い打ちが飛んできた。任三子は「はいはい」と返事をして雑巾を動かし始めたが、今度は誰も真面目に怒ろうとしない。しずくがとうとう笑い出し、真知子も箒を持ったまま声を上げた。新しい部室には、しばらく賑やかな笑い声が響いていた。

 

 掃除が一段落したところで、一同は机を寄せ合い、これからの活動について話し始めている。新しい部室をどう飾るか、最初のライブをいつ開くか、衣装はどうするか。かすみは早くも可愛い衣装の案をいくつも挙げており、せつ菜も負けじと、自分のやりたいステージについて熱く語っている。

 

 その賑やかな話し合いから少し離れた窓際で、任三子は部屋の様子を眺めていた。いつもどおり冬服のブレザーを着込み、脚を緩く組んでいる。扉の向こうには吹き抜けの広場が見え、時折、通りかかった生徒が部室の中を覗いていく。

 

 任三子は部屋の中央で盛り上がっている面々へ目を向けた。かすみが何かを大きな身振りで説明し、せつ菜が勢いよく賛成する。歩夢と侑は顔を見合わせて笑い、しずくも時折会話に加わっていた。エマが皆の話をまとめようとしている横で、真知子は彼方と何やら楽しそうに話している。

 

 任三子が窓の方へ顔を向け直したところで、後ろから誰かが近づき、柔らかい腕が背中越しに回された。

 

「任三子ちゃ〜ん」

 

「……ほへ?」

 

 後ろから回された腕が、任三子の体をゆったりと抱きしめていた。振り返ろうとすると、すぐ耳のそばで彼方の声がする。

 

「つーかまえた」

 

「彼方先輩……どうしました?」

 

「ん〜。ちょっとねぇ」

 

 彼方はそう答えて、抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。任三子は戸惑ったように自分の前で重なっている彼方の手を見下ろしたが、振りほどこうとはしない。

 

「任三子ちゃん」

 

「はい?」

 

「……ありがとう」

 

 いつもより少し小さな声だった。

 

「何がです?」

 

「いろいろ」

 

「いろいろ?」

 

「うん。任三子ちゃんが、彼方ちゃんたちのために、いろいろ考えてくれてたんだよね」

 

 彼方は任三子の肩に頬を寄せ、耳元でそっと囁いた。

 

「彼方ちゃん、嬉しかったよ」

 

 任三子は何も答えず、しばらくそのままでいた。それから、少しだけ顔を横へ向け、部屋の中央を見渡す。真知子と目が合う。真知子は何食わぬ顔でにっこり笑うと、片目をぱちりと閉じてみせた。

 

 任三子は一瞬、何とも言えない顔をした。幼馴染の方をじっと見つめ、やがて小さく息を吐く。真知子はすっかり楽しそうな顔で、また皆の話し合いへ戻っていった。

 

「任三子ちゃん?」

 

 彼方がもう一度、耳元で呼びかける。

 

「あ、はい」

 

「どうしたの〜?」

 

「いえ、何でも……」

 

 任三子は俯き、彼方の腕にそっと手を添えた。いつものように冗談を返すこともできず、なかなか言葉が出てこない。

 

「……ど、どういたしまして……」

 

 彼方は笑みを浮かべ、任三子をもう少しだけ抱きしめた。すぐ近くでは、かすみとせつ菜が相変わらず次のライブについて熱心に話し合っている。侑の楽しそうな声が聞こえ、歩夢としずくが笑い、エマは皆にお茶を配っていた。任三子はそれを聞きながら、彼方に抱きしめられたまま、しばらく顔を上げない。その頬には、ほんの少しだけ赤みが差していた。

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