派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~ 作:パラレル・ゲーマー
「おう、おう! 随分と舐めた真似してくれんじゃねえか! うちのシマに一人でノコノコ乗り込んでくるとは、とんでもねえ度胸してんなあ!!」
ざらついた夜の空気をビリビリと震わせるような怒号が、鼓膜を容赦なく打ち据えた。
潮の匂いと、微かな機械油の臭いが混じる古い倉庫街。その一角にあるだだっ広いコンクリートの荷捌き場が、今の俺――三上悠介の現在地だった。
周囲をぐるりと取り囲んでいるのは、どう好意的に解釈しても「ちょっとヤンチャな若者たち」などとは呼べない面々だ。
人数はざっと見積もって二十人弱。揃いも揃って殺意の塊みたいなツラをしている。服装からして尋常ではない。動きやすい暗めの作業着やジャージの上に、やけに分厚いベスト――おそらく防刃チョッキというやつだ――を着込み、足元はつま先に鉄板でも入っていそうな厳ついブーツ。手にはそれぞれ、工事現場から失敬してきたような鉄パイプや、金属バットが握られている。
いや、それだけならまだ「治安の悪い場所での大規模な喧嘩」で済んだかもしれない。
だが、俺の視界の端で鈍い銀色の光を放っているアレはなんだ。どう見ても美術品として飾るような代物ではない、人を斬るためだけに研ぎ澄まされた実戦用の日本刀。
さらに最悪なことに、数人の男は懐から黒光りする鉄の塊を取り出し、その銃口をまっすぐに俺へと向けていた。
(いやいやいやいや! なんだよそれ、拳銃!? ここ日本だろ!? 銃刀法違反ってレベルじゃねえぞ!)
俺は内心で頭を抱え、絶叫していた。
当然だ。腕っぷしに自信があるわけでも、格闘技の経験があるわけでもない。つい最近になって、妙に肩こりが治ったり身体が軽くなったりと体調が良いような気はしていたが、だからといって日本刀やチャカを持ったヤクザの集団を相手に無双できるわけがない。
睨みつけてくる二十人弱のヤクザたち。
逃げ道は完全に塞がれている。背中にはシャッターの閉まった巨大な倉庫。前も左右も、凶器を持った男たちがじりじりと包囲網を狭めてきている。
彼らからすれば、俺は「単身で敵対組織のアジトに乗り込んできた命知らずの男」に見えているのだろう。だが、とんでもない誤解だ。俺の膝は今にも笑い出しそうだし、心臓は早鐘のように打ち鳴らされて肋骨を突き破りそうになっている。
(なんで……なんで俺、こんなことになってるんだよ……!)
俺は三十四歳。独身。つい三週間前までは、再就職先を探していたごく普通の無職だった。
前の会社に勤めていた頃は、朝起きて満員電車に揺られ、パソコンに向かってキーボードを叩き、定時になれば適当な居酒屋でビールを流し込むか、コンビニの弁当を買って帰る。そんな、絵に描いたような平凡で退屈な日常を送っていた。裏社会の抗争なんて、映画や漫画の中だけの話だと思っていたのに。
どうして、ただの元営業マンが、実弾の装填された銃口を向けられているのか。
――時計の針は、三週間前へと遡る。
*
「……はぁ。今日も駄目か」
築四十年の狭い1Kアパート。土曜日の昼下がりだというのに、薄暗い部屋の中でノートパソコンの画面を見つめながら、俺は深い深い溜息を吐き出した。
ディスプレイに表示されているのは、転職サイトの『お祈りメール』だ。これで何社目になるだろうか。数えるのも馬鹿らしくなってきた。
俺の経歴は、可もなく不可もなくといったところだ。中堅の私立大学を卒業後、社員数十人程度の中小企業に就職。そこで十年間、営業と事務を兼任するような形で働いてきた。
大きなミスをしたことはないし、それなりに真面目に勤めていた自負はある。だが、飛び抜けた営業成績を残したわけでも、特別なスキルを身につけたわけでもない。
そんな俺の運命が狂ったのは半年前。会社が急激な業績悪化に陥り、大規模なリストラ、というより実質的な事業縮小に伴う希望退職の募集が始まったのだ。会社の空気がお通夜のように重くなり、泥船から逃げ出すように優秀な人間から辞めていく中、俺もその流れに乗らざるを得なかった。
最初は「三十代前半ならまだ次があるだろう」と楽観視していた。
しかし、現実は甘くなかった。資格なし、特筆すべき実績なしの三十四歳を、喜んで正社員として迎え入れてくれる企業はそうそうない。貯金はまだ少しあるが、このまま無職の期間が長引けば精神的な余裕がゴリゴリと削られていく。
背に腹は代えられない。俺は正社員へのこだわりを一旦捨て、大手の派遣会社に登録することにしたのだ。
「とりあえず、生活費を稼がないとな……」
呟きながら派遣会社のマイページを開き、紹介されている求人情報をスクロールしていく。
そこで、ふと一つの案件に目が止まった。
『急募・営業事務/不動産管理会社のオフィスワーク!』
『時給:2,500円』
『勤務時間:9:00〜18:00(休憩1時間・土日祝休み)』
『残業:月10時間以下』
『応募条件:基本的なPCスキル、営業または事務経験者歓迎』
「……えっ?」
俺は思わず画面に顔を近づけた。
時給二千五百円? 派遣の事務職で?
都内とはいえ、普通の営業事務でこの時給は破格だ。頭の中で即座に算盤を弾く。一日八時間労働で二万円。月に二十日出勤したとして、額面で四十万円だ。社会保険料や税金を引かれたとしても、手取りで三十万は優に超える。前の会社で主任クラスだった頃の給料よりも高いじゃないか。
怪しい。条件が良すぎる。
俺は急いで募集元の企業名を調べた。『株式会社汐見総合管理』。
検索すると、ちゃんと自社のホームページが出てきた。東京の東部エリアを中心に、古い賃貸アパートや雑居ビル、小規模な倉庫などの管理業を営んでいるらしい。会社の沿革も、管理物件のリストも、ごく普通の不動産管理会社のものだった。口コミサイトを漁っても、特に「ブラック企業だ」とか「詐欺だ」といった悪評は見当たらない。単に、知名度がない地味な中小企業という印象だ。
「まあ、派遣会社が間に入ってるんだし、とんでもない違法企業ってことはないよな」
おそらく、前任者が急に辞めてしまって、とにかく早く実務経験者が欲しいから高い時給を設定しているのだろう。俺はそう自分を納得させた。
仕事内容も、契約書の作成やデータ入力、電話応対など、前職で散々やってきたことばかりだ。これなら即戦力として働ける自信がある。
「よし、応募してみるか」
ポチッとエントリーのボタンを押した、あの時の自分を全力でぶん殴ってやりたい。
それが、すべての歯車が狂い始める第一歩だったのだから。
*
初出勤の朝。
指定された住所へ向かって駅から十分ほど歩くと、徐々に風景が変わってきた。賑やかな駅前のチェーン店が途切れ、シャッターの閉まった古い商店や、錆びついたトタン屋根の町工場、塗料の剥げた倉庫などが混在する、昭和の香りが色濃く残るエリア。
その一角に、『株式会社汐見総合管理』はあった。
築年数はかなり経っていそうだが、外壁は綺麗に塗り直されている三階建ての自社ビル。入り口のガラス扉はピカピカに磨き上げられており、真鍮製の社名プレートが誇らしげに輝いていた。
ここまでは、まあ、歴史ある地元企業といった感じで好印象だ。
ただ、一つだけ猛烈に違和感がある。
建物の正面に、やけに車体を黒光りさせた高級セダン――それも、堅気の人間があまり乗らないような威圧感のある車種がデーンと横付けされているのだ。
そして、その車の横には、真っ黒なスーツを着込んだ大柄な男が立っていた。
短く刈り上げられた髪。首回りは丸太のように太く、サングラスの奥の目は一度も笑ったことがなさそうだ。さらに決定的なのは、頬から顎にかけてうっすらと残る古い刃物の傷跡。
(……あれ? なんだろう、この……Vシネマの撮影現場に迷い込んじゃったような感覚は)
俺はビルに入るのを躊躇し、少し離れた電柱の陰から様子を窺った。
もしかして、このビルにそういうそっち系の事務所が入っているのか? でも案内された住所はここだし、社名プレートも間違いない。
初日から遅刻するわけにはいかない。俺は腹を括り、努めて営業スマイルを顔に貼り付けて、その怖いお兄さん(?)の横を通り抜けようとした。
「あの、おはようございます。今日から派遣でこちらにお世話になります、三上と申しますが……」
恐る恐る声をかけると、男はゆっくりとこちらに顔を向けた。ギロリと睨まれた気がして心臓が跳ね上がる。
しかし、次の瞬間。
「おお。あんたが今日から来てくれる三上さんかい。話は聞いてるよ。よく来てくれたな、ささ、中へどうぞ」
男は驚くほど人懐っこい笑顔(傷のせいで絶妙に引き攣って見えたが)を浮かべ、わざわざ入り口のガラス扉を手で開けてくれたのだ。
「え? あ、はい。恐縮です……」
なんだ、見た目は怖いけど、めちゃくちゃ親切な人じゃないか。
俺は内心でホッと胸を撫で下ろした。人は見かけによらない。勝手に偏見を持っていた自分が恥ずかしい。
ペコペコとお辞儀をしながら、オフィスのフロアへと足を踏み入れる。
その瞬間だった。
「「「お疲れ様です!!!」」」
腹の底から響くような、それこそ自衛隊か強豪校の体育会系部活かというような野太い大合唱が、フロア中に響き渡ったのだ。
ビクゥッ!? と俺の肩が跳ねる。
フロアにいた十人近い男たちが、一斉にデスクから立ち上がり、直立不動でこちらに向かって深々と頭を下げていた。どいつもこいつも、さっきの外の男に負けず劣らずガタイが良く、スーツの着こなしがどこかチンピラじみている。
(えっ!? なになに!? 派遣社員の歓迎の挨拶ってこんなにハードなの!?)
パニックになりかけた俺の背中越しに、低く落ち着いた声が降ってきた。
「おお、ご苦労」
振り返ると、いつの間にか俺の後ろに、仕立ての良さそうなダークスーツを着た中年男性が立っていた。
白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけ、鋭い眼光を放つその男の立ち居振る舞いは、明らかに「ただの社長」のものではない。周囲の空気を制圧するような、絶対的なボスのオーラ。
男たちの挨拶は俺にではなく、俺の後ろから入ってきたこの人物に向けられたものだったのだ。
中年男性はフロアの男たちを一瞥した後、固まっている俺に気づき、スッと目元を和らげた。
「あなたが今日から来てくださる三上悠介さんですね。話は社長から聞いています。私はここの……責任者の黒瀬です。よろしくお願いします」
「あ、は、はい! 三上です! 本日からお世話になります!」
「前職では営業もされていたそうですね。うちは現場に出る人間が多くて、パソコンや書類の整理ができる人が不足していて困っていたんですよ。期待しています」
黒瀬と名乗った男は、俺に向けて丁寧に頭を下げた。
威圧感はあるが、言葉遣いも態度も非常にスマートなビジネスマンのものだ。
「派遣で来てもらっているんですから、初日から無理はしないでください。分からないことがあれば、遠慮せずに誰にでも聞いてください。皆、見た目は少しばかり不器用ですが、悪い奴らじゃないんでね」
そう言って黒瀬が奥の役員室のような部屋へ消えていくと、直立不動だった男たちは「失礼しやす!」と声を揃えてから、一斉にドカッと自分の席に戻った。
……えっと。
今のは、何だったんだ?
気のせいだろうか。黒瀬という男に向けられていたあの異常なほどの敬意と緊張感。普通の会社では絶対に見られない、絶対服従の縦社会の匂い。
俺の背中を、嫌な汗がツーッと伝い落ちていった。
*
「三上さん、こちらが今日から使っていただくデスクです」
俺を現実に引き戻してくれたのは、事務服を着た四十代くらいの女性だった。
森田志保と名乗った彼女は、このフロアで唯一、完全に『普通の中小企業の事務員』の空気を纏っていた。派手さはないが、落ち着いていて優しそうな人だ。俺は砂漠でオアシスを見つけたような気分になった。
「森田さん、よろしくお願いします。あの、さっきの挨拶、すごかったですね……」
「ふふ、驚いたでしょう? うちの人たち、声だけはやたらと大きいから。でも、根は素直ないい人ばかりですから安心してくださいね」
森田さんは慣れた様子で微笑むと、俺のデスクにノートパソコンと分厚いキングファイルを用意してくれた。
業務の説明を受ける。仕事の内容は本当に、拍子抜けするほど普通のものだった。
管理しているアパートや駐車場の契約更新書類の作成、家賃の入金チェックとエクセルへの入力、物件オーナーへの月次報告書のフォーマット化。どれも前職で息をするようにこなしてきたルーティンワークだ。
「とりあえず、この過去のデータを新しいフォーマットに打ち直してほしいんですけど……これ、手作業だと結構時間がかかっちゃうんですよね」
申し訳なさそうにする森田さんに対し、俺はパソコンを開いて腕まくりをした。
「あ、それなら元のデータがエクセルなら、VLOOKUP関数で一気に引っ張ってきましょうか。少しフォーマットの形を整えれば自動で反映されるように組めますよ」
「えっ? そんなことできるんですか?」
「はい。十分もあれば終わります」
カタカタとキーボードを叩き、サクッと数式を組んでデータを流し込む。前職では当たり前のように要求されていたレベルの作業だが、森田さんは目を丸くして喜んでくれた。
「すごい! 三上さん、仕事早いです! 今まで電卓叩きながら一つずつ手入力してたのが馬鹿みたい……本当に助かります!」
「いえいえ、これくらいお安い御用ですよ」
褒められて悪い気はしない。前の会社では「できて当たり前」と扱われていたスキルが、ここでは重宝されるらしい。
なんだ、やっぱり俺の考えすぎだったんだ。
社員の見た目がちょっと怖くて声がでかいだけで、業務自体は超ホワイトじゃないか。
――プルルルル。
デスクの上のビジネスフォンが鳴った。森田さんが別の作業をしていたため、俺は反射的に受話器を取る。
「はい、お電話ありがとうございます。株式会社汐見総合管理でございます」
『おお。俺だ。黒瀬の兄貴は事務所にいるか?』
「……え?」
電話口から聞こえてきたのは、ドスの利いた低い声だった。
兄貴?
黒瀬さんにお兄さんがいるのか? それとも親戚か何かだろうか。
「あの、恐れ入りますが、黒瀬の兄貴様とは……どのようなご関係でしょうか?」
『ああん? なんだてめえ、新入りか? ……あー、いや、黒瀬さんだ。若頭はいらっしゃるかって聞いてんだよ』
「わ、わかがしら……?」
『あー、クソ、もういい! 後でかけ直すって伝えとけ!』
ガチャン、と乱暴に電話が切られた。
俺は受話器を持ったまま固まった。
アニキ? ワカガシラ?
……いや、聞き間違いだろう。建築現場の職人さんとかが、親方を「兄貴」と呼ぶような、そういう会社の文化なのかもしれない。若頭っていうのも、きっと若い現場監督か何かの独自の役職名だ。うん、そうに違いない。
俺は深く考えることを放棄し、静かに受話器を置いた。
*
お昼休み。
初めての職場でどこに昼食を食べに行こうか迷っていた俺のデスクに、ひょっこりと顔を出した若い男がいた。
年齢は二十代半ばくらい。短髪で、耳にはピアス。スーツの着こなしはやっぱり少しヤンチャだが、表情はどこか人懐っこく、犬のような愛嬌がある。
「三上さん、昼飯まだっすか?」
「え? ああ、はい。これから出ようかと……」
「マジっすか! じゃあ俺、この辺で安くて美味い店知ってるんで、案内しますよ!」
有無を言わさぬ勢いで誘われ、俺はその若者――小野寺亮太と一緒に、事務所から少し歩いたところにある古びた定食屋に入った。
暖簾をくぐると、厨房にいた頑固そうな店主が顔を綻ばせた。
「おお、亮太ちゃん。今日はどうした? 珍しい連れがいるじゃねえか」
「おう親父さん! うちの新しい人連れてきたんだよ。美味いもん食わせてやってよ。とりあえず俺はいつもの生姜焼き定食で!」
「あいよ!」
小野寺はこの辺りではかなり顔が広いらしい。店主とのやり取りも堂に入ったものだ。
運ばれてきた生姜焼き定食は、ボリューム満点で確かに美味かった。
「いやあ、三上さんって前は営業やってたんすよね? 森田のおばちゃん……いや、森田さんが、すげえ仕事できる人が来たって大喜びしてましたよ!」
小野寺はご飯を豪快に掻き込みながら、キラキラした目で俺を見た。
「いや、本当に普通のことしかしてないよ。前の会社でやってたことをそのままやってるだけだし」
「すげえなあ。俺、パソコンとかマジでちんぷんかんぷんで。キーボード打つのも人差し指で探しながらなんすよ。書類仕事なんて見たら頭痛くなってくるし」
「慣れれば誰でもできるって。ショートカットキーとか覚えれば簡単だから、分からなかったら教えるよ」
「マジっすか!? 三上さん、めっちゃいい人っすね! 俺、アタマ使う仕事はからっきしだけど、力仕事とかパシリなら任せてください!」
あっけらかんと笑う小野寺を見て、俺は毒気を抜かれた。
言葉遣いは少し荒いが、根は素直で義理堅い若者だ。年上の俺に対しても一応敬語を使おうとする姿勢は見え隠れしている。
なんだかんだで、いい職場じゃないか。
強面の人たちも、実は地元に根付いた面倒見のいい人たちなんだろう。俺はすっかり安心して、午後の仕事に戻った。
――しかし、その平和な認識が木っ端微塵に粉砕される出来事は、入社して数日後にあっさりとやってきた。
*
働き始めて数日。俺はすっかりこのオフィスの空気に慣れつつあった。
仕事は順調。定時には帰れるし、お茶出しのタイミングで森田さんと世間話をする余裕も出てきた。
その日の午後。俺はコピー機の前で、書類の印刷が終わるのを待っていた。
ふと、フロアの奥――あの初日に黒瀬が入っていった役員室らしき部屋のドアが、少しだけ開いていることに気づいた。
中から、押し殺したような、だが凄まじい圧力を伴った声が漏れ聞こえてくる。
「……てめえ、何回同じこと言わせんだ、ああん?」
それは、いつも俺に対して丁寧に接してくれている黒瀬の声だった。だが、温度が全く違う。氷のように冷たく、刃物のように鋭い怒気。
「す、すんません!! 言い訳はしねえっす!!」
「すんませんじゃねえだろうが。あのシノギでヘタ打ったら、ウチの顔に泥を塗ることになるって分かってやってんだろうな?」
ドゴォッ!!
鈍く、重い音が響いた。
何かが壁に叩きつけられたような音。いや、違う。人が人を殴り飛ばした音だ。
俺は背筋が凍りつき、思わず開いたドアの隙間から中を覗き込んでしまった。
そこには、床に這いつくばり、鼻から血を流している若い社員の姿があった。
その首根っこを掴み、見下ろしている黒瀬の横顔は、まごうことなき『本職』のそれだった。ヤクザ映画のワンシーンなどではない、現実の暴力の匂い。
部屋の中にいた他の男たちは、その光景を止めるどころか、壁際に直立不動で並び、微動だにせず見守っている。
(ひっ……!?)
俺は息を呑み、後ずさろうとした。
しかし、その動きが運悪く、部屋の中にいた大柄な男の目に止まってしまった。
「……若頭。三上さんが見てます」
男の低い報告を受け、黒瀬がゆっくりとこちらへ顔を向けた。
目が合った。
殺される。俺は本能的にそう感じて、足の震えを止めることができなかった。
だが、黒瀬はこちらの姿を確認した瞬間、まるでスイッチを切り替えるように、あの穏やかで理知的なビジネスマンの表情へと戻ったのだ。
「ああ、三上さん。お騒がせしてすみませんね」
黒瀬は胸ぐらを掴んでいた手を離し、スーツのシワを払いながら、何事もなかったかのように歩み寄ってきた。
「うちの若いのが、ちょっと仕事で粗相をしましてね。少々きつく指導していたところです。驚かせましたか?」
「い、いえ!! ぜ、全然!! 何も見てません!!」
「それはよかった。何か仕事で困ったことはないですか? 必要な備品があれば遠慮なく言ってくださいね」
「あ、ありません!! 完璧です!! 快適です!!」
「そうですか。なら引き続き、よろしくお願いします」
黒瀬は俺に向けてふっと柔らかく微笑むと、再び部屋の奥へと向き直った。
そして、床に這いつくばる男を見下ろし、極寒の声で言い放つ。
「おい、話は後でじっくりつけてやるからな。ツラ洗ってこい」
俺は小走りで自分のデスクに戻り、ガクガクと震える手でマウスを握った。
ヤクザだ。
ヤクザだこれ!! 絶対ヤクザの会社だ!!
「若頭」って聞き間違いじゃなかった! 「シノギ」って言ってた! 普通の中小企業は失敗した部下を物理的に殴り飛ばして鼻血を出させたりしない!!
派遣会社に騙された! いや、派遣会社も知らないのかもしれない。とにかく、ここがそっち系のフロント企業なのは間違いない!
どうしよう。今すぐトイレに行くフリをして逃げるべきか。派遣の担当者に泣きついて辞めさせてもらうべきか。
「三上さん、お茶淹れましたよ。どうぞ」
パニックに陥っている俺の横に、森田さんがスッと湯呑みを置いてくれた。
「あ、ありがとうございます……あの、森田さん。さっき奥で、すごい音が……」
「ああ、さっきは驚いたでしょう? あそこの人たち、ちょっと血の気が多いから。でも、普段の私たちの仕事には全然関係ないんで、気にせず進めてもらって大丈夫ですよ」
森田さんは涼しい顔で自分の席に戻り、キーボードを叩き始めた。
気にせず進める!? この状況で!? 森田さんのメンタルはどうなっているんだ。完全に麻痺しているじゃないか。
しかし、俺が震えながらパソコンの画面を見つめていると、確かに仕事自体は今までと何ら変わりないことに気づく。
午後には物件の修繕業者と電話で打ち合わせをし、見積書を作成した。誰も俺に無理難題を押し付けないし、違法な書類を作らされるわけでもない。
十八時ピッタリになると、黒瀬がわざわざフロアに出てきて声をかけてきた。
「三上さん、今日も助かりました。時間になったら上がってくださいね。残業はさせない契約ですから」
「あ、は、はい! お疲れ様です!」
本当に定時退社できた。
帰り道、夕焼けに染まる街を歩きながら、俺は冷静に考えた。
確かに裏の顔は恐ろしい。本物のヤクザだ。
しかし、俺はあくまで派遣社員であり、組員ではない。仕事内容は完全に合法な事務処理だけだ。しかも、みんな俺には優しい。誰かに殴られることも、怒鳴られることもない。
何より、時給二千五百円だ。
今からまたあの地獄のような転職活動に戻るのか? 貯金が減っていく恐怖に怯える日々に?
「……俺はただの派遣社員だ。違法なことには関わってないし、危害を加えられるわけでもない。とりあえず……もう少しだけ、様子を見るか」
典型的な事なかれ主義。
これが、俺がこの狂った職場に居座り続けることを決めた瞬間だった。
*
それから一週間ほどが経過し、気がつけば勤務二週目の水曜日だった。
人間の適応力というのは恐ろしいもので、俺はこの異常な職場環境にすっかり馴染んでしまっていた。
朝、ビルの前に黒塗りの高級車が停まっていても「ああ、今日は社長さんが来る日か」と思うだけ。
強面の社員たちから「おはようございます!!」と大声で挨拶されても、「おはようございます、今日もいい天気ですね」と愛想よく返せるようになった。
仕事の面でも、俺の事務処理能力は完全にフロアの要になりつつあった。
元営業の経験が活き、電話口でのクレーム対応や業者との交渉も難なくこなせる。エクセルでマクロを組んで業務を効率化すると、黒瀬ですら感心したように頷いてくれた。
「三上さん、仕事が丁寧ですね。うちはこういう地道な作業が得意な人間が少ないんで、本当に助かっていますよ」
「いえ、エクセルが少し使えるだけですから。普通のことしかしてませんよ」
「それができるだけで十分すぎるくらいです。これからも頼りにしてますよ」
極道の若頭に頼りにされる派遣社員。シュール極まりないが、悪い気はしない。
時折、奥の部屋から怒鳴り声や鈍い音が聞こえてくることもあったが、「おっ、今日も若頭の指導が入ってるな」くらいにスルーできる鋼のメンタルを手に入れつつあった。いや、慣れてきている自分が一番怖い。
夜、アパートでビールを飲んでいると、実家の母親からメッセージが届いた。
『新しい仕事はどう? 無理してない? ちゃんと続けられそう?』
俺はスマホの画面を見つめ、少しだけ罪悪感を覚えながら返信を打った。
『給料いいし、仕事も楽。人間関係も悪くないから、当分はここで頑張るよ』
嘘は一切言っていない。
ただ、勤め先がヤクザのフロント企業らしいという、ささいな事実を省略しただけだ。親にそんなこと言えるわけがない。
*
翌日、木曜日の午後。
デスクで作業をしていると、小野寺が困り果てた顔で書類の束を持ってやってきた。
「三上さん……ちょっと助けてほしいんすけど」
「どうしたの小野寺君。またエクセルのフリーズ?」
「いや、なんか大家さんに出す修繕費の報告書をまとめろって言われたんすけど、数字が合わなくて……もう何が何だか」
泣きつきそうな小野寺から書類を受け取り、ざっと目を通す。なるほど、請求書と領収書の金額が入り乱れていて、計算が合っていない。
「あー、これはね、先に工務店からの請求額を別シートでまとめて、こっちのオーナー向けの報告書に転記すればいいんだよ。ほら、ここが二重計上になってる」
「うおお! マジだ! すげえ、なんで一瞬で分かるんすか!?」
「いや、だから慣れれば簡単だってば」
俺が数値を修正してやると、小野寺は拝むように手を合わせた。
「いやあ、三上さん、マジで神っすね! 俺、こういう細かい数字見ると頭爆発しそうになるんすよ。本当に頼りになります!」
「大袈裟だな。でも、提出する前には必ず自分でダブルチェックする癖をつけなよ」
「はいっ! 気をつけます!」
無邪気に笑う小野寺は、本当にただの気のいい後輩にしか見えない。ヤクザの構成員だと言われても、未だに少しピンとこない部分がある。
だが、その直後だった。
奥の部屋のドアが開き、黒瀬が顔を出した。
「おい、小野寺。ちょっと来い」
「――はいっ!! 若頭!!」
さっきまでの緩んだ表情は一瞬で消え失せ、小野寺は背筋をピンと伸ばして野太い声で返事をした。そして、足早に黒瀬の元へ向かい、深々と頭を下げる。
その豹変ぶりに、俺は苦笑するしかなかった。
若頭、か。もうその響きにすら違和感を持たなくなってきている自分がいる。
*
そして、勤務二週目の金曜日の夕方。
定時まであと三十分というところで、今日までの仕事のキリがついた。ファイルを閉じ、デスク周りを片付けていると、森田さんが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「三上さん、今週もお疲れ様です。あの、来週ちょっとお願いしてもいいですか?」
「はい、なんでしょう? 新しいフォーマットの作成ですか?」
「いえ、パソコンの作業じゃなくて。奥の応接室を大掃除するんですけど、ちょっと人手が足りなくて。三上さんにも手伝ってもらえませんか?」
奥の応接室。
普段、俺のような派遣社員や一般事務の人間が立ち入らない、黒瀬たち幹部が大事な来客の対応や密談に使っているらしい古い和室のことだ。
「掃除ですか? 全然いいですよ。いつも森田さんにはお茶淹れてもらったり世話になってますし」
「ありがとうございます。小野寺君たちも手伝ってくれるらしいので、そんなに重労働にはならないと思いますけど」
その言葉を聞いて、横のデスクから小野寺が身を乗り出してきた。
「三上さん、俺も一緒なんでよろしくお願いします! 力仕事は全部俺がやるんで、三上さんは埃払うくらいでいいっすよ!」
「はは、小野寺君も一緒か。じゃあ楽勝そうだね。よろしく」
俺は軽い気持ちで快諾した。
掃除くらい、なんてことはない。ただの雑用だ。むしろ、時給二千五百円で掃除をさせてもらえるなら美味しいくらいだ。
「それじゃあ、来週よろしくお願いしますね」
「はい、お任せください」
十八時。
俺はタイムカードを切り、「お疲れ様でした」と声をかけてオフィスを出た。
今週も無事に終わった。裏側は恐ろしい組織かもしれないが、俺にとっては残業なし、高時給、人間関係良好の優良職場だ。
案外、悪くない環境なのかもしれないな。
そんなことを呑気に考えながら、俺は週末の解放感に浸っていた。
――この時の俺は、まだ知らなかった。
週明けのちょっとした掃除が、俺の人生を根本から変えてしまうことになるなんて。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!